わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

日本語教育と母語保障と・・・バイリンガル人材?

去る6月14日に「読書の学校 温又柔×高谷幸」というとても素敵なトークイベントがあった。温さんの『「国語」から旅立って』と高谷さん編の『移民政策とは何か』を両方買って、サインもいただいた(完全にミーハー 笑)

『台湾生まれ、日本語育ち』も『「国語」から旅立って』も、ものリンガル日本社会のなかで複数言語環境で育つ子どもたちの感じることや思いに的確にコトバを与えてくれる感じがして(私はそういう子どもではなかったし、いまも違うけど)、さすがだなぁと感嘆する。読んでいても、お話を聴いていても、いろんな子どもたちや友人の顔が浮かんで、泣きそうになる。

そして、実はこの日程には大きな意味があった。

翌日が大阪府在日外国人教育研究協議会という、大阪府下で在日外国人教育を牽引してきた教員たちの、年1回の全体研究会で、温さんはその記念講演の話者として登壇されたのだ。大阪の先生や子どもたちに、温さんのコトバを届けたい! という事務局の願いが叶い、ほんとうに嬉しいひとときだった。

そして昨日、文科省のプレス発表 

外国人の受入れ・共生のための教育推進検討チーム報告書:文部科学省

内容的には、ようやく文科省がここまで言ってくれるようになったか・・・と思えるものでありつつ、一抹の不安も残る(あたりまえだ。なにせ朝鮮学校に対してあんなにも冷淡で残酷なのである。一方でそんな仕打ちをしながら「母文化や母語を学ぶ機会にも配慮して」と書かれても、どの口が言う・・・としか思えない)。

歓迎しないわけではない。むしろ、文科省がここまで言っているのだから、現場からも声をあげて、そのために何が必要か、現場で実際に困っていることは何か、これまで以上に文科省に言っていけばいいと思う。これまで取り組んできたものからすれば、この報告書が言っていることは現場の努力を追認してくれたものにすぎず、がんばりやすくなっただけのこと。そして「がんばりやすくなる」ことがどれほど大事か。これもわかっている。

しかし、一抹の不安がある(一抹ではないかもしれない)

教育は「人材」をつくるためにあるのか?

たとえば、上記報告書の2p「基本的な考え方」にはこうある

○ 外国人の受入れ・共生は、我が国に豊かさをもたらすものであり、 外国人が日本人とともに今後の日本社会を作り上げていく大切な社会 の一員であることを認識し、日本人と外国人がともに尊重し合い、さ まざまな課題に対して協働していくことのできる環境を構築すること が重要である。

○ 例えば、外国人は産業の担い手となるだけでなく、少子高齢化が進 む日本社会における日本文化・地域活動の担い手となることも期待さ れる。また、彼らを通じて我が国に多様な価値観・文化がもたらされ ることは、日本人がグローバル社会で暮らしていく上でも役立つもの と考えられる。またさらには、日本の情報を世界に発信する上でも、 日本を知る外国人の貢献が期待される。    (下線は引用者)

「ちがいをゆたかさに」は、大阪府外教がずっと掲げてきたスローガンだ。そこには、えてして「ちがい」が差別の理由に使われがちな日本社会を変えたい、という思いがある。「みんなちがってみんないい」という安易な相対化ではなく、「ちがうことこそ素晴らしい」と積極的に価値づけていくところまでやらなければ、異言語・異文化の尊重にたどりつけない、日本は強烈なモノリンガル・モノカルチャーの社会だから。

2019年になって、ようやく文科省が「外国人の受入れ・共生は、我が国に豊かさをもたらす」と言ったことには意義がある。しかし、その「意義」は次のパラグラフで明確に書かれているように、日本社会の豊かさを維持するための労働力としてであり、日本人の子どもが国際感覚を身に着けるための材料としてであり、「日本すごい」を発信するための媒介として、つまり「人材」だから意義があるということにすぎない。

ことは外国人の児童生徒だけの問題ではなく、日本人マジョリティの子どもたちに対しても、産業界が要請するそのときどきの「必要な人材」としての能力を学習することが、常に学校に求められてきた歴史と現在がある。そして、あまりにも無策に放置される外国ルーツの子どもたちへの教育保障を勝ち取るために、方便として上記のような訴え方を、現場もしてきたと思う。この子どもたちが、今後の日本社会を支えていくんだから、母語保障をすることで国際的に活躍する人材になれば、日本社会にとっても悪い話ではないでしょう? といった具合に。

