わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

「ともに生きる」ということ

昨日、子どもの夢応援ネットワーク主催のシンポジウム@法円坂に参加しました。

「ともにいきるシンポ~多民族社会「日本」のこれから」

メイン講演が湯浅誠さんだったからなのか、はたまた関心が高まっているからなのか、(後者だとたいへんうれしい)参加者130名で会場はぎっしり。

湯浅誠さんの総論的な講演から、外国ルーツの若者2人を交えてのパネルトーク、休憩をはさんで参加者が8人ずつのグループに分かれてのテーブルトークと全体でのシェアとまとめ、という流れでした。そこで私の考えたこと、気づいたことを備忘として書いておこうとも思います。

構造を変えなければ「生きづらさ」は変わらない

まず、湯浅誠さんは外国ルーツの子どもの「生きづらさ」のなかには、①日本社会に生きる若者・子どもに広く共通する「生きづらさ」の側面と ②国籍の違い、言語の壁など“外国人”ゆえの側面とがあるだろう、としたうえで、主に①について話されました。

高度経済成長期の社会モデルが機能しなくなっているのに、そのモデルのイメージが抜けきらず、構造を変えることができていない・・・という部分は彼の著書を読めばわかるし、前にも聞いた話なので割愛(でも説明がさらにわかりやすくなっていて、さすがです)。昨日、印象的だったのは最後の方で「メインストリームの人以外はモノを言いにくい、っていう社会を何とかしないとダメだよね」という話でした。

例として出ていたのが「専業主婦と働く女性」。高度経済成長期、専業主婦が「メインストリーム」だった時代には、働く女性が「なぜ働くのか」をいちいちエクスキューズしないといけない空気があって、「ただ働きたいから働いているではダメなのか?」というのが問題だったけれど、いまは働く女性の方がメインストリームになって(されて?)専業主婦の方が「なぜ働かないのか」を言い訳しなければならない気分に追い込まれている。つまり「メインストリームの人以外は、モノを言いにくい。でも事情の説明や言い訳は求められる」という構造自体は変わっていなくて、メインストリームが入れ替わっただけだという話に、すごく考えさせられたのでした。

男性の場合「なぜ働くか」を聞かれることはないだろうけれど、たとえば育児休暇や介護休暇を取りたい、といったときに、女性ならそう根掘り葉掘り聞かれないことまで聞かれたり、説明しなければならないような気分になったりするんだろうなぁと思う。(それも、男性差別ではなくて女性差別の別の表出の仕方なんだけど)

社会の多様性が増す、ということは、誰もが何かしらの面でマイノリティ性をもつことが可視化していく/自覚されていくということでもある。そうなったとき「メインストリームじゃないところでは発言しづらい、生きづらい」という構造のなかでは「しんどいなー」と感じる機会だけがいたずらに増えていくということになり、「多様性しんどいやん」・・・が高じて「多様性なんて認めるからしんどくなるんだ!」となると排外主義が高まってしまうんじゃないか。だから構造そのものを何とか変えて、メインストリームじゃない人も発言しやすい、多様性がフラットに語り合える構造にしていかないと「ともに生きる」社会には近づけない・・・。

・・・人権教育はもちろん「フラットに多様性を語り合える」社会をめざしているのだけど、改めてこういう形で説明されると、その必要性がよくわかるし自分のミッションが明確になるように思えました。

ロールモデルのいい面/悪い面

続くパネルトークの際に、ラボルテ雅樹さんが(これも最後の方で)「不安の多い世の中だから『モデル』が求められがちだし、その必要性は否定しないが、一方で『モデル』と比較して自分はダメだと思ってしまったり、『モデル』とされた側もその期待に縛られて過剰にがんばらないといけなくなったりするのはおかしいんじゃないかという気がしている」と言われたことも印象的でした。彼は以前も別の場で「私はロールモデルになりたくない。自分がなれると思わない」ということを言っていて、そのときも「当事者にばかり荷を負わせるな」というメッセージを強く感じさせられました。

