わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

今日は何の日

今日は国際女性デー。

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さいきん(・・・というより、これまでいろいろと学んできた積み重ねの結果がこの1年ぐらいで噴出している感じなのだけど)、わが母は「私は娘を自由にさせてます!」と言い続け、自分でもそう思いこんでいたのだろうなぁということをよく考えます。

かくいう私も「自由にさせてもらった」と思いこんで生きてきたのだけど。

児童虐待の起こるメカニズム、いわゆる「伝統的親子観」や「母性神話」・・・等々を学ぶにつけ、「自由にさせてます」の陰でなかなか巧妙に娘を支配下に置いてたんだな、あの人は。と気づいてビックリ(苦笑) で、自分でも意外なぐらい抑圧されていたというのか、支配されてたなぁと考え始めると、ものすごくどす黒い感情が渦巻くww

亡くなって10数年経つので、それも大きいかもしれない。
生きてたら、このどす黒い感情をぶつけるかなぁ・・・と考えてみたけど、たぶんぶつけないだろうな。ぶつけたところで、理解されないだろうと思う。というより、それをやると母は自分の人生全否定?みたいになっちゃうから、老年になってそれは辛かろうし、そんな辛い思いをさせたいと思うほどには、私も怒っていない。

母のせい・・・ではなくて、そういう社会に生きてきたのが母の人生なわけで。

今年は #me too の動きや例の医大の入試差別やらもあってか、例年に比べて3月8日に絡めた報道も多いような気がしていて、つけっぱなしのテレビから聞こえてくることに刺激されて、またつらつらと母のことや祖母のことを考えてしまう。ジェンダーの問題は、私にとってはどこまでも祖母と母と私の話。

母と私

うちの母は娘三人に対して「やりたいことをやりなさい」が口癖だった。そして、実際にお稽古ごとなどは裕福でもない家計をやりくりして可能な限りやらせてくれた。だから「自由にさせている/させてもらっている」とお互いに信じて(?)いたと思う。

でも、よくよくその中身を考え直してみたら、「やりたいことを」と言いながら、母の趣味でやらされたものもあったし、母の趣味に合わないものに関してはやらせてはくれるものの、微妙に非協力的だった(まぁ、人間的ともいえる 笑)。「熱中できるものがあればグレたりしない」という強固な信念があって、あまり勉強が得意でなかった妹たちに対しては「手に職を!」と「何を伸ばしてやればいいのか」とあーだこーだ、やかましかったようにも思う。妹たちがそれに関して今どう思っているのかは定かでないから、私がどうこう言えないけれど、いま思い返してみると「親として安定した将来になるように援助する」つもりの母の言動は、妹の進路を必要以上に誘導してしまっていたんではなかろうか・・・と考えてしまう。

私は中学までは成績優秀で、特にガリガリ勉強した覚えもなく、いわゆる受験勉強的なものは大嫌いで、学校そのものも好きでなく、「中学出たら働きたい」と言いだす始末の娘だった。かつその時期の中学校はヤンキー全盛期で、校則通りの髪形や制服だとかえって浮いてしまうような状況下で、私も制服のスカート丈をこっそりいじったり、教師にばれない化粧はどのラインまでかを友だちと研究したり、といったことはサバイバル術としても必要だったのだけど、母はそんなことまったく頓着せず、「学校の決めたことを守れないなんて!」と学校の生活指導の先生よりもチェックが厳しいありさま。もうその時点で「自由にしなさい」と真逆やん・・・(笑) とはいえ、当時の私はそういうくそまじめな母をうっとおしいとは思っていたけれど、それが私の権利を侵害しているとは露も思わず(そんな知識はないですもんね・・・)、ただただ、早く働いて自活して、学校からも家からもおさらばしたい! とひたすら念じていた。

その当時私はバレエのレッスンに通っていて。それは数々のお稽古ごとのなかで、さいごまで「好き」が持続して続いていた唯一のものだったのだけど、中二当時はそっちもスランプ状態で、それもやさぐれていた原因のひとつだったと思う。で、後から考えれば矛盾のカタマリなんだけれど、妹たちには「何かに熱中すればグレない」としつこかったのに、実際にグレかけ?な風体の私がぐちゃぐちゃに煮詰まって「もうバレエ止めるわ」と口走ったとき、あっさりと「あ、そう。その方が助かるからいいわ」と母から返ってきて、「あれ、止めへんのか・・・」と拍子抜けした。もちろんそこには家の経済状態と、バレエという超絶お金のかかるお稽古ごとという問題があって、母を責めるのは筋違いだとわかっている(当時も拍子抜けしつつ、お金のことで「やっぱりそうか」と私も納得していた)けれど、結果的には何がやりたいかもわからず、学校は居心地悪く、家もうっとおしい・・・というドツボな中学三年生になり、「とりあえず高校は行きなさい」「なんで?」という言い争い。1年生の時の担任が同和教育に熱心な学校から転勤してきた人で(というのを友だちのお姉さんから聞いても当時は「?」だったのだけど、大学に入ってからその意味がわかって、6年越しの感謝をした)、3年の担任:転勤してきたばかりのおじさんも、どうやらそういう人だったらしく「中卒で就職ということがどういうことか」を具体的に説明してくれ(求人票も見せてくれた)、「高校は出た方がいいと親がいうのは根拠があることやで」と私に納得させてくれた。かつ(自分でいうのも何ですが、ほんとうに中学までは優秀だったので)「学区内トップの学校でも受かるで」と言われて「勉強嫌いやのにトップ校とか無理」と返す私に「そうやな、S校の方が向いてる」と3番手の高校を勧めてくれた(のが結果的にはヒットして、学校嫌いは治らなかったものの大学に至り、今日に至る。ありがとう先生)。もし担任が違っていたら、トップ校無理やり受けさせられたに違いなかったので、ラッキーとしか言いようがない・・・。

そして高校で演劇と出会い、演劇部のために高校に通っているような生徒になった。さすがに高校生にもなると(下に妹も二人いるわけだし)、母もそんなにうるさくはなくなったけれど、それでも門限だのバイトするなだの(お金ないのに・・・?)、めんどくさくてしょうがなかった。もともと勉強が嫌いで、受験勉強らしいこともほとんどしないまま合格したので、完全になめてかかっていた私は、S校に入りたい!と思って鋭意努力してきた人たちのなかで完全に転落し、夏休みの補講にいくつも呼び出されてしまったので、「そんな成績でクラブ活動とかあり得へん」と言う母に従って、演劇部を続けるために勉強する少女になった(笑)「おまえ、ホンマになめてるよな・・・」と先輩に呆れられるぐらい、勉強し始めたらすぐに成績も平均点程度は取れるようになってめでたしめでたし・・・ではなく、高校3年間、何かやらかすたびに「クラブを辞めさせる」と脅迫された。母にしたら、そう言っとけば私は言うことを聞いたので、母はマジックワードを手に入れたようなもの。そんなことも、さいきん気づいた。私自身は、当時は生活のすべてが「演劇をするため」に収れんされていたから、それを使って母が私をコントロールしているなんて思いもせず、演劇するためなら多少の小言も制約もOK!と元気に暮らしていた。実際、高校に入ってから私と母の関係は中学時代よりも穏やかになっていて、喧嘩もしなくなったし、他愛ないおしゃべりの時間も増えて、仲良し母子に見えただろうし、私もそう思っていた。

その後、大学に入って、私が解放運動に関わって「権利」ということを学ぶようになってから、改めて衝突が増え始める。大学生当時の私は、母は物わかりがいい方だと思っていたのになんで? と困惑することの方が多かった。けれど、よくよく思い返して考えたら、なんだかんだ言いながらコントロール下にあった娘が、コントロール効かなくなり始めた・・・ということだったんだろうか、と思う。突然物わかりが悪くなったわけではなく、母の想定できる範疇からはみ出していく娘に困惑していたんだろうな。

そして母は、どこまでも私をコントロールしようとあがきまくった。きわめつけが「大学院に行く」といったときに、寝込んだことだ。「あんたのせいで寝られへんくなってしんどくなった」とか言いだして、さすがに私もブチ切れて「何の因果関係があんねん」と怒りながら、それでも怒ってるだけでは仕方がないと思いなおして、なぜ大学院に行きたいのかと縷々手紙に書いた(我ながら、健気やったな・・・とほめたい)。

