わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

今日は何の日

今日は国際女性デー。

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さいきん(・・・というより、これまでいろいろと学んできた積み重ねの結果がこの1年ぐらいで噴出している感じなのだけど)、わが母は「私は娘を自由にさせてます!」と言い続け、自分でもそう思いこんでいたのだろうなぁということをよく考えます。

かくいう私も「自由にさせてもらった」と思いこんで生きてきたのだけど。

児童虐待の起こるメカニズム、いわゆる「伝統的親子観」や「母性神話」・・・等々を学ぶにつけ、「自由にさせてます」の陰でなかなか巧妙に娘を支配下に置いてたんだな、あの人は。と気づいてビックリ(苦笑) で、自分でも意外なぐらい抑圧されていたというのか、支配されてたなぁと考え始めると、ものすごくどす黒い感情が渦巻くww

亡くなって10数年経つので、それも大きいかもしれない。
生きてたら、このどす黒い感情をぶつけるかなぁ・・・と考えてみたけど、たぶんぶつけないだろうな。ぶつけたところで、理解されないだろうと思う。というより、それをやると母は自分の人生全否定?みたいになっちゃうから、老年になってそれは辛かろうし、そんな辛い思いをさせたいと思うほどには、私も怒っていない。

母のせい・・・ではなくて、そういう社会に生きてきたのが母の人生なわけで。

今年は #me too の動きや例の医大の入試差別やらもあってか、例年に比べて3月8日に絡めた報道も多いような気がしていて、つけっぱなしのテレビから聞こえてくることに刺激されて、またつらつらと母のことや祖母のことを考えてしまう。ジェンダーの問題は、私にとってはどこまでも祖母と母と私の話。

母と私

うちの母は娘三人に対して「やりたいことをやりなさい」が口癖だった。そして、実際にお稽古ごとなどは裕福でもない家計をやりくりして可能な限りやらせてくれた。だから「自由にさせている/させてもらっている」とお互いに信じて(?)いたと思う。

でも、よくよくその中身を考え直してみたら、「やりたいことを」と言いながら、母の趣味でやらされたものもあったし、母の趣味に合わないものに関してはやらせてはくれるものの、微妙に非協力的だった(まぁ、人間的ともいえる 笑)。「熱中できるものがあればグレたりしない」という強固な信念があって、あまり勉強が得意でなかった妹たちに対しては「手に職を!」と「何を伸ばしてやればいいのか」とあーだこーだ、やかましかったようにも思う。妹たちがそれに関して今どう思っているのかは定かでないから、私がどうこう言えないけれど、いま思い返してみると「親として安定した将来になるように援助する」つもりの母の言動は、妹の進路を必要以上に誘導してしまっていたんではなかろうか・・・と考えてしまう。

私は中学までは成績優秀で、特にガリガリ勉強した覚えもなく、いわゆる受験勉強的なものは大嫌いで、学校そのものも好きでなく、「中学出たら働きたい」と言いだす始末の娘だった。かつその時期の中学校はヤンキー全盛期で、校則通りの髪形や制服だとかえって浮いてしまうような状況下で、私も制服のスカート丈をこっそりいじったり、教師にばれない化粧はどのラインまでかを友だちと研究したり、といったことはサバイバル術としても必要だったのだけど、母はそんなことまったく頓着せず、「学校の決めたことを守れないなんて!」と学校の生活指導の先生よりもチェックが厳しいありさま。もうその時点で「自由にしなさい」と真逆やん・・・(笑) とはいえ、当時の私はそういうくそまじめな母をうっとおしいとは思っていたけれど、それが私の権利を侵害しているとは露も思わず(そんな知識はないですもんね・・・)、ただただ、早く働いて自活して、学校からも家からもおさらばしたい! とひたすら念じていた。

