わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

『ジニのパズル』と『ROCK U!』

『ジニのパズル』は発表時から気になっていた作品だった。
本になったら読もう・・・と思いながら、ずるずる過ごしているうちに、
ネット上でさまざまな人のさまざまな「評」を目にして、
ちょっと腰が引けるような、そういう気分になった。

なぜ腰が引けたか。

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「反日」考~『鬼郷(귀향クィヒャン)』を観て思ったこと

観てから既に1ヶ月以上・・・。

感想書かないまま年を越してはいけないわ! と、お節作って向かうPC。

 

しかし、ググってみると(予想はしたけど、実際)ろくな記事がヒットしない・・・・・・

慰安婦題材の韓国映画『鬼郷』、東京で初上映…「反日が目的ではない」 | Joongang Ilbo | 中央日報

リンク記事にあるように、東京での上映会の後、全国各地を地道に巡回し、
私は11月22日にドーンセンター(大阪)で観ることができました。

 

ググっていただければおわかりのように、「反日映画」の呼び声高いです。

というより、そんな評価しかヒットしません。

ということは、この記事もアップと共に
なんとかホイホイ状態となって炎上してしまうのだろうか・・・(笑)

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Les Heritiers 邦題『奇跡の教室』

kisekinokyoshitsu.jp

なんか忙しくて、本もあまり読み進まず、映画もあまり見られず・・・な今日この頃&ブログを全然使えてない!反省も含めて。この夏、いろんな方向で考えさせられたフランス映画について。(概要はリンク貼ったのでそちらで)

「奇跡」なのか・・・?

原題は英語でいえばHeritor/相続人・継承者という意味で、邦題はそれが副題に回って「受け継ぐ者たちへ」となっています。これもなんで「へ」を付けたかなぁ・・・そのまま「受け継ぐ者たち」でいいのに。とタイトルに納得いかない私。

ホロコーストについて学び、サバイバーから直接聞き取りをするなかで、生徒たちが歴史の「継承者」に成長していくさまが圧巻で、魅力的な映画なのに、それを「奇跡」って言っちゃうセンスの悪さ。そこに「あんな出来の悪い不良の生徒が!」という見下しを感じて気持ち悪いと思うのは私だけでしょうか。

教師の力(専門職としての技量)

たしかに、先生が「コンクールに参加します!」と宣言したとき、当の生徒たちも「うちらには無理っしょ」的な反応だし、校長も「優秀なクラスが参加するならともかく」と渋り顏。しかもテーマは「ナチスの強制収容システムにおける子どもたちと青少年」重っ!

そこでゲゲン先生が「やってみもしないで『できない』と決めつけるのはどうかしら? 失敗するのがカッコ悪いと恐れてチャレンジしないのは憶病ね」的なことを言って、及び腰の生徒にかまわずエントリーするーーそういう姿が「熱血教師」「生徒への愛」etcと映画の宣伝コメントにもあふれていましたが、彼女の教師としてのスタンスはそんなに特別なものではないと私は思いました。歴史教師としてのキャリア、一緒にコンクールまで付き添ってくれる司書の友人の専門性や、証言者として生徒に語ってくれるレオン・ズィゲル(ご本人が登場しています! 貴重映像)の語りの力を信じているから、コンクール参加に踏み切れるわけで、根拠のない熱血とは違う。

自身が教師として、歴史を学ぶということの醍醐味、ダイナミズムをよく知っているからこそできた実践だと思うし、そう考えると大切なのはゲゲン先生個人の「奇跡」だと持ち上げるのではなくて、教師がその専門性を磨くことや、それをサポートする司書のような専門職の存在を尊重する教育環境づくりを考えなければいけないのではないか。この映画を見た教育関係者が「継承」すべきことは、そこらへんにもあるんじゃないかなぁと思いました。

あんなふうに調べ学習の取り組みをするときに、司書の方が付き添って資料調査上のアドバイスをしてくれるのは、ほんとうに素晴らしいと思う。映画の中では最後まで反発して取り組みにそっぽ向いている女の子に、司書の人がさりげなく「こういうのどう?」とシモーヌ・ヴェイユ自伝を渡し、それが彼女に火をつけるのですが、生徒の様子を見ていて「あ、この子にはこういうのどうかな」と思いつくのは司書さんならでは! 学習したことをどうアウトプットするかの指導はゲゲン先生に負うわけですが、インプットの資料選びやタイミングをサポートしてくれる人が傍にいるって、素晴らしい。学校図書館にしろ地域図書館にしろ、司書さんをきちんと置いて子どもたちの学びをサポートしてもらえば、どんなに世界が広がるだろう・・・とうらやましく思いました。

歴史を学ぶということ

コンクールに取り組むことになり、生徒たちも「ホロコースト」「強制収容所」ってなに? と、ちょっとググってみたりしはじめます(ここらへん、今どきの高校生)。で、ちょっとググってみたら衝撃写真に出くわして、「え、なにこれ」とやる気になるというよりは、衝撃のあまり誰かに話さずにいられないという感じで、ポツポツと関心とやる気が生まれ、それがクラスに広がっていく展開がとてもおもしろかった。「これはどういうことだろう?」「なぜ、こんなことになったのだろう?」という、まさに学びのスタートライン。