その後も、就職、結婚、育児・・・のときどきに「?」と困惑する言動の数々はあったけれど、基本的に私は「親が心配するのは仕方がない≒愛情」と解釈していて、支配しようとする母/支配されている私 という構造だとはまったく理解していなかった。ただ、母が「想定する範疇」が、いわゆる「女性らしさ」とか「学生らしさ」といった「世間の常識(やや古めの)」に縛られているな、ということには気づいていた。「らしさ」からの脱却。「らしさ」を押しつけるものへの抵抗。それが母の生き方を越えるということではなかろうか。そう考えた私にとって、大学院に行くことが母に理解されないことは歯がゆく、もどかしいことだった。

祖母と私、そして祖母と母

母方の祖母が、私は好きだった。好きというより、この社会で女ジェンダーとして生まれて生きていく私の先を歩いていた人、という存在になっている(いまも)。

祖母は富農の長女として生まれ、「女に学問はいらない」と言われて育った。弟である大叔父が晩年にも言っていたけれど、すごく勉強が好きで優秀で、大叔父も「おれより姉ちゃんが進学すればいいのに」と思っていたそうだ。しかし祖母の親は、男は中学まで行かせるが、女は小学校でよしという方針を変えなかった(大叔父の受験勉強も祖母が面倒を見たらしく、大叔父は祖母に頭が上がらない感じだった。数回しか会ってないのにその印象は鮮明に覚えている)。しかし祖母は勉強大好きなお転婆で、何とかして上の学校に行く手段はないかと考えて、大阪の看護学校(日赤)に寮があると聞きつけ、こっそり猛勉強して受験し、「合格したから行く!」と家出するように大阪に来た。そして看護婦になる課程を修了しても「助産婦の課程も受けるから」と帰らず・・・の引き延ばし作戦。でもそれが仇というのか、修了をまって「村役場がお産婆さんとして帰ってきてくれたら有難いと言っている」と呼び戻され・・・。とはいえ、祖母は村で「働く女」として活躍した日々が楽しかったようだ。お産婆さんとして働いてお金を貯めながら、次は東京に出てやろうと企んでいたらしい。その企みに気づかれたのかどうか、実家が縁談を用意する。で、結婚してしまった。なぜそこで結婚したのよ(しかも写真だけ見せられて決められるという大正時代家父長制)と孫世代には「?」だったのだけど、亡くなったときに遺品から祖父の見合写真が出てきて、「・・・おばあちゃん、面食いか!」とゲラゲラ笑いすぎて伯母たちに叱られた。それもあっただろうけど(笑)祖父が農家の次男で大阪で起業しようとしていて、大阪にいたことのある祖母をぜひ、という話だったというのも大きかったんだろうな・・・と私は思っている。

そこからは、大阪に出て起業する祖父と二人、大阪で奮闘したわけだけど、野心家で男前の祖父は女性関係も大変だったらしい(笑)それは置いといて、祖母は自分が「学校に行かせてもらえなかった」リベンジといわんばかり、子どもたちに学歴をつけることに執着した。その結果、母のきょうだいはさして裕福でもない(祖父の事業は紳士服のテーラーだったので、敗戦後はうまく立ちいかず、戦前ほどの羽振りはなくなっていた)家庭にもかかわらず、当時(1950~60年代)にしては学歴が高い。母も高校進学率60%の時代に短大を出ている。

そういう祖母だから、女の孫で初めて国立大に合格した私のことをとても喜んでくれた。その後まもなく亡くなるので、ギリギリ祖母孝行になってよかったな、と思う。けど、私よりもレベルの高い国立に受かっている従兄もいるのに、そっちはどうでもいいと言わんばかりに喜んでいた祖母と、「なんでやねん」と少々不満げだった従兄の顔を思い出すと、ちょっと可笑しい。

「女も、学びたいだけ学んでいいねん。大学にも行ける。そういう時代になった」

そういう祖母の思いを裏切らないように生きたいな、と今も思っている。

でも母にとっては、そういう祖母が嫌だったのだ。

母が「自由にやりたいように」と私たち娘に言い続けた根っこには、自分の意志を無視して短大進学をごり押しした祖母に対する反発があった。母は祖母のように気が強くなく、どちらかというとおとなしくてやさしい、家事をし、弟の世話を焼き・・・が好きな子どもだったようだ。そしてテーラーの家で、たくさんのお針子さんたちに囲まれて幼少期を過ごしただけあって、洋裁が好きだった。母のうえの伯母ふたりは女学校/高校の後、洋裁学校に通っている。母も同じ道を進みたかったらしいのだが、下の伯母が洋裁学校に進んだ後、女子の高等教育進学率を上げるために「短大」というものが続々と生まれてきて、祖母は「女も大学に行けるんだ!」と、そこに夢中になってしまった。家政科なら洋裁も学べるし、大学の方がいいに決まっている!という祖母の勢いに母は抵抗できなかった。でも入学してみて、1年目は一般教養でやりたくもない英語やフランス語をやらされ、家政学というくくりのなかの食物、被服・・・ごく一部分でしかない洋裁の時間には失望感しかなかったらしい。

この話をくりかえし、「だからあんたらは、自分がやりたい道に進めばいい」と母は言ってきた。でも、結局は祖母と同じで、自分ができなかったことを娘に仮託したいだけだから、自分の思う方向性ではない希望を排除する点で、祖母と母は同じだった。皮肉なことに。

母は反発しきれず、
私は反発し、そこを脱した。

反発しきれず・・・ということでいえば、母は父にも、というより「家父長制的価値観」にも反発できなかった。「そういうものだから」と考えていた。それは祖母も同じで、祖父にふりまわされながらも家業を支え、子どもを育て、祖父の傍で生きた。母や伯母たちが「なんで家出までした気の強い人が、夫に対しては我慢して気を遣って人生を送れたのかが謎」とよく話していたが、それが祖母の限界・・・というか、当時の世の中で自分に何ができるかを現実的に考えたときの限界だったんだろうなぁと思う。それと、母方、特に祖母の実家につながる親族はみんな本当に子どもが好きで、子どもの相手が上手い人が多かった。祖母は助産師でもあったし、7人出産したら、その子育てを優先して、そのために家庭を守ろうと一生懸命になった延長でそうなってしまったのは自然なことのように思える。

そして母も、父に逆らわない人だった。ただし、不平不満は多くて、娘にもダダ洩れ状態で愚痴を漏らしていた。なのに、重要なことに関しては自分で決断したりOKを出したりせず、「父に聞け」というのが常で、妹がそれに怒ったこともあった。そりゃそうだよね。常に「甲斐性がない」「頼れない」と愚痴愚痴言っているのに、その「頼りない」人が許可しなければしてはいけません、だから父に聞きなさい・・・って、自分が責任持ちたくないときだけ父に丸投げかよ・・・みたいな、ね。

祖母も母も、「母親」という役割分業に対しては素直に引き受け、だからこそ、子どもに人生を賭けた、といえるのかもしれない。ただ、そこでも助産師という専門職経験のあった祖母の方が、母よりも自己肯定感が高かった/子どもへの依存度が低かったような気がする。

そんな母も、人生の最後の方、10年弱にすぎなかったけれど、1人暮らしを満喫した。

私が就職して「家を出る」と言いだしたときに、母は突然、「じゃあ私も家を出る」と言いだした。みんな面喰い、「はあ?」という空気になるなか、どんどんいろんなことを決めて、ほんとうに別居した。・・・妹も就職していたし、もう父の下で我慢する必要はないと思い切れたのかもしれない。それでも離婚には踏み切らず、戻る気もあるのか? 戻るところを置いておかないと不安なのか? と謎だったけれど、それも私が「婚姻届は出さない。事実婚で行く」と宣言したときに、「そういうのもあるんか・・・」と言ったかと思ったら、すぐに離婚した。え?