その当時私はバレエのレッスンに通っていて。それは数々のお稽古ごとのなかで、さいごまで「好き」が持続して続いていた唯一のものだったのだけど、中二当時はそっちもスランプ状態で、それもやさぐれていた原因のひとつだったと思う。で、後から考えれば矛盾のカタマリなんだけれど、妹たちには「何かに熱中すればグレない」としつこかったのに、実際にグレかけ?な風体の私がぐちゃぐちゃに煮詰まって「もうバレエ止めるわ」と口走ったとき、あっさりと「あ、そう。その方が助かるからいいわ」と母から返ってきて、「あれ、止めへんのか・・・」と拍子抜けした。もちろんそこには家の経済状態と、バレエという超絶お金のかかるお稽古ごとという問題があって、母を責めるのは筋違いだとわかっている(当時も拍子抜けしつつ、お金のことで「やっぱりそうか」と私も納得していた)けれど、結果的には何がやりたいかもわからず、学校は居心地悪く、家もうっとおしい・・・というドツボな中学三年生になり、「とりあえず高校は行きなさい」「なんで?」という言い争い。1年生の時の担任が同和教育に熱心な学校から転勤してきた人で(というのを友だちのお姉さんから聞いても当時は「?」だったのだけど、大学に入ってからその意味がわかって、6年越しの感謝をした)、3年の担任:転勤してきたばかりのおじさんも、どうやらそういう人だったらしく「中卒で就職ということがどういうことか」を具体的に説明してくれ(求人票も見せてくれた)、「高校は出た方がいいと親がいうのは根拠があることやで」と私に納得させてくれた。かつ(自分でいうのも何ですが、ほんとうに中学までは優秀だったので)「学区内トップの学校でも受かるで」と言われて「勉強嫌いやのにトップ校とか無理」と返す私に「そうやな、S校の方が向いてる」と3番手の高校を勧めてくれた(のが結果的にはヒットして、学校嫌いは治らなかったものの大学に至り、今日に至る。ありがとう先生)。もし担任が違っていたら、トップ校無理やり受けさせられたに違いなかったので、ラッキーとしか言いようがない・・・。

そして高校で演劇と出会い、演劇部のために高校に通っているような生徒になった。さすがに高校生にもなると(下に妹も二人いるわけだし)、母もそんなにうるさくはなくなったけれど、それでも門限だのバイトするなだの(お金ないのに・・・?)、めんどくさくてしょうがなかった。もともと勉強が嫌いで、受験勉強らしいこともほとんどしないまま合格したので、完全になめてかかっていた私は、S校に入りたい!と思って鋭意努力してきた人たちのなかで完全に転落し、夏休みの補講にいくつも呼び出されてしまったので、「そんな成績でクラブ活動とかあり得へん」と言う母に従って、演劇部を続けるために勉強する少女になった(笑)「おまえ、ホンマになめてるよな・・・」と先輩に呆れられるぐらい、勉強し始めたらすぐに成績も平均点程度は取れるようになってめでたしめでたし・・・ではなく、高校3年間、何かやらかすたびに「クラブを辞めさせる」と脅迫された。母にしたら、そう言っとけば私は言うことを聞いたので、母はマジックワードを手に入れたようなもの。そんなことも、さいきん気づいた。私自身は、当時は生活のすべてが「演劇をするため」に収れんされていたから、それを使って母が私をコントロールしているなんて思いもせず、演劇するためなら多少の小言も制約もOK!と元気に暮らしていた。実際、高校に入ってから私と母の関係は中学時代よりも穏やかになっていて、喧嘩もしなくなったし、他愛ないおしゃべりの時間も増えて、仲良し母子に見えただろうし、私もそう思っていた。

その後、大学に入って、私が解放運動に関わって「権利」ということを学ぶようになってから、改めて衝突が増え始める。大学生当時の私は、母は物わかりがいい方だと思っていたのになんで? と困惑することの方が多かった。けれど、よくよく思い返して考えたら、なんだかんだ言いながらコントロール下にあった娘が、コントロール効かなくなり始めた・・・ということだったんだろうか、と思う。突然物わかりが悪くなったわけではなく、母の想定できる範疇からはみ出していく娘に困惑していたんだろうな。

そして母は、どこまでも私をコントロールしようとあがきまくった。きわめつけが「大学院に行く」といったときに、寝込んだことだ。「あんたのせいで寝られへんくなってしんどくなった」とか言いだして、さすがに私もブチ切れて「何の因果関係があんねん」と怒りながら、それでも怒ってるだけでは仕方がないと思いなおして、なぜ大学院に行きたいのかと縷々手紙に書いた(我ながら、健気やったな・・・とほめたい)。