コンクールに参加する前の段階での授業の様子で、中世キリスト教会の装飾に描かれた「異教徒」の姿を巡って、ムスリムの生徒が反発して授業から出ていこうとする場面があり(そもそも映画冒頭から、スカーフ着用を巡って卒業予定生と校長が激しくやり合う姿が出てきて緊張感満載)、ムスリムがいるとわかっている教室でこれやるんだなぁ・・・とドキドキしながら観ていたのですが、反発する生徒にゲゲン先生は極めて冷静に「もちろん、イスラム教を否定し排除するのは間違っているけれど、これは紛れもない歴史の事実だ。だから学ぶことを拒否してはいけない」と言い、その教会に生徒たちと出かけていくのです。ムスリムの生徒が、キリスト教会を見学し考える。その姿を見て、他の生徒も考える。また、ゲゲン先生は普段から、生徒たちの人種差別的な言動には厳しく接していて「冗談やん」みたいな言い逃れを一切許さない。つまり授業でも授業外でも「公正」ということで彼女なりに一貫した態度でいるから、生徒側からしたら安心できるのだろうなと思えました。

つまり、コンクールに参加したことだけが「奇跡」を起こすわけではない。コンクールへの参加は特別な取り組みではなくてゲゲン先生の普段の授業/歴史から何を学び継承するかという問いを軸につながっているからこそ、生徒たちは成長する。

レオン・ズィゲルさんの証言を聞く場面が、この映画の山場の一つ。ご本人が本当に体験を話されて、それを聞いている生徒たちの顔つきがみるみる変わっていくのが、圧巻です。生徒の一人がその後興奮して別の友人に「今日はすごい話を聞いたんだよ!」「あれは聞くべきだ」と熱く語る姿も、ひとりじっと考え込んで本を読み始める姿も。これも、当事者の語りの力ももちろんだけれど、自分たちで学習を積み重ねた上での「出逢いの力」だなぁと思いました。私は見ながら、学生時代に自分が出会ったさまざまな証言者の人たちのことや、厳しい現実を生き抜いてきた人の語りを聞く子どもたちの眼差しも思い出して、胸がいっぱいになりました。

フランスの学校

前に『バベルの学校』(中学校)を見たときも、日本とはだいぶ学校文化が違うなぁと感心したのですが、今回びっくりしたのはクラスの評価に関する会議の場面。

担任のゲゲン先生、校長、このクラスを担当する各教科の先生はもちろんですが、そこに保護者代表とクラス代表(生徒2人)も入って「先月は対室処分を受けた生徒が〇人いますがー」なんていう話をしているのです。そして「〇〇は、警告が〇回あるから謹慎処分すべきでは」という提案に対して生徒代表が「〇〇はいま家の問題で大変なんです」と〇〇くんの抱える事情を話し、それを受けて先生たちが「同情できる点もありますね」「しかし、この点については・・・」等と個別の件を説明し、対応を協議していくのです。民主主義!?

一方で、保護者代表が「一部の女子のスカートが長いことについて、学校で指導するように要請したい」と言ったことに対して(私は最初何のことかわからなかった)、校長先生が即座に「確かにスカートの長い子は何人かいるが、それが宗教的信念に基づくものかファッションなのか、明確に区別できない。それに対して学校が指導するのは行き過ぎだと思うので指導はしません」ときっぱり付き返す、という具合で(そこで初めてムスリム生徒に対する偏見なのだとわかってゾッとした)、話し合うべきことは話し合うけど、「それはダメ」という点についてははっきりきっぱり突っぱねるのね・・・と感心しました。

フランスは小学生でも容赦なく落第させる国だけど、高校ともなるともう包み隠さず(?)「そんな態度でいたら落第するわよ!」と最初から脅かしまくりなのも、ちょっと衝撃だった。フランスの高校コワ・・・・・・。そして、授業中に何度か注意しても態度が改善されないと「退室を命じます。連絡帳持ってきなさい」と言って、所定のノートに何やら書きこんで、それを持たせて追い出しちゃう(これが退室処分)。でも、生徒の方も黙って聞いているだけではなく、我慢ならない件に対してはボイコット(ゲゲン先生が長期欠勤して代理の先生が来るのだけど「ゲゲン先生はどうしてこないの!」とブーイング。代理の先生がちょっとかわいそうだった)、とにかくみんなよくしゃべる。しゃべるというか主張する。議論の国フランス。

かたや日本。生徒だけでなく、職員室/職員会議でも議論しないもんなー。そして陰で文句言う。もちろんそうじゃない学校もあるだろうけど、大半は意見言わないんじゃないだろうか。そもそも文科省が校長の権限を強くして「即断即決迅速に」させようさせようとしている国で、時間をかけて議論する文化が学校に育つには、いくつものハードルがある。

