わったり☆がったり

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『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 を読んで思うこと

 先月末のトークショーで購入し、サインもしてもらった本を読み終わった。

…というより、今日は「国際母語デー」なんです! 
これは早く読み切って、読みながらつらつら考えたことを書かねば!

今日 書かずに、いつ書くの! ってなって、一仕事終えて読み切りました。

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「あなたの母語は何ですか?」

・・・この質問に対して逡巡してきた温さん。

そして、「・・・あるときからわたしは、自分には少なくとも三つの母語がある、とあらかじめ宣言するようになった。日本語と中国語と台湾語・・・どれか一つだけ、自分の『母語』であると定めるよりは、三つともそうなのだ、と言ってしまうほうが、自分にはしっくりくると気づいたのだ」「そもそも、中国語と台湾語と日本語と、ひとつずつ数える必要はないのかもしれない。三つの母語がある、というよりも、ひとつの母語の中に三つの言語が響き合っている、としたほうが、自分の言語的現実をぴたりと言い表せるのではないか」(244p)と温さんは書く。

「あなたの母語は何ですか?」と聞くとき、質問者には「母語は一つ」という無意識の思い込みがある。私にも、そんな思い込みはあった、と思う。

母語。mother tongue。乳児期の生育環境から自然習得されるコトバ。

いまは「第一言語」と呼ぶこともある。そういう尋ねられ方なら、自分が思考を操るのにもっとも気楽に自由に使っている言語の名を、屈託なく答えられるだろうか? そう単純ではないだろう、と思う。「第一言語」と数字まで入ってしまうから、ひとつの言語名しか選べない・・・となると、やはり答えようがなくなりそうな気がする。温さんのような人とは比べ物にならないが、私もこうやって文章を書いているときのコトバ(標準日本語?)と大阪弁船場言葉と河内弁が混じっている)の両方が混じり合って、考えたり書いたりしている。論文であーだこーだ検証を書いているときには大阪弁は使わないし頭の中も書きコトバだ。しかし、どんなふうに書いていこうか、自分がここで書きたいことは何か・・・と考えているときは、両方が混然と脳内を駆けめぐっている。

母語、母国語、国語、標準語、方言・・・

コトバにつけられた名まえはたくさんある。

学生に、そういった名詞をいくつか示して、それぞれ何が違うのか、何を表す名前なのかを考えてもらったことがある。

日本のマジョリティは、母語も母国語も学校で教わる「国語」と一致している(と思っている)人たちだから、まず「母語」と「母国語」に戸惑う。え? これ違う意味なん? 〈国〉のあるなしで、何が変わるんやろ? あれ? そういえば「国語」って教科を英語に訳したらどうなるん? 標準語って、「共通語」っていうのもあるけど、それは何? ・・・つまり、無頓着に生きてこられた人たち。

それがいいとか悪いとかではなく、頓着しなければ生きられない人たちも、私たちの周りには大勢暮らしているのだということに、屈託のない人たちが思いを馳せることから多文化共生が始まるのだと思う。

金時鐘さんの日本語と詩

「私の日本語には元手がかかっている」と、1世の在日朝鮮人詩人、金時鐘(キム・シジョン)さんは書いた。

金時鐘さんは日本統治時代に済州島日本語教育を受けた世代であり、1948年の四三事件を受けて渡日した1世。大学生の時、『猪飼野詩集』を読んで、それまで読んだどんな詩にもない表現、そこに息づく人びとの姿に圧倒された。こんな詩があるのか、と思った。と同時に、在日朝鮮人子ども会にかかわりながら「国語教育」を学ぶ学生だった私にとって、〈同化教育の片棒を担いだ国語科〉から脱して〈マイノリティの言語を尊重する国語科〉になる道はあるのか? という葛藤を考えるのに、大きなきっかけになるような気がして、卒論に選んだ。金時鐘さんのいう「元手」から学びたかった。実のところ、日本社会で日本語で暮らさざるを得ず、既に日本語が「母語」になっている在日朝鮮人の子どもたちを前に、私が学んでいる「国語科」ってなんなのだろう? という後ろめたさのようなものにずっと悩まされていて、その迷宮から抜け出すにはこれしかないと思ったからでもあった。

そして、当時出版されていて手に入る金時鐘さんの著作はすべて読んだ。金時鐘さんは詩人であるだけではなく、朝鮮語教員として人権教育に取り組む高校の教壇に立っておられた時期もあり、教育に関する言及も多く、子ども時代のエピソードもたくさん書いておられ、思っていた以上に考える材料に満ちていた。温さんの文章の中にも台湾での日本語教育(温さんにとっては祖父母が日本語教育を受けた世代だ)にかかわるエピソードは何度も出てくる。国家によって断絶させられる親のコトバと子どものコトバ。そして、金時鐘さんの場合、国家の暴力によって物理的にも断絶させられ、日本で暮らす日々が始まる。

金時鐘さんに関しては、その当時(1989年)、まだ四三事件については言及できない、しえない事情があり、行間から仄見える「日本の敗戦後に済州島で起こった何事か」の内容がわからないまま読んでいた。その「何事か」について、語られ始めたのは最近のことで、そのことを巡って、ふたたび私の頭の中はまた別の嵐が吹き荒れているのだけれど、それはまた別の話。

