わったり☆がったり

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"カミングアウト”をめぐるあれこれ

先週、被差別部落につながる人と、朝鮮半島につながる人のお話を聞く機会があった。

たまたま、続けざまになったのだけど。これはタイミングだな…と。

それぞれは、とある研究調査のためのインタビューだったり、在日コリアンの青年たちが主催する小さなブックトークの集まりだったりで、「カミングアウト」が主要なテーマだったわけではないのだけれど。たまたま、そんな話になった。でもそれは、そこにいた人たちがみんな、実は常に考え続けている話題なのだろうな、とも思わされた。

常に考えている人たちでなければ、あんなにいろんなことは話せない。

カミングアウトってなんだろう? 人権教育の場から

社会的にネガティブイメージを押しつけられている属性(スティグマを受けやすい/被差別マイノリティグループにつながること、などなど)は、なかなか率直に表明しづらい。だから「あえて公開する/打ち明ける」カミングアウトという行為が課題にあがる。同和教育在日朝鮮人教育では「立場宣言」「本名宣言」等と呼ばれてきたものも、カミングアウトの一つだ。

私が解放教育(人権教育)に出会ったのは80年代後半のこと。

それ以前にも、在日外国人(コリア系、台湾系、大陸系etc)の多い学校で育ったから、卒業式に本名で臨んだ友だちもいたし、学年途中で「今日から本名に変える」友だちもいたけれど、それはただ名前が変わるだけのもので、傍らにいた私は「じゃあ、これからは〇〇って早く覚えて慣れて正確に呼べるようにならねば」程度の良心的な受け止めはあっても、そこ止まりだった(私がそこを理屈でどうこう考えていたわけではまったくなく、感覚的に「こう呼ばれたいとわざわざ言うわけだからちゃんと呼ばねば」というレベル。周りには「そんなこと突然言われても、いままで△△やったのに、違和感あるわー」と呼び方を変えることに抵抗する子もいて、そういう受け止め方のバラバラさに対して教師は何も言わなかった。個人的には「先生が言わしたんじゃないの?(少なくともその決意を表明する場を作った人として責任持たんのか?)」とモヤモヤしながら、でもそのモヤモヤを言語化することができなかった。だから「本名宣言」という教育実践がどういう文脈で生まれたものなのか、私の知らないところでの「ちゃんとした」実践の姿に触れて、そういうことだったのか・・・と、ショックだったことを覚えている。

大阪では「本名を呼び名のる運動」といい、当事者が「名のる」ことと、それ受けた周囲の人間が「呼ぶ」ことが不可分だった(本来は)。つまり「ちゃんと呼べるようになろう」と思う私にしても「違和感あるわー」と抵抗していた友だちにしても、「なぜそう思うの?」ということを掘り下げていく、その事態に向き合っていくことが大切だったのに、「向き合うこと」を促されることがないまま、宣言だけが独り歩きさせられてたんだなぁ・・・と思った。実際、卒業式は本名だったのに、大学ではまた日本名で通っている・・・という友だちのうわさも耳にして、切なくなった記憶もある。

それから時は流れ、在日外国人/海外にルーツがある人の「本名」が必ずしも民族名ではない時代になった。親のどちらかが、祖父母の一人が、といったように、ルーツそのものが重層化してもいる。それでもかつて「本名宣言」でめざしていたことは、相変わらず必要とされている。というより、それが必要な社会状況が相変わらず、ある。

でも「本名宣言」っていう表現はいろいろとそぐわないよな・・・と思っていたときに、この本を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/LGBTなんでも聞いてみよう-中・高生が知りたいホントのところ-徳永-桂子/dp/4864121125

QWRCさんは、私がセクシャルマイノリティの問題を初めてちゃんと勉強し始めるきっかけをくれた団体さんでもあるのだけれど、ここを入り口にして、セクシャルマイノリティの権利運動の中で整理されてきた「カミングアウト」に対する考え方を知って、「おお、なるほど!」と頭の中がずいぶん整理された。以下は、そこで知ったことを軸にして、前述した「本名宣言をめぐるあーでもないこーでもない」という私の逡巡を整理しなおしたもの。カミングアウトって一言のなかには、いくつかの段階があるよなぁという整理です。

3段階:いつでもだれにでも、自分の立場を明らかにして啓発を担える段階

2段階:自分が居心地よく過ごせる、わかってくれる仲間を増やすために、自分が属するコミュニティにカミングアウトする段階(仲間づくり:「本名宣言」実践はこの段階)

1段階:この人ならわかってくれるかなーと思える相手を選んでカミングアウトする段階。この段階を数回踏むことで、「自分が自分であること」を肯定しエンパワメントされていく(と思う)

0段階:自分が「打ち明けにくい属性」だと感じていることは、自分に自信がないとか弱いとか、そういうことではなく、社会的にそう感じさせる構造があるからだと(うっすら)理解し「自分が自分であること」の一部としてその属性を肯定する・受け入れる、自分にOKを出す段階(カミングアウトまでの準備期間、的な段階)

