わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

殺される側の論理

・・・というのは、本多勝一さんの御著書のタイトル(朝日文庫
高校生のとき、ある先輩に勧められて読んだ。

その冒頭に置かれた文章「母親に殺される側の論理」は、
横塚晃一さんの『母よ!殺すな』に序文として寄稿されている。

本多さんの妹さんも脳性マヒで、お母さんが妹さんを連れて心中しようとしたらしい・・・という子どもの頃の記憶から書き起こされている。お母さんは夜中に出かけ、天竜川に身投げしようとし、そこでどんなふうに思いを巡らせたのか、思いとどまって帰って来た。そのことを本多さんはこう書いています。

思いなおすに到った経過はわかりませんが、このとき母が共に生きる決意をしたことは、家族みんなにとってまことに幸せでした。けれども節子の側から考えてみると、これは父や私の考えるていどの「よかった」次元のものではない。(中略)母とともに心中させられるということは、要するに殺されることであります。いかに未来が悲観的であろうと、それは親が考えてのことであって、当人が考えてのことではない。とすれば、このとき母が思い直したことは、ほかならぬ母親自身にとってこそ、真に幸せな決断だったと考えられます。『母よ!殺すな』増補版(1984発行)5-6pp

 初めて読んだときにどう思ったか、はっきり覚えてはいないけれど、心に引っかかったことは確かで、ここで紹介されていた横塚晃一さんの『母よ!殺すな』、「青い芝の会」「さようならCP」といった単語がキーワードになって、私は森修さんと出会うことになります。

森修さんと出会う

高3のときは大学受験に失敗するのですが、二次試験の会場(つまり大学)で、「障害者と大学について考える会」や介護グループが配っていたビラを何種類か受け取りました。こういう人たちがいるんだと思い、なぜか「じゃあこの大学に入ろう」と教師になる気はまったくない(当時は学校嫌いだったから)のに決意が固まり、1年後、大阪教育大学に入学。

(なんかいろいろ思い出してきた・・・そういえば、高3のとき担任に福祉系への進学を勧められ「なんでやねん」と猛烈に腹が立ったこととか 笑)

そしてまた、さまざまな介護グループのビラを受け取り、介護にも誘われ・・・たりしながら、在日朝鮮人教育研究会に入ります。「人権系サークル」と呼ばれるサークルの一つでもあったので、横並びに部落解放教育研究会とか婦人問題研究会(名まえが時代だなぁ・・・)前述の「障害者と大学について考える会」とかがあって、それぞれの学習会等にも相互に参加しあっていたので、障害者問題を考える機会は増えました。

でも、介護には入らなかった。

当時、男子寮だった五月丘寮の寮生が森修さんの介護者グループ「野郎会」の中心で(というより、寮生≒野郎会といってよい状態。あの中で介護に入ってなかった寮生はある意味スゴイ意志の力だったと思う。いま思えば)、人権系サークルにも寮生は多くて、森さんの話は常に聞こえてきた。森さんは大阪青い芝の会の活動家でもあるから、当然「殺される側の論理」の真っただ中の人なのだということに気づかされ・・・。

本を読んで引っかかって、気になって、だから大教に入ってしまったのに、いざその世界がリアルに近くにあると実感すると、足がすくむ私(笑)

在日朝鮮人教育研究会というところにいて、日本人だから「差別する側(殺す側)」にあって、そういった立場性のふりかえり学習も日々進んでいて、落ち込んだり泣いたり怒ったり、子ども会に行って泣いたり笑ったり、しながら差別の構造/偏見や差別意識が生まれ利用される構造、そこに巻き込まれて「殺される側」になる私・・・ということを考え、整理し、少しずつ活動家っぽく育っていきつつも。

なぜか障害者問題だけ、心の整理も頭の整理もつかないまま時間が過ぎるのでした。

そこでのモヤモヤ感を言語化したのは、学部生も終わる頃(って、5回生なんだから。我ながら)、それも整理できたから言語化したとかいうことではなくて、森修さん直々に声をかけられてとうとう介護に入らざるを得なくなるという事態に陥った結果そうなった、という情けない顛末。反差別を訴えて前に立つ当事者の人は、ほんとうにスゴイと思うのは、自分のこの経験があるからこそかもしれません。

私は「殺す側」なのか、「殺される側」なのか

森さんの御自宅で、言語化したとは到底言えないようなぐちゃぐちゃの状態で森さんに聞いてもらったのは、要は「殺す側」と「殺される側」の隙間に落ち込んでどう抜け出せばいいのかわからないという混乱でした。