世間はそういうものだから、ルールでこう決まっているから・・・、という生き方を何の疑いもなく受け入れてきた母は、そこに縛られているというより、そこに従っておけばうまくいくのだと信じることで、いろんな不満や葛藤をなだめて生きてきたということなのだろうなといまになって思う。私が「婚姻届なんていう仕組みに乗っからなくても、自分たちはやっていける」と示したとき、「離婚したらすべてが無に帰すような気がして躊躇っていたのが、結婚も離婚も紙の上の問題で、実際に過ごした年月やそこで得たものが変わるとか傷がつくとかいうことではないと思えた」らしい(という主旨のことを言っていた気がするけれど、正直、離婚届一枚になんでそんなにこだわったのかが私には最後まで理解しきれなかったので、母の言いたかったことは違うかもしれない・・・)

そんなふうに考えていくと、「世間はこうだから」に反発し家出したという若かりし祖母、その結果の子どもの学歴へのこだわり・・・という祖母のストーリーに反発した結果が、「世間はこうだから」に従順な母を生んだのかもしれない。そしてそれに反発した私は、祖母の方がかっこいいと思い、祖母の続きを生きたいと思った。母に直接「あんたはどうせ、おばあちゃんの方が好きなんやろ」と言われたこともあったけれど、やはり心中複雑だったんだろうなと思う(「おばあちゃんに似てる」と言われたこともある。それも、あまり嬉しくなさそうだった  笑)

そしていま。

祖母も母も彼岸に行った。思えば、最晩年は2人ともあまり幸福ではなかった気がして、孫・子として少し申し訳ない気もしている(かといって、2人に穏やかな老後/死に際を用意できる方法があったかと言われたら、それは私の手に余る、とも思う。これだけ高齢化社会になった今も、日本の社会保障制度は相変わらず貧弱だ)。

私は子どもを授かったとき、母のような子育てをしたくないという気持ちがあって、そこからアドラー心理学に辿りついて勉強した。いわば反面教師だ。それがうまくいったのかどうかは、子どもが評価することだと思うので、わからない。でもわが子の言動に、ときどきいわく言い難いざわつき・・・「え、そんなこと親に正直に言う?」みたいな気分になることがあって、ということはうまくいったのかな? と思っている。特に思春期を過ぎて落ち着き始めてから顕著だったのだけど、何でもない話のなかで上記のような、「そんなこと言って、親に嫌われると思わないのか?」と不思議に思っている自分に気づいて、ということは、私はこれを言ったら母が傷つく、とか、母に見捨てられる、とか、そういうことを無意識に考えて黙っていたことがあるということか・・・と気づいて愕然とした。私って、そんなにもあの人に遠慮して気を遣っていたのか・・・と。

そしていまだに、パートナーにも子どもにも「これ言ったらウザいやつと思われるかなー」とふと心配がよぎってコトバを選んでいることがある。もちろん、親しき仲にも礼儀ありで、何でもかんでも思ったままダダ洩れにするのはよくないし、私も適度に気を遣ってほしいと思っているのだけど(笑) 私は過剰に心配し過ぎだなぁと自分で呆れてしまうことがよくあるのだ。私がそんなことで嫌いになったりしないように、相手もきっとそうなのに。

「親に反対されるとかいうのが、想像できなさすぎてよくわからない」と、うちのお子さまは言っていて、「だって反対してもなぁ・・・私がやることじゃないし」と素直に思っている自分が好き。祖母にも母にもできなかったスタイルの子育てを、少しできているかなと思うから。ただ、幸か不幸かストレートの息子ひとりなので、もし娘だったらどうだっただろう? と考えると自信がない。女の子だったら、女の先輩として過剰な思い入れが生じて、こんな突き放した距離感で呑気に「それはあなたの決めることだよね」なんて言っていられなかった可能性の方が大きいなと思うのだ。ことほどさように、相変わらず女が生きづらい社会に、私はまだ暮らしている。

 

医大の入試差別、祖母が生きていたら、きっとニュースを聞いて怒髪天だったろうなと想像する。勉強は裏切らないと信じ、勉強を武器に闘った祖母にとって、入学試験という公正に審査されるべき場で差別があるなんて、許すまじきことだ。

では、母は? 

私は、医大の言い訳「でも女はやっぱり子どもができると(勤務が)難しいから」に同調していそうな気がする。私とぶつかりまくって、折れたり折れなかったりしていた母だけど、「世間がこうだから」にのっかっている方が無難だという信念は最後まで変わらなかったように思う。無難だということが幸福とは限らないのに。そして、無難といえるほど無難でなかったのが実際なのに。

私にも私の内の「母的なもの」がある。「こういうもんだよね」と無批判に世間を受け入れてしまう心情。子ども時代の支配/被支配の影響も、いまさら感じて根深いなぁとあきれたり、憂鬱になったりしている。「毒親」と言い切れるほどではないけれど、子どもの私に「そこは我慢しなくていい。あなたは間違っていない」と言ってあげたい記憶が芋づる式に出てくると、母に怒りを覚えるときもある。

そんな親子関係が、少なくなっていけばいいと思う。親も子も、自分の意志を尊重され、自由に生きていける、そんな社会。女にだけ過剰に子育てを任され、その結果子どもに依存して自立できない母親になったり、子どもとの距離感が上手くつくれずに自分を見失う母親になったりする社会を変えたい。

 

今日はそんなことを考えた。

三一独立運動100年の日に

今日は三一節。それも100年目の節目の年だ。

なのに、日本の外務省は・・・

vergil.hateblo.jp

怒りのあまり、チェジュエアーでソウルにひとっ飛び!したいところだけど、明日から出張なので我慢我慢…(そして今月はすでに大赤字確定、でもあった。つら)

そして、金子文子の『何が私をこうさせたか』も読み終わった。

jihyang-tomo.hatenablog.com

去年、観たときにも興奮して感想を書いていた(笑)

文子が法廷陳述の場面で、朝鮮に暮らしていた少女期に「三一独立騒擾を目撃し」「胸が打ち震え、心から共感を覚え」・・・と語っていた。文子が朝鮮で身を寄せていた親戚は朝鮮人を(だけでなく、日本人植民者も家柄や貧富ではかり)見下し、収奪する植民者の家庭だった。その家で文子は虐げられ、抑圧されて「私は何者か、なぜこのような目に遭うのか」と自問自答し続けた(朝鮮に渡るまでも、その後日本に帰ってからもつらい状況は続くのだが)。そしてとうとう自死を決意するが、その間際、身を包む蝉時雨に、「死んではならぬ」と我に返る。

・・・突然、頭の上でじいじいと油蝉が鳴き出した。/私は今一度あたりを見まわした。なんと美しい自然であろう。私は今一度耳をすました。なんという平和な静かさだろう。/(略)/私はもう死ぬのがいやになって、柳の木に寄りかかりながら静かに考え込んだ。私がもしここで死んだならば、祖母たちは私を何と言うだろう。母や世間の人々に、私が何のために死んだと言うだろう。どんな嘘を言われても 私はもう、「そうではありません」と言いひらきをすることはできない。/そう思うと私はもう、「死んではならぬ」とさえ考えるようになった。そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない。

『何が私をこうさせたか』岩波文庫版171-172pp

この3年後、文子は三一独立運動のデモ隊を目撃し、感動し共感する。そしてその年の4月に、親戚の勝手な都合でまた日本に送り返されるのである。

幼少期はネグレクト、長じては児童労働に虐待、搾取、・・・と踏んだり蹴ったりな人生なのだが、聡明な文子はそういう生い立ちから「自分が生きるこの社会とは何か」を考究していく。そして社会主義と出会ったとき「私はもう知っている」と思うのだ(20歳やそこいらで!)。彼女にとって三一運動に立ち上がった朝鮮人も一緒に闘いたい/連帯したい「苦しめられている人々」であり、天皇制や家父長制、資本家といったものが「苦しめている人々」だったのだろう。それが彼女の感性になり、朴烈の詩を読んでプロポーズするという行動に繋がり・・・投獄されてこの手記を書き、亡くなったのが23歳のときである。すさまじい・・・

 

100年前、朝鮮で
「朝鮮独立万歳!」を叫ぶ人びとの群れを陶然と眺めていた少女を思う

なぜ私はこんなにいじめられるのか
なぜ私は愛されないのか
なぜ、なぜ・・・と思い暮らしていた少女が
抑圧に「NO」を突きつけていく朝鮮の人びとに激しく共感したのは
自然なことだったのだと思う

そして100年経ち。

文子の国であり私の国でもある、
100年前に突きつけられたこぶしを踏みにじった日本は
そのことを反省するでもなく。
自分たちの仕打ちを旧植民地の人びとが恨んでいるに違いないと
自らの恐れが映り込んだ鏡を恐れて「注意喚起情報」という名のデマを流す

なぜ、植民地主義を克服し、侵略や抑圧を二度と繰り返さないために
連帯してがんばろうということができないのだろう

 

情けない・・・

アナキストになっちゃう気持ちが、ちょっとわかる気がするのでした。

Change ではなく Transformation で

インプットと思考のぐるぐるがつづく春休み・・・早くもパンクしそう・・・(笑)

土曜日は 子どもの権利条約とSDGsについて学習会
日曜日は ABD(Active Book Dialogue)体験 & 『リフレクティング』を勉強(↓ の本を使ってABDをしたので)

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月曜日は しごと
火曜日は 「企業化するNPOネオリベラリズム」を考える会(?)