その後も、就職、結婚、育児・・・のときどきに「?」と困惑する言動の数々はあったけれど、基本的に私は「親が心配するのは仕方がない≒愛情」と解釈していて、支配しようとする母/支配されている私 という構造だとはまったく理解していなかった。ただ、母が「想定する範疇」が、いわゆる「女性らしさ」とか「学生らしさ」といった「世間の常識(やや古めの)」に縛られているな、ということには気づいていた。「らしさ」からの脱却。「らしさ」を押しつけるものへの抵抗。それが母の生き方を越えるということではなかろうか。そう考えた私にとって、大学院に行くことが母に理解されないことは歯がゆく、もどかしいことだった。

祖母と私、そして祖母と母

母方の祖母が、私は好きだった。好きというより、この社会で女ジェンダーとして生まれて生きていく私の先を歩いていた人、という存在になっている(いまも)。

祖母は富農の長女として生まれ、「女に学問はいらない」と言われて育った。弟である大叔父が晩年にも言っていたけれど、すごく勉強が好きで優秀で、大叔父も「おれより姉ちゃんが進学すればいいのに」と思っていたそうだ。しかし祖母の親は、男は中学まで行かせるが、女は小学校でよしという方針を変えなかった(大叔父の受験勉強も祖母が面倒を見たらしく、大叔父は祖母に頭が上がらない感じだった。数回しか会ってないのにその印象は鮮明に覚えている)。しかし祖母は勉強大好きなお転婆で、何とかして上の学校に行く手段はないかと考えて、大阪の看護学校(日赤)に寮があると聞きつけ、こっそり猛勉強して受験し、「合格したから行く!」と家出するように大阪に来た。そして看護婦になる課程を修了しても「助産婦の課程も受けるから」と帰らず・・・の引き延ばし作戦。でもそれが仇というのか、修了をまって「村役場がお産婆さんとして帰ってきてくれたら有難いと言っている」と呼び戻され・・・。とはいえ、祖母は村で「働く女」として活躍した日々が楽しかったようだ。お産婆さんとして働いてお金を貯めながら、次は東京に出てやろうと企んでいたらしい。その企みに気づかれたのかどうか、実家が縁談を用意する。で、結婚してしまった。なぜそこで結婚したのよ(しかも写真だけ見せられて決められるという大正時代家父長制)と孫世代には「?」だったのだけど、亡くなったときに遺品から祖父の見合写真が出てきて、「・・・おばあちゃん、面食いか!」とゲラゲラ笑いすぎて伯母たちに叱られた。それもあっただろうけど(笑)祖父が農家の次男で大阪で起業しようとしていて、大阪にいたことのある祖母をぜひ、という話だったというのも大きかったんだろうな・・・と私は思っている。

そこからは、大阪に出て起業する祖父と二人、大阪で奮闘したわけだけど、野心家で男前の祖父は女性関係も大変だったらしい(笑)それは置いといて、祖母は自分が「学校に行かせてもらえなかった」リベンジといわんばかり、子どもたちに学歴をつけることに執着した。その結果、母のきょうだいはさして裕福でもない(祖父の事業は紳士服のテーラーだったので、敗戦後はうまく立ちいかず、戦前ほどの羽振りはなくなっていた)家庭にもかかわらず、当時(1950~60年代)にしては学歴が高い。母も高校進学率60%の時代に短大を出ている。

そういう祖母だから、女の孫で初めて国立大に合格した私のことをとても喜んでくれた。その後まもなく亡くなるので、ギリギリ祖母孝行になってよかったな、と思う。けど、私よりもレベルの高い国立に受かっている従兄もいるのに、そっちはどうでもいいと言わんばかりに喜んでいた祖母と、「なんでやねん」と少々不満げだった従兄の顔を思い出すと、ちょっと可笑しい。

「女も、学びたいだけ学んでいいねん。大学にも行ける。そういう時代になった」

そういう祖母の思いを裏切らないように生きたいな、と今も思っている。

でも母にとっては、そういう祖母が嫌だったのだ。

母が「自由にやりたいように」と私たち娘に言い続けた根っこには、自分の意志を無視して短大進学をごり押しした祖母に対する反発があった。母は祖母のように気が強くなく、どちらかというとおとなしくてやさしい、家事をし、弟の世話を焼き・・・が好きな子どもだったようだ。そしてテーラーの家で、たくさんのお針子さんたちに囲まれて幼少期を過ごしただけあって、洋裁が好きだった。母のうえの伯母ふたりは女学校/高校の後、洋裁学校に通っている。母も同じ道を進みたかったらしいのだが、下の伯母が洋裁学校に進んだ後、女子の高等教育進学率を上げるために「短大」というものが続々と生まれてきて、祖母は「女も大学に行けるんだ!」と、そこに夢中になってしまった。家政科なら洋裁も学べるし、大学の方がいいに決まっている!という祖母の勢いに母は抵抗できなかった。でも入学してみて、1年目は一般教養でやりたくもない英語やフランス語をやらされ、家政学というくくりのなかの食物、被服・・・ごく一部分でしかない洋裁の時間には失望感しかなかったらしい。

