わったり