そして今日。

消化不良です(笑)とはいえ、全然別のお料理を食べたという気はしていなくて、同じコース料理のなかのものを順序に従わずに食べた感じ。私の向いている方向というか、いま関心があることに流れが沿っているからそう感じる・・・無意識に自分に必要なことを選べているのかもしれない。

社会を変えたい

「活動家ですか?」と訊かれることがある。さて。活動家なのかな?と考える。

活動家でありたい、とは思う・・・というより、人権を考えたり教えたりしているから、今の社会がこのままでいいとは全然思わないわけで。私があっちこっち学びに出かけたり、友だちと話をしたり、そういった一つひとつが基本的には「社会を変えたい」という思いにつながっている。そういう人間が「活動家」であるのなら、活動家なんだろうか。

まぁ、人から見てどう見えるかという問題なのかもしれない。そこは。

変える、変化・・・というとき、私が志向しているのはTransformation(構造を変える)方なのだな・・・と土曜日に実感した。SDGsの特徴である「変革性」は「Change ではなく Transformation なのだ」という説明を聞いて、「それそれ!」と思ったのだ。

目の前に公正でないできごとがある。あるいは

困っている人がいる。あるいは、自分自身が困っている。

そんなときに、この目の前の状況を何とかしたい、よい方に変えたいと願うのは、おそらく誰しもに起こる心の動きだろう(もちろん、厳しい状況のなかでそう願うことすら奪われてしまう人たちもいる)

いまの日本社会は、そういうときに「個人の努力で乗り切ること」があたりまえだと思いこんでいる、自己責任教の社会だと思う。だから本屋に行けば自己啓発本が平積みだし、地下鉄などに乗っていると、その手の本を熱心に読みふけっているスーツ姿の若い人が常に何人かいる。

でも、それっておかしいよね? と思う。
社会の側は1㎜も変わろうとせず、個人にばかり変化(chenge)を求める。

 

社会の側に問題はないのか? あるから、SDGsなんじゃないのか?

NPOが請け負っていること・・・を考えてみる

NPOの人間も霞を食って生きているわけではないから、暮らしていけるだけの給与がいる。そしてNPOも組織である以上、組織体を維持するためには経費がかかる。

企業や行政では手が届きにくい、隙間を埋める動きが柔軟にできる・・・というのはNPOの強みだ。私が知っているのは教育・福祉関係、国際交流や国際支援関係の団体が多いから、余計にそう感じるのかもしれない。収益が見込めない、法に定めがない、制度でカバーしきれない・・・そんなところで生じる困りごとの解決に、NPOは役だっていると思うし、それは悪いことではない。

だがしかし、だ。

たとえば、海外から日本に来たばかりで日本語がわからない子どもたち。その日本語指導や、日本の学校に不慣れで戸惑う親子へのフォローなど、本来は学校や教育行政で請け負うべき仕事のはずだけれど、今の学校のシステムはそういう子どもの存在を想定していないから、その場その場で「できる対応」を考えてやるしかない、現場任せ。しかも現場は超多忙だ。通訳支援員も正規の職員として雇う手だてや予算がない。そこで地域の国際交流団体やNPOに声がかかる。目の前に困っている子どもや親がいるから放置できない。だから請け負う。子どもや親が助かってよかったよかった。そして、NPOにもそれなりの委託料や謝金が入って(とはいえ、金額は非常に低い)、役に立ててよかったよかった・・・ほんとうにそうか? ということ

・・・そこで隠されてしまうのは何か、ということを考えなければいけない。

たとえば・・・学校の枠(フレーム)が、もう少し柔軟であればなぁと思う。

たとえば、日本の小中学校は留年や飛び級を想定していない。制度として留年できないわけではないが「〇歳は〇年生」という縛りにこだわるし、飛び級は認められないから、来日時に1学年下に編入して、進度に合わせて飛び級させるというような対応ができない。これは義務教育段階でも留年ありの学校文化出身の保護者にすれば、日本の子どもたちは全員が学年相当の学力を1年以内に身につけて進級している、と映るのだが、ほんとうにそうか? そんなことはないはずだ。

 

たとえば、学級担任が2人態勢なら。

たとえば、1クラスの定員が20名程度であれば。

いまここにある学校の定員や予算、仕事量を1㎜も変えずに、そこに日本語のわからない転入生を迎え入れるから「手が回らない」のだと、忘れてはいけないと思う。ぶっちゃけて言えば、学校を変えることができず、予算を要求することもできないから、低予算で請けてくれるNPOに仕事が投げられているという現状を、関わる人たちの献身やサポートされてホッとしている人たちの笑顔で美談にしてはいけないということだ。

いびつだ。フェアじゃない。

特に教育や福祉など人に関わる仕事の場合、NPOなどに外部委託することで人件費コストを下げる・・・ことは同時に学校や行政から「経験の蓄積」 を奪うことでもある。つまり、外部の人に対応を任せている分、内部の人が育たないということだ。ケースワークは経験知なのに、経験知が育たない。外部組織への委託、競争入札・・・請け負う団体が入れ替わるたびに、情報の蓄積はチャラになり、ゼロスタートになる。

 

そして学校に関していえば、いまある枠組みを変えず、人件費を抑制するために「チーム学校」「学校と地域の協働」といった、いかにもよさそうなアイデアが提示されている。でもその中身は非正規雇用のカウンセラーや指導員を増やすだけで、子どもに関わる仕事に責任を持って取り組める条件整備とは程遠い。学校の枠は変わらず、ただ非常勤の助っ人が付け足される。1年契約の不安定雇用に、喜んで長く務める専門家がいるだろうか? 長い目で見れば、かえって高コストではないのかと思うけれど。

・・・と、どうしていいのかわからないことだらけだけれど、いま・ここにあるシステム(構造)の問題を変えること(Transformation)は諦められない。

それは同時に、いま困っている人たちの困りごとが、その人たちの努力不足や失敗の結果などではなく、構造的に生じてしまう問題だというとらえ直しを怠らないということでもある。構造上の問題だから努力しなくてもいいというわけではないが、努力すれば確実に報われる仕組み、努力する方法にアクセスしやすい社会であれば、充分に努力できる人たちを、社会の側が疎外していることだってある。その疎外を問わないまま、自助努力にだけ責任を負わすのはフェアじゃない。
(さらに言えば、自助努力、自己責任を過剰に強いる社会のなかで、「困っています」といえず、支援につながらない人たちが、支援につなっがった人の後ろになんなんと隠れていることも「隠されてしまう問題」の一つだ)

思い出した詩・・・金時鐘「いぶる」

猪飼野詩集』1978 で有名なのは冒頭の「見えない町」

なくても ある町。

そのままのままで

なくなっている町。

電車はなるたけ 遠くを走り

火葬場だけは すぐそこに

しつらえてある町。

みんなが知っていて

地図になく

地図にないから

日本でなく

日本でないから

消えててもよく

どうでもいいから

気ままなものよ。

 この冒頭部分の朗読を、部室で見せられた映像(イレブンPMの録画だったと思う)で聞き、なんだこれは! と思い・・・。それが『猪飼野詩集』という詩集にある詩の一節だと知った。その後、たまたま古本屋で見つけて、即買い。

そのなかにある「いぶる」という詩

承知で

悪いのさ。

こんなたぐいの仕事なら

いつでもありついていられる

身勝手な世間が

しゃくなのさ。

めいっぱいうごいて

うしろめたいとは

割に合わない

汗みずたらしよ。

それでいて

稼ぎときたら

正真 体を張ったものなんだ。

ぜに出しゃあ難のない

お大尽さまより

捨て去りゃ こざっぱりな

市民さんたちより

難儀を押して引き受ける

おれのこの

意地のほどがまっとうさ。 

 ・・・だれかの語りのようなことばが連なり、最後に、このことばを発しているのが産業廃棄物を不法に処理している人物なのだということをほのめかすようにして、詩は終わる。この詩を最初に読んだとき、それこそ的を射すぎて、というより、見ようとしなければ見えない、そのことから目をそむけている自分がいないか? と激しく問われた気がした。ショックだった。引用した部分、「捨て去りゃ こざっぱりな/市民さん」である自分を正面に引きずりだされた感覚。この数行、何度も読み返して憶えてしまった。

昨夜のイベント(というより、初対面の人の方が多かったのに、ごく親しい人たちの気の置けないおしゃべりの場、のようになって心地よかった)で、10年間引きこもりで、支援されていて、それから働き始めて、今は支援することもやっている、という人が、「そもそも、支援して、何をめざしてるの? みんなホワイトカラーになりたいの? 上へ上へ学歴上げることがそんなに大事なの?」という文脈のなかで、産廃処理の仕事に就いていたこともある、という話をし始めた。それはすごく真理を突いた話で、前項の「NPOが請け負ってしまうことで隠されてしまうことは何か」という話でもあったのだけど、その語りを聞きながら、私の頭の中では「ぜに出しゃあ・・・おれのこの/意地のほどがまっとうさ」の数行がリフレインし続けていた。

