わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

アライ(ally)って・・・

これが比較的まとまっているのかなと思いますが

キャシー(@torontogay69)さんのアライ(ally)に関する発言まとめ - Togetter

元々が「Ally(同盟する)」から来ているものだから、要はセクシャルマイノリティの人権運動に連帯し、共闘する「非当事者」に名前を付けました、ということが発端だと、あちこちで説明されているし、そうなのね、と思う。

思うんだけど。

どうもしっくりこないところがある私。

先日もテーマが「LGBT」のとあるシンポジウムで、当事者と並んで「アライ」のパネリストがいて、いずれも若い人でおもしろくはあったんだけど、どうにも「アライ」って・・・とモヤモヤしてしまう自分が止められない(笑) 

私が上のまとめでも私がもっとも重要だと思うのはこの部分

  • アライになる上で、一番大事なのが相手と自分の社会的立場を知るということ。自分が社会の中で恵まれている部分と、相手が社会の中で不利な部分に注意を払って、絶え間ないコミュニケーションをしていくことはアライの責任
  • アライになるなら、自分のペースでいいので、社会の中の差別、特権、不平等を知ることから始めるといい

そうすると「アライは、要するに支援者」という理解はそれでいいのかな? という気がする。マイノリティとマジョリティの間には社会構造上生み出される不平等な力関係があり、そのなかで不利を被るマイノリティは問題を自覚しやすい(というより日々させられてしまう)から当事者として声を上げるわけで、問題の片端には有利になっていることに気づかずに構造に加担しているマジョリティがいるわけで、加担しているんだからマジョリティだって、その問題の当事者なんだよ。(そう考えると「当事者」ということばも難しい。「被差別当事者」と明確に言うべきか)

私自身は、在日朝鮮人子ども会に始まって、気がつけば子ども会に出会うまでの人生の1.5倍ぐらいの年月をこの課題と並走して過ごしている。そんな私は「アライ」?

学生の頃、「実践・交流・共闘」ということばを運動界隈の人たちからよく聞いて、その3つの原則は、今も私が何かを考えるときのベースになっている。目の前の差別や不公正に対して黙らない、社会構造を変えるために何らかのアクションを「実践」するということ。その「実践」のやり方を考えたり再検討したりするためにも、同じような思いで実践している、あるいは実践を模索している人たちと「交流」し、つながること。そして課題が共通であれば「共闘」すること。

私は在日朝鮮人の「支援者」だと自分のことを思ったことはあまりないし、そもそも「支援したい」と思って関わったんだったかな・・・というところも曖昧。

差別と闘う人たちの姿を間近で見ながら「かっこええ!」と思い、必死でその後ろをくっついて走っていたのが最初。そのなかで、当事者が出す方針、お膳立てしてくれる運動にのっかって頑張っている気分になってしまうのは、当事者に依存しているだけだよな、私は私として自立した実践者にならないと、運動のお荷物じゃん・・・と少しずつ思うようになり、同化と排外の日本社会の片棒担いできたマジョリティ日本人の自分が何をすべきか、何ができるか・・・を考えてきた。そこを考えるためには当事者と「交流」し続けなければ答えが出ない。・・・そういう営みを一言でくくってしまえば「日本人と在日朝鮮人の共闘」みたいになっちゃうんだけど。交流も共闘もごっちゃになりながら、私なりの「実践」って何だろうとずっと考えて、思いつくままやってきた。

・・・これって「支援」じゃないよね。

ま、「支援者」と呼ばれても別にかまわない(私は自称しないけど)。「アライ」が「支援者」という意味であるのなら、私は自分自身で「私はアライです」とは言いたくないし言わないな、と思う。「連帯」とか「共闘」とか(笑)そっちの方がしっくりくる。

 

在日朝鮮人教育、在日朝鮮人解放運動・・・における「私(日本人)」って何だろうと、「アライ」なんていう名づけのないところで悶々と考えてきた日々が今の私を作っている。名まえがつくことで問題が可視化されるということはあるから、「アライ」が別に悪いとは思わないけれど、名づけられたことでわかったような気になりやすい、という落とし穴もある・・・「アライとしてがんばってます!」と楽しげに語っていた若い人に、不安を感じてしまうのは、そういうことなのかな。

 

今朝、とあるNPOのニュースレターを読んでいた。
在日朝鮮人、外国ルーツの子どもたちが何かと生きづらい日本社会のなかで、「日本人嫌い!」「日本ってなんてひどい・・・」と叫びそうになる、そんな時、さまざまな取り組みの場で出会った日本人の存在が「自分の味方になってくれる人がいる」と思える「一つの大きなお守り」だと若い当事者の人が書いていて、泣けてしまった。私も、お守りの一人と思ってもらえてるんだな・・・と感じて、恐れ多いやら有り難いやら。と同時に、私はそんな「お守り」になりたくて、ここまで付かず離れず、ずっと生きてきたんだなと改めて、初心に帰る気がしたのでした。

「お守り」と「アライ」はやっぱり違うと思う(←しつこい 笑)