この話をくりかえし、「だからあんたらは、自分がやりたい道に進めばいい」と母は言ってきた。でも、結局は祖母と同じで、自分ができなかったことを娘に仮託したいだけだから、自分の思う方向性ではない希望を排除する点で、祖母と母は同じだった。皮肉なことに。

母は反発しきれず、
私は反発し、そこを脱した。

反発しきれず・・・ということでいえば、母は父にも、というより「家父長制的価値観」にも反発できなかった。「そういうものだから」と考えていた。それは祖母も同じで、祖父にふりまわされながらも家業を支え、子どもを育て、祖父の傍で生きた。母や伯母たちが「なんで家出までした気の強い人が、夫に対しては我慢して気を遣って人生を送れたのかが謎」とよく話していたが、それが祖母の限界・・・というか、当時の世の中で自分に何ができるかを現実的に考えたときの限界だったんだろうなぁと思う。それと、母方、特に祖母の実家につながる親族はみんな本当に子どもが好きで、子どもの相手が上手い人が多かった。祖母は助産師でもあったし、7人出産したら、その子育てを優先して、そのために家庭を守ろうと一生懸命になった延長でそうなってしまったのは自然なことのように思える。

そして母も、父に逆らわない人だった。ただし、不平不満は多くて、娘にもダダ洩れ状態で愚痴を漏らしていた。なのに、重要なことに関しては自分で決断したりOKを出したりせず、「父に聞け」というのが常で、妹がそれに怒ったこともあった。そりゃそうだよね。常に「甲斐性がない」「頼れない」と愚痴愚痴言っているのに、その「頼りない」人が許可しなければしてはいけません、だから父に聞きなさい・・・って、自分が責任持ちたくないときだけ父に丸投げかよ・・・みたいな、ね。

祖母も母も、「母親」という役割分業に対しては素直に引き受け、だからこそ、子どもに人生を賭けた、といえるのかもしれない。ただ、そこでも助産師という専門職経験のあった祖母の方が、母よりも自己肯定感が高かった/子どもへの依存度が低かったような気がする。

そんな母も、人生の最後の方、10年弱にすぎなかったけれど、1人暮らしを満喫した。

私が就職して「家を出る」と言いだしたときに、母は突然、「じゃあ私も家を出る」と言いだした。みんな面喰い、「はあ?」という空気になるなか、どんどんいろんなことを決めて、ほんとうに別居した。・・・妹も就職していたし、もう父の下で我慢する必要はないと思い切れたのかもしれない。それでも離婚には踏み切らず、戻る気もあるのか? 戻るところを置いておかないと不安なのか? と謎だったけれど、それも私が「婚姻届は出さない。事実婚で行く」と宣言したときに、「そういうのもあるんか・・・」と言ったかと思ったら、すぐに離婚した。え?

世間はそういうものだから、ルールでこう決まっているから・・・、という生き方を何の疑いもなく受け入れてきた母は、そこに縛られているというより、そこに従っておけばうまくいくのだと信じることで、いろんな不満や葛藤をなだめて生きてきたということなのだろうなといまになって思う。私が「婚姻届なんていう仕組みに乗っからなくても、自分たちはやっていける」と示したとき、「離婚したらすべてが無に帰すような気がして躊躇っていたのが、結婚も離婚も紙の上の問題で、実際に過ごした年月やそこで得たものが変わるとか傷がつくとかいうことではないと思えた」らしい(という主旨のことを言っていた気がするけれど、正直、離婚届一枚になんでそんなにこだわったのかが私には最後まで理解しきれなかったので、母の言いたかったことは違うかもしれない・・・)