労働力が足りないという。求人を出しても人が集まらない、若い人はすぐやめていく、厳しい、キツイ、割に合わない仕事。だったら割に合うように、労働条件を上げろという話なのに、そうはならず、難民入管法が改正されたこの国。

厳しい、キツイ、割に合わない仕事はしたくない。そりゃそうだ。
でも、その仕事をだれかがやらなければ社会は回らない。その仕事が嫌だ、自分にはできないと思っている人たちも、暮らしが回らなくなる。だったらそれを引き受ける人たちに敬意を払え。目に見えない敬意でなく、賃金として保障されるように、社会の仕組みを考え直せ。・・・現実には、そんなことを考えもしない人たちの快適さのために、厳しい労働条件に甘んじて働いている大多数の人が見えなくされている。

社会を変えたい。

そのためには、まず見えなくされているものを、見えるように。

目の前の困りごと対応を請け負いながら、困りごとの背後にある構造を見つめること。

構造を作ったのも、支えているのも人間なのだから、変えられるはず。

 

・・・なんてことを考えながら、じゃあどうやって変えていけるかなぁという解は見えていない(笑)「見えない町」に来たければ「たぐってくるのが 条件だ。」と詩人は言った。たぐったその先で出会う人たちと一緒に、おかしいと思うことにはNoと言おう。と思う。とりあえず。

解が見えないからあきらめる。というのが、いちばんやりたくない。やりたくないことはやらない。とりあえず。

(おことわり)

私は「ブログを通して交流しよう」という意図を持ちません

本ブログは個人的な記録、および実生活で交流のある仲間と共有したい思考を書き留めるために書いています

ですので、その他の方には、一方的に読み物として読み流していただきたい。故に、コメント欄を設けていません。あしからずご了解ください

 

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 を読んで思うこと

 先月末のトークショーで購入し、サインもしてもらった本を読み終わった。

…というより、今日は「国際母語デー」なんです! 
これは早く読み切って、読みながらつらつら考えたことを書かねば!

今日 書かずに、いつ書くの! ってなって、一仕事終えて読み切りました。

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「あなたの母語は何ですか?」

・・・この質問に対して逡巡してきた温さん。

そして、「・・・あるときからわたしは、自分には少なくとも三つの母語がある、とあらかじめ宣言するようになった。日本語と中国語と台湾語・・・どれか一つだけ、自分の『母語』であると定めるよりは、三つともそうなのだ、と言ってしまうほうが、自分にはしっくりくると気づいたのだ」「そもそも、中国語と台湾語と日本語と、ひとつずつ数える必要はないのかもしれない。三つの母語がある、というよりも、ひとつの母語の中に三つの言語が響き合っている、としたほうが、自分の言語的現実をぴたりと言い表せるのではないか」(244p)と温さんは書く。

「あなたの母語は何ですか?」と聞くとき、質問者には「母語は一つ」という無意識の思い込みがある。私にも、そんな思い込みはあった、と思う。

母語。mother tongue。乳児期の生育環境から自然習得されるコトバ。

いまは「第一言語」と呼ぶこともある。そういう尋ねられ方なら、自分が思考を操るのにもっとも気楽に自由に使っている言語の名を、屈託なく答えられるだろうか? そう単純ではないだろう、と思う。「第一言語」と数字まで入ってしまうから、ひとつの言語名しか選べない・・・となると、やはり答えようがなくなりそうな気がする。温さんのような人とは比べ物にならないが、私もこうやって文章を書いているときのコトバ(標準日本語?)と大阪弁船場言葉と河内弁が混じっている)の両方が混じり合って、考えたり書いたりしている。論文であーだこーだ検証を書いているときには大阪弁は使わないし頭の中も書きコトバだ。しかし、どんなふうに書いていこうか、自分がここで書きたいことは何か・・・と考えているときは、両方が混然と脳内を駆けめぐっている。

母語、母国語、国語、標準語、方言・・・

コトバにつけられた名まえはたくさんある。

学生に、そういった名詞をいくつか示して、それぞれ何が違うのか、何を表す名前なのかを考えてもらったことがある。

日本のマジョリティは、母語も母国語も学校で教わる「国語」と一致している(と思っている)人たちだから、まず「母語」と「母国語」に戸惑う。え? これ違う意味なん? 〈国〉のあるなしで、何が変わるんやろ? あれ? そういえば「国語」って教科を英語に訳したらどうなるん? 標準語って、「共通語」っていうのもあるけど、それは何? ・・・つまり、無頓着に生きてこられた人たち。

それがいいとか悪いとかではなく、頓着しなければ生きられない人たちも、私たちの周りには大勢暮らしているのだということに、屈託のない人たちが思いを馳せることから多文化共生が始まるのだと思う。

金時鐘さんの日本語と詩

「私の日本語には元手がかかっている」と、1世の在日朝鮮人詩人、金時鐘(キム・シジョン)さんは書いた。

金時鐘さんは日本統治時代に済州島日本語教育を受けた世代であり、1948年の四三事件を受けて渡日した1世。大学生の時、『猪飼野詩集』を読んで、それまで読んだどんな詩にもない表現、そこに息づく人びとの姿に圧倒された。こんな詩があるのか、と思った。と同時に、在日朝鮮人子ども会にかかわりながら「国語教育」を学ぶ学生だった私にとって、〈同化教育の片棒を担いだ国語科〉から脱して〈マイノリティの言語を尊重する国語科〉になる道はあるのか? という葛藤を考えるのに、大きなきっかけになるような気がして、卒論に選んだ。金時鐘さんのいう「元手」から学びたかった。実のところ、日本社会で日本語で暮らさざるを得ず、既に日本語が「母語」になっている在日朝鮮人の子どもたちを前に、私が学んでいる「国語科」ってなんなのだろう? という後ろめたさのようなものにずっと悩まされていて、その迷宮から抜け出すにはこれしかないと思ったからでもあった。

そして、当時出版されていて手に入る金時鐘さんの著作はすべて読んだ。金時鐘さんは詩人であるだけではなく、朝鮮語教員として人権教育に取り組む高校の教壇に立っておられた時期もあり、教育に関する言及も多く、子ども時代のエピソードもたくさん書いておられ、思っていた以上に考える材料に満ちていた。温さんの文章の中にも台湾での日本語教育(温さんにとっては祖父母が日本語教育を受けた世代だ)にかかわるエピソードは何度も出てくる。国家によって断絶させられる親のコトバと子どものコトバ。そして、金時鐘さんの場合、国家の暴力によって物理的にも断絶させられ、日本で暮らす日々が始まる。

金時鐘さんに関しては、その当時(1989年)、まだ四三事件については言及できない、しえない事情があり、行間から仄見える「日本の敗戦後に済州島で起こった何事か」の内容がわからないまま読んでいた。その「何事か」について、語られ始めたのは最近のことで、そのことを巡って、ふたたび私の頭の中はまた別の嵐が吹き荒れているのだけれど、それはまた別の話。

胸が痛いエピソードはいくつもあった。

教室で日本語を使うと罰札が渡され、その札の数だけビンタをくらう。最初は教師がやっていたが、「不心得者が一向に減らない」ことに疲れたのか「子ども同士の制裁」という仕組みを作り出す・・・日本語を使わなかった優等生が日本語を使ってしまった生徒をビンタする、そんな教室。そうまでして日本語常用を推し進めた日本。そして金時鐘さんの父親はそんな時期にも朝鮮服を着て朝鮮語を話し、街で墨を吹きかけられる「不良朝鮮人」で、そのことを恥じた金時鐘少年はよりいっそうの優等生になっていった。そのやるせなさ。

でも(どちらがひどいと比べようもないけれど)私にいっそう辛かったのは、童謡や唱歌のやさしく美しい日本語の詩が、しみこむように当時の子どもたちの口の端に上り、歌われて身についていったという事実のほうだった。金時鐘さんは、そうやって身についた「日本的叙情から切れる」ことをご自身の詩作に課して、さまざまな作品に結実させてきた。日本語、そこにある思考、文化、叙情。そこから脱して、日本語で詩を書く。だから「こんな詩は初めてだ」と私が思ったのだ。

その後、日本語教育世代からお話を聞けた折々に、同じようなお話を何回も聞いた。そしてやはり「物語を読むためには日本語が読めないといけなかったから、一生懸命日本語を勉強した」とか、「朝鮮語を話すことはできたけれど、読み書きは日本語でしかできない子どもとして、戦後が始まった」とか、そんな個々のエピソードの一つひとつに感じる痛みが、私がつかんだ〈同化教育の姿〉になった。