差別のある社会のなかで、周縁化されがちなマイノリティの子どもたち。コミュニティの大人の姿が限定的になりがちで、将来像の幅が広がらない、だからこそさまざまな「大人」の姿を見せたい。できれば「同胞」の、身近な先輩たちの「多様な生きかた」をロールモデルとして見せたい。・・・それは子どもたちをエンパワメントするための一つの方法として大切なことには違いないのだけれど。

でも人間なのだから、完全無欠な「立派な人」であるわけはなく、失敗したり、くじけたり、やけを起こして変な行動に走ったり、ということだってある。条件が整ったからといって、だれもが同じようにがんばれるわけでもない。

ここにも先ほどの「構造」の問題が絡んできます。

「日本社会に貢献してがんばっている」姿が評価されるとき、その「貢献」は日本社会の能力主義や学歴主義を無批判に受け入れたものさしで計ったものではないのか? 

子どもたちが「かっこいい」「あんなふうになりたい」と思う大人像・・・大人にも子どもにも社会の価値観は刷り込まれているから、「モデル」として選ぶ人が「メインストリームに近い人」になりがちだということ、その危険性を常に頭の片隅に置いておかねばならないなと思いました。

また「モデル」が比較軸になって優劣を感じてしまう・・・のも、けっきょく「メインストリーム以外の人はモノが言いにくい」構造があって、私たちが常にそのなかで比較し、自分や他人を値踏みすることに慣れきっているからなのだろうな、と考えました。そうすると「ロールモデルを示す」ということと同時に、多様な生き方のどれもに価値があり、優劣では計れないのだという新しいモノの見方を提示し続けること。大人がその見方で人と接する「具体的なあり方や方法」を子どもたちに見せることが重要になってくるはずです。

「差別はいけない」と口先だけでいっていてもだめだ、行動しなければ、とはよく言います。それは露骨な差別発言や行為を「止める行動」として考えられていることが多いけれど、そういう特殊な場面だけでの問題ではなく、何の気なしに「〇〇さんはがんばったね、すごいね」等と評価しているときの、その評価軸を問い続けるという行動を求められるのでしょう。そう考えていくと、人権教育はゴールがなく、ずっと「学びほぐし(unlearning)」が続くものなのだということも腑に落ちるように思いました。

人間は理解できない事態にぶつかると「(当事者に)もっと頑張れよ!」と考える

あー、そのとおり! と思わず笑ってしまったのがこの発言(by湯浅さん)。90年代、それまで貧困など無縁だったはずの若年日本人男性に非正規雇用ワーキングプアが広がり始めたころ、そのじたいが理解できなかった大人たちは大真面目に「若者を鍛え直さないと!」と議論していた、という話。

笑っている場合ではありませんが。

学校でも「なんでそんなことするの!?」という事態に面食らったとき、「親はなにしてんの?」とか「いや、そこもうちょっと我慢して考えようやー」とか、「当事者の自己責任」追及という思考回路に簡単にはまってしまいがちです。時間が経って冷静になると、その思考回路では解決にならないとわかるし、反省もできる・・・と考えていて、いや待てよ、反省もしないし、ずっと「あそこの親は・・・」だの「あいつは性格が悪すぎる」だの言い続けている先生もいたなぁと思い出しました。

現に労働問題/貧困問題でいっても、未だに「努力しないから悪い」という自己責任論が大手を振っています。

「そういう問題じゃない」と気づいて軌道修正できる人と、気づかず軌道修正もしない人と。そこを分けるものは何なのでしょう。

ありていに言えば、人権教育(解放教育)でいうところの「実態に深く学ぶ」という姿勢の有無と、生活を掘り起こして社会科学の視点で解析できる能力の有無、ということになるのでしょうか。

諸々、いろいろと考え直したい宿題をたくさんもらったイベントでした。