こうして整理すると、人権教育で大切なのは0段階と2段階。1段階は、0段階にみんなが至れるように丁寧に環境を耕した結果生じるもの、ではないか。そして、1段階で一また一人、築いていった仲間とともに、もっと仲間を広げたい・・・とやってきたときに、それをフォローするのが大人(教員)の役目なのだろう、と。

教員だって、自分にOKを出せているのか? と自分に問うたときに、怪しい人が大勢いるはずなんだよね、たぶん。なぜなら、社会情勢がこんなに厳しく、能力主義の「自己責任」主義がはびこって、常に「仕事をうまく遂行していなければ使えないヤツと切り捨てられる恐怖」に追い立てられる構造がある中で、自分にOKなんて出しにくい。教師自身が0段階を大事にしていなければ、人権教育なんてありえない。

カミングアウトして/カミングアウトされて

人権教育の教材として、カミングアウトを考えさせるものがいくつかある。そして、そこでよく出てくるのが、カミングアウトされて「そんなこと関係ない」と答えることをどう考える? というのがある。

これは実際にありがちな話の一つで、「思い切って話したのに『関係ない』と言われて話が続かなくなって、それ以後も(自分の属性をめぐるあれこれ)を話せない空気になってしまった・・・」という、しんどくなってしまった当事者の声に基づいたものだ。ただ、一方で「そういわれて安心した~」という場合もある。だから、その教材にカミングアウトされる側として向き合うと「じゃあどう言えばいいの?」と困惑する人がけっこう出てきてしまう。その困惑をどうするかーーファシリテーターの腕の見せ所です! といえばそうなのだけれど、その困惑の中身を考えきれていないのに、そんな教材を扱うのはリスクが大きいよなぁ・・・ということも今年はよく考えさせられていた。

  • カミングアウト受けた側もびっくりするわけやん?「部落出身やねん」って言われて、「え? それなに? なんか(自分たちの仲に)関係あるん?」みたいな。そこで必死で考えて「それ、関係なくない? 俺らは俺らやん?」とか、「それってなんなん? どういうこと?」とかって、話がつながっていくほうが大事
  • (関係ない、と答えられて傷つく)っていうんは、そもそもコミュニケーション不足なんちゃうの? そもそも関係がちゃんと深まってないから、「関係ない」って言われたら、そこで止まってまうんやろなぁと思う

・・・という言を聞き。ああ、そうかと気づいたのは、「関係ない」って答えはあんまりよくないよーという趣旨で作られている教材の多くが、2段階レベルで生じた反応(個人的に関係が深いから打ち明ける、ではなく、打ち明けることで一緒に考えられるようになりたい、そういう仲間が広がってほしいから打ち明ける段階)を想定していて、学習者の側は1個人として友だちから打ち明けられたらどうするか、つまり1段階レベルで考えているから困惑が起きるのではないか、ということ。

自分のカッコ悪い面も、しんどくて未整理な部分も、この人には見せても大丈夫。という関係性の中で起こるカミングアウトと、それに対する「関係ないやん」は、何の問題もない(のかもしれない:とりあえず仮説)

とはいえ、実際には「この人なら」と信頼したはずだったのに、カミングアウトで相手の差別意識に直面して、ダメージ倍加・・・という事態も時に起きる。

  • カミングアウトすることで、得ることもあれば失うこともあるな、と感じていて。僕は得るもののほうが多かったから、自信になっていったと思う
  • 嫌韓も酷い一方で「韓国人になりたい!」若者がいるように、何かにつけて二極化しているな、という実感もあって。カミングアウトにしても、マイノリティを受け入れられる人と、拒絶しかできない人に二極化しているような感じがある
  • (部落で生まれ育って)自分にはポジティブイメージがあるから、どんな反応をされても「自分」というところでは戸惑わないのかな、と思う

0段階と一段階を行ったり来たりしながら、世間ではネガティブイメージで語られがち、そのイメージを押しつけられがち、な部分を、ポジティブイメージに変換する--差別するほうが間違っているし、差別されるいわれはないし、私たちはこんなに素敵でおもしろいぞ! という自信を育てる(別に素敵でなくてもおもしろくなくてもいいんだけど(笑) 世間がレッテル貼りするほどネガティブじゃないよ、ぐらいの)。そういう人のつながりを作っていくことが、やっぱり鍵なのだろう。「自分は自分」だけど、「自分」を知るためには他者とのコミュニケーションが欠かせない。わたしがいて、あなたがいて、みんながいて。

「“ひとり”のヤツをつくったらアカンで」ということばを、先週は何度も聞いた。
カミングアウトも、そのための行為なんだなと実感したし、人権教育のコアはそこにないとダメだなと改めて考えたのでした。