母語(mother tongue)」という名づけは、この世に生まれてきたその子どもが、そのままお母さんに抱き留められ、慈しまれて育つうちに自然と話し始める・・・そんなイメージからきているのだろう。もちろん母だけではなく、慈しむ大人はほかに何人いてもいい。しかし、そんな子どもの幸福を許さない国家の暴力がかつてあったのだ。植民地支配はなくなったが、いまも形を変えて、その暴力はまだある。だったら、その暴力に負けない力をはぐくむような、そんな「国語科」を構想できればいいのではないか・・・。ひとまず私は迷宮から抜け出し、次は植民地の「国語科」を掘り進めることにして、いまもうろうろしている。

温又柔さんの日本語と文学

温さんが「私の母語は三つ」と言い切ることにした、ということのほうが、上述した「母語」の本来のイメージにより近いものだなぁと思う。

「あなたの母語は何ですか?」という質問が暴力性を帯びてしまうのは「母語は一つであるはず」という狭量な思い込みのゆえに、自分をはぐくんだ言語に順位付けを迫るからだ。そして同化教育とその後に続く在日朝鮮人差別の中で、在日コリアン朝鮮語を選べなかった。家族やコミュニティのコトバとして維持することも、日本社会の中では困難だった。母語は一つであるはず。言語と民族は同じであるはず/〇〇人なら〇〇語が話せるはず。話してみてよ!・・・そんな無意識の暴力性。そしてそれはいまも、ニューカマーの子どもたち、2世の子どもたちを悩ませ続けている。同化教育の負の遺産。宿題はまだ終わっていない。

卒論を書いていたころ、ヒリヒリしながら読んでいたのが李良枝(リ・ヤンジ)さんの小説だった。『ナビ・タリョン』『由煕(ユヒ)』『石の聲』・・・温さんが修士論文に李良枝の文学を選び、大きな影響を受けたことを読んで、胸がいっぱいになった。

ああそうか、こんなふうに文学もつながっていくのだな、と思えたからだ。

日本のマジョリティは、国境と言語の境界を無意識に同一視している。日本の領域内で使用されているから日本語。日本語を話しているから日本人。明治政府がめざした、一国一言語一民族を内面化したまま、21世紀を迎えてしまった。

でも実際には温又柔さんのような作家がいる。その前には鷺沢萠や李良枝もいる。国籍と民族と言語が一直線に紐づけられない、複数の言語や文化につながる人たちも、今後増えこそすれ減ることはないだろう。日本はずっとそういう境界線上をたゆたう人々を無視して、そんな人たちにお構いなしの社会を作ってきた。もとはといえば日本という国家の暴力によって境界線上に放り出した人たちに対してさえ、責任も取らず、その存在を無視してきた国で、新たにやってきた人たちがまたつらい思いをさせられる。

それでも、温さんが描写する「ママ語」/台湾語と中国語と日本語が混じり合う響きの、なんとチャーミングで生き生きしていることか!(その響きは繁体字とカタカナ、ひらがなを駆使して表現されている)

そこにある、台湾の歴史。日本語を押しつけられ、その暴力が去ると、今度は中国語を押しつけられる。大陸と海峡を挟んで対峙する、多言語の台湾。押しつけられた「国語/國語」を身につけ、したたかに生きてきた人たちと、そんな人たちが日々の暮らしのなかで使い続けた台湾語や民族のコトバ。そんなコトバが溶け込んだ温さんの日本語と、その日本語でつづられる文学は素敵だ。なんて豊かなんだろうと思う(その良さがわからない芥川賞の選考委員がいたなぁ。思い出すだに腹の立つ!)

私は研究対象が植民地期の朝鮮で、同時期の台湾のことをきちんと勉強し始めたのはこの10年ぐらいに過ぎない。本書を読みながら、朝鮮とはまた違う解放後・冷戦時代を過ごした台湾の現代史に考え込むことも多かった。ついこの前、台湾の留学生に「なぜ同じ植民地だったのに、朝鮮のことばかり教えて台湾のことは教えないのか。教科書にも載ってなかったと日本の学生が言っていた」と質問され、申し訳ない気持ちになったばかりだったから、よけいかもしれない。そう質問されて改めて、日本は自らの支配者としての歴史を、被支配者の子孫である在日の人びとから突き上げられて初めて教科書に載せ、授業で扱うようになったに過ぎないだな、そこに国家としての主体性はないのだな、と思わざるを得なかった。要は反省する気がなかったのだ。過ちを教訓化する気も。だから一国一言語一民族に何の疑問も持たない国民が生まれ続け、「日本人が日本語で日本を描く」文学しか日本文学ではないかのような狭量な発言が飛び出すのだろう。

温さんが描き出す世界はまぎれもなく日本の物語だ。複数の言語と文化にはぐくまれる人が経験する、モノカルチャーの日本。日本で暮らす多文化な人たちの暮らしや感情。複眼的、重層的なコトバの世界が、これからの日本文学を豊かにしていくだろう。そこで使われる日本語は〈同化教育の片棒を担ぐ〉コトバではなく、多様性を多様性として描き出す力のある、素敵なコトバだと思う。

「わかる」とか「わからない」とか

さいきん気になっていることの一つに、国籍や民族をめぐってアイデンティティ葛藤を経てきた温さんのような人たちの経験に対して「自分は純日本人だからわからない」と「わかる/わからない」にこだわっているようで、理解をあきらめるような言動が、学生の中に目立つこと、がある。・・・目立つ、と思っているのは私なので、単に私が気になるだけの話かもしれないが。国籍や民族の問題だけでなく、差別に遭いやすいマイノリティ性をもつ人たちの経験談に対して、ふわっとした拒絶を感じる何か。はっきりと「わかりたくない」と言い切るわけではない(そう言ってはダメだと思っている?)が、かといって「わからない」ことに対する焦燥や無力感にさいなまれるふうでもない。「わからない」から勉強しよう、話を聞こう、というふうでもない・・・。

私も母語は日本語で、第一言語も日本語で、日本語の社会に生きている者だから、わかるかわからないかと言われたら「わからない」側だ。でも本書を読みながら、私は何度も涙をこぼした。「わかる」から泣いたのでもなければ、「わからない」から泣いたわけでもない。たとえば、温さんのお母さんが「ママ、にほんご、へた。あなたたちに、にほんの本、読まなかった。読めなかった」と言ったとたん、さっきまで微笑ましかったのに一気に緊張して胸が詰まり、おなじようなコトバを聞いたことあったわ・・・と思わず何人かのお母さんの顔が浮かび、行き場を失った感情が涙になって出てくる・・・という具合。切ないとかやるせないとか、こういうときのためにある表現なんだなぁと実感してしまう。

こういう感情におそわれたとき、「わかる」とか「わからない」とか、関係なくなってしまって、切なくてやるせなくて、じっとしていたらやりきれないから、本を読んだり人に話したり、とにかく動き出す。その繰り返しで、私はいま「多文化共生」だの「人権」だのを仕事にしながら生きているように思う。

そういえば「外国にルーツがあるといわれても、ふーん、そうなのか、としか思えないのはダメなんですか?」と質問に来た学生もいた。「牡羊座ですとかA型ですとかいうのと同じレベルで受け止めたらだめなのか?」と。ゲストが「日本生まれで日本育ちの自分に『もうほとんど日本人だね』とか『日本人と変わらないね』とか、言ってしまうことによって、隠されてしまう・見えなくなることはないのかな? と少し考えてみてほしい」と話した次の週だった。あの学生さんが、この本を読んだらどう思うのだろう。温さんが温さんであることの一部一部は、星座や血液型と同じ重みといえるのだろうか。あなたと私の関係の中では、そういう受け止めもありかもしれないけれど、あなたも私も、温さんに窮屈な思いをさせてきた日本社会の中で生きている。私たちはこの社会から決して自由ではないのだから、そこから自由になりたければ、見なければいけないものがあるのではないだろうか。

U-Books版のあとがきの末文に、また涙が出た。この思いに目を向けない、見ようとしない日本の社会と、私はまだまだ闘わなければいけないなと思い、そして動き出す。

祖母に捧げた本書を、「ママ語」でわたしを育ててくれた母と、母のようなすべてのママたち、そしてそんなママのもとで育つ子どもたちにも捧げたい。/2018年8月灼熱の東京にて    温又柔

 

 

koko de kurasu の次の日の「ブラトーーク!」

そして、日曜日は「私たちの部落問題vol.4 ブラトーーク!」に参加
ロフトプラスワンエスト。ミナミのライブハウス! そこで部落問題!