社会に「役立つ」か「役立たない」か。最近のコトバでいえば「使える」か「使えない」か(この表現が、私は嫌いだ。人間に対して使うことばではないと思う)。そんな線引きをされて「勝ち組」だ「負け組」だ、と右往左往させられる人びと。勝ちも負けも自己責任だといわれ、自分を責めて自傷し、立てこもる人びとを「引きこもり」と名付けてマイナスイメージを強化するだけのメディア。

現状の日本社会を考えたときに、「人材」という人間観に教育が絡めとられていかないように、細心の注意を払わなければいけないのではないか。そこは警戒しすぎてしすぎるということはないのではないか、そんな気がしている。

日本語/国語教育の歴史をふりかえれば

教員志望の学生たちに、ぜひ読んでほしいと思って紹介している史料を、少し長くなるが引用紹介する。1940年2月『国語教育』という教育雑誌に掲載された、朝鮮の女子師範学校で教える「榊原先生」と、その教え子、卒業したばかりの若い教員の手紙のやり取りに取材した記事である(筆者は小山東洋城)。教え子は、朝鮮人の小学校で男子80名(年齢的には8歳~21歳)の担任になり、師範学校時代の恩師に近況をつづる(引用は旧漢字・旧仮名遣いを現代のものに変えた)

国語を読ませてみますと、一字一字はどうにか読みますのに、長い文になって来ますと一向に読めないんですもの、そんな子供が三分の一位いるのです。放課後毎日残して個別指導をしても、その子供たちは一向に判っても判らなくても平気なものですもの、悲しくなってしまいます。

 

先生、私この頃まるで道化役者ですの。口でいくら言ってもわからない子供達でしょう、だから手真似足真似、いいえ、全身全体で芸当をやっているのですわ。コレハナンデスカ、コレハガッコウデス。コレハイエデス。コレハハタデス。コレハドナタデスカ。コレハセンセイデス。これだけ言わすのにどんなに困ったことでしょう。毎日毎時間鸚鵡のように繰り返し繰り返しやっていますが、どの程度判っていることやら。(中略)これで言葉と感情とが一致する時が何時来ることでしょう。

 

夏休暇の宿題に五年生の子供にー私の組は一年三年五年の複式なのですがー昆虫採集を命じたのです。昆虫といっても彼等には理解出来ないでしょう。それで私が黒板に名画を描いて、こんな虫を捕まえてお出でなさいとやったんですの。私在学中から絵はうまかったでしょう。ところが九月一日、熱心に捕えて来ましたわ。どの児もどの児も大きな箱―といって採集箱じゃ有りませんわ。煤けたボール紙の箱やら何か入っていたのを臨時外に出した木の箱やらですーを提出しました。自分の言い付がこんなに守られたことは教師として一寸愉快でした。そこまでは無事でしたが、大きな箱を明けさしますと、先生、大きな青大将や恐ろしい蝮がとぐろを巻いているでは有りませんか、私キャッと言って逃げ出して小使いさんを呼んで来ましたの。(中略)それから未だ驚いた事は、南京虫を何十匹も大切そうに集めてくる児があるのです。朝鮮語でビンデーと申しますね。あれをです。まあなんて汚いものを持って来るのですと叱りますと、先生が黒板に書いたでしょうと平気で言うのです。私あきれて物も言えませんでした。私の名画カブト虫は彼等には南京虫と解釈せられたのです。泣くにも泣けませんわ。

手紙を受け取る榊原先生は「耐え忍んでやって呉れ。身体を大切にせよ」といつも返事の終わりに書き添える。そして師範学校の生徒たちにこう教えるのだ。

私達は日本語をして世界語たらしめる尖兵である。国語を鍬として世界を開拓する戦士である。軍人が武器を敬する如く、国語を敬せねばならない

 筆者の小山東洋城は榊原先生をこう描写する

朝鮮の教育は国語が中心である。榊原先生は小学校にも十年ばかり勤めた経験もあり、相当口では国語は国民の血液であるの、標準語尊重などと知ったかぶりをしたものだが、実際外地に来てみて、言葉の有難さと、言葉を教えることの困難さと、言葉を広めることの国家的意義をしみじみと感じさせられたのである。自分が苦しんでいるだけ、うら若い女教師の国語普及の苦心と熱意に泣けるのである。

 