そんなふうに考えていくと、「世間はこうだから」に反発し家出したという若かりし祖母、その結果の子どもの学歴へのこだわり・・・という祖母のストーリーに反発した結果が、「世間はこうだから」に従順な母を生んだのかもしれない。そしてそれに反発した私は、祖母の方がかっこいいと思い、祖母の続きを生きたいと思った。母に直接「あんたはどうせ、おばあちゃんの方が好きなんやろ」と言われたこともあったけれど、やはり心中複雑だったんだろうなと思う(「おばあちゃんに似てる」と言われたこともある。それも、あまり嬉しくなさそうだった  笑)

そしていま。

祖母も母も彼岸に行った。思えば、最晩年は2人ともあまり幸福ではなかった気がして、孫・子として少し申し訳ない気もしている(かといって、2人に穏やかな老後/死に際を用意できる方法があったかと言われたら、それは私の手に余る、とも思う。これだけ高齢化社会になった今も、日本の社会保障制度は相変わらず貧弱だ)。

私は子どもを授かったとき、母のような子育てをしたくないという気持ちがあって、そこからアドラー心理学に辿りついて勉強した。いわば反面教師だ。それがうまくいったのかどうかは、子どもが評価することだと思うので、わからない。でもわが子の言動に、ときどきいわく言い難いざわつき・・・「え、そんなこと親に正直に言う?」みたいな気分になることがあって、ということはうまくいったのかな? と思っている。特に思春期を過ぎて落ち着き始めてから顕著だったのだけど、何でもない話のなかで上記のような、「そんなこと言って、親に嫌われると思わないのか?」と不思議に思っている自分に気づいて、ということは、私はこれを言ったら母が傷つく、とか、母に見捨てられる、とか、そういうことを無意識に考えて黙っていたことがあるということか・・・と気づいて愕然とした。私って、そんなにもあの人に遠慮して気を遣っていたのか・・・と。

そしていまだに、パートナーにも子どもにも「これ言ったらウザいやつと思われるかなー」とふと心配がよぎってコトバを選んでいることがある。もちろん、親しき仲にも礼儀ありで、何でもかんでも思ったままダダ洩れにするのはよくないし、私も適度に気を遣ってほしいと思っているのだけど(笑) 私は過剰に心配し過ぎだなぁと自分で呆れてしまうことがよくあるのだ。私がそんなことで嫌いになったりしないように、相手もきっとそうなのに。

「親に反対されるとかいうのが、想像できなさすぎてよくわからない」と、うちのお子さまは言っていて、「だって反対してもなぁ・・・私がやることじゃないし」と素直に思っている自分が好き。祖母にも母にもできなかったスタイルの子育てを、少しできているかなと思うから。ただ、幸か不幸かストレートの息子ひとりなので、もし娘だったらどうだっただろう? と考えると自信がない。女の子だったら、女の先輩として過剰な思い入れが生じて、こんな突き放した距離感で呑気に「それはあなたの決めることだよね」なんて言っていられなかった可能性の方が大きいなと思うのだ。ことほどさように、相変わらず女が生きづらい社会に、私はまだ暮らしている。

 

医大の入試差別、祖母が生きていたら、きっとニュースを聞いて怒髪天だったろうなと想像する。勉強は裏切らないと信じ、勉強を武器に闘った祖母にとって、入学試験という公正に審査されるべき場で差別があるなんて、許すまじきことだ。

では、母は? 

私は、医大の言い訳「でも女はやっぱり子どもができると(勤務が)難しいから」に同調していそうな気がする。私とぶつかりまくって、折れたり折れなかったりしていた母だけど、「世間がこうだから」にのっかっている方が無難だという信念は最後まで変わらなかったように思う。無難だということが幸福とは限らないのに。そして、無難といえるほど無難でなかったのが実際なのに。

私にも私の内の「母的なもの」がある。「こういうもんだよね」と無批判に世間を受け入れてしまう心情。子ども時代の支配/被支配の影響も、いまさら感じて根深いなぁとあきれたり、憂鬱になったりしている。「毒親」と言い切れるほどではないけれど、子どもの私に「そこは我慢しなくていい。あなたは間違っていない」と言ってあげたい記憶が芋づる式に出てくると、母に怒りを覚えるときもある。

そんな親子関係が、少なくなっていけばいいと思う。親も子も、自分の意志を尊重され、自由に生きていける、そんな社会。女にだけ過剰に子育てを任され、その結果子どもに依存して自立できない母親になったり、子どもとの距離感が上手くつくれずに自分を見失う母親になったりする社会を変えたい。

 

今日はそんなことを考えた。