わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

韓国で考えたこと

9月11日~14日、韓国の代案教育運動を勉強しにソウルと江華島に行っていました。

これ コアプラス企画・韓国教育視察ツアー on Strikingly

代案教育運動の詳しいところは「韓国 代案教育」「韓国 代案学校」でググると、日本語の論文も幾つかヒットしたので、そちらに譲りまして。

ここでは少し、考えたことや共鳴したことなどを雑駁に書いておこうかと思います。

 

まず用語問題。~というか、その背後にある思想?姿勢?の問題。

「代案教育」は日本では「オルタナティブ教育」と呼ばれているあたりで、
「代案学校」は「オルタナティブスクール」。
日本語に訳しづらい(?)ということで外来語ママになったのだろう・・・と思っていて、今回ツアー参加を決めたときも、韓国では「代案」と訳したのだな、ぐらいに思っていました。韓国語を勉強していたときの印象で、韓国では日本よりも「外来語ママ」の単語が少ない≒翻訳努力を惜しまないんだなという認識だったせいもあります。

が、しかし。

いろんな人に会っていろんな人に話を聞いていると、この人たちはまさに「代案」を出そうとしているんだなということをひしひしと感じました。もちろん、日本でオルタナティブな学校や教育の場を作っている人たちも、公教育(公立という意味ではなく、公制度的に学校と認められているもの)に「代わる場」を模索してきたわけだから、同じなのかもしれないけれど、もっと明確に政府や社会に対して「これが私たちの考える代案ですけど、どう?」と積極的に打って出ている感じが強かった。なおかつ、それが学校に止まらず、「こんなに受験競争でみんな疲弊しているのに、それでいいの?」「人を蹴落とす生き方でない生き方を学べる場を作ろうよ」「自分のためだけにガツガツ勉強して周りが見えない生き方なんてつまんないぞ」と、個人個人の生き方や社会のあり方にまでハッキリ切りこんでいくパワフルさ。

なぜ違うのか・・・は386世代とか民主化運動の経験・蓄積の違い(朝鮮戦争から軍事独裁政権という歴史の違い)とか、いろんな理由づけができるし、それぞれに納得もできるのだけど、それだけの問題なのだろうか・・・と考えさせられています。

帰ってきてからいろいろググってみてにわか勉強していたら、こんな解説がありました。(適当にメモしたもので、出典わからなくなってしまった。すいません)

受験のための教育はエリートを育てたが、エリートは地域を捨てていく。 その教育を担ったのが公教育:学校への代案は「地域に根ざす教育:学校」になるのが必然だった

不登校になる/学校不適応を起こす子どもがいて、最初は「適応できないその子どもの問題」だと考えられた(私が中学生の頃は「登校拒否」とか言ってましたもんね)。しかし、そうではなく「学校に来られない子ども」を生み出してしまう構造的な問題が学校の方にあるのだというとらえ方に変わってきて、フリースクール等の「オルタナティブな学びの場」が社会的にも認知され始め・・・今日に至る。わけですが、

韓国ではその「学校側に存在する構造的な問題」は「社会構造に由来する問題」なのだという意識が明確。私も子どもの居場所づくり、学習支援の場にいくつか関わってきたけれど、子どもが学校に対して感じているしんどさや違和感をほぐせる場、学校だけが世界のすべてじゃないと気づける場にしたいという思いはあっても、その先の社会を変えるということをどれぐらいハッキリ意識できていたかと考えると、どうも心許ない。もちろん掘り下げて突き詰めていけば、そういうふうに答えられる中身はあると思うのだけれど、勉強を教えたり、イベントを考えたり手伝ったり・・・という一つひとつに「これが(学校のしんどさや矛盾に対する)私たちの代案だ!」なんてふうには思っていなかったよなぁと痛切に感じました。もしかしたら「オルタナティブ」という外来語に頼ってきたのも「学校とは別の世界があるよ」と、代案とまで言い切らない、既存の学校を敵に回したい訳ではないんですよという留保を無意識にアピールしていた結果では・・・等々(まぁ、だとしたらそこには日本の事情というか、「代案だ!」と張り切って打ち出したら「お上に歯向かうサヨク」レッテル貼られてやりづらくなるんだろうしなぁ・・・とも思うので、悪いとばかりは思わないけど)。

生き方の「代案」を出す

韓国の受験競争の激烈さが日本の比ではないことは、比較的よく知られたことだと思う(とはいえ、それは2月ごろの大学入試をめぐるイベント?をおもしろおかしく伝える、要は韓国を茶化す材料として知れ渡っている感もあって、なんだかなーですが)。