私は2歳半まで障害児で、たまたま「治った(←という表現もいまだに引っかかるのだけど、とりあえず社会的には障害者ではなくなったということで)」という過去があり、その「治った」手段が大手術だったこともあって傷跡に対するコンプレックスが強く、なおかつその障害の原因が小児医療/薬害で同じ被害に遭った人たちが裁判をしているニュースを見聞きしながら/でもそこには一切かかわりたくない両親の言動を聞かされながら育ったために、障害者の権利運動とか差別の問題に強い興味を持っていて勉強もするのに(だから福祉系の進学を勧められる)具体的にその世界に入っていけるかというと「私にはその資格がない」と強固に思っている(だから福祉系を勧められ猛烈に怒る)という混乱した心理状態にあったのです。解放運動に関わっていたのに、そこら辺の自分の感情の混乱にはふたをしたまま4年間・・・このまま卒業するかーってときに。

森修さんをそれまで知らなかったわけじゃないし、学習会や聞き取りの場で実際に会ったこともあるし、連れ合いは野郎会だし、何を今さら! って森さんもたぶんビックリされたと思うけれど、森さんを前に自分のそういうぐちゃぐちゃしたところを話す/話さないことには介護に入るとか無理!と追いつめられて、ホントにぐちゃぐちゃに話をして、そうしたら森さんは即答で

「そんなに悩んでんとこっち(障害者側)来たら? 今の話は障害者やと思うで」

へ・・・

それでも私は、障害者ではない。

森さんに背中を押されて介護の現場に入れたことで、障害者を排除する社会の論理/生産性や効率、合理化・・・といった健常者ベースの社会の仕組みを体感的に学び、それを通して自分のことも整理できるようになり、その結果として私はやはり障害者とはいえないと思う。「殺される側の論理」に立ちきるためには、そこに意識的にならないと立ちきれない。社会に出て働きだすと、ますますそう感じることは多くなった。この社会は「殺す側の論理」に満ちていて、気を緩めるとすぐ絡め取られてしまう。

絡め取られそうになるとき、私はいつも森さんの前で泣きじゃくった自分を思い出す。
「こっちきたらええやん」という森さんの声も。

殺す側の論理ー相模原市での事件について

ヘイトクライムだ。と思った。と同時に、私はまた、
殺される側と殺す側の間に挟まっている自分を感じた。

事件があった施設は、かつて東京オリンピックのときに作られたものの一つで、そこには「東京の街中から知的障害者を排除し隔離する」意図があったはずだ。私が高校生だった80年代初頭、ちょうどそういった大型施設や養護学校に対する疑義(「障害者を隔離しているだけではないのか?」ということ)の声が聞こえ始めていた。障害者差別解消法の現在からすると隔世の感があるけれど、ともかく30年ほど前は「障害者が健常者の生活圏から姿を消す」ことをおかしいと思っていない人の方が圧倒的に多かったし、障害児教育や福祉に携わる人でも「障害者にふさわしい医療/療育環境」を保障するためには特別な施設や学校に集める方がいいと主張する人の方が多かったように思う(高校の時、「養護学校義務化反対」論者の意見に「なるほど!」と共感していたら先生たちに全否定された。「就学拒否されないために必要だ」とか言われ「就学拒否する方が間違ってるのに、別に学校作ってそこに行かせるのは解決の仕方がずれてると思う」と言ったら「普通学校には受けいれるノウハウがない」と言われ。けっきょくあんたらが受け入れたくないってこと違うのーと不信感が深まるばかりだった)

森修さんの活動の中に「障害者の地域での生活を獲得する会」というのがあって、施設ではなく街中で普通に暮らす、当然学校だって地元の公立に近所の子たちと一緒に通う、ことをめざす活動をされていた。自立生活運動といわれるそれは、いわゆる一般的な「自立」イメージを問い直し、ひっくり返して再構築していくラディカルな活動だった。最近の若い人たちは何がラディカルなのかピンとこないみたいだけど(それだけ運動が実を結んだ結果でもある)、障害者が電車に乗る、バスに乗る、買い物する・・・という一つひとつに物理的にも心理的にも分厚い壁が立ちはだかっていて、その一つひとつを本気で力づくでぶっ壊すよ! という気合いの入った活動で、森さんもその先駆者の一人だった。