フランスほど喧々諤々でなくてもいいけど(笑)もう少し、意見の言える環境を育てた方が、グローバル社会に対応する子どもを育てる学校に近づく道だと思いましたね・・・・・・。

 

 

 

ブログの引っ越し つづき

そもそも、ZAQぅのブロガリが終了するというから、はてなに来たわけですが。

エクスポートからのインポートがうまくいかず、あれこれ調べてみたら、要はZAQが超絶不親切だということらしく、みなさんあれこれ苦労されているもよう(T_T)

ということで、まるまるの引っ越しは諦めて、とにかく保存しておくことに(けど、どういう仕組みかよくわからない 笑)。

もー。ざっくぅ・・・・・・

しっかりして!

 

殺される側の論理

・・・というのは、本多勝一さんの御著書のタイトル(朝日文庫
高校生のとき、ある先輩に勧められて読んだ。

その冒頭に置かれた文章「母親に殺される側の論理」は、
横塚晃一さんの『母よ!殺すな』に序文として寄稿されている。

本多さんの妹さんも脳性マヒで、お母さんが妹さんを連れて心中しようとしたらしい・・・という子どもの頃の記憶から書き起こされている。お母さんは夜中に出かけ、天竜川に身投げしようとし、そこでどんなふうに思いを巡らせたのか、思いとどまって帰って来た。そのことを本多さんはこう書いています。

思いなおすに到った経過はわかりませんが、このとき母が共に生きる決意をしたことは、家族みんなにとってまことに幸せでした。けれども節子の側から考えてみると、これは父や私の考えるていどの「よかった」次元のものではない。(中略)母とともに心中させられるということは、要するに殺されることであります。いかに未来が悲観的であろうと、それは親が考えてのことであって、当人が考えてのことではない。とすれば、このとき母が思い直したことは、ほかならぬ母親自身にとってこそ、真に幸せな決断だったと考えられます。『母よ!殺すな』増補版(1984発行)5-6pp

 初めて読んだときにどう思ったか、はっきり覚えてはいないけれど、心に引っかかったことは確かで、ここで紹介されていた横塚晃一さんの『母よ!殺すな』、「青い芝の会」「さようならCP」といった単語がキーワードになって、私は森修さんと出会うことになります。

森修さんと出会う

高3のときは大学受験に失敗するのですが、二次試験の会場(つまり大学)で、「障害者と大学について考える会」や介護グループが配っていたビラを何種類か受け取りました。こういう人たちがいるんだと思い、なぜか「じゃあこの大学に入ろう」と教師になる気はまったくない(当時は学校嫌いだったから)のに決意が固まり、1年後、大阪教育大学に入学。

(なんかいろいろ思い出してきた・・・そういえば、高3のとき担任に福祉系への進学を勧められ「なんでやねん」と猛烈に腹が立ったこととか 笑)

そしてまた、さまざまな介護グループのビラを受け取り、介護にも誘われ・・・たりしながら、在日朝鮮人教育研究会に入ります。「人権系サークル」と呼ばれるサークルの一つでもあったので、横並びに部落解放教育研究会とか婦人問題研究会(名まえが時代だなぁ・・・)前述の「障害者と大学について考える会」とかがあって、それぞれの学習会等にも相互に参加しあっていたので、障害者問題を考える機会は増えました。

でも、介護には入らなかった。

当時、男子寮だった五月丘寮の寮生が森修さんの介護者グループ「野郎会」の中心で(というより、寮生≒野郎会といってよい状態。あの中で介護に入ってなかった寮生はある意味スゴイ意志の力だったと思う。いま思えば)、人権系サークルにも寮生は多くて、森さんの話は常に聞こえてきた。森さんは大阪青い芝の会の活動家でもあるから、当然「殺される側の論理」の真っただ中の人なのだということに気づかされ・・・。

本を読んで引っかかって、気になって、だから大教に入ってしまったのに、いざその世界がリアルに近くにあると実感すると、足がすくむ私(笑)

在日朝鮮人教育研究会というところにいて、日本人だから「差別する側(殺す側)」にあって、そういった立場性のふりかえり学習も日々進んでいて、落ち込んだり泣いたり怒ったり、子ども会に行って泣いたり笑ったり、しながら差別の構造/偏見や差別意識が生まれ利用される構造、そこに巻き込まれて「殺される側」になる私・・・ということを考え、整理し、少しずつ活動家っぽく育っていきつつも。

なぜか障害者問題だけ、心の整理も頭の整理もつかないまま時間が過ぎるのでした。

そこでのモヤモヤ感を言語化したのは、学部生も終わる頃(って、5回生なんだから。我ながら)、それも整理できたから言語化したとかいうことではなくて、森修さん直々に声をかけられてとうとう介護に入らざるを得なくなるという事態に陥った結果そうなった、という情けない顛末。反差別を訴えて前に立つ当事者の人は、ほんとうにスゴイと思うのは、自分のこの経験があるからこそかもしれません。

