わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

2001年6月8日と、2019年5月28日

川崎市登戸で、とても痛ましい事件が起こった。

たまたま自宅仕事の日で、いつものように朝ドラからつけっぱなしのNHK。まず緊急速報が入り、その後しばらくして、番組が途中で切り替わって、事件の概要を伝え始めた。

 

いっきに、2001年6月8日に引き戻された。
その日、私は勤務校の体育祭で、放送機材のあるテントの後ろにいたんだったと思う。初夏の日差しがギラギラして、グラウンドが白く光っているような、そのまばゆい日差しに目がくらみそうで眉間に力を入れながら、放送機材越しに何かを生徒としゃべっていた。そのときに、うしろから「附属池田小に不審者が侵入して、なんか大変なことになってるみたい」と話しかけられた。

私は、体育祭のさいちゅうに、またこの人は職員室のテレビがある休憩室でさぼってたのかよ・・・とあきれ、一方で、エリートの子どもに対する筋違いな逆恨みか…とぼんやり思い、筋違いだけど日本社会で「恵まれた子ども」の象徴的な立ち位置にある附属小が恨まれてしまうのは仕方がないかもしれない。などと考えていた。

そのあと、事件の内容を知ってから、私はこの時の、一瞬でも「仕方がないかもしれない」と考えてしまった自分のことが許せなくて、毎年6月8日が来るたびに、だれに向かって許しを乞うてるのかわからないなと自分でも思いながら、自分を責めてきた。

そういう諸々が、第一報を知ったときのグラウンドの空気や光の光景とともにリアルに蘇ってきて、犯人への怒りよりなにより、この18年間、私は何をしてこれたのだろうという後悔と憤りで胸がふさがれるように重苦しかった。

 

以下、整理できるかどうかわからないけれど、書きとめておきたいので書くことです。

 

「悪いのはだれ?」という問いの立て方でいいのか

あの、6月8日のあと、近所の小学校でも必ず門が閉まるようになり(それまでは地域の人が近道のために通り抜けることもあるような学校だった)、勤務校でもサスマタが購入された。犯人の男の「心の闇」がことさらに強調され、命を奪われた子どもたちの愛らしさ、思い描かれたはずの未来…と報道は続いた。その後、大阪府ではまた別の中学校で卒業生が学校に訪ねてきて教員を刺すという事件が起こり、学校の警備体制を強化しようという動きはますます強まって、保護者も学校から配られたネームプレートがなければ校内に入れなくなったりした。「不審者を校内に入れてしまった」「凶行に対して児童を適切に避難させられなかった――という点で、附属池田小学校の責任が問われ、当時校長の任にあったY先生が繰り返し取材を受けているのを見ながら、私はずっと釈然としないモヤモヤしたものを感じていた。

今回の事件から、いまは3日が経ったところだが、既にさまざまな人がさまざまな意見を発信している。(私が大事だなと思ったのは、この二つ)

川崎殺傷事件の報道について(声明文) : 一般社団法人ひきこもりUX会議 オフィシャルブログ

カリタス学園「愛の教え」さらなる分断を生まないために(飯島裕子) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

事件当日の内に、首相の意を受けた文科省から「通学路の安全確保について」各地教育委員会―各学校園に通知がとんだ。が、通学路の安全確保は学校の仕事ではなく警察や行政の仕事だろう・・・ということもそうだし、今回の事件のように殺意をもって刃物を持ち出している人物に、学校で何ができるのだろう。その後、明らかになってきたカリタス学園の通学状況からも、これ以上の配慮や対応を学校にどう求めるんだろう? という感想しかない。案の定、学校の責任を問うような報道の物言いはすぐにトーンダウンしていったし、文科省のこの通知に対する違和感も、何人もの人が表明している。

そうなると、犯人の動機、犯人の人物像・・・と報道はシフトしているが、犯人が自死してしまったために、周辺情報からの憶測ばかりだし、憶測にはたぶんに偏見が反映される。

 

6月8日から、何も変わってないじゃないか・・・と思う。

 

私は大阪教育大学の卒業生で、まだ附属池田小学校の近くにキャンパスがあったころの学生だったから、附属池田小にも何回も行ったことがあった。国立小なので、子どもたちはさまざまな地域から電車バスを使いながら通学してくるのだけれど、だからこそ地域の人たちとの交流などにも心を砕き、開かれた学校であろうと努力されていた。それが裏目に出た、と当時はよく言われたけれど、本当にそうなんだろうか? と私はずっとモヤモヤしていた。塀を高くし、校門を閉めて、門番が出入りを厳しくチェックすることが、子どもに「知らない人はとりあえず警戒するように」と教え込むことが、問題を解決するのだろうか? 安全確保のために設けたさまざまな壁が、せっかく築き上げた温かい交流の間にまで壁となって立ちはだかってしまう矛盾をどう考えたらいいのか。地域と学校の関係はどうあるべきなのだろう・・・

附属池田小には、校庭の一角に素敵なビオトープがあって、私はそこを通って校舎に向って歩くのがとても好きだった。そして、校門や塀の記憶がほとんどない。

事件のあと、門が常に閉められるようになった近所の小学校も、最初こそ警備員らしき人が門にいたが、そのうちに地域のシルバーの人の仕事になった。そうなると近所のおじいちゃんなわけだから、悪意のある屈強な犯人が来たら役に立たなそう…である一方で、登下校時の子どもたちの話に耳を傾けてくれたり、忘れ物を届けに来た保護者と世間話をしたり、ネームプレートよりも的確に、人を識別してくれる門番さんでもあった。私は、常々、子どもにとって学校で「教員以外の大人」の存在(管理作業員さんとか給食調理員さんとか)が大切だと思っているのだが、そういう大人の一角に存在してくれるようになって、警備員としては頼りないけれど、こういう人の方がありがたいなとさえ思っていた。自分の子どもが小学生になり、ネームプレートが配られて、それをつけて保護者会や参観に行くようになって数年後、ネームプレートでの識別ルールを厳格にしていないことにクレームをつけた保護者がいたらしく、人が交代して「ルールの徹底」を要請するお手紙が学校から配布されたのを見て、私はまたモヤモヤしたのだった。

問題の本質は何なのだろう。ルールを守ってきちんと運用することなのだろうか。

そのルールは本当に子どもを守るのだろうか。

 

学校の警備の問題にせよ、犯人の個人的な特異性にばかり注目することにせよ、要は「だれが悪いのか」を暴き出して、その人に責任を負わせようという問いの立て方だと思う。もちろん犯人は悪い。犯した罪は裁判を経て刑を受けて償ってもらわなければ困る。けれど、同様の事件を防ぐために、と考えるなら、なぜその「特異な人」を私たちの社会が生み出してしまったのかを考えなければならない。

学校の警備体制は、目に見えて取り組みやすいし大事なことではあるけれど、万能ではない。その責任を学校の、門番をする人の、日々の運営の完璧さにのみ求めることで、何も考えないで済んでいる自分がいないか。たまに学校に出掛ける自分。そのときたまたま、ネームプレートをもっていない保護者を顔パスで通した門番さんを見て、「ちゃんとしろよ」と怒るだけで、何か問題が解決するような、自分はちゃんと子どもの安全を考えているのだという錯覚に陥ることの方が危うくはないのか。

 

言い過ぎかもしれないけれど、学校の警備体制、学校関係者が考えればいい問題だと、私たちは6月8日を矮小化していなかっただろうか。特異な犯人の、特異な犯行として、自分から切り離していなかっただろうか。 そんなことをやはり考えてしまうのだ。

 

6月8日と5月28日を「わたしたちの問題」にしたい

最初に書いたように、私は6月8日の私自身を許せないと思っている。

この社会に格差があり、差別があり、そのなかで割を食ってしまう位置にいる人は大勢いる。だから「勝ち組」にならねばならないのだという空気が、私たちの生活を覆って日々プレッシャーをかけている。そのプレッシャーのなかで、わたしたちは生きている。

もちろん、そんな社会のなかで、大変な思いをしながらも、凶行に及ばない人の方が大半だから、やはり犯人は特異だと言えるのかもしれない。でも、だとしたらなおさら、大半の人が凶行に及んだりはしない、自死すらせずに、何とか踏ん張って生きている、そういう人たちと犯人を分けたものは何なのか、それを社会的に考えていくことが私たちの責任ではないだろうか。社会は自明のものとして存在するわけではない。私たちが社会をつくり、社会で生きているのだから。

「勝ち組にならねば」というプレッシャーを、おかしいと思いつつ、そうはいってもすぐに社会が変えられるわけもないのだから、割を食わないように頑張るしかないと、飲み込んでしまっていることが、社会が変わらない一因ではないのか。

「負けたくない」とぎりぎりで踏ん張るからこそ、がんばっていないように見える人に冷淡になってしまう、甘えんな、社会のせいにするな、という視線が、「何とかしてほしい」と助けを求めることのハードルを上げて、より窮屈な社会に向かわせているのではないのか。

犠牲者でもなく、犠牲者遺族でもない「わたし」にできることとして、考えたい。

冷静に事件を分析する口調に冷淡さを感じて「遺族の気持ちを考えろ」という人がいる。その気持ちは尊重したい。けれど、遺族が何も考えずに悲嘆し、悲嘆と付き合いながら生きていく方法をゆっくりと見つける時間のためにも、関係が遠いものが冷静に考える責を負おう、負いたい、と私は思う。

 

ただ、その道のりは時間がかかるから、いま、登下校している子どもたちや保護者の方たちの安心のために、できる警備は続けなければならない。そこは私も否定しない。

大事なのは、それは「当面の対処」にしかならないと自覚しつつ、背後にある大きなものを考える手を休めないことだと思っています。

 

とりあえず。今日はこんなところで。

 

 

「こうもり」な、私。

FBをやっています。基本的に顔見知りの人とだけ、としているけれど、
気がつけば友達100人優に超えていてビビる(笑)

いやー、友だち100人できちゃうもんなんですね(笑)

 

というのはさておき。

つまりは基本的にどういう人なのかをわかっている人しか
私のTL上には表れない。そして、私の日々の行動に繋がっているから
そんなに意見を異にする人もいない
SNSで議論したくない、議論したければ会って直接、と思うから
上述したように「顔見知りだけ」にしているわけで)

 

そんな私のTLですが、ある一つの運動(事象?)を巡って、
真逆の見解、主張が流れてくることも、たまさかあるわけです。
(「ある一つの…」が複数。私の交友関係も結構バラバラだな)

 

で、これがじわじわと精神にくる(笑)
別に、どっちの味方をしろと迫られているわけでもない。
個人的な付き合いもあって、まぁまぁ知っていて、
「なんでこの人とこの人がここで対立しないといけないのかなー」と
思いはするけど、仲裁しようと思うほど親しいわけではない。

うかつに仲裁に入ると、それこそ「どっちの味方やねん!」に
なるのが目に見えているから、モヤモヤしながら眺めている。

 

そういうとき、私って「こうもり」だなぁと思って、
ちょっと自分が嫌になったりするのです。

 

イソップ物語の「こうもり」

獣か鳥か、どっちやねん! ってやつ。

 

もちろん「差別は許しません」というところで「こうもり」にはなりません。

でも、個々人の思いとして「差別は許さない」という人ばかりなのに、
運動体、組織体として動いていると、何かしらぶつかって、
「なんで、そこでもめてるの?」という事態になるのはなんでだろう。

 

そんなことを、90年代ごろからずっと悩ましく思ってきたんだなぁと、
そこになんとなくかぶる「平成の30年」・・・

そして、そんな事態への自分なりの対処として
「こうもり」になることを厭わない、曖昧な立場に甘んじて
じゃあどうするべきなのか、自分の頭で考えて、行動する
「こうもり」であろう、と何度も決意しては、
やっぱり「それでいいのか?」とモヤモヤする繰り返し(苦笑)

 

何歳になっても、こうやってふらふらしています。

でも、できるだけ低いところや狭いところを飛ぶ「こうもり」でいたいです。

 

なんのこっちゃーな文章になってしまったけど、
平成だろうが令和だろうが、私は変わらず
低空飛行のこうもりで生きていきますってことで。

平成最後の日とかどーでもいいし(笑)むしろなんか気持ち悪い

平成30年間をやたらふりかえっているメディア。

昭和天皇が死んで平成になった年のことを鮮明に覚えている世代としては、

平成30年間をかけて、要は天皇制批判を抑え込むことに成功したんだよな、

としみじみ考えてしまう。そして怖いなと思う。

 

明仁さんはいい人なのだろうと思う。

でも、だからどーした? という話でもある。

彼個人の人柄がいいかどうかと、
天皇制と天皇を政治利用しまくる政治権力との問題は

別の話だ。

金持ち喧嘩せずじゃないけど、
衣食住に不自由なく、常に敬意をもって接してくる人に囲まれ、
馬鹿にされたり罵倒されたりすることもなく育ったら、
そりゃいい人になるでしょうよ、だし。

と、不敬な下町育ちは思うわけです。

 

私が大好きな韓国ドラマに『宮』というのがありますが、
これは「李王家が現代も存続していたら」という妄想漫画が原作。

もうめちゃくちゃおもしろかった。
プリンス、プリンセス、として存在させられることの不自由さ、
民主主義の社会との相容れなさが「ズレ」として描かれることで
大笑いしたり切なくなったり、でも妙にリアルな感じもあり。

日本では絶対につくれないドラマだよなぁ・・・と思いながら観ていた。

 

今日・明日と、メディアは浮かれ騒ぎ続けるんだろうな。

日本の歪みが、ここに象徴されているような気がする。

 

 

 

4月3日だから。

済州4.3.の追念式に参列させていただきました。
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民団の人も総連の人も(写真ではわかりにくいですが、追悼記念碑の両側のお花は、それぞれからの献花です)

・・・すごい。

ここまでの道のり、さまざまな努力、尽力を思うと、自然と頭が下がります。

 

4月3日の済州島には、6年前に。

そのときは、唐突に「行こう!」と思い立って、一人で申し込んだのだけど、申し込んでみれば、たまたま学生時代の先輩が一緒で。

そしてたまたま同行した私は、先輩のルーツである、アボジがそだった地:4.3.で消えてしまった村の跡にも行くことができた。先輩と一緒に。

今も思い出すだけで胸がいっぱいになる。

なんと言えばいいのか、

歴史が急に生々しい熱さを伴って胸の奥深いところから脳天へ突き抜けていくような、そんな衝撃だった。

 

私たちはみな、歴史的な存在だ。

 

そのことを体感として私に刻み付けてくれたのが済州だった。

ソウルや水原でも、歴史として学んだ地に立って、感慨深いものはあったけれど、済州は別格。それは歴史ではなく、隣にいる人の「来し方」そのものだったから。

news.yahoo.co.jp

これは、昨年の70周年追悼集会に合わせた記事。

 

今日は大阪で、一番端っこの席にお邪魔して、読経を聴きながら、いろんなことを考えた。今日の大阪は花冷えで寒かったけれど、その冴えた空が美しかった。

いまごろ、済州でも追悼行事が行われているんだろうな。この空はその空間にも繋がっていて、たくさんの人の哀しみや決意が風になって吹き抜けては戻ってくるような、そんな気持ちになった。

 

午後は、『ペパーミントキャンディ』を観に行った。

www.cinemacafe.net

1999年製作。言わずと知れた名作(と思ってたけど映画館のスタッフさんたちはわかってないようだったのが残念・・・)

これこそまさに、

人はみな、歴史的な存在だ。ということを雄弁に語る作品。

(もっとも、韓国映画はこういうのがとても巧いと思う)

 

ちょっとググればネタバレ含む映画評が幾つかヒット。とはいえ、

「1987年」「1980年」という主人公の「過去の時間」が表しているものに言及しない(わかってない?)映画評ばかりで、なんかがっかりしてしまいましたが・・・

 

あらためて見ると、ソル・ギョング天才かよ! 

20歳そこそこの若者にもちゃんと見えてるし、40代のすさんだ中年にもちゃんと見えている。彼の存在感が、軍事独裁の時代から民主化へと大きく動いていく韓国現代史のなかの個人の個別性と普遍性を体現して、この映画が成立するんだなぁと感嘆。

 

 昨年、『タクシー運転手』『1987ある闘いの真実』と続けて見たばかりだから、余計にそことリンクして、ずっしりと重苦しく感じてしまったのかもしれない。

 

あたりまえだけど、1970年代があり、80年代があり、90年代があって、今がある。

では日本は? 日本に生きてきた私は?

高度経済成長は朝鮮戦争で復活した日本の第二次産業の隆盛に依っている。
そして朝鮮半島をはじめ、植民地・占領地として迷惑をかけた国々にまともな賠償責任を取らずに済ませてこれたことも、日本が自分の発展だけに注力できた要因として看過できない。その繁栄のさなかに私は生まれて、育ってきた。

1980年、光州で若者が殺されていた頃(そして弾圧・暴力を実際に行使したのは若い兵士たち・・・つまり同年代が民主化を訴える若者と国軍とに分断されている)、私は中学2年生で、今日が今日のまま明日も同じように続くことを何も疑わないで過ごしていた。当時は「荒れる中学生」が社会問題化していて、私の学校も荒れていたし、学校なんてクソだと思いつつ。

1987年、ソウルの大学生が拷問死したり、デモ鎮圧の催涙弾が当たって死んだりしていた頃、私は大学2回生で在日コリアン指紋押捺在留資格の問題が、なぜか韓国との外交で決着する(?)ような報道や政府の動き方に怒っていた。これって外交問題なの? 日本の国内問題じゃないの? なんで韓国がでしゃばるの? -その韓国で、真の民主主義を求めて、市民が立ち上がり闘っていることはまったくわかっていなかった。いや、情報として知らないわけではなかったけれど、それは表面的なことだけで、そこにいる一人ひとりの思い、居ても立ってもいられない、そんな思いはまったくわかっていなかった。

 

朝、たまたま情報番組で、「韓国カワイイ!カッコイイ!」とコスメや流行の食べもの、K-popが完全に定着している現代日本の中高生が取り上げられていて、歴史や外交などアウトオブ眼中で屈託なく楽しんでいる様子と、それに戸惑うスタジオの中年たちとのギャップが滑稽だなぁと横目で見ていたのだけど、

『ペパーミントキャンディ』を見終ってみれば、歴史も外交もわれ関せず、カワイイものはカワイイ! 以上! で済ませていていいのかなーと、私も戸惑う中年の一員じゃん、とふと思った。「いま・ここ」にしか興味がない、というより、「いま・ここ」を考えることに精いっぱいにさせられてきた日本のこれまでが、人間が歴史的存在であり、社会のありようから切り離せないのだということが身につかないようにさせているんだろうなと思う。

 

韓国カワイイ! から入って、韓国と日本の来し方と、自分の人生の関わりを考える若い人が増えるといいなと思う。とことん考えて、考え抜いて初めて、私たちは歴史や社会から自由になれるということも。

 

新学期準備をしなければ(笑)

今日は何の日

今日は国際女性デー。

 

さいきん(・・・というより、これまでいろいろと学んできた積み重ねの結果がこの1年ぐらいで噴出している感じなのだけど)、わが母は「私は娘を自由にさせてます!」と言い続け、自分でもそう思いこんでいたのだろうなぁということをよく考えます。

かくいう私も「自由にさせてもらった」と思いこんで生きてきたのだけど。

児童虐待の起こるメカニズム、いわゆる「伝統的親子観」や「母性神話」・・・等々を学ぶにつけ、「自由にさせてます」の陰でなかなか巧妙に娘を支配下に置いてたんだな、あの人は。と気づいてビックリ(苦笑) で、自分でも意外なぐらい抑圧されていたというのか、支配されてたなぁと考え始めると、ものすごくどす黒い感情が渦巻くww

亡くなって10数年経つので、それも大きいかもしれない。
生きてたら、このどす黒い感情をぶつけるかなぁ・・・と考えてみたけど、たぶんぶつけないだろうな。ぶつけたところで、理解されないだろうと思う。というより、それをやると母は自分の人生全否定?みたいになっちゃうから、老年になってそれは辛かろうし、そんな辛い思いをさせたいと思うほどには、私も怒っていない。

母のせい・・・ではなくて、そういう社会に生きてきたのが母の人生なわけで。

今年は #me too の動きや例の医大の入試差別やらもあってか、例年に比べて3月8日に絡めた報道も多いような気がしていて、つけっぱなしのテレビから聞こえてくることに刺激されて、またつらつらと母のことや祖母のことを考えてしまう。ジェンダーの問題は、私にとってはどこまでも祖母と母と私の話。

母と私

うちの母は娘三人に対して「やりたいことをやりなさい」が口癖だった。そして、実際にお稽古ごとなどは裕福でもない家計をやりくりして可能な限りやらせてくれた。だから「自由にさせている/させてもらっている」とお互いに信じて(?)いたと思う。

でも、よくよくその中身を考え直してみたら、「やりたいことを」と言いながら、母の趣味でやらされたものもあったし、母の趣味に合わないものに関してはやらせてはくれるものの、微妙に非協力的だった(まぁ、人間的ともいえる 笑)。「熱中できるものがあればグレたりしない」という強固な信念があって、あまり勉強が得意でなかった妹たちに対しては「手に職を!」と「何を伸ばしてやればいいのか」とあーだこーだ、やかましかったようにも思う。妹たちがそれに関して今どう思っているのかは定かでないから、私がどうこう言えないけれど、いま思い返してみると「親として安定した将来になるように援助する」つもりの母の言動は、妹の進路を必要以上に誘導してしまっていたんではなかろうか・・・と考えてしまう。

私は中学までは成績優秀で、特にガリガリ勉強した覚えもなく、いわゆる受験勉強的なものは大嫌いで、学校そのものも好きでなく、「中学出たら働きたい」と言いだす始末の娘だった。かつその時期の中学校はヤンキー全盛期で、校則通りの髪形や制服だとかえって浮いてしまうような状況下で、私も制服のスカート丈をこっそりいじったり、教師にばれない化粧はどのラインまでかを友だちと研究したり、といったことはサバイバル術としても必要だったのだけど、母はそんなことまったく頓着せず、「学校の決めたことを守れないなんて!」と学校の生活指導の先生よりもチェックが厳しいありさま。もうその時点で「自由にしなさい」と真逆やん・・・(笑) とはいえ、当時の私はそういうくそまじめな母をうっとおしいとは思っていたけれど、それが私の権利を侵害しているとは露も思わず(そんな知識はないですもんね・・・)、ただただ、早く働いて自活して、学校からも家からもおさらばしたい! とひたすら念じていた。

その当時私はバレエのレッスンに通っていて。それは数々のお稽古ごとのなかで、さいごまで「好き」が持続して続いていた唯一のものだったのだけど、中二当時はそっちもスランプ状態で、それもやさぐれていた原因のひとつだったと思う。で、後から考えれば矛盾のカタマリなんだけれど、妹たちには「何かに熱中すればグレない」としつこかったのに、実際にグレかけ?な風体の私がぐちゃぐちゃに煮詰まって「もうバレエ止めるわ」と口走ったとき、あっさりと「あ、そう。その方が助かるからいいわ」と母から返ってきて、「あれ、止めへんのか・・・」と拍子抜けした。もちろんそこには家の経済状態と、バレエという超絶お金のかかるお稽古ごとという問題があって、母を責めるのは筋違いだとわかっている(当時も拍子抜けしつつ、お金のことで「やっぱりそうか」と私も納得していた)けれど、結果的には何がやりたいかもわからず、学校は居心地悪く、家もうっとおしい・・・というドツボな中学三年生になり、「とりあえず高校は行きなさい」「なんで?」という言い争い。1年生の時の担任が同和教育に熱心な学校から転勤してきた人で(というのを友だちのお姉さんから聞いても当時は「?」だったのだけど、大学に入ってからその意味がわかって、6年越しの感謝をした)、3年の担任:転勤してきたばかりのおじさんも、どうやらそういう人だったらしく「中卒で就職ということがどういうことか」を具体的に説明してくれ(求人票も見せてくれた)、「高校は出た方がいいと親がいうのは根拠があることやで」と私に納得させてくれた。かつ(自分でいうのも何ですが、ほんとうに中学までは優秀だったので)「学区内トップの学校でも受かるで」と言われて「勉強嫌いやのにトップ校とか無理」と返す私に「そうやな、S校の方が向いてる」と3番手の高校を勧めてくれた(のが結果的にはヒットして、学校嫌いは治らなかったものの大学に至り、今日に至る。ありがとう先生)。もし担任が違っていたら、トップ校無理やり受けさせられたに違いなかったので、ラッキーとしか言いようがない・・・。

そして高校で演劇と出会い、演劇部のために高校に通っているような生徒になった。さすがに高校生にもなると(下に妹も二人いるわけだし)、母もそんなにうるさくはなくなったけれど、それでも門限だのバイトするなだの(お金ないのに・・・?)、めんどくさくてしょうがなかった。もともと勉強が嫌いで、受験勉強らしいこともほとんどしないまま合格したので、完全になめてかかっていた私は、S校に入りたい!と思って鋭意努力してきた人たちのなかで完全に転落し、夏休みの補講にいくつも呼び出されてしまったので、「そんな成績でクラブ活動とかあり得へん」と言う母に従って、演劇部を続けるために勉強する少女になった(笑)「おまえ、ホンマになめてるよな・・・」と先輩に呆れられるぐらい、勉強し始めたらすぐに成績も平均点程度は取れるようになってめでたしめでたし・・・ではなく、高校3年間、何かやらかすたびに「クラブを辞めさせる」と脅迫された。母にしたら、そう言っとけば私は言うことを聞いたので、母はマジックワードを手に入れたようなもの。そんなことも、さいきん気づいた。私自身は、当時は生活のすべてが「演劇をするため」に収れんされていたから、それを使って母が私をコントロールしているなんて思いもせず、演劇するためなら多少の小言も制約もOK!と元気に暮らしていた。実際、高校に入ってから私と母の関係は中学時代よりも穏やかになっていて、喧嘩もしなくなったし、他愛ないおしゃべりの時間も増えて、仲良し母子に見えただろうし、私もそう思っていた。

その後、大学に入って、私が解放運動に関わって「権利」ということを学ぶようになってから、改めて衝突が増え始める。大学生当時の私は、母は物わかりがいい方だと思っていたのになんで? と困惑することの方が多かった。けれど、よくよく思い返して考えたら、なんだかんだ言いながらコントロール下にあった娘が、コントロール効かなくなり始めた・・・ということだったんだろうか、と思う。突然物わかりが悪くなったわけではなく、母の想定できる範疇からはみ出していく娘に困惑していたんだろうな。

そして母は、どこまでも私をコントロールしようとあがきまくった。きわめつけが「大学院に行く」といったときに、寝込んだことだ。「あんたのせいで寝られへんくなってしんどくなった」とか言いだして、さすがに私もブチ切れて「何の因果関係があんねん」と怒りながら、それでも怒ってるだけでは仕方がないと思いなおして、なぜ大学院に行きたいのかと縷々手紙に書いた(我ながら、健気やったな・・・とほめたい)。

その後も、就職、結婚、育児・・・のときどきに「?」と困惑する言動の数々はあったけれど、基本的に私は「親が心配するのは仕方がない≒愛情」と解釈していて、支配しようとする母/支配されている私 という構造だとはまったく理解していなかった。ただ、母が「想定する範疇」が、いわゆる「女性らしさ」とか「学生らしさ」といった「世間の常識(やや古めの)」に縛られているな、ということには気づいていた。「らしさ」からの脱却。「らしさ」を押しつけるものへの抵抗。それが母の生き方を越えるということではなかろうか。そう考えた私にとって、大学院に行くことが母に理解されないことは歯がゆく、もどかしいことだった。

祖母と私、そして祖母と母

母方の祖母が、私は好きだった。好きというより、この社会で女ジェンダーとして生まれて生きていく私の先を歩いていた人、という存在になっている(いまも)。

祖母は富農の長女として生まれ、「女に学問はいらない」と言われて育った。弟である大叔父が晩年にも言っていたけれど、すごく勉強が好きで優秀で、大叔父も「おれより姉ちゃんが進学すればいいのに」と思っていたそうだ。しかし祖母の親は、男は中学まで行かせるが、女は小学校でよしという方針を変えなかった(大叔父の受験勉強も祖母が面倒を見たらしく、大叔父は祖母に頭が上がらない感じだった。数回しか会ってないのにその印象は鮮明に覚えている)。しかし祖母は勉強大好きなお転婆で、何とかして上の学校に行く手段はないかと考えて、大阪の看護学校(日赤)に寮があると聞きつけ、こっそり猛勉強して受験し、「合格したから行く!」と家出するように大阪に来た。そして看護婦になる課程を修了しても「助産婦の課程も受けるから」と帰らず・・・の引き延ばし作戦。でもそれが仇というのか、修了をまって「村役場がお産婆さんとして帰ってきてくれたら有難いと言っている」と呼び戻され・・・。とはいえ、祖母は村で「働く女」として活躍した日々が楽しかったようだ。お産婆さんとして働いてお金を貯めながら、次は東京に出てやろうと企んでいたらしい。その企みに気づかれたのかどうか、実家が縁談を用意する。で、結婚してしまった。なぜそこで結婚したのよ(しかも写真だけ見せられて決められるという大正時代家父長制)と孫世代には「?」だったのだけど、亡くなったときに遺品から祖父の見合写真が出てきて、「・・・おばあちゃん、面食いか!」とゲラゲラ笑いすぎて伯母たちに叱られた。それもあっただろうけど(笑)祖父が農家の次男で大阪で起業しようとしていて、大阪にいたことのある祖母をぜひ、という話だったというのも大きかったんだろうな・・・と私は思っている。

そこからは、大阪に出て起業する祖父と二人、大阪で奮闘したわけだけど、野心家で男前の祖父は女性関係も大変だったらしい(笑)それは置いといて、祖母は自分が「学校に行かせてもらえなかった」リベンジといわんばかり、子どもたちに学歴をつけることに執着した。その結果、母のきょうだいはさして裕福でもない(祖父の事業は紳士服のテーラーだったので、敗戦後はうまく立ちいかず、戦前ほどの羽振りはなくなっていた)家庭にもかかわらず、当時(1950~60年代)にしては学歴が高い。母も高校進学率60%の時代に短大を出ている。

そういう祖母だから、女の孫で初めて国立大に合格した私のことをとても喜んでくれた。その後まもなく亡くなるので、ギリギリ祖母孝行になってよかったな、と思う。けど、私よりもレベルの高い国立に受かっている従兄もいるのに、そっちはどうでもいいと言わんばかりに喜んでいた祖母と、「なんでやねん」と少々不満げだった従兄の顔を思い出すと、ちょっと可笑しい。

「女も、学びたいだけ学んでいいねん。大学にも行ける。そういう時代になった」

そういう祖母の思いを裏切らないように生きたいな、と今も思っている。

でも母にとっては、そういう祖母が嫌だったのだ。

母が「自由にやりたいように」と私たち娘に言い続けた根っこには、自分の意志を無視して短大進学をごり押しした祖母に対する反発があった。母は祖母のように気が強くなく、どちらかというとおとなしくてやさしい、家事をし、弟の世話を焼き・・・が好きな子どもだったようだ。そしてテーラーの家で、たくさんのお針子さんたちに囲まれて幼少期を過ごしただけあって、洋裁が好きだった。母のうえの伯母ふたりは女学校/高校の後、洋裁学校に通っている。母も同じ道を進みたかったらしいのだが、下の伯母が洋裁学校に進んだ後、女子の高等教育進学率を上げるために「短大」というものが続々と生まれてきて、祖母は「女も大学に行けるんだ!」と、そこに夢中になってしまった。家政科なら洋裁も学べるし、大学の方がいいに決まっている!という祖母の勢いに母は抵抗できなかった。でも入学してみて、1年目は一般教養でやりたくもない英語やフランス語をやらされ、家政学というくくりのなかの食物、被服・・・ごく一部分でしかない洋裁の時間には失望感しかなかったらしい。

この話をくりかえし、「だからあんたらは、自分がやりたい道に進めばいい」と母は言ってきた。でも、結局は祖母と同じで、自分ができなかったことを娘に仮託したいだけだから、自分の思う方向性ではない希望を排除する点で、祖母と母は同じだった。皮肉なことに。

母は反発しきれず、
私は反発し、そこを脱した。

反発しきれず・・・ということでいえば、母は父にも、というより「家父長制的価値観」にも反発できなかった。「そういうものだから」と考えていた。それは祖母も同じで、祖父にふりまわされながらも家業を支え、子どもを育て、祖父の傍で生きた。母や伯母たちが「なんで家出までした気の強い人が、夫に対しては我慢して気を遣って人生を送れたのかが謎」とよく話していたが、それが祖母の限界・・・というか、当時の世の中で自分に何ができるかを現実的に考えたときの限界だったんだろうなぁと思う。それと、母方、特に祖母の実家につながる親族はみんな本当に子どもが好きで、子どもの相手が上手い人が多かった。祖母は助産師でもあったし、7人出産したら、その子育てを優先して、そのために家庭を守ろうと一生懸命になった延長でそうなってしまったのは自然なことのように思える。

そして母も、父に逆らわない人だった。ただし、不平不満は多くて、娘にもダダ洩れ状態で愚痴を漏らしていた。なのに、重要なことに関しては自分で決断したりOKを出したりせず、「父に聞け」というのが常で、妹がそれに怒ったこともあった。そりゃそうだよね。常に「甲斐性がない」「頼れない」と愚痴愚痴言っているのに、その「頼りない」人が許可しなければしてはいけません、だから父に聞きなさい・・・って、自分が責任持ちたくないときだけ父に丸投げかよ・・・みたいな、ね。

祖母も母も、「母親」という役割分業に対しては素直に引き受け、だからこそ、子どもに人生を賭けた、といえるのかもしれない。ただ、そこでも助産師という専門職経験のあった祖母の方が、母よりも自己肯定感が高かった/子どもへの依存度が低かったような気がする。

そんな母も、人生の最後の方、10年弱にすぎなかったけれど、1人暮らしを満喫した。

私が就職して「家を出る」と言いだしたときに、母は突然、「じゃあ私も家を出る」と言いだした。みんな面喰い、「はあ?」という空気になるなか、どんどんいろんなことを決めて、ほんとうに別居した。・・・妹も就職していたし、もう父の下で我慢する必要はないと思い切れたのかもしれない。それでも離婚には踏み切らず、戻る気もあるのか? 戻るところを置いておかないと不安なのか? と謎だったけれど、それも私が「婚姻届は出さない。事実婚で行く」と宣言したときに、「そういうのもあるんか・・・」と言ったかと思ったら、すぐに離婚した。え?

世間はそういうものだから、ルールでこう決まっているから・・・、という生き方を何の疑いもなく受け入れてきた母は、そこに縛られているというより、そこに従っておけばうまくいくのだと信じることで、いろんな不満や葛藤をなだめて生きてきたということなのだろうなといまになって思う。私が「婚姻届なんていう仕組みに乗っからなくても、自分たちはやっていける」と示したとき、「離婚したらすべてが無に帰すような気がして躊躇っていたのが、結婚も離婚も紙の上の問題で、実際に過ごした年月やそこで得たものが変わるとか傷がつくとかいうことではないと思えた」らしい(という主旨のことを言っていた気がするけれど、正直、離婚届一枚になんでそんなにこだわったのかが私には最後まで理解しきれなかったので、母の言いたかったことは違うかもしれない・・・)

そんなふうに考えていくと、「世間はこうだから」に反発し家出したという若かりし祖母、その結果の子どもの学歴へのこだわり・・・という祖母のストーリーに反発した結果が、「世間はこうだから」に従順な母を生んだのかもしれない。そしてそれに反発した私は、祖母の方がかっこいいと思い、祖母の続きを生きたいと思った。母に直接「あんたはどうせ、おばあちゃんの方が好きなんやろ」と言われたこともあったけれど、やはり心中複雑だったんだろうなと思う(「おばあちゃんに似てる」と言われたこともある。それも、あまり嬉しくなさそうだった  笑)

そしていま。

祖母も母も彼岸に行った。思えば、最晩年は2人ともあまり幸福ではなかった気がして、孫・子として少し申し訳ない気もしている(かといって、2人に穏やかな老後/死に際を用意できる方法があったかと言われたら、それは私の手に余る、とも思う。これだけ高齢化社会になった今も、日本の社会保障制度は相変わらず貧弱だ)。

私は子どもを授かったとき、母のような子育てをしたくないという気持ちがあって、そこからアドラー心理学に辿りついて勉強した。いわば反面教師だ。それがうまくいったのかどうかは、子どもが評価することだと思うので、わからない。でもわが子の言動に、ときどきいわく言い難いざわつき・・・「え、そんなこと親に正直に言う?」みたいな気分になることがあって、ということはうまくいったのかな? と思っている。特に思春期を過ぎて落ち着き始めてから顕著だったのだけど、何でもない話のなかで上記のような、「そんなこと言って、親に嫌われると思わないのか?」と不思議に思っている自分に気づいて、ということは、私はこれを言ったら母が傷つく、とか、母に見捨てられる、とか、そういうことを無意識に考えて黙っていたことがあるということか・・・と気づいて愕然とした。私って、そんなにもあの人に遠慮して気を遣っていたのか・・・と。

そしていまだに、パートナーにも子どもにも「これ言ったらウザいやつと思われるかなー」とふと心配がよぎってコトバを選んでいることがある。もちろん、親しき仲にも礼儀ありで、何でもかんでも思ったままダダ洩れにするのはよくないし、私も適度に気を遣ってほしいと思っているのだけど(笑) 私は過剰に心配し過ぎだなぁと自分で呆れてしまうことがよくあるのだ。私がそんなことで嫌いになったりしないように、相手もきっとそうなのに。

「親に反対されるとかいうのが、想像できなさすぎてよくわからない」と、うちのお子さまは言っていて、「だって反対してもなぁ・・・私がやることじゃないし」と素直に思っている自分が好き。祖母にも母にもできなかったスタイルの子育てを、少しできているかなと思うから。ただ、幸か不幸かストレートの息子ひとりなので、もし娘だったらどうだっただろう? と考えると自信がない。女の子だったら、女の先輩として過剰な思い入れが生じて、こんな突き放した距離感で呑気に「それはあなたの決めることだよね」なんて言っていられなかった可能性の方が大きいなと思うのだ。ことほどさように、相変わらず女が生きづらい社会に、私はまだ暮らしている。

 

医大の入試差別、祖母が生きていたら、きっとニュースを聞いて怒髪天だったろうなと想像する。勉強は裏切らないと信じ、勉強を武器に闘った祖母にとって、入学試験という公正に審査されるべき場で差別があるなんて、許すまじきことだ。

では、母は? 

私は、医大の言い訳「でも女はやっぱり子どもができると(勤務が)難しいから」に同調していそうな気がする。私とぶつかりまくって、折れたり折れなかったりしていた母だけど、「世間がこうだから」にのっかっている方が無難だという信念は最後まで変わらなかったように思う。無難だということが幸福とは限らないのに。そして、無難といえるほど無難でなかったのが実際なのに。

私にも私の内の「母的なもの」がある。「こういうもんだよね」と無批判に世間を受け入れてしまう心情。子ども時代の支配/被支配の影響も、いまさら感じて根深いなぁとあきれたり、憂鬱になったりしている。「毒親」と言い切れるほどではないけれど、子どもの私に「そこは我慢しなくていい。あなたは間違っていない」と言ってあげたい記憶が芋づる式に出てくると、母に怒りを覚えるときもある。

そんな親子関係が、少なくなっていけばいいと思う。親も子も、自分の意志を尊重され、自由に生きていける、そんな社会。女にだけ過剰に子育てを任され、その結果子どもに依存して自立できない母親になったり、子どもとの距離感が上手くつくれずに自分を見失う母親になったりする社会を変えたい。

 

今日はそんなことを考えた。

三一独立運動100年の日に

今日は三一節。それも100年目の節目の年だ。

なのに、日本の外務省は・・・

vergil.hateblo.jp

怒りのあまり、チェジュエアーでソウルにひとっ飛び!したいところだけど、明日から出張なので我慢我慢…(そして今月はすでに大赤字確定、でもあった。つら)

そして、金子文子の『何が私をこうさせたか』も読み終わった。

jihyang-tomo.hatenablog.com

去年、観たときにも興奮して感想を書いていた(笑)

文子が法廷陳述の場面で、朝鮮に暮らしていた少女期に「三一独立騒擾を目撃し」「胸が打ち震え、心から共感を覚え」・・・と語っていた。文子が朝鮮で身を寄せていた親戚は朝鮮人を(だけでなく、日本人植民者も家柄や貧富ではかり)見下し、収奪する植民者の家庭だった。その家で文子は虐げられ、抑圧されて「私は何者か、なぜこのような目に遭うのか」と自問自答し続けた(朝鮮に渡るまでも、その後日本に帰ってからもつらい状況は続くのだが)。そしてとうとう自死を決意するが、その間際、身を包む蝉時雨に、「死んではならぬ」と我に返る。

・・・突然、頭の上でじいじいと油蝉が鳴き出した。/私は今一度あたりを見まわした。なんと美しい自然であろう。私は今一度耳をすました。なんという平和な静かさだろう。/(略)/私はもう死ぬのがいやになって、柳の木に寄りかかりながら静かに考え込んだ。私がもしここで死んだならば、祖母たちは私を何と言うだろう。母や世間の人々に、私が何のために死んだと言うだろう。どんな嘘を言われても 私はもう、「そうではありません」と言いひらきをすることはできない。/そう思うと私はもう、「死んではならぬ」とさえ考えるようになった。そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない。

『何が私をこうさせたか』岩波文庫版171-172pp

この3年後、文子は三一独立運動のデモ隊を目撃し、感動し共感する。そしてその年の4月に、親戚の勝手な都合でまた日本に送り返されるのである。

幼少期はネグレクト、長じては児童労働に虐待、搾取、・・・と踏んだり蹴ったりな人生なのだが、聡明な文子はそういう生い立ちから「自分が生きるこの社会とは何か」を考究していく。そして社会主義と出会ったとき「私はもう知っている」と思うのだ(20歳やそこいらで!)。彼女にとって三一運動に立ち上がった朝鮮人も一緒に闘いたい/連帯したい「苦しめられている人々」であり、天皇制や家父長制、資本家といったものが「苦しめている人々」だったのだろう。それが彼女の感性になり、朴烈の詩を読んでプロポーズするという行動に繋がり・・・投獄されてこの手記を書き、亡くなったのが23歳のときである。すさまじい・・・

 

100年前、朝鮮で
「朝鮮独立万歳!」を叫ぶ人びとの群れを陶然と眺めていた少女を思う

なぜ私はこんなにいじめられるのか
なぜ私は愛されないのか
なぜ、なぜ・・・と思い暮らしていた少女が
抑圧に「NO」を突きつけていく朝鮮の人びとに激しく共感したのは
自然なことだったのだと思う

そして100年経ち。

文子の国であり私の国でもある、
100年前に突きつけられたこぶしを踏みにじった日本は
そのことを反省するでもなく。
自分たちの仕打ちを旧植民地の人びとが恨んでいるに違いないと
自らの恐れが映り込んだ鏡を恐れて「注意喚起情報」という名のデマを流す

なぜ、植民地主義を克服し、侵略や抑圧を二度と繰り返さないために
連帯してがんばろうということができないのだろう

 

情けない・・・

アナキストになっちゃう気持ちが、ちょっとわかる気がするのでした。

Change ではなく Transformation で

インプットと思考のぐるぐるがつづく春休み・・・早くもパンクしそう・・・(笑)

土曜日は 子どもの権利条約とSDGsについて学習会
日曜日は ABD(Active Book Dialogue)体験 & 『リフレクティング』を勉強(↓ の本を使ってABDをしたので)

www.igaku-shoin.co.jp

月曜日は しごと
火曜日は 「企業化するNPOネオリベラリズム」を考える会(?)

そして今日。

消化不良です(笑)とはいえ、全然別のお料理を食べたという気はしていなくて、同じコース料理のなかのものを順序に従わずに食べた感じ。私の向いている方向というか、いま関心があることに流れが沿っているからそう感じる・・・無意識に自分に必要なことを選べているのかもしれない。

社会を変えたい

「活動家ですか?」と訊かれることがある。さて。活動家なのかな?と考える。

活動家でありたい、とは思う・・・というより、人権を考えたり教えたりしているから、今の社会がこのままでいいとは全然思わないわけで。私があっちこっち学びに出かけたり、友だちと話をしたり、そういった一つひとつが基本的には「社会を変えたい」という思いにつながっている。そういう人間が「活動家」であるのなら、活動家なんだろうか。

まぁ、人から見てどう見えるかという問題なのかもしれない。そこは。

変える、変化・・・というとき、私が志向しているのはTransformation(構造を変える)方なのだな・・・と土曜日に実感した。SDGsの特徴である「変革性」は「Change ではなく Transformation なのだ」という説明を聞いて、「それそれ!」と思ったのだ。

目の前に公正でないできごとがある。あるいは

困っている人がいる。あるいは、自分自身が困っている。

そんなときに、この目の前の状況を何とかしたい、よい方に変えたいと願うのは、おそらく誰しもに起こる心の動きだろう(もちろん、厳しい状況のなかでそう願うことすら奪われてしまう人たちもいる)

いまの日本社会は、そういうときに「個人の努力で乗り切ること」があたりまえだと思いこんでいる、自己責任教の社会だと思う。だから本屋に行けば自己啓発本が平積みだし、地下鉄などに乗っていると、その手の本を熱心に読みふけっているスーツ姿の若い人が常に何人かいる。

でも、それっておかしいよね? と思う。
社会の側は1㎜も変わろうとせず、個人にばかり変化(chenge)を求める。

 

社会の側に問題はないのか? あるから、SDGsなんじゃないのか?

NPOが請け負っていること・・・を考えてみる

NPOの人間も霞を食って生きているわけではないから、暮らしていけるだけの給与がいる。そしてNPOも組織である以上、組織体を維持するためには経費がかかる。

企業や行政では手が届きにくい、隙間を埋める動きが柔軟にできる・・・というのはNPOの強みだ。私が知っているのは教育・福祉関係、国際交流や国際支援関係の団体が多いから、余計にそう感じるのかもしれない。収益が見込めない、法に定めがない、制度でカバーしきれない・・・そんなところで生じる困りごとの解決に、NPOは役だっていると思うし、それは悪いことではない。

だがしかし、だ。

たとえば、海外から日本に来たばかりで日本語がわからない子どもたち。その日本語指導や、日本の学校に不慣れで戸惑う親子へのフォローなど、本来は学校や教育行政で請け負うべき仕事のはずだけれど、今の学校のシステムはそういう子どもの存在を想定していないから、その場その場で「できる対応」を考えてやるしかない、現場任せ。しかも現場は超多忙だ。通訳支援員も正規の職員として雇う手だてや予算がない。そこで地域の国際交流団体やNPOに声がかかる。目の前に困っている子どもや親がいるから放置できない。だから請け負う。子どもや親が助かってよかったよかった。そして、NPOにもそれなりの委託料や謝金が入って(とはいえ、金額は非常に低い)、役に立ててよかったよかった・・・ほんとうにそうか? ということ

・・・そこで隠されてしまうのは何か、ということを考えなければいけない。

たとえば・・・学校の枠(フレーム)が、もう少し柔軟であればなぁと思う。

たとえば、日本の小中学校は留年や飛び級を想定していない。制度として留年できないわけではないが「〇歳は〇年生」という縛りにこだわるし、飛び級は認められないから、来日時に1学年下に編入して、進度に合わせて飛び級させるというような対応ができない。これは義務教育段階でも留年ありの学校文化出身の保護者にすれば、日本の子どもたちは全員が学年相当の学力を1年以内に身につけて進級している、と映るのだが、ほんとうにそうか? そんなことはないはずだ。

 

たとえば、学級担任が2人態勢なら。

たとえば、1クラスの定員が20名程度であれば。

いまここにある学校の定員や予算、仕事量を1㎜も変えずに、そこに日本語のわからない転入生を迎え入れるから「手が回らない」のだと、忘れてはいけないと思う。ぶっちゃけて言えば、学校を変えることができず、予算を要求することもできないから、低予算で請けてくれるNPOに仕事が投げられているという現状を、関わる人たちの献身やサポートされてホッとしている人たちの笑顔で美談にしてはいけないということだ。

いびつだ。フェアじゃない。

特に教育や福祉など人に関わる仕事の場合、NPOなどに外部委託することで人件費コストを下げる・・・ことは同時に学校や行政から「経験の蓄積」 を奪うことでもある。つまり、外部の人に対応を任せている分、内部の人が育たないということだ。ケースワークは経験知なのに、経験知が育たない。外部組織への委託、競争入札・・・請け負う団体が入れ替わるたびに、情報の蓄積はチャラになり、ゼロスタートになる。

 

そして学校に関していえば、いまある枠組みを変えず、人件費を抑制するために「チーム学校」「学校と地域の協働」といった、いかにもよさそうなアイデアが提示されている。でもその中身は非正規雇用のカウンセラーや指導員を増やすだけで、子どもに関わる仕事に責任を持って取り組める条件整備とは程遠い。学校の枠は変わらず、ただ非常勤の助っ人が付け足される。1年契約の不安定雇用に、喜んで長く務める専門家がいるだろうか? 長い目で見れば、かえって高コストではないのかと思うけれど。

・・・と、どうしていいのかわからないことだらけだけれど、いま・ここにあるシステム(構造)の問題を変えること(Transformation)は諦められない。

それは同時に、いま困っている人たちの困りごとが、その人たちの努力不足や失敗の結果などではなく、構造的に生じてしまう問題だというとらえ直しを怠らないということでもある。構造上の問題だから努力しなくてもいいというわけではないが、努力すれば確実に報われる仕組み、努力する方法にアクセスしやすい社会であれば、充分に努力できる人たちを、社会の側が疎外していることだってある。その疎外を問わないまま、自助努力にだけ責任を負わすのはフェアじゃない。
(さらに言えば、自助努力、自己責任を過剰に強いる社会のなかで、「困っています」といえず、支援につながらない人たちが、支援につなっがった人の後ろになんなんと隠れていることも「隠されてしまう問題」の一つだ)

思い出した詩・・・金時鐘「いぶる」

猪飼野詩集』1978 で有名なのは冒頭の「見えない町」

なくても ある町。

そのままのままで

なくなっている町。

電車はなるたけ 遠くを走り

火葬場だけは すぐそこに

しつらえてある町。

みんなが知っていて

地図になく

地図にないから

日本でなく

日本でないから

消えててもよく

どうでもいいから

気ままなものよ。

 この冒頭部分の朗読を、部室で見せられた映像(イレブンPMの録画だったと思う)で聞き、なんだこれは! と思い・・・。それが『猪飼野詩集』という詩集にある詩の一節だと知った。その後、たまたま古本屋で見つけて、即買い。

そのなかにある「いぶる」という詩

承知で

悪いのさ。

こんなたぐいの仕事なら

いつでもありついていられる

身勝手な世間が

しゃくなのさ。

めいっぱいうごいて

うしろめたいとは

割に合わない

汗みずたらしよ。

それでいて

稼ぎときたら

正真 体を張ったものなんだ。

ぜに出しゃあ難のない

お大尽さまより

捨て去りゃ こざっぱりな

市民さんたちより

難儀を押して引き受ける

おれのこの

意地のほどがまっとうさ。 

 ・・・だれかの語りのようなことばが連なり、最後に、このことばを発しているのが産業廃棄物を不法に処理している人物なのだということをほのめかすようにして、詩は終わる。この詩を最初に読んだとき、それこそ的を射すぎて、というより、見ようとしなければ見えない、そのことから目をそむけている自分がいないか? と激しく問われた気がした。ショックだった。引用した部分、「捨て去りゃ こざっぱりな/市民さん」である自分を正面に引きずりだされた感覚。この数行、何度も読み返して憶えてしまった。

昨夜のイベント(というより、初対面の人の方が多かったのに、ごく親しい人たちの気の置けないおしゃべりの場、のようになって心地よかった)で、10年間引きこもりで、支援されていて、それから働き始めて、今は支援することもやっている、という人が、「そもそも、支援して、何をめざしてるの? みんなホワイトカラーになりたいの? 上へ上へ学歴上げることがそんなに大事なの?」という文脈のなかで、産廃処理の仕事に就いていたこともある、という話をし始めた。それはすごく真理を突いた話で、前項の「NPOが請け負ってしまうことで隠されてしまうことは何か」という話でもあったのだけど、その語りを聞きながら、私の頭の中では「ぜに出しゃあ・・・おれのこの/意地のほどがまっとうさ」の数行がリフレインし続けていた。

労働力が足りないという。求人を出しても人が集まらない、若い人はすぐやめていく、厳しい、キツイ、割に合わない仕事。だったら割に合うように、労働条件を上げろという話なのに、そうはならず、難民入管法が改正されたこの国。

厳しい、キツイ、割に合わない仕事はしたくない。そりゃそうだ。
でも、その仕事をだれかがやらなければ社会は回らない。その仕事が嫌だ、自分にはできないと思っている人たちも、暮らしが回らなくなる。だったらそれを引き受ける人たちに敬意を払え。目に見えない敬意でなく、賃金として保障されるように、社会の仕組みを考え直せ。・・・現実には、そんなことを考えもしない人たちの快適さのために、厳しい労働条件に甘んじて働いている大多数の人が見えなくされている。

社会を変えたい。

そのためには、まず見えなくされているものを、見えるように。

目の前の困りごと対応を請け負いながら、困りごとの背後にある構造を見つめること。

構造を作ったのも、支えているのも人間なのだから、変えられるはず。

 

・・・なんてことを考えながら、じゃあどうやって変えていけるかなぁという解は見えていない(笑)「見えない町」に来たければ「たぐってくるのが 条件だ。」と詩人は言った。たぐったその先で出会う人たちと一緒に、おかしいと思うことにはNoと言おう。と思う。とりあえず。

解が見えないからあきらめる。というのが、いちばんやりたくない。やりたくないことはやらない。とりあえず。