榊原先生は 小学校に入学してから「ととさん」という呼び方を急に「お父さん」と呼びかえることを強制せられたが、現在お父さんと呼んだから父の懐かしさが湧いて来ないとはちっとも感じない所の体験を反省してみたのである。又備前に生れた榊原先生は「すどぼつこうおえんぞな」というあの懐かしい方言を思い出し、あの言葉でなければ表現出来ぬと思っていた事柄も現在標準語に近い言葉を使ってもいささかも不自由なくあの事柄を表現していることを反省してみた。そんな過去にこだわるよりも、同じ家に住み乍ら、相通じない言葉を使っている方がどの位、お互に暗い心地を抱かすことであるかを反省すべきではないであろうか。明日の朝鮮にはの言葉が必要なのである。(中略)朝鮮は今日の朝鮮だけではないのだ。明日の朝鮮に産まれかわりつつあるのだ。明けゆく黎明の時代を望んで進むのも、暮れゆく今日の姿をうつ伏して悲しむのも人によりけりではあるけれど、新東亜を築き上げる使命に生きる自分達我等東洋人、大日本人が、夜明けの空を仰いで、小さい感傷を踏みにじって行く姿の方が本当のものではあるまいか。榊原先生は常に明日の朝鮮を期待しつつ、放課時間になると教官室の窓硝子越に青い空と葉の落ち盡したポプラ並木を眺めやるのであった。

 90年代、急に日系人児童が何人も転入してくる事態を前にして、手探りで身振り手振り、ポルトガル語の「指さし会話帳」などを援用しながら対応していた先生たちと、ここで紹介した手紙を書いている若い先生とが、私には重なって見えた。この手紙を書いているのは朝鮮で植民者の日本人の子どもとして育ち、現地の師範学校で学んだ教員だが、当時の日本では日本語普及のために師範学校を出たばかりの若い教員を外地赴任させることに積極的だった。そこでは国語教育の名のもとに、実質的には日本語教育が手探りで行われており、直接教授法の研修や授業実践研究などの取り組みもあった。

歴史の教科書では「日本語を強制した」と簡単に説明されてしまうが、現場でその強制を支えたのは一人ひとりの教員だった。机上で「日本領内の者が全員日本語を解せば意思疎通が容易くなって国家運営しやすくなる」と考えるのは簡単だが、その掛け声を実現するためには、「日本語を使え」と怒鳴るだけではダメなのだ。目標を立て、掛け声を高くする中央政府の方針が現場に届くとき、そこで何が起こるか。そこには具体的に教員や子どもがいて、教材があった。

そして皮肉なことに、子どもにとって楽しい物語や、口の端に上りやすいリズミカルな教材文を生み出したり、直接教授法の開発に腐心したりした教員・教育関係者は、主観的には誠実で子ども思いの、まじめな人たちなのだ。暴力的に日本語を強要し、生徒や保護者から嫌悪された教員ばかりなら、「日本語を強制した」罪はあからさまでわかりやすいが、実際には「日本語を習得することがこの子どもたちの幸福だ」という信念から、学習動機づけや日本語のスキルを伸ばす環境づくりに努力した「良い先生」が大勢いて、解放後も教え子と交流を続けていた事例がたくさんある。

私はこうした歴史を掘り起こして学ぶことで、「良い先生」であろうとするだけではダメだということをずっと考えてきた。いま感じる一抹の不安も、その延長線上にある。

母語保障はバイリンガル人材として都合よく消費させるためではない

敗戦後、外地での日本語教育、特に子ども向けに行われていたものは「なかったこと」にされていた。現地で仕事をした国語教育者の多くが、そのまま戦後の国語教育の「話し方教育」の指導法や教材づくりにスライドした。植民地教育の反省は・・・コトバの上では「申し訳なかった」と言った人もいるが、どこまで、何を申し訳ないと考えたのか、書き残されたものを調べていてもつかみきれないところがある。しかし乱暴にまとめてしまうなら、軍国主義の時代に与してしまったことへの悔恨はあっても、教材や教授方法に罪はない、といったスタンスで収まってしまい、日本の子どもたちのための「国語」の時間は残り、朝鮮や台湾の子どもたちが受けた「国語」の時間は歴史の仇花かのように忘れ去られたといっていい。日本語教育は成人向けの教育分野として残ったが、成人向け/外国人とみなされることで子どもが通う学校とは無関係になった。そして90年代に日系人労働者の激増を背景に急増した「日本語指導を要する児童生徒」問題が顕在化するまで、日本語教育と国語教育はバラバラに歩んできたのだ(いまもバラバラだと個人的には思っている。現場にも研究者にも両者をつなぐ問題意識を持つ人がいないわけではないが、少なくとも教員養成の現場ではほとんど連携がない。それもこれから変わっていかねばならないと、文科省の報告書は述べているが)

とはいえ、日本語が堪能でない親のもと、複言語環境下で育つ子どもはずっと日本に存在していた。敗戦直後の在日コリアンは現在のニューカマー親子と同じだし、在日コリアンの中心世代が2世、3世になりつつあった70~80年代にもインドシナ難民や中国帰国者という、同様の存在がいたはずである。在日コリアン日系人、中国帰国者・・・いずれも日本の移民政策・植民地政策がなければ存在しなかった人びとだ。けれど、この子どもたちは、母語を否定され、日本語習得も自己責任のように言われ、社会の片隅に放置されてきた。日本の学校は日本人のためにある。外国にルーツを持つ少数者の権利、日本の主流文化とは異なる言語や文化を学ぶ権利など、ずっと無視されてきた。