私は「殺す側」なのか、「殺される側」なのか

森さんの御自宅で、言語化したとは到底言えないようなぐちゃぐちゃの状態で森さんに聞いてもらったのは、要は「殺す側」と「殺される側」の隙間に落ち込んでどう抜け出せばいいのかわからないという混乱でした。

私は2歳半まで障害児で、たまたま「治った(←という表現もいまだに引っかかるのだけど、とりあえず社会的には障害者ではなくなったということで)」という過去があり、その「治った」手段が大手術だったこともあって傷跡に対するコンプレックスが強く、なおかつその障害の原因が小児医療/薬害で同じ被害に遭った人たちが裁判をしているニュースを見聞きしながら/でもそこには一切かかわりたくない両親の言動を聞かされながら育ったために、障害者の権利運動とか差別の問題に強い興味を持っていて勉強もするのに(だから福祉系の進学を勧められる)具体的にその世界に入っていけるかというと「私にはその資格がない」と強固に思っている(だから福祉系を勧められ猛烈に怒る)という混乱した心理状態にあったのです。解放運動に関わっていたのに、そこら辺の自分の感情の混乱にはふたをしたまま4年間・・・このまま卒業するかーってときに。

森修さんをそれまで知らなかったわけじゃないし、学習会や聞き取りの場で実際に会ったこともあるし、連れ合いは野郎会だし、何を今さら! って森さんもたぶんビックリされたと思うけれど、森さんを前に自分のそういうぐちゃぐちゃしたところを話す/話さないことには介護に入るとか無理!と追いつめられて、ホントにぐちゃぐちゃに話をして、そうしたら森さんは即答で

「そんなに悩んでんとこっち(障害者側)来たら? 今の話は障害者やと思うで」

へ・・・

それでも私は、障害者ではない。

森さんに背中を押されて介護の現場に入れたことで、障害者を排除する社会の論理/生産性や効率、合理化・・・といった健常者ベースの社会の仕組みを体感的に学び、それを通して自分のことも整理できるようになり、その結果として私はやはり障害者とはいえないと思う。「殺される側の論理」に立ちきるためには、そこに意識的にならないと立ちきれない。社会に出て働きだすと、ますますそう感じることは多くなった。この社会は「殺す側の論理」に満ちていて、気を緩めるとすぐ絡め取られてしまう。

絡め取られそうになるとき、私はいつも森さんの前で泣きじゃくった自分を思い出す。
「こっちきたらええやん」という森さんの声も。

殺す側の論理ー相模原市での事件について

ヘイトクライムだ。と思った。と同時に、私はまた、
殺される側と殺す側の間に挟まっている自分を感じた。

事件があった施設は、かつて東京オリンピックのときに作られたものの一つで、そこには「東京の街中から知的障害者を排除し隔離する」意図があったはずだ。私が高校生だった80年代初頭、ちょうどそういった大型施設や養護学校に対する疑義(「障害者を隔離しているだけではないのか?」ということ)の声が聞こえ始めていた。障害者差別解消法の現在からすると隔世の感があるけれど、ともかく30年ほど前は「障害者が健常者の生活圏から姿を消す」ことをおかしいと思っていない人の方が圧倒的に多かったし、障害児教育や福祉に携わる人でも「障害者にふさわしい医療/療育環境」を保障するためには特別な施設や学校に集める方がいいと主張する人の方が多かったように思う(高校の時、「養護学校義務化反対」論者の意見に「なるほど!」と共感していたら先生たちに全否定された。「就学拒否されないために必要だ」とか言われ「就学拒否する方が間違ってるのに、別に学校作ってそこに行かせるのは解決の仕方がずれてると思う」と言ったら「普通学校には受けいれるノウハウがない」と言われ。けっきょくあんたらが受け入れたくないってこと違うのーと不信感が深まるばかりだった)

森修さんの活動の中に「障害者の地域での生活を獲得する会」というのがあって、施設ではなく街中で普通に暮らす、当然学校だって地元の公立に近所の子たちと一緒に通う、ことをめざす活動をされていた。自立生活運動といわれるそれは、いわゆる一般的な「自立」イメージを問い直し、ひっくり返して再構築していくラディカルな活動だった。最近の若い人たちは何がラディカルなのかピンとこないみたいだけど(それだけ運動が実を結んだ結果でもある)、障害者が電車に乗る、バスに乗る、買い物する・・・という一つひとつに物理的にも心理的にも分厚い壁が立ちはだかっていて、その一つひとつを本気で力づくでぶっ壊すよ! という気合いの入った活動で、森さんもその先駆者の一人だった。

その森さんが、90年代に入る頃によくおっしゃっていたのが「自立生活運動の宿題は、知的障害者の地域での生活をどう獲得するかだ」ということだった。正確な発言は覚えていないけれど、とにかく「CP者としての自己主張」を貫いてきた森さんが、自己主張の難しい知的障害者の「自己主張」をどう保障するのか、そこを闘うのが自分の宿題だ、今まで自分はそこを置いてけぼりにしてきてしまった--といったことを、いろんなところで繰り返しおっしゃっていた。そんな森さんが私はとても好きだった。

