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2月21日「多文化共生を振り返る 排外主義を乗りこえた未来を構想するために」参加記

標記の企画(立命館大学生存学研究センター主催)に行ってきました。

ヘイトスピーチ/排外主義が台頭する現在から振り返るーーーと
歴史修正主義者の活動が活発化し始めた90年代、
同時に「多文化共生」という理念/行政用語が登場し、施策も始まった。
この20年を《現在》から振り返って、これからを考えたい。

との趣旨で、

樋口直人さん、明戸隆浩さん、鄭栄鎮(ちょんよんじん)さんの
報告を聞きました。以下は、私が理解しえた範囲でのまとめです。

報告① 樋口直人さん~多文化共生は排外主義を乗りこえられるのか~

まず、樋口さんからは大部な資料が用意されていました(その資料だけでも「多文化共生」がこれまでどのように論じられてきたのかをふり返ることができます)

日本型「多文化共生」ー《階級》《歴史》《政治》抜き

2006年総務省「地域における多文化共生推進プラン」後、行政用語として定着
⇒《階級》《歴史》《政治》抜きの“ぬるい”理念だから使用(今も継続)

「多文化共生」ということばが登場したのは1995年の阪神淡路大震災での、外国人被災者支援がきっかけだという説も、要するに「住民支援・行政サービスの問題」だけに限って論じることができ、行政側が取り組みやすいから。さらに言えば、そういう“ぬるい”理念と施策だから、バックラッシュに遭うこともなく、生き残ったといえる。

しかし、たとえば1992年「オルタ」誌に登場した提案「多民族共生社会に向けて」のように、ラディカルな「多文化共生」も存在した。

(一部引用)

90年代は外国人政策が開かれたものになりつつあり、植民地清算の動きもあって、
転換期だったことは間違いない。そして、河野談話村山談話などの動きに対しては、自民党の歴史・検討委員会議連や「つくる会」結成などのバックラッシュが起こった。
しかし、外国人政策に関していえば(たとえば日本会議の機関誌では)、外国人参政権に関しては全力で否定してくるが、「多文化共生」施策は眼中にない。極右勢力のターゲットから外れてきたからこそ、行政が安心して使っている。“ぬるい”からこそ。だから、「北朝鮮バッシング」「朝鮮学校への差別」とも両立してしまう。排外主義の歯止めにはなれない無力化された理念が「多文化共生」だ。

「多文化共生」は標的にすらならない/「植民地清算」に対する猛烈なバックラッシュ

日本の排外主義は歴史修正主義の1変種であり、それゆえ《歴史》抜きに闘うことはできない。そして排外主義が跋扈する社会が「多文化共生」を実現できるなどということはあり得ない。つまり《歴史》は多文化共生の価値をはかる試金石だ。

そして、歴史修正主義は「あらゆる国を敵に回す」から持続可能性がなく、現実主義的には採用できない。昨年末の日韓合意は(安倍首相の本音を聞いてみたいが)、ある意味現実主義的妥協の産物といえるのではないか。歴史修正主義者の主張を押し通せば、東アジアの安定性を損なうことは明らかだ。

だとすれば、我々の側としては現実主義的な問題として歴史修正主義ではダメだと訴えていく方法もあり得るか?

地域社会の「多文化共生

たとえば非正規滞在者の問題で、実際に近くで暮らしている人たちは、感覚として「なぜ在留資格が出せないのか?」疑問を感じ、署名活動などに協力してくれる。つまり実態として共生してきた関係性が、入管による摘発によって突然壊される。「法的には不在の存在」だと言われたところで、実感としては「隣に住んでいた〇〇さん」なのだ。これを国家による“地域社会が共生する権利”の侵害ととらえれば、権利侵害の防止のためには在留資格を出す、退去強制の執行停止をしなければならないということ。

地域社会での多文化共生の取り組みが、そこまでの対抗力を持ち得ていると言い切る自信がないので評価は保留したいが、対抗できる可能性はあると思う。従来の、主権国家が「だれを受け入れるか決める」という多文化共生論ではなく、「だれとだれが共生するかは共生するわれわれが決める」という多文化共生論を構築できるか。

報告②明戸隆浩さん~現代日本における排外主義と対抗言論~

明戸さんの報告は、「ザイトク会に象徴される排外主義的バックラッシュ」を前提とした「多文化社会」の理念/差別の問題を避けるための用語法として用いるのではなく、排外主義と闘うという方向性を明確にした「多文化社会」の理念が、いま日本に必要とされている--という問題意識に立って、そこで重要になる「排外主義に対する『対抗言論』」に注目し、90年代からの経緯を追ったものでした。

バックラッシュ」としての排外主義

欧米では「バックラッシュ」の重要な標的の一つとして「多文化主義」がある。欧米で「多文化主義」政策といえば「移民受け入れ」であり、具体的な施策に対して「行き過ぎ」批判(バックラッシュ)が起こっている。

しかし、日本の「多文化共生」は、そもそも標的にされるほどの影響力がない。「多文化共生」施策の中心はニューカマーで、在特会らの主な攻撃対象はオールドカマー(旧植民地出身者)。もともと総務省が使い始めた背景にも「差別」の問題を避けつつ外国人住民施策を提案するために都合がよかったから、という面がある。

ただし、在特会らの主張は「バックラッシュ」の態を取っている(「在日特権」)。実際には日本の外国人施策に「行き過ぎ」などないので、「妄想バックラッシュ」。

90年代と00年代:「つくる会」言説~「嫌韓流」とその対抗言論

1995年8月、戦後50年の村山談話、翌1996年の中学歴史教科書検定結果公表で、主要七社の教科書が『従軍慰安婦』に言及したことへのバックラッシュ
1997年1月に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足。

つくる会」言説の一つはナショナリズム。「日本人」「国民」のための、「われわれの物語」づくりを主張していた。もう一つは反左翼・反マスコミ。左翼とマスコミが「自虐史観」を作り上げていて、それを自分たちが糾すのだという主張。

それに対して、90年代は歴史認識や戦争責任をめぐる議論が起こり、国民国家論、ナショナリズム研究、ポストコロニアリズム・・・論客も多数おり、自由主義史観の分析や批判を下支えする基盤があった。

ところが、2005年に発行された『マンガ嫌韓流』(小林よしのりの『戦争論』の影響も)に対しては、対抗言論が全般的に低調だった。左翼論壇の関心が格差問題等に移っていたこと、インターネットの隆盛という背景の違いなど、要因は複数考えられるが、いずれにしても90年代ほど対抗言論が力を持てなかった。「嫌韓流」や小林よしのりの特徴は、“家族”のメタファーを用いて「われらの“じっちゃん”を貶める奴ら」を描出し、それを批判するという形態をとっていたこと。そして、この動きに連続して、「在日特権」言説が登場してくる。

10年代:「在日特権」言説とその対抗言論

2007年に「在特会」が設立される。彼らが言う「在日特権」のほとんどは、明らかにトンデモ言説だが、在日コリアンに関わる制度や状況の複雑さ・わかりにくさの間隙を突く形で、一部を誇張して「特権」に見せかける言説には、多くの人が引っかかってしまう。これは煽動的な効果を持つ、ある種の政治的プロパガンダ。

複雑でわかりにくい経緯を説明するには、在日コリアンの歴史を把握していなければならないし、説明も単純にはいかない。「在日特権があるかないか」という議論に巻き込まれると、「ない」と言い切れない/自信がないという人は沈黙してしまい、「ある」と思う人だけが発言を続ける--つまり、広く一般社会を煽動し、一方で「ない」と批判する少数の人をマニアックな議論に引き込んで、けっきょくは「わかりにくい」状況が変わらないということが起こる。だから、ここで消極的に沈黙してしまう人をこちら側に引き込むにはどうしたらよいかを考えることが大切。

対抗言論としては、まさに言論だけでなくカウンター行動が起こったことで、問題が可視化され、社会的な批判の文脈を作れたことは大きい。その結果として、大阪市の条例可決や、人種差別撤廃施策推進法案の議論などにつながっている。

「対抗言論」を考えるときに(後の質疑で)

たとえば、野間易道さんの『在日特権の虚構』は、彼らの主張に対して一つひとつ「各論」で対抗していくスタイルをとって、奏功している。非合理的でトンデモだけれど、影響力が看過できない、そういう排外主義的な言説に対して、放置したり沈黙したりしないことが大事だということを改めて確認できた。

しかし、闘い方としては、「各論」だけでなく、それとともに大きなフレーム、たとえば「日本の近代をどう考えるか」という大きな視点での反論/対抗もなければならないと思う。大きなフレームの一つとして考えていることに「平等」概念がある。つまり、社会に歴然としてある不平等、力の不均衡というものを訴えていくこと。ヘイトスピーチの背景にも、マジョリティとマイノリティの明らかな不均衡がある。たとえば私がツイッターで前述のような「在日特権なんてない」という主張をしたら、ネトウヨがメンションを飛ばしてくるけれど、在日コリアンであることを明示している人が同じ発言をしたら、その数十倍の勢いでひどいメンションが飛んでくる。そういう不平等が「ある」社会のままでいいのか? という問題提起の仕方もしていきたい。

③鄭栄鎮さん~トッカビ/八尾市の「多文化共生

鄭さんの報告は、私のバックボーンでもあるNPOトッカビ(旧:トッカビ子ども会)の取り組みの歴史について。ここは、私自身も関わってきた話が多く、いろいろ考えることも多かったので、稿を改めたいと思います。

印象的だったのは、報告の途中で鄭さんがぽろっと「多文化共生ってコトバは、後付けですよねー」とおっしゃったこと。それは私も同感。長年地道に、そんなコトバがないころから、地域で「日本人との共生」「共に育つ、共に学ぶ」実践を積み重ねていて、あるとき「多文化共生」というコトバが出てきて「あ、それええやん!」と思った記憶が私にもあります。(だから、「阪神淡路大震災の後に・・・」説は、私の実感とは会わない 笑。説として、そういうのがあっても別に構わないけれど)

トッカビの歩みは、けっして《階級》《歴史》《政治》抜きではない(むしろそれを抜いたら成り立たない活動だったと思います)し。

報告の最初に「富田林市多文化共生指針」が、がんばってそこに踏み込んでいると紹介してもらったのですが、私も起草委員でした(笑) トッカビで鍛えられたのに、脱色した「多文化共生」なんてあり得ないから、がんばりましたよ。もちろん、他の起草委員の方や、行政のみなさんも、いろんなせめぎあいのなかで文言を工夫して(最終的に抜けてしまった部分もあるのですが)がんばった、とてもよい経験でした。

そのあたりも含めて、また改めて。