わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

承前)“カミングアウト”をめぐるあれこれ

昨日のつづきです(笑)

カミングアウトされる側としての わたし

・・・実は大人になるまでカミングアウトらしきものを受けたことがない。

育った小学校は商業地域ど真ん中(校歌も♪♪大大阪の中心地 商店街に庭占めて~)だったので、台湾系大陸系、コリア系・・・と入り乱れていたし、1970年代の当時も統合教育は行われていて今でいう特別支援学級もあり、原学級とそこを行ったり来たりしている児童も複数名いた(けど、自分の学年にはいなかった。だから友だちとして親しくつきあう・・・までに至ることがなくて、よく考えると残念だった気がする)。

そういう環境で、中国系の子は日本語読みでファーストネームは日本ふうでも名字は「段」とか「王」とかの子が多く、コリア系の子は日本名が多かったけれど、なんとなくみんな知っていて、不思議なことに「なぜ朝鮮式の名まえではないのか?」という疑問すら持っていなかった(逆に中国系の子になぜ日本名がないのか?と思ったこともなかった。目の前のそのまま、そういうもん、だったんだろうな。不思議だけど)

だから、改まってカミングアウトという事態がなかった。かといって、差別がなかったかというとそんなことはなく、ドッジボールの陣地取りでケンカになったりしたときに「中国帰れ!」と罵って場が凍りつく、みたいなことはときどきあった(昨日、本名宣言のことで書いたのと同じように、ここでも「それは言ったらアカンことやろ」と直感的に思うけど何がアカンのか言えないわたし、猛然と非難する子、「なんでアカンの?」な子、言われた方も「帰れるか、ボケ!」と言い返す子、顔を真っ赤にして泣き出す子と、さまざまだった。そして先生がその件に関して叱ってるところを見たことがない。陰で叱られてたのかもしれないけれど)。

唯一カミングアウトらしきものは、中学2年生のとき、お昼休みにお弁当食べながら、在日コリアンの友だちの誕生日祝いと称して騒いでいたときに、「明日、学校休むねん」と友だちが言いだしたこと。唐突だったので仲良しグループは「え? なにが?」「なんで?」となり、友だちが「うち、外国人やから、区役所いってなんか手続きしなアカンねん」と続けるとさらに「え? それなんなん?」とクエスチョンマークばかりが行きかって、当の友だちも詳しく説明せず(できなかったのか、指紋を押さねばならないなんて話を言いだしづらくて言わなかったのか、今となってはわからない)、「なんかめんどくさいねんなぁ」「そやねん」「へんなのー」という会話で終わった。彼女のお母さんは韓国から嫁いできた人だったので、日本語があまり上手でなく、そこに関わる困りごとや笑い話も仲間内ではよく聞いていた。その話の前も後も、私たちはおバカな中二女子で、学校帰りにマクドナルドで宿題したり、サーティーワンでいつまでもしゃべっていたりした。そして大学で外国人登録法に反対して指紋押捺拒否をした人たちと出会って、「あの次の日に彼女は指紋を押したんだ」とやっと気づいて、愕然とした。そして、もっとよく考えたら、その中にはもう1人在日コリアンの子がいたのに、その子からは外登の話も家の話も聞いたことがなかったなと気づいて、さらに愕然とした。

・・・わたしって。

高校生のとき、小学校からずっと一緒だった台湾系の友だちが「ほんとうは幼稚園の先生になりたいけど外国籍やと公立の先生は無理らしい」と悩んでいることを人づてに聞いた。小学生のときは家に遊びに行ったりもしていたけれど、中学、高校と同じクラスに一度もならなかったので疎遠になっていたから、その子が「そんなこと」で悩んでいることに驚いた。もっと驚いたのは、それを聞いた担任が「私立の幼稚園もあるんだから、諦めんでもいいと思う」と言ったという話だった。いや、それ違うやろ? そういう問題なのか? とはいえ、既に疎遠なその子にわざわざそんな話をするために声をかけるのも変な気がした。そういえば高校に上がった後から急に派手になって「なんでいまさらヤンキー・・・」と思ったけど、実は悩んでいたってことなのか。そんなふうに考え出すと、余計に声をかけづらかった。

・・・わたしって。なんかダメなやつ。

大学で解放教育・解放運動にどっぷり触れて、卒業して現場(私立高校)に入ったら、生徒からのカミングアウトを受けるようになった。特に2年生後半から3年生。進路指導しているときに「実はさ・・・」と話し始める。そりゃそうだよな、心配だよね。でも、もしそんな理由で不採用や不合格になったら、わたしは全力で闘うから。と話していたら、別のクラスの子を連れてきて「実はこの子も・・・」ということもあった。人権学習のあと(だいたい映画見て終わりパターンのアカン学校だったのだけど 笑)、自分が思うことをしゃべったら、その後で部落の子がきたり。