競争には勝つ人もいれば負ける人もいる。日本でも「勝ち組/負け組」などという下品な表現が大手を振ってまかり通っていて、負ける方が悪いと言わんばかりに子どもは叱咤激励され、「がんばりたくない」という選択肢は初めから「ない」社会。日本の学校だって毎年毎年学力調査という名でランク付けされて現場も保護者も右往左往して、学力さえ上がれば学校の仕事は終わりなのか?と思うぐらいの競争っぷり。競争すれば「いいもの」が残る、と新自由主義の人たちは言いたいのだろうけど、人間は「もの」ではない。勝ち残れずに脱落していった人はどうすればいいのだ?・・・そこに答えを出そうとせずに競争を煽り続ける態度は、教育:Educationと真逆だ。

韓国で最後に訪れたサンマウル(산마울)高校の校長先生が、卒業生の大学進学率なんかを話しながら「もっと下がればいいと私は思うんですよね~みんなこぞって大学に行くだけが人生じゃない。別の生き方を創造していけるようになるといい」みたいなことをしみじみおっしゃっていました。・・・個人的には、これがかなり衝撃的で。

同和教育でも在日朝鮮人教育でも、学力保障・進路保障は昔から大きな柱で、それは今も変わらないし、変わってはダメだとも思う。差別によって学習の場/進学の機会から排除されてきたマイノリティが学習権を取り戻していく取り組みだったという事実。学力は競争に勝つためではなく、自分たちの生活の貧しさやしんどさが社会構造上の問題であり、父や母の人間的な弱さや自分の能力のなさといった個人の問題ではないととらえ返すために必要なのだし、差別によって排除されてきた〈場〉に機会をつかんで入っていくことは「私はここにいる!」と宣言することでもあった。

ただ、学力、進路、進学・・・というルートが、受験競争と親和性が高いことも事実で、「進路保障」と銘打っての取り組みのなかで、子ども一人ひとりの生き方/長い人生を見据えての試行錯誤が不十分なまま、とにかく大学に進学することを良しとしてこなかっただろうか。高卒より専門学校卒、短大卒、それよりも大卒・・・と進むほうが選択肢は確かに広がる。選択肢が広がるのは良いことだし、現実問題として選択肢をあまり持たないまま日本社会に放り出すことは危なっかしくて、教師の立場としては躊躇される。7~8年前、twitter上で外国人児童生徒支援に関わる方と「進学指導一辺倒でいいのか」というやりとりをしたことがあった。「中卒で自動車整備工になる人生を否定すべきでない」というのは正論であっても、高校進学率が9割を超え、かつ学齢期を超えた人びとの「学び直し」ルートが貧弱な日本社会で生きていく子どもの未来を考えたとき、本人の希望だからといって高校進学を勧めなくていいのか? というのが私の迷いであり、実感だった。自動車整備工になることと高卒資格を取ることを両立させる道を探るのが、教師の仕事だと思っていた(今も思っている)。しかしそれを社会変革という視点でもう一度見直すと、けっきょく現状の受験競争、学歴社会を追認して、それに対応する「進路」を子どもに押しつけているだけではないかとも考えられる。問題は、中卒で働き始めた青年が何年か後に「やっぱり高校に行こう」と思ったときに定時制高校後ほとんどないという社会の不備ではないのか。あるいは「中卒」というだけで何か欠陥があるかのように処遇する社会の問題ではないのか。差別は許さないと言いながら、差別を受け入れてしまっているのではないか。・・・そんな問いかけを抜きにした「進路保障」の危うさを、改めて考えさせられてしまった。

大学に行くことが人生の幅を広げるように、大学に行かないこともまた、別の人生の幅を広げるのだという、考えてみれば当たり前のことなのに。それをさらっと言ってのける人を前にして、なんやかんやいっても私自身の人生の幅が狭いということなのだろうな・・・と、しみじみ考えてしまい、帰ってからも考えてしまっています。

「エリートは地域を捨てる」ということも。私も地に足ついてないもんなぁ・・・と(エリートかっていうと微妙だけど)常日頃思っていることをまた突きつけられて。外国から結婚で日本に来て、慣れない土地で家事や子育てに奮闘している中国人やタイ人のお母さんたちの方が、私よりもよほど近所づきあいに熱心だし、丁寧な暮らしをしているなと感じることは以前からあったけれど、そんなところまで射程に入れてやっている代案学校。でも卒業したら大学に行って都会に行ってしまう子が大半という、これも現実。

人が働いて暮らす、生きて働くとは、どういうことなのか。

教育の問いは続く。ということなんだろうな・・・(まとまらないなー)