わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

「食べる」こと

先週土曜日、この本の著者さんのトークイベントに行きました。

honto.jp

そのときに「自分を『在日』と感じるのはどういうところ?」という質問が出て、「・・・食べもの、ですね」という答えが出て、食の話へと展開していって。

そのイベントの後、この夏タイ旅行でお世話になったみなさん(マレットファン)の応援Night!の準備で買い物に行ったり料理をしたり・・・していて。

一緒に料理しながら「料理が好き」とか「料理しなさそうって思われがち」とかなんとか、話していたせいか、今日ひさしぶりに料理しながら、ふと考えたこと。

わたしって、「おふくろの味」的なものを引き継いでないよな・・・

日本に暮らす外国人/海外ルーツの人とつきあっていると、そのルーツの土地の美味しいものをご相伴にあずかったり、日本で手に入るもので工夫しながら食文化を継承している姿に触れたりすることは多くて、「ルーツを感じること」に「食」が深く関わっているのは、なんかよくわかる。と思うのですが。

わたしの料理のレパートリー、よく作るもの・・・はどれも自分でレシピを調べたものだったり、学生時代に被差別部落のおばちゃんや在日のおばちゃんたちに教わったものが多くて、母から教わったものがまるでないのです。なぜか。

以前から、テレビなどで「お母さんの作ったカレーを子どもが当てられるか」的なゲームを見ながら「そんなん当たるわけないやん。カレーって、どのメーカーのルーの味かの問題で家の味とかある?」って思う人で(だから当ててる人を見ると驚く)、息子も絶対に当てられないと思う(笑) ずっと前に息子に「うちで作るもので好きなものなに?」と聞いたら「トマト煮込み」と言ったけど、それも実家では作らない料理。

・・・そもそも、実家でわたしが料理するのは、父や母の料理が食べたくないときだったりしたからなぁ。父や母が料理が下手とか、作ってくれないとかそういうわけではなく、単にレパートリーの問題。母も、わたしがつくると妹が喜ぶ(妹の好む洋食系が多いからだけど)と言って、わたしをおだてて作らそうとしたり(笑)とどのつまり、一緒に台所に立って料理を教わったという記憶がない。子どもの頃、ほんとうにお手伝いレベルのときには、あったかもしれないけれど。

そうやって考えていて、思ったのは、わたしにとっての「おふくろの味」的なものは、「街の味」だな、ということだった。

日曜日のおひるごはんにお使いに行かされた「肉の関口」のコロッケ。

出前で食べていた「しき浪」のBランチ。

誓文払いの時期にだけ持ち帰りできた、「ダルニー」のカレー。

よく行っていたお好み焼き屋さんのブタ玉、551蓬莱のチャーハン・・・

夕食にしても、メインが黒門市場の魚屋さんが店先で炙っている鱧の照り焼きだったり、かしわ屋さんのチューリップのから揚げだったり、した。

買って食べることへの抵抗感がなさすぎ(笑)

料理する、ということでいうと、学生時代に「学生さん、食べていきや~」と誘ってくれるおばちゃんたちの手料理、「昨日法事(チェサ)やったから、食べるもんいっぱいあんねん。寄ってき!」とごちそうになったシリット(餅)やチヂミ、チャプチェ、お肉のスープ・・・等々の方に明らかに影響されている(今日もほうれん草をおひたしではなくナムルにしていたわたし)。ごま油常備。

冷凍庫に、常に「あぶらかす」入ってるし(冷凍うどんも常備だから、いつでもかすうどんが食べられる・・・あぶらかす被差別部落ソウルフード)。

・・・ってそんなこと書いてたら、そろそろ夕食のことを考えなければ。

なに食べよう。