ようやく、その「無視」が終わった。しかしその先が不安なのだ。

植民地期の日本語教育の総括もないがしろだが、文科省の報告書を読む限り、1950年代以降、80年代、90年代に至るまで一貫して民族教育権を否定してきた。母語保障など念頭にないばかりか否定的な態度に終始してきたことの反省すら、一言もない。ただ、情勢が変わったから? 手のひらを返したように述べられる母語保障の胡散くささ。そこに見え隠れする日本に都合のよい「人材」を求める下心。

かつて朝鮮で「同じ家に住」む(日本の領土の民である)のだから相通じる言語≒日本語に習熟することがその子のためであると信じて疑わず、母語への愛着を「感傷」を切り捨て、日本語/標準語に熟達することを理想として努めた教員たちと同じ轍を踏まないためには、母語保障も日本語教育も、徹底して「学習者の権利のためにある」ことを追求しなければならないと思う。けっして、差別や格差を当然視する社会に「役立つ人材になるため」ではない。自分自身がよりよく生きるため、幸福を追求できる社会をつくるため、身に着けた力が結果的に役に立つのなら構わないが、「役に立つ」ことを目標にしてしまったとき、そしてそれはだれの、何の「役に立つ」のかを不問にしてしまったとき、教育はまた人間を殺す道を進んでしまうと思う。

大阪で母語保障の大切さが言われ、実践されてきたのは、日本の主流文化と異なる文化ルーツを恥じてしまう、子どもにそう思わせてしまう日本社会の差別的なまなざしに対抗するために、つまり子どものアイデンティティを守る軸になるはずだという確信があったからだし、その確信を育てたのは在日朝鮮人教育、民族学校民族学級の地道な取り組みと、そこに集まった教員たちだった(しつこいようだが、その取り組みをつぶすことしか考えてこなかったのが文科省だ)。けっして、グローバル市場で闘うためのバイリンガル人材として、日本企業に都合よく使われるためではない。

日本語がわからない子どもたちを前にして、日本語指導にあたった先生たちのなかに、「この日本語教育はかつて『日本語を押しつけた』同化教育とどう違うのだろう」と煩悶しながら取り組んだ人たちがいたことを、私は知っている。在日朝鮮人教育や、在日コリアンの権利獲得の闘いに関わってきた人たちだ。その人たちは、自分自身が「子どものため」を思うからこそ、植民地主義軍国主義に絡めとられた教員たちと自分が地続きだということを直感的に理解できる人たちだった。そんな人たちが切り拓いてきた母語保障の取り組みを、知らぬ間に換骨奪胎されて「グローバル人材育成」にもっていかれてはたまらない。

原理原則と授業の現場と

私が書いていることは原理原則、教育理念、哲学にあたるものだ。実際の教育現場では、授業で何をどのように使い、今日は何ができるようになればよしとし、繰り返しスキルとして練習させることはどれで・・・と次から次へと具体的な仕事に追われる。授業だけではなく、子どもたちのケンカや小競り合いの仲裁や解決の手助け、困りごとや悩みごとへの目配りと、あげ始めればきりがない日常がある。

そんな多忙のなかで求められるのは、手軽なハウツーだ。書店に行けば一目瞭然で、「教育」の棚は授業事例や行事への取り組み方などのハウツー本に占領され、原理原則を学ぶための専門書は年々片隅へ追いやられている。子ども向けの日本語指導に関する書籍、特に具体的な教材や指導法に言及したものも格段に増えた。もちろん、ハウツー本に助けてもらうことは悪いことではない。子ども向けの日本語教材がほとんどなかった時期の大変さを思えば、教材が増えてきたのはほんとうに有難い。

だが、原理原則を忘れた方法論は、やはり恐ろしいと思う。

その日本語、あるいは母語は、その子ども自身ためにあるのか。温又柔さんのコトバを借りるなら、世界を知るための、世界に出ていく自分を支えるための杖になるものなのか、国や会社ではなく、自分自身を支える言語として、その人と一生伴走していく、そんなコトバなのか・・・その問いを羅針盤に、この変化の年を乗り越えていかなければと思う。

 

羅針盤さえあれば、教材も方法論も、自分で発見していける。面倒がらずに、原理原則、歴史、といったことも学んでほしいし、私が提供できることはいくらでも提供していこう、と決意してみるのでした。