部落めし(かす飯、1銭洋食、さいぼし)につられて(笑)チケットを買った段階での整理場号は「24」だったのに、当日は立ち見(会場のキャパは130)が出るという盛況っぷり。

え? え? だれが来てるの・・・!? と思わずキョロキョロしてしまうけど、あまり知った人がいない(いや、いるけど、その4倍ぐらい知らない人がいた)。なんだかそれだけで感動する。部落問題を考えようと思う人がこんなにいるよー!

ちなみに、2017年に始まったこのシリーズの4回目にして初の大阪開催イベント

www.abdarc.net

この1回目に、たまたま出張で東京にいて参加しました(その時のことも書いたかと思ったら書いていなかった・・・。Blogを使えていないなー、私)。

鳥取ループが紛れ込んでいたりして怖い思いもしたけど、すごくいい企画で、こういうものを定期的に積み重ねていくのが大切だなぁと思いました(鳥取ループ裁判の詳細等も上記サイトにあるので、そちらを参照ください)

第4回は「もっともっとちゃんと知って、どんどんみんなで話していこ~!」ってことで、タイトルは「ブラトーーク!」

 

ライブハウスなので、ビール片手に! (登壇者もトーク中に「生ふたつ!」)
とっても真面目な話を、リラックスして率直に・・・の雰囲気が心地よかった・・・

 

私と部落差別

私は大阪の生まれ育ちで、小学生時代が70年代にすっぽりはまっているので、「越境通学反対」ポスターに通学路を守られ、年度初めに教科書と一緒に「にんげん」をもらい・・・けれど南区(現中央区の南西側)には被差別部落がないせいか、部落問題学習をきちんと受けることなく過ごしました。

でも「しない、させない、越境通学」ポスターもそうだし、「石川青年を返せ!」「狭山差別裁判糾弾!」という垂れ幕のかかった建物も目に入っていたし、「にんげん」は毎年読んでいるし・・・(しかも私、「にんげん」が好きで、始業式に教科書類をもらって帰ったら真っ先に読んでいました。国語の教科書や道徳の副読本より、断然おもしろい・・・子どもだったから感覚でしかないけど、読み応えがあったのです)で、断片的な情報は常に身のまわりにありました。

大学に入って「部落問題概論」という授業と、その受講生会議でのFWを通して、はじめて断片が意味を持ってつながっていきました。そして実際に被差別部落に育った先輩や同期の子たちから、いろんな話を聴いて「昔話ではなかった・・・」と気づき、単に冤罪事件やろと思っていた狭山事件の背景も知り、解放子ども会の学習会や取り組みを垣間見る中で、「にんげん」の内容の深さに気づかされていったのでした。

・・・という学生時代。

母の親友の一人が大阪南部の被差別部落出身だという話を、初めて母から聞きました。私もよく知っているおばちゃんでしたが、解放運動からは完全に距離を置いている人(自分が言わなければわからない、わからなければ差別されない、と)で、母も「寝た子を起こすな」論者。要は私があっちこっちの部落に出入りして「こんな差別は許されへん」とか「部落にこんな面白い人がいる」とか、べらべら家で喋っていることにハラハラしていたようです。

母とそのおばちゃんは短大以来の親友。高校進学率が60%ぐらいの時代に女子短大に進学しているのがミソで、2人とも、家庭は貧乏でもないけどそんなに裕福でもない、でも「これからは学歴や!」という親の信念で進学させられた(本人たちは嫌だったらしい)のが共通点。まわりの「嫁入り道具的に通っているお金持ちお嬢様」とはそりが合わず、仲良くなったとのことでした。そして母はまわりの「お嬢様」たちから「なんであの子とつき合うん? あの子〇〇やで」と何度も言われたらしい・・・母は「それがなんやの?」と意に介さず過ごし、母の親(私の祖父母)もそんなことは気にしない人たちだったのだと話していました。

いや、だからさ。差別されとるやん。差別あるやん。やのに「寝た子を起こすな」ってさ・・・と私も若気の至りで何度か話してみたものの、「差別するほうがしょうむない」「そんなしょうむない人がみんな死んだら差別はなくなる」「いまの若い子は、もう差別なんかせんやろ」という感じで、むしろ私のように勉強したり意識したりする方が差別を残す(どっかで聞いたような理屈・・・)と言いたげになって終わるのが常でした。
(当時、私が解放運動にがんがん突っ込んでいくのを、止めたり反対したりはしなかったけど、よく思ってはいませんでした。その辺の確執は、また別の話)

そんなこんなで、明らかに悪意があって排除してくる人より、こういう人の方が厄介だなぁ・・・と自分の母を見ながらよく考えたものでした。

私たちの課題

 

ビール片手に聴きながら、そんなことも思い出していました。

もともとこのイベントは鳥取ループ裁判支援グループ(ABDARC)の企画で、インターネット上に地域の名まえ/関わる個人名をアウティングするという悪質な差別行為をどう考え、どう対抗していくかを考えるための場。あからさまに酷いことを言ったりやったりということを彼らはやっていないけれど、社会に潜む差別意識が行動に発展するためのプラットホームを提供しているという、巧妙で悪質な差別行為に、私たちは何ができるのか、何をしていけばいいのか・・・・・・。

自分が生まれ育った地域が、いかにも恐ろしげにBGMをつけた映像でネット上に晒される。自分の車のナンバープレートが映りこむ。あるいは自宅や友だちの家が。地域の祭に参加する子どもたちの顔が。裁判の原告になったことで、名まえや住所といった個人情報を晒される(裁判の訴状には現住所が記載されるので、被告側に個人情報が知れてしまうんですよね。この裁判の仕組みは何とかならんのかなと私は思います)。

鳥取ループは過日、裁判所で「私の行為(インターネット上に情報を晒したこと)によって、だれか一人でも死んだのか?」と言ったらしい。人が死ななければ問題ないと?・・・差別の被害が、そんなふうに明らかに物理的に傷つきがわかるような状況にまでいったら、それは相当にヤバい段階でしょうよ? と怒り沸騰しつつ、そこまでのたまうということは「私は情報提供しているだけ」なんていうのは言い訳で、やっぱり差別する/傷つける目的でやってるんだな・・・と確信(改めて確信)。

この現実がある前で、「寝た子を起こすな」は害でしかない考え方ですよね。
「寝た子はネットで起こされる」現実。だったら、変な起こし方をされる前に、どうするか、変な起こし方をされちゃった人たちに、どうするか。ーーそこは教育の仕事だなぁと、気合いが入って再びビール。さいぼし旨し!

丁寧に暮らす

ヘイトスピーチする連中もそうだし、鳥取ループもそうだけれど、地に足がついていない、観念の世界でコトバを弄んでいる人たち。という感じがして、だからこそ、こっちは丁寧な暮らしを見せつけていきたいし、丁寧に毎日を生きることが対抗ではないか・・・ということも考えさせられました。

情報を晒されたことで陥る不安は、安全・安心な暮らしを壊される恐怖だし、その恐怖を感じながら日々暮らさないといけない時点で、それは心理的な被害にほかなりません。だれかが死ぬとか、精神を病むとか、そこまでいかないと被害だと認識できないとしたら、そちらの方がよほど歪んでいます。

不安になるのは、その暮らしが日々の小さな積み重ねでつくりあげた信頼や安心に支えられているからこそなのだろう・・・と思うのです。「ご飯食べていきやー」と言ってくれるおばちゃん、地域のイベントをつくるあの人やこの人、それを楽しんでいる子どもたち・・・「さいきん、どう?」と声をかけあえるコミュニティは一朝一夕にはできないし、少子高齢化の進む日本で、より便利なところ、小ぎれいなところに人が移動していくなかで、地域コミュニティ/まちづくりの課題を抱えている地域の方が多くて。地に足つけて、地道にコツコツ、丁寧に人間関係を紡いでいこうとしている人たちの姿は素敵だし、そんな素敵な世界を守りたいと思うから、それを脅かす彼らの行為に不安と怒りを感じる・・・少なくとも私は、そう思います。

今回のイベントで紹介されていたのはこの地域の取り組み

ホーム - 暮らしづくりネットワーク北芝暮らしづくりネットワーク北芝 | であい・つながり・げんき

何を隠そう、学生時代に私が初めてFWに行ったのがこの地域(30年ぐらい前・・・)

ここはホントにおもしろい! けれど、おもしろさの背景には、地域の事情・課題があって、そこに向き合ってどうしようこうしようといろいろなチャレンジを繰り返してきた歴史があります(それがまたおもしろいんですが)。