そしてそれは森さんだけではなく、さまざまな人たちががんばって闘ってきた課題でもあり、結果として大規模施設が新しく作られることはなくなり、施設から地域へという流れが主流になっている。

そんなかで、大規模施設とそこに暮らす障害者はますます見えない存在になっていたと思う。私自身も、そういった施設に対する関心はほとんど持っていなかった。ニュースには震撼したが、同時に「そんな大規模施設がまだあるんだ」と驚いた自分の不明も恥じた。

まだ、わからないところもたくさんあるけれど、少なくともそういった施設の存在に無関心で、殺された人びとの日常が「見えていない」で暮らしていた者は、容疑者と自分が地続きであることを忘れてはいけないと思う。他人事として、特定の「おかしな人物」が起こした特異な事件として片づけてはいけない。自分の暮らしの風景から障害者の姿が失われているとしたら、「見えないもの」にするという形で、あなたも「殺す側」にいる。もちろん私もだ。それは、容疑者の動機や思想を理解せよということではないし、共感する必要もないけれど、自分たちが作っているこの社会の空気が彼を作ったという意味で、責任を逃れられる人は1人もいないと思う。考えることをやめてはいけない。

考えたいこと

報道には違和感ばかりが募る。個人的に被害者であれ加害者であれ実名報道の必要は基本的にないと考えているけれど、ふだんなら被害者から申し入れがあったからといってすんなり匿名になどしない(会社もある)報道機関が、一斉にすーっと横並びになったのも違和感。被害者家族の心情、そもそも施設に入れていた事情や背景もあるだろうし、取材されたくないんだろうなということは容易に想像がつくけれど、取材されたくないのは何もこの人たちだけではなく、他の事件でも同じことだ。なぜ知的障害者が被害者の今回だけ、すんなり「匿名」になるのかが納得いかない。容疑者が言うように「意思疎通できない人」だとラベリングし、その人の個性を描き出す必要を、報道機関が感じていないからではないのか。奪われた未来をしつこく強調し、犯人の悪辣さを強調する報道様式を私は好まないが、今回に限ってそれをしない態度もまた、信用できない。その態度も被害者を殺していると思う。

容疑者は、小学校の先生をめざしていたそうだ。障害者施設に勤めたのも特別支援学校の教員になることを考えたからだという報道もあった。どこまでが本当かわからないけれど、少なくとも大学では教職課程を取っていたわけで、教育実習にも行っている。ということは、教員養成課程のプログラムのなかで、「人権を尊重する/される」ということがお題目や心がけでなく実践的に行動のなかでどう身に着くのか、身につけなければならないのかということを、検討し直さなければならないと思う。私もその教育の一端を担うものとして最近気になるのは、「自己責任」に汲々として権利意識の希薄な学生が年々増えているように思うことだ。それはとりもなおさず、社会全体が基本的人権を尊重し、互いに敬意をもって話し、暮らすことに価値を置いていないことの現れだと思う。そういう社会の価値観を内面化してしまっている学生に、脱学習の機会を作り、自分自身の権利を守られ、相手の権利も守る生き方がどんなに楽しくて伸び伸びした社会につながるか、そんな未来像を大人が提示できているかが問われている。

また、現場の施設は県立だが指定管理者制度によって「公立民営」になっていた。「官から民へ」をひたすら拡大し、経費削減/合理化こそ正義であるかのように突き進むことの危うさも、総括されねばならないのではないか。社会は人が集まって作るものであって、社会を維持するために人を利用するのは本末転倒だ。だれを、何を大切にするのか。見えない人を作り、見えないまま切り捨てていくような社会に持続可能性があるとは思えない。

ぐちゃぐちゃだけど

読み直して、文末もぐちゃぐちゃの表現もぐちゃぐちゃだけれど、備忘として書いておきます。森修さんが亡くなって、それだけでも喪失感でいっぱいなときに事件が起こって、気持ちがぐちゃぐちゃです。森さんが三途の川から怒りのあまり戻ってきそう(戻ってきてくれたらうれしいかもしれない)な現状に、負けないために。

しかし、なんでこんな社会なの・・・・・・。

個人的なことは社会的なこと~『焼肉ドラゴン』

兵庫県立芸術文化センター《鄭義信三部作 一挙上演》
『焼肉ドラゴン』を観てきました。

既に何回か観ている、大好きな作品。

 

時は、1970年前後の約2年間。
場所は、たぶん(笑)伊丹空港近くの兵庫県のどこかにあった朝鮮人集落

ホルモン焼きの店「ドラゴン」を営む家族と、その周辺の人たち

在日朝鮮人の歴史を描いた作品ですが、
そこには高度経済成長真っ只中の日本社会が映っています。

1世の両親や、在日の親戚を頼ってやってくる韓国人を
韓国の役者さんたちが演じているので、
1世のニホンゴがリアル。
日本語と朝鮮語が自在に飛び交う空間も、
1世がまだお元気で大勢いらっしゃった頃の空気を髣髴とさせます。
(そして、いまも1世の親と2世の子ども、という外国人家庭では
こんな空気があるんだろうな。と思う)