胸が痛いエピソードはいくつもあった。

教室で日本語を使うと罰札が渡され、その札の数だけビンタをくらう。最初は教師がやっていたが、「不心得者が一向に減らない」ことに疲れたのか「子ども同士の制裁」という仕組みを作り出す・・・日本語を使わなかった優等生が日本語を使ってしまった生徒をビンタする、そんな教室。そうまでして日本語常用を推し進めた日本。そして金時鐘さんの父親はそんな時期にも朝鮮服を着て朝鮮語を話し、街で墨を吹きかけられる「不良朝鮮人」で、そのことを恥じた金時鐘少年はよりいっそうの優等生になっていった。そのやるせなさ。

でも(どちらがひどいと比べようもないけれど)私にいっそう辛かったのは、童謡や唱歌のやさしく美しい日本語の詩が、しみこむように当時の子どもたちの口の端に上り、歌われて身についていったという事実のほうだった。金時鐘さんは、そうやって身についた「日本的叙情から切れる」ことをご自身の詩作に課して、さまざまな作品に結実させてきた。日本語、そこにある思考、文化、叙情。そこから脱して、日本語で詩を書く。だから「こんな詩は初めてだ」と私が思ったのだ。

その後、日本語教育世代からお話を聞けた折々に、同じようなお話を何回も聞いた。そしてやはり「物語を読むためには日本語が読めないといけなかったから、一生懸命日本語を勉強した」とか、「朝鮮語を話すことはできたけれど、読み書きは日本語でしかできない子どもとして、戦後が始まった」とか、そんな個々のエピソードの一つひとつに感じる痛みが、私がつかんだ〈同化教育の姿〉になった。

母語(mother tongue)」という名づけは、この世に生まれてきたその子どもが、そのままお母さんに抱き留められ、慈しまれて育つうちに自然と話し始める・・・そんなイメージからきているのだろう。もちろん母だけではなく、慈しむ大人はほかに何人いてもいい。しかし、そんな子どもの幸福を許さない国家の暴力がかつてあったのだ。植民地支配はなくなったが、いまも形を変えて、その暴力はまだある。だったら、その暴力に負けない力をはぐくむような、そんな「国語科」を構想できればいいのではないか・・・。ひとまず私は迷宮から抜け出し、次は植民地の「国語科」を掘り進めることにして、いまもうろうろしている。

温又柔さんの日本語と文学

温さんが「私の母語は三つ」と言い切ることにした、ということのほうが、上述した「母語」の本来のイメージにより近いものだなぁと思う。

「あなたの母語は何ですか?」という質問が暴力性を帯びてしまうのは「母語は一つであるはず」という狭量な思い込みのゆえに、自分をはぐくんだ言語に順位付けを迫るからだ。そして同化教育とその後に続く在日朝鮮人差別の中で、在日コリアン朝鮮語を選べなかった。家族やコミュニティのコトバとして維持することも、日本社会の中では困難だった。母語は一つであるはず。言語と民族は同じであるはず/〇〇人なら〇〇語が話せるはず。話してみてよ!・・・そんな無意識の暴力性。そしてそれはいまも、ニューカマーの子どもたち、2世の子どもたちを悩ませ続けている。同化教育の負の遺産。宿題はまだ終わっていない。

卒論を書いていたころ、ヒリヒリしながら読んでいたのが李良枝(リ・ヤンジ)さんの小説だった。『ナビ・タリョン』『由煕(ユヒ)』『石の聲』・・・温さんが修士論文に李良枝の文学を選び、大きな影響を受けたことを読んで、胸がいっぱいになった。

ああそうか、こんなふうに文学もつながっていくのだな、と思えたからだ。

日本のマジョリティは、国境と言語の境界を無意識に同一視している。日本の領域内で使用されているから日本語。日本語を話しているから日本人。明治政府がめざした、一国一言語一民族を内面化したまま、21世紀を迎えてしまった。

でも実際には温又柔さんのような作家がいる。その前には鷺沢萠や李良枝もいる。国籍と民族と言語が一直線に紐づけられない、複数の言語や文化につながる人たちも、今後増えこそすれ減ることはないだろう。日本はずっとそういう境界線上をたゆたう人々を無視して、そんな人たちにお構いなしの社会を作ってきた。もとはといえば日本という国家の暴力によって境界線上に放り出した人たちに対してさえ、責任も取らず、その存在を無視してきた国で、新たにやってきた人たちがまたつらい思いをさせられる。

それでも、温さんが描写する「ママ語」/台湾語と中国語と日本語が混じり合う響きの、なんとチャーミングで生き生きしていることか!(その響きは繁体字とカタカナ、ひらがなを駆使して表現されている)

そこにある、台湾の歴史。日本語を押しつけられ、その暴力が去ると、今度は中国語を押しつけられる。大陸と海峡を挟んで対峙する、多言語の台湾。押しつけられた「国語/國語」を身につけ、したたかに生きてきた人たちと、そんな人たちが日々の暮らしのなかで使い続けた台湾語や民族のコトバ。そんなコトバが溶け込んだ温さんの日本語と、その日本語でつづられる文学は素敵だ。なんて豊かなんだろうと思う(その良さがわからない芥川賞の選考委員がいたなぁ。思い出すだに腹の立つ!)