コトバにするとありきたりですが

暮らしは積み重ねていくもの。つくり上げるには時間がかかる。
破壊は暴力。一瞬で壊せる。そして、差別は暴力。

どんな暴力も許さない。とともに、
暴力に抗する暮らしを日々紡いでいく営みを止めないこと。

・・・とかなんとか言いながら、地に足がついていない私(笑)
ですが、今年は「地域」とか「まちづくり」とか、もう少し勉強して関わっていきたいなぁと心ひそかに思うのでした。

 

がんばろ。

koko de kurasu


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移住連の2020キャンペーンの《ここにいる》というコトバがとても好き。

キャンペーン2020 | 移住連 |Solidarity Network with Migrants Japan -SMJ

というので先日、そのイベントに行ってきました。

2019.1.26.「ここにいるkoko ni iru.」大阪企画
トーク 温又柔×三木幸美「ここで暮らす KOKO DE KURASU.」

…よかったです。心がとても温かくなり、かつ宿題をたくさんもらったような(嫌じゃない宿題ですよ)、とても良い時間を過ごしました。忘れないうちにその感想を。
*写真は当日のメモ。全部メモしたい! けどそんなことせずにひたすら耳を傾けていたい! と葛藤しながらも手が止まらなかった…という代物です(笑)

コトバを切り取らせない

『真ん中の子どもたち』を読んで以来、温又柔さんのファンだったし、三木幸美さんも大好きなので、始まる前からワクワク。そして二人の楽しそうなトークを聴いているうちにわかったのは、お二人ともとてもコトバを大切にしていて、そのスタンスが私はとても好きなんだなぁということ。

「コトバを切り取らせない」というのは三木さんのコトバですが、私なりにそこにまつわって「そうだなぁ」と思った部分を言語化しなおすとこんな感じ

*マジョリティが「こうあってほしい」と思う像を押しつけられる/自分が見たい像に合う部分を「切り取りに来る」感じが不快

*「わかるー」と言って、私の語りを消費される虚しさ。安易にわかったつもりになって、そこで思考停止して、去ってしまう人たち

このへんは、いま読んでいる朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』からも感じていることで。人権課題…というか社会について考えるとき、だれかの経験(語り)から学ぶことはとても大切だと思う一方で、それがだれかの生きた経験である以上、社会問題の教材として消費財にしてしまったらダメだ…ということを常に思う。だから授業で講演に呼ぶときや、だれかから講師を紹介してほしいと頼まれたときなどは、「いいお話が聞けて良かったですー」とカタルシスになって終わり、にさせないためにどうすればいいかをすごく考える。それでも、「人権といえば差別に負けずに頑張って努力した人のいい話」というフレームでやってくる人の、そのフレームを壊すのはとても難しい。

そして、自分が語る側であるときに、ふと陥ってしまう、わかってほしいポイントをわかってもらうために、何かしら整理されたストーリーを作ってしまいそうになる陥穽。

「登場人物に感情移入して消費される小説は書きたくない。自分が物語の中に入って『考える』小説を書きたい」

という温さんは素敵な作家さんだと思ったし、まさに『真ん中の子どもたち』はここに私がいるとしたら、どこにいて、この3人とどう関わるのだろうか…とずっと考えながら読んでいたなぁと思いだした。

小説の登場人物も、現実にいるあの人やこの人も、わたし自身も、だれもがさまざまな面を持っていて、そのどれか一面だけ切り取られたら、それはもうその人ではなくなってしまう。

どの面もわたし。どの面が欠けてもわたしではない。

以前、別の学習会で、こんな「アイデンティティの多様性」を大小さまざまの、相互に噛み合っている歯車のイラストで提示されたことがあった。誰からもよく見える位置にある、大きくて目立つ歯車もあれば、その後ろに隠れてよく見えない、小さな歯車もある。でもどの歯車もすべて連動していて、私を動かしている。どんなに小さくて目立たない歯車でも、それが欠けたら動かなくなる…というイメージ。

私も、わたしを切り取られたくない。では、切り取らせないためにコトバを考え、選んでいるだろうか。…そんなことを、いま考えている。

それと、他者のコトバを安易に切り取ろうとしていないだろうか、ということも。

ルーツのコトバ、ということ

温さんは台湾生まれで幼少期に来日、日本の学校に通い、日本語で育ってきた。

三木さんはお母さんがフィリピン人だけど、日本社会で生きていく娘は日本語で育つほうがいいと考え、ご自身が日本語を学びながら日本語で三木さんを育てた。

だからお二人とも、親のコトバを耳にしながら成長しつつ、第一言語は日本語だ。

「わたしたちのような者が(ルーツの)言語を学ぶのは、忘れていた子守唄を思い出すような感覚なんですよね。ああ、この表現は知ってるな、とか、ああ、こういう意味でこう使うんだな、とか。だからまったく縁のない外国語を学ぶのとは違う楽しさがある」

…でもそんな楽しさにすぐたどり着いたわけではなく、「台湾人なのに話せない自分」「ハーフなのに話せない自分」という「何か足りないわたし」コンプレックスを与えてしまう日本社会。

「どっちでもいいしどっちでもあるのに、『けっきょく、どっちなん?』と周りが(社会が)迫ってくる」

何語が話せるかがものさしになって、人を分けようとする暴力性。
そして、言語にも優劣がつけられている。

一国一言語一民族…という上田万年以来の呪いは深い…

言語の教育は、その呪いを解く呪文を見つける時間にならなければいけないんじゃないだろうか。

カット・インパク

これはお二人ではなく司会をしていた方の名言。

いま社会ではTwitterにせよInstagramにせよ、「短く切り取った」コトバや映像で、とにかくインパクトがあればいいという表現にあふれていて、みんなが「切り取る」ことに躍起になっている…だから、今日のトークは、そんな空気へのカウンターでもあった。

なるほど!

切り取らせない、というのは文脈を無視させない、文脈に思いを馳せ、考えることをやめさせないということだ。

考えてみれば、「短く切り取った」コトバのやり取りに文脈がないわけではない。
切り取られているからこそ、元の文脈をお仕着せ/既存の「よくあるストーリー」に無意識に当てはめ、勝手な解釈を許してしまっているのではないだろうか。

でも、よくあるストーリーで説明できる人はいないし、説明できる人生もないはずだ。

自分のことを自分のコトバで考え、みずから語ること。
自分が自分であるという、そのものが認められ、尊重されるためのコトバとは?

カット・インパクトな社会が奪っているのは、そんなコトバたちなのだろう。

わたしたちが取り戻さなければならないものが、少し見えた気がした。

「わかる」とか「わからない」とか

「わかる」の暴力性、という話が出た。「安易に『わかる』な!」

「『わかるわー』って言われるより『そっかー…』って返ってくるのが好き。そのまま聴いてもらえた感があると嬉しい」

『わからない』限界を知っていて、それでも『わかろう』としてくれる人がいい。けどなかなかいない(笑)」

「わかる」ってなんだろうな、と思う。

トークの中で「ののしりコトバ」の話になったとき、温さんが「人をののしりたいときに使っている単語って、本当にそれを選んで、その意味で伝わるの? それでいいの?っていうところが怪しい場合が多いと私は思っていて。相手に打撃を与えられるという点だけで選ばれていて、自分が伝えたい不快感とか抗議とか、そういう中身を反映できていないのではないかなと思うんです」と話されていたけれど、おなじことが「わかる」にもいえる気がする。

だれかと話をしていて『わかるわー』と言っているとき、その中身は「私も同じような経験したわ!」だったり、「あんたが怒ってるのと同じように怒りを感じるわ!」だったり、いろいろだ。体験(事象)の共通性と、感情への共感を、全部「わかるー」一言で片づけて、それでいいと思って使っているけれど、実のところをよく考えたら「なにがわかったんだろう?」と、ちっとも「わからない」部分が見えてくるほうが多いのではないだろうか。怪しい…

これもカット・インパクトと同じで、簡単な単語で軽くテンポよく、ポンポン飛び交うことがよしとされる空気があって、自分の言いたいこと・伝えたいことに合っていない語彙でしか話せていないのかもしれない。そんな社会で、丁寧にコトバを紡ぎ、考えていく時間をどう作っていくのか。そんな場をどう確保するのか。

たぶん、「めんどくさい奴ら」と思われるんだろうけど(笑)
あの会場に集まっていた人たちは、きっとみんなめんどくさい人たちだから、私は一人ではない(笑) めんどくさい人たちとめんどくさくつきあっていくことの楽しさを、どんどん見せつけていく私たちの営みが、対抗文化になっていけばいいなと思う。