 

私も、観ているといろんな人の顔が浮かんで「あるある!」なんだけど
昨日は在日コリアンの友達も観に来ていて、
「在日あるある過ぎやわー」との感想を聞いて、また考えてしまいました。

 

私も初めて観たときは号泣したし、
一つひとつのエピソードが切なくてやりきれなくて、
どこにどう怒りをぶつければいいのか、
オモニの「これがわたしの運命(パルチャ)か!」という叫びに
やっぱり胸がつぶれる思いもするのだけれど、

それはやはりどこまでいっても、
「知り合いの誰か」の「あるある」であって、
大好きな人たちの怒りや悲しみとダブってのやりきれなさ、なんだな。

 

自分自身のやるせなさ、やりきれなさ、とは違う。
(もちろん、私には私の痛みもやりきれなさもあるし、
  だからこその共感でもあるのだけれど)

 

800人入るホールは満員で、一緒に笑って、一緒に手を叩いていたけれど
その800人の中には、
自分自身のこととして、シンクロできた人たちと
大好きな誰かのこととして、共感していた人たちと
「へえ、そうなんや・・・」と、在日現代史の扉を開かされた人たちとが
グラデーションをなしていたんだな、と
帰り道、友だちの隣で考えました。
そして私にとって大事なのは、
そんなグラデーションの存在をしっかりと認識したいということ。

 

演劇は演劇だから、歴史学習のために見るわけじゃないし、
基本的にはエンタメで、楽しめることが大切で。

鄭義信さんもそのへんはプロだから、めっちゃ楽しい舞台です。

ただ、時間的・空間的に異なるところへ意識を飛ばし、
異なる人生をひととき体感することで、
自分ではないだれかの視野から見える景色を感じ、考えることが
演劇の楽しさだし、豊かさだと思うのです。

素敵なお芝居というのは、
ただ受け身で、楽しませてもらうというだけでは終わらない、
ざらざらした感情の引っかかりや、
思わず知らず人生をふりかえって嘆息してしまう感覚を残します。

なぜなら、演劇によってつくり込まれた細部のディテールが
個別具体的でリアルであればあるほど、
多様な観客の琴線に触れる普遍性をもつから。

それが楽しくて、私はいつも劇場に向かいます。

 

描かれているのは在日コリアンのある家族の、
戦争で片腕を失くした1世のアボジと、
済州島から逃れてきたオモニと、
大学は出たけれど就職できないヒョンニムと、
学校でいじめられている「ボク」・・・の話なんだけど、
その向こうに高度経済成長と万博で浮かれている
日本社会がくっきりと見えて、
この人たちなしには成り立たない日本社会を、否応なく感じる舞台。

「個人的なことは社会的なこと」

だから、たくさんの人に観てほしい。
『焼肉ドラゴン』は終わっちゃいましたけど、
3部作の残り二つは、当日券がきっと出るので。

 

おまけ。

鄭義信さんの演劇は、最近はやりの「静か系」ではなくて、
きちんと大きな声で、客席に向かって台詞を言う系なんだけど
「あるあるー」と思って観ていた人たちにとっては、
「静か系」に共通するリアル演出だったはず。
下町の、騒々しいオッチャンやオバチャン、
昼間っから酔っぱらってグダグダで、歌うわ喚くわ(笑)
いちいち、御託が芝居がかって仰々しい感じ(笑)(笑)
※「静か系」というのは、「いちいち滑舌よく大きな声で前向いてしゃべる」のは
通常の生活ではありえないでしょ、というので、静かに会話するとか、
同時にいろんな対話が散発的に発生するとかいう演出スタイル。つまり、
「より日常生活に近い形を舞台上に再現する」感じなのですが、
その意味では『焼肉ドラゴン』の舞台は関西の下町の日常をリアルに再現した
「静か系」だよなーと思うのです。騒々しいけど(笑)

(↓ 好き過ぎて、戯曲集買っちゃう(*^_^*)的な)

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2月21日「多文化共生を振り返る 排外主義を乗りこえた未来を構想するために」参加記

標記の企画(立命館大学生存学研究センター主催)に行ってきました。

ヘイトスピーチ/排外主義が台頭する現在から振り返るーーーと
歴史修正主義者の活動が活発化し始めた90年代、
同時に「多文化共生」という理念/行政用語が登場し、施策も始まった。
この20年を《現在》から振り返って、これからを考えたい。

との趣旨で、

樋口直人さん、明戸隆浩さん、鄭栄鎮(ちょんよんじん)さんの
報告を聞きました。以下は、私が理解しえた範囲でのまとめです。

報告① 樋口直人さん~多文化共生は排外主義を乗りこえられるのか~

まず、樋口さんからは大部な資料が用意されていました(その資料だけでも「多文化共生」がこれまでどのように論じられてきたのかをふり返ることができます)

