わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

研究会参加からの大阪ダイバーシティパレード

2017年度末~2018年度初の怒涛の2日間(笑)へとへとです(笑)

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これに参加するために夜行バスで大阪に帰りましたのよ。

中之島公園芝生広場から難波元町まで御堂筋を南進。

第1梯団が多様性(No Hate! No Racism!)、第2梯団が労働、第3梯団が女性・・・で、私は第3梯団を歩きながら、こんなコールをしていました。

「愛想笑いを求めるな」

「女の限界、男が決めるな」「私の問題、私が決める」

「私の体に干渉するな」「私の体に勝手に触るな」

「生きたいように生きてやる」

他にも、セクハラをはじめとする性暴力の問題や、保育所問題、「イクメン」問題・・・とさまざまなコールがありました(他のフロートでの素敵なコールは、私も今動画を見て知るという・・・他の梯団まで走って見に行くほどの体力がないから 笑)

 

コールしながら、これってすべてに通じることだよなぁと、しみじみ考えました。

 

たとえば「愛想笑いを求めるな」

女に限らず、マイノリティがなにか問題を訴えると常に「そんな攻撃的な言い方したら聞いてもらえないよ」「耳を傾けてもらえるように努力すべき(可愛げ出せ)」といったことを言われるのは本当に日常茶飯事なんだよな・・・。あるいは、ごく真面目に語っていたら「暗い」とか「固い」とか。「もっと明るく楽しそうにしゃべらないと、人は集まらないよ」・・・は一面その通りで、こちらも人権問題に取り組むことが難しくて楽しくないことだとは思っていないし、楽しさも伝えたいから、ついその忠言に従って、元気に明るく、楽しい話をしようと思ってしまう。けれど、やはり深刻なことは深刻なわけで、無理して明るく語る必要もないし、ましてや困っていたり苦しんでいたりする当事者に「愛想笑い」を求めるのは暴力だ、ということ肝に銘じておかないとダメだよな・・・と。(そもそも、日本社会が過剰に「明るさ」「物腰の柔らかさ」を求めすぎるのだとは思う。その反動で駅員とかコールセンターとか店員さんとか、自分が横柄にふるまってもいいとスイッチ入った途端に度を越した傍若無人を発揮してしまうんじゃなかろうか。・・・歪んだ社会です)

「女の問題、男が決めるな」も、「女」を他のマイノリティグループに、「男」を対応するマジョリティグループに言い換えるとすべて成り立ちます。

なぜ、あなたがジャッジするのか。

他人の問題に干渉し、ジャッジする権限があると(無意識に)なぜ思えるのか。

よく考えるとものすごく無遠慮で失敬なのに、マジョリティはマイノリティに対して平気で踏み込んでくる。

「〇〇さんは、もうすっかり日本人だよね!」
(何のどんな判定基準で判定してんの・・・てゆーか、なんでお前が判定すんの?)

「〇〇さんはオリンピックで△△を応援するんでしょ!」
(ルーツは△△やけど。だいたいオリンピックに興味ないし。なにその決めつけ)

「ええ歳したおばちゃんが痴漢の心配せんでいいでしょ」
(心配ゆーより、トラウマみたいに過去の不安が蘇るから夜道は嫌なの!)

・・・まぁ、枚挙にいとまがない。あるあるすぎて。

外国人の問題でいえば、この日本社会で暮らしているのに、その暮らしを支える法律や制度を決める仕組み(参政権)に、外国籍である限り参加できない(日本生まれ、日本育ちでも、「帰化」が「許可」されないと日本国籍を取れない)。まさに私の暮らしを私が決めることができないという社会。「公権力の行使」云々という屁理屈で、この仕事はできるけどこれはダメ、と日本社会に勝手にジャッジされ、決められている。

「私を抜きに私のことを決めるな」という、マジョリティにとっては何の変哲もないあたりまえのことが、マイノリティにはスローガンになる。

 

そんな不公平な社会で、
不公平さに目をつぶって愛想笑いをしろと
要求されることの理不尽さ。

 

・・・私も愛想笑いしてきたなぁ(苦笑)
むしろ「いつもニコニコしていて、いいね!」とオッサンたちに褒められてきた。
それが職場でうまくやっていく方法だと思っていたから。
だから習い性のように沁みついてしまった「マジョリティに都合のいいマイノリティの行動様式」が私にはあって、こりゃ呪いだなーと。コールしながら、そんな呪いも一つひとつ解いていきたいと、改めて強く思ったのでした。