やっぱり、カミングアウトする側の人は、だれに言うかを考えてるよな、と実感する。

この5~6年、セクシャルマイノリティについてきちんと勉強するようになったら、知り合いが次々に増えるという現象が起きたことも、それじたいは有り難いことなんだけど、ショックだった。なぜなら高校の現場に12年間いて、在日コリアンや中国帰国者、部落出身の子からは何度もカミングアウトを受けたのに、セクシャルマイノリティの子からカミングアウトを受けたことはなかったからだ。いなかったはずはない。でも知識もなく考えてもいないわたしは、選ばれなかったのだと思う。

知識もなく考えてもいない。関心もない。逆に知識もあり関心もあり、いろんなことを考えていれば、言動の端々に「この人には言ってもだいじょうぶ」と思わせる何かがじわっと滲み出すのだろうな、と思う。そしてそれを、感じて、見ている人がいる。

カミングアウトについて授業で扱ったりすると、「じゃあなんて答えればいいのか」的な質問が毎回出てくるけれど、個々に人が違うから、万能の答えはあり得ない。「相手を失望させたくない」という気持ちはわかるけど、カミングアウトをほんとうに受けたとしたら、もうその時点であなたは「選ばれた」わけで。それは最適解を知っているから選ばれるわけではなく、ふだんのあなたを見ていてのことだから。大事なのは答えを知っておくことではなくて、ふだんから人と、社会と、どう向き合っているかということなんだよな、と思う。

カミングアウトする側としての わたし

過去に、森修さんを巡る思い出話のところで書いているから、カミングアウトの中味詳細はここでは省く(笑)

わたしは、ながらく0段階と1段階の合間を彷徨っていた子どもだった。

カミングアウト・・・というか《わたしの話》をしたことがないわけではなかった。《わたしの話》は医療過誤の被害者としての話で、かいつまんでいうと大手術の結果、障害者になることは免れたが大きな手術跡が残ったという話。自分に落ち度がないことは最初からわかっていたし、その意味では自分を肯定できていた。心ないことばや視線に嫌な思いをした経験じたいも、話せた。けれどわたしにとっては重要な事実経過の詳細が、他人にとってはそう重要ではないんだなと思わされることは多かった。そんなことはあたりまえだけれど、一生懸命説明したのに、正確に覚えてくれてない友だち(子どもなんだから仕方がないんだけど、わたしも子どもだから要求が無茶だった)に盛大にがっかりして、もう話したくないわ―と思って落ち込んだり。思えば子どもの頃から「自他の違い」「わかりあえなさ」みたいな部分に敏感にさせられていたのかもしれない。

大学で人権問題を学び、被差別マイノリティ当事者の聞き取りの機会が増えると、わたしは《わたしの話》の「嫌な気持ちになって、そのことを隠したくなる」部分が、よく似ているなと思うようになった。そして、その「共感」を手がかりに、自分は人権問題に関わっていけるなという自信をもつようになった。そして2段階ぐらいまでポンポンと進んだ。

・・・つもりが。

「手術跡でつらい思いをした」わたしのことは肯定できても、「障がい者になることを免れて良かった」と思う、その「良かった」の感情部分は肯定できないままだった。そういう自分が許せない。人権問題を学ぶからこそ余計に、わたしはそこではどうしようもなく差別者だなぁと落ち込む。そしてそのことをだれにも話せなかった。0段階にも進めない自分を持て余しながら、「差別は許せない」と活動しているのだから、厄介なヤツだったな・・・と思う(どこでいつだれに、とは言えないけれど、持て余している矛盾のせいでトバッチリ/八つ当たりにあった人もきっといたはず・・・すいません)

それがパーンと0段階に突き抜けたのが、森修さんのおかげだった。

かつ、たまたまその同じ場で、その話を聞いていた同期の友だちがいたおかげで、1段階にも、とととっと突き進んでしまったのが幸運だった。あ、言ってもだいじょうぶやん・・・と思った。おまえ、そんな差別的なアカンやつやったんかー、と非難されたりしなかった。もちろん考え方(障害者にならなくてよかった)はダメだけど。そういう感情をもたらすものの正体を考えればいいねんで、それが障害者解放運動やで、と、いっきに世界が回転したのだった。

先日、授業に障害者の自立生活支援センターの人たちが介護者募集のアピールに来たとき、そういう自分の話をした方がいいかなと思って、した。まぁ、相手は学生だし100人単位の教室だから、何か感じてくれる子が一人でもいればそれでいいと割り切ってたけれど、それでも頓珍漢な反応にはちょっとだけ傷つく(直接は聞いていないけれど「自慢話やん」と言っていた子がいたらしい。何の自慢やねん・・・笑)。けど、傷ついても揺らがない。それは《わたしの話》がわたしのアイデンティティのかけがえのない一部分で、ポジティブに肯定できているからだと思う(あー、でもそれが「自慢」に見えるのかな。自分を肯定できることじたいが「勝ち組」的に映るのかもしれない)。

だから今のわたしは3段階にいる。

まぁ、とはいえ。わたしという人間の多様な側面の全部が全部3段階にいるわけではなく、0段階や1段階で彷徨っている面も未だにあるわーと発見することもときどきあったりして。不惑の歳を十年過ぎても、人間てそんなもんなんだなと思うのでした。