私は研究対象が植民地期の朝鮮で、同時期の台湾のことをきちんと勉強し始めたのはこの10年ぐらいに過ぎない。本書を読みながら、朝鮮とはまた違う解放後・冷戦時代を過ごした台湾の現代史に考え込むことも多かった。ついこの前、台湾の留学生に「なぜ同じ植民地だったのに、朝鮮のことばかり教えて台湾のことは教えないのか。教科書にも載ってなかったと日本の学生が言っていた」と質問され、申し訳ない気持ちになったばかりだったから、よけいかもしれない。そう質問されて改めて、日本は自らの支配者としての歴史を、被支配者の子孫である在日の人びとから突き上げられて初めて教科書に載せ、授業で扱うようになったに過ぎないだな、そこに国家としての主体性はないのだな、と思わざるを得なかった。要は反省する気がなかったのだ。過ちを教訓化する気も。だから一国一言語一民族に何の疑問も持たない国民が生まれ続け、「日本人が日本語で日本を描く」文学しか日本文学ではないかのような狭量な発言が飛び出すのだろう。

温さんが描き出す世界はまぎれもなく日本の物語だ。複数の言語と文化にはぐくまれる人が経験する、モノカルチャーの日本。日本で暮らす多文化な人たちの暮らしや感情。複眼的、重層的なコトバの世界が、これからの日本文学を豊かにしていくだろう。そこで使われる日本語は〈同化教育の片棒を担ぐ〉コトバではなく、多様性を多様性として描き出す力のある、素敵なコトバだと思う。

「わかる」とか「わからない」とか

さいきん気になっていることの一つに、国籍や民族をめぐってアイデンティティ葛藤を経てきた温さんのような人たちの経験に対して「自分は純日本人だからわからない」と「わかる/わからない」にこだわっているようで、理解をあきらめるような言動が、学生の中に目立つこと、がある。・・・目立つ、と思っているのは私なので、単に私が気になるだけの話かもしれないが。国籍や民族の問題だけでなく、差別に遭いやすいマイノリティ性をもつ人たちの経験談に対して、ふわっとした拒絶を感じる何か。はっきりと「わかりたくない」と言い切るわけではない(そう言ってはダメだと思っている?)が、かといって「わからない」ことに対する焦燥や無力感にさいなまれるふうでもない。「わからない」から勉強しよう、話を聞こう、というふうでもない・・・。

私も母語は日本語で、第一言語も日本語で、日本語の社会に生きている者だから、わかるかわからないかと言われたら「わからない」側だ。でも本書を読みながら、私は何度も涙をこぼした。「わかる」から泣いたのでもなければ、「わからない」から泣いたわけでもない。たとえば、温さんのお母さんが「ママ、にほんご、へた。あなたたちに、にほんの本、読まなかった。読めなかった」と言ったとたん、さっきまで微笑ましかったのに一気に緊張して胸が詰まり、おなじようなコトバを聞いたことあったわ・・・と思わず何人かのお母さんの顔が浮かび、行き場を失った感情が涙になって出てくる・・・という具合。切ないとかやるせないとか、こういうときのためにある表現なんだなぁと実感してしまう。

こういう感情におそわれたとき、「わかる」とか「わからない」とか、関係なくなってしまって、切なくてやるせなくて、じっとしていたらやりきれないから、本を読んだり人に話したり、とにかく動き出す。その繰り返しで、私はいま「多文化共生」だの「人権」だのを仕事にしながら生きているように思う。

そういえば「外国にルーツがあるといわれても、ふーん、そうなのか、としか思えないのはダメなんですか?」と質問に来た学生もいた。「牡羊座ですとかA型ですとかいうのと同じレベルで受け止めたらだめなのか?」と。ゲストが「日本生まれで日本育ちの自分に『もうほとんど日本人だね』とか『日本人と変わらないね』とか、言ってしまうことによって、隠されてしまう・見えなくなることはないのかな? と少し考えてみてほしい」と話した次の週だった。あの学生さんが、この本を読んだらどう思うのだろう。温さんが温さんであることの一部一部は、星座や血液型と同じ重みといえるのだろうか。あなたと私の関係の中では、そういう受け止めもありかもしれないけれど、あなたも私も、温さんに窮屈な思いをさせてきた日本社会の中で生きている。私たちはこの社会から決して自由ではないのだから、そこから自由になりたければ、見なければいけないものがあるのではないだろうか。

U-Books版のあとがきの末文に、また涙が出た。この思いに目を向けない、見ようとしない日本の社会と、私はまだまだ闘わなければいけないなと思い、そして動き出す。

祖母に捧げた本書を、「ママ語」でわたしを育ててくれた母と、母のようなすべてのママたち、そしてそんなママのもとで育つ子どもたちにも捧げたい。/2018年8月灼熱の東京にて    温又柔