日本型「多文化共生」ー《階級》《歴史》《政治》抜き

2006年総務省「地域における多文化共生推進プラン」後、行政用語として定着
⇒《階級》《歴史》《政治》抜きの“ぬるい”理念だから使用(今も継続)

「多文化共生」ということばが登場したのは1995年の阪神淡路大震災での、外国人被災者支援がきっかけだという説も、要するに「住民支援・行政サービスの問題」だけに限って論じることができ、行政側が取り組みやすいから。さらに言えば、そういう“ぬるい”理念と施策だから、バックラッシュに遭うこともなく、生き残ったといえる。

しかし、たとえば1992年「オルタ」誌に登場した提案「多民族共生社会に向けて」のように、ラディカルな「多文化共生」も存在した。

(一部引用)

90年代は外国人政策が開かれたものになりつつあり、植民地清算の動きもあって、
転換期だったことは間違いない。そして、河野談話村山談話などの動きに対しては、自民党の歴史・検討委員会議連や「つくる会」結成などのバックラッシュが起こった。
しかし、外国人政策に関していえば(たとえば日本会議の機関誌では)、外国人参政権に関しては全力で否定してくるが、「多文化共生」施策は眼中にない。極右勢力のターゲットから外れてきたからこそ、行政が安心して使っている。“ぬるい”からこそ。だから、「北朝鮮バッシング」「朝鮮学校への差別」とも両立してしまう。排外主義の歯止めにはなれない無力化された理念が「多文化共生」だ。

「多文化共生」は標的にすらならない/「植民地清算」に対する猛烈なバックラッシュ

日本の排外主義は歴史修正主義の1変種であり、それゆえ《歴史》抜きに闘うことはできない。そして排外主義が跋扈する社会が「多文化共生」を実現できるなどということはあり得ない。つまり《歴史》は多文化共生の価値をはかる試金石だ。

そして、歴史修正主義は「あらゆる国を敵に回す」から持続可能性がなく、現実主義的には採用できない。昨年末の日韓合意は(安倍首相の本音を聞いてみたいが)、ある意味現実主義的妥協の産物といえるのではないか。歴史修正主義者の主張を押し通せば、東アジアの安定性を損なうことは明らかだ。

だとすれば、我々の側としては現実主義的な問題として歴史修正主義ではダメだと訴えていく方法もあり得るか?

地域社会の「多文化共生

たとえば非正規滞在者の問題で、実際に近くで暮らしている人たちは、感覚として「なぜ在留資格が出せないのか?」疑問を感じ、署名活動などに協力してくれる。つまり実態として共生してきた関係性が、入管による摘発によって突然壊される。「法的には不在の存在」だと言われたところで、実感としては「隣に住んでいた〇〇さん」なのだ。これを国家による“地域社会が共生する権利”の侵害ととらえれば、権利侵害の防止のためには在留資格を出す、退去強制の執行停止をしなければならないということ。

地域社会での多文化共生の取り組みが、そこまでの対抗力を持ち得ていると言い切る自信がないので評価は保留したいが、対抗できる可能性はあると思う。従来の、主権国家が「だれを受け入れるか決める」という多文化共生論ではなく、「だれとだれが共生するかは共生するわれわれが決める」という多文化共生論を構築できるか。

報告②明戸隆浩さん~現代日本における排外主義と対抗言論~

明戸さんの報告は、「ザイトク会に象徴される排外主義的バックラッシュ」を前提とした「多文化社会」の理念/差別の問題を避けるための用語法として用いるのではなく、排外主義と闘うという方向性を明確にした「多文化社会」の理念が、いま日本に必要とされている--という問題意識に立って、そこで重要になる「排外主義に対する『対抗言論』」に注目し、90年代からの経緯を追ったものでした。

バックラッシュ」としての排外主義

欧米では「バックラッシュ」の重要な標的の一つとして「多文化主義」がある。欧米で「多文化主義」政策といえば「移民受け入れ」であり、具体的な施策に対して「行き過ぎ」批判(バックラッシュ)が起こっている。

しかし、日本の「多文化共生」は、そもそも標的にされるほどの影響力がない。「多文化共生」施策の中心はニューカマーで、在特会らの主な攻撃対象はオールドカマー(旧植民地出身者)。もともと総務省が使い始めた背景にも「差別」の問題を避けつつ外国人住民施策を提案するために都合がよかったから、という面がある。

ただし、在特会らの主張は「バックラッシュ」の態を取っている(「在日特権」)。実際には日本の外国人施策に「行き過ぎ」などないので、「妄想バックラッシュ」。

90年代と00年代:「つくる会」言説~「嫌韓流」とその対抗言論

1995年8月、戦後50年の村山談話、翌1996年の中学歴史教科書検定結果公表で、主要七社の教科書が『従軍慰安婦』に言及したことへのバックラッシュ
1997年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足。

つくる会」言説の一つはナショナリズム。「日本人」「国民」のための、「われわれの物語」づくりを主張していた。もう一つは反左翼・反マスコミ。左翼とマスコミが「自虐史観」を作り上げていて、それを自分たちが糾すのだという主張。

それに対して、90年代は歴史認識や戦争責任をめぐる議論が起こり、国民国家論、ナショナリズム研究、ポストコロニアリズム・・・論客も多数おり、自由主義史観の分析や批判を下支えする基盤があった。

ところが、2005年に発行された『マンガ嫌韓流』(小林よしのりの『戦争論』の影響も)に対しては、対抗言論が全般的に低調だった。左翼論壇の関心が格差問題等に移っていたこと、インターネットの隆盛という背景の違いなど、要因は複数考えられるが、いずれにしても90年代ほど対抗言論が力を持てなかった。「嫌韓流」や小林よしのりの特徴は、“家族”のメタファーを用いて「われらの“じっちゃん”を貶める奴ら」を描出し、それを批判するという形態をとっていたこと。そして、この動きに連続して、「在日特権」言説が登場してくる。

10年代:「在日特権」言説とその対抗言論

2007年に「在特会」が設立される。彼らが言う「在日特権」のほとんどは、明らかにトンデモ言説だが、在日コリアンに関わる制度や状況の複雑さ・わかりにくさの間隙を突く形で、一部を誇張して「特権」に見せかける言説には、多くの人が引っかかってしまう。これは煽動的な効果を持つ、ある種の政治的プロパガンダ。

複雑でわかりにくい経緯を説明するには、在日コリアンの歴史を把握していなければならないし、説明も単純にはいかない。「在日特権があるかないか」という議論に巻き込まれると、「ない」と言い切れない/自信がないという人は沈黙してしまい、「ある」と思う人だけが発言を続ける--つまり、広く一般社会を煽動し、一方で「ない」と批判する少数の人をマニアックな議論に引き込んで、けっきょくは「わかりにくい」状況が変わらないということが起こる。だから、ここで消極的に沈黙してしまう人をこちら側に引き込むにはどうしたらよいかを考えることが大切。

対抗言論としては、まさに言論だけでなくカウンター行動が起こったことで、問題が可視化され、社会的な批判の文脈を作れたことは大きい。その結果として、大阪市の条例可決や、人種差別撤廃施策推進法案の議論などにつながっている。

「対抗言論」を考えるときに(後の質疑で)

たとえば、野間易道さんの『在日特権の虚構』は、彼らの主張に対して一つひとつ「各論」で対抗していくスタイルをとって、奏功している。非合理的でトンデモだけれど、影響力が看過できない、そういう排外主義的な言説に対して、放置したり沈黙したりしないことが大事だということを改めて確認できた。

しかし、闘い方としては、「各論」だけでなく、それとともに大きなフレーム、たとえば「日本の近代をどう考えるか」という大きな視点での反論/対抗もなければならないと思う。大きなフレームの一つとして考えていることに「平等」概念がある。つまり、社会に歴然としてある不平等、力の不均衡というものを訴えていくこと。ヘイトスピーチの背景にも、マジョリティとマイノリティの明らかな不均衡がある。たとえば私がツイッターで前述のような「在日特権なんてない」という主張をしたら、ネトウヨがメンションを飛ばしてくるけれど、在日コリアンであることを明示している人が同じ発言をしたら、その数十倍の勢いでひどいメンションが飛んでくる。そういう不平等が「ある」社会のままでいいのか? という問題提起の仕方もしていきたい。

③鄭栄鎮さん~トッカビ/八尾市の「多文化共生

鄭さんの報告は、私のバックボーンでもあるNPOトッカビ(旧:トッカビ子ども会)の取り組みの歴史について。ここは、私自身も関わってきた話が多く、いろいろ考えることも多かったので、稿を改めたいと思います。

印象的だったのは、報告の途中で鄭さんがぽろっと「多文化共生ってコトバは、後付けですよねー」とおっしゃったこと。それは私も同感。長年地道に、そんなコトバがないころから、地域で「日本人との共生」「共に育つ、共に学ぶ」実践を積み重ねていて、あるとき「多文化共生」というコトバが出てきて「あ、それええやん!」と思った記憶が私にもあります。(だから、「阪神淡路大震災の後に・・・」説は、私の実感とは会わない 笑。説として、そういうのがあっても別に構わないけれど)

トッカビの歩みは、けっして《階級》《歴史》《政治》抜きではない(むしろそれを抜いたら成り立たない活動だったと思います)し。

報告の最初に「富田林市多文化共生指針」が、がんばってそこに踏み込んでいると紹介してもらったのですが、私も起草委員でした(笑) トッカビで鍛えられたのに、脱色した「多文化共生」なんてあり得ないから、がんばりましたよ。もちろん、他の起草委員の方や、行政のみなさんも、いろんなせめぎあいのなかで文言を工夫して(最終的に抜けてしまった部分もあるのですが)がんばった、とてもよい経験でした。

そのあたりも含めて、また改めて。