その森さんが、90年代に入る頃によくおっしゃっていたのが「自立生活運動の宿題は、知的障害者の地域での生活をどう獲得するかだ」ということだった。正確な発言は覚えていないけれど、とにかく「CP者としての自己主張」を貫いてきた森さんが、自己主張の難しい知的障害者の「自己主張」をどう保障するのか、そこを闘うのが自分の宿題だ、今まで自分はそこを置いてけぼりにしてきてしまった--といったことを、いろんなところで繰り返しおっしゃっていた。そんな森さんが私はとても好きだった。

そしてそれは森さんだけではなく、さまざまな人たちががんばって闘ってきた課題でもあり、結果として大規模施設が新しく作られることはなくなり、施設から地域へという流れが主流になっている。

そんなかで、大規模施設とそこに暮らす障害者はますます見えない存在になっていたと思う。私自身も、そういった施設に対する関心はほとんど持っていなかった。ニュースには震撼したが、同時に「そんな大規模施設がまだあるんだ」と驚いた自分の不明も恥じた。

まだ、わからないところもたくさんあるけれど、少なくともそういった施設の存在に無関心で、殺された人びとの日常が「見えていない」で暮らしていた者は、容疑者と自分が地続きであることを忘れてはいけないと思う。他人事として、特定の「おかしな人物」が起こした特異な事件として片づけてはいけない。自分の暮らしの風景から障害者の姿が失われているとしたら、「見えないもの」にするという形で、あなたも「殺す側」にいる。もちろん私もだ。それは、容疑者の動機や思想を理解せよということではないし、共感する必要もないけれど、自分たちが作っているこの社会の空気が彼を作ったという意味で、責任を逃れられる人は1人もいないと思う。考えることをやめてはいけない。

考えたいこと

報道には違和感ばかりが募る。個人的に被害者であれ加害者であれ実名報道の必要は基本的にないと考えているけれど、ふだんなら被害者から申し入れがあったからといってすんなり匿名になどしない(会社もある)報道機関が、一斉にすーっと横並びになったのも違和感。被害者家族の心情、そもそも施設に入れていた事情や背景もあるだろうし、取材されたくないんだろうなということは容易に想像がつくけれど、取材されたくないのは何もこの人たちだけではなく、他の事件でも同じことだ。なぜ知的障害者が被害者の今回だけ、すんなり「匿名」になるのかが納得いかない。容疑者が言うように「意思疎通できない人」だとラベリングし、その人の個性を描き出す必要を、報道機関が感じていないからではないのか。奪われた未来をしつこく強調し、犯人の悪辣さを強調する報道様式を私は好まないが、今回に限ってそれをしない態度もまた、信用できない。その態度も被害者を殺していると思う。

容疑者は、小学校の先生をめざしていたそうだ。障害者施設に勤めたのも特別支援学校の教員になることを考えたからだという報道もあった。どこまでが本当かわからないけれど、少なくとも大学では教職課程を取っていたわけで、教育実習にも行っている。ということは、教員養成課程のプログラムのなかで、「人権を尊重する/される」ということがお題目や心がけでなく実践的に行動のなかでどう身に着くのか、身につけなければならないのかということを、検討し直さなければならないと思う。私もその教育の一端を担うものとして最近気になるのは、「自己責任」に汲々として権利意識の希薄な学生が年々増えているように思うことだ。それはとりもなおさず、社会全体が基本的人権を尊重し、互いに敬意をもって話し、暮らすことに価値を置いていないことの現れだと思う。そういう社会の価値観を内面化してしまっている学生に、脱学習の機会を作り、自分自身の権利を守られ、相手の権利も守る生き方がどんなに楽しくて伸び伸びした社会につながるか、そんな未来像を大人が提示できているかが問われている。

また、現場の施設は県立だが指定管理者制度によって「公立民営」になっていた。「官から民へ」をひたすら拡大し、経費削減/合理化こそ正義であるかのように突き進むことの危うさも、総括されねばならないのではないか。社会は人が集まって作るものであって、社会を維持するために人を利用するのは本末転倒だ。だれを、何を大切にするのか。見えない人を作り、見えないまま切り捨てていくような社会に持続可能性があるとは思えない。

ぐちゃぐちゃだけど

読み直して、文末もぐちゃぐちゃの表現もぐちゃぐちゃだけれど、備忘として書いておきます。森修さんが亡くなって、それだけでも喪失感でいっぱいなときに事件が起こって、気持ちがぐちゃぐちゃです。森さんが三途の川から怒りのあまり戻ってきそう(戻ってきてくれたらうれしいかもしれない)な現状に、負けないために。

しかし、なんでこんな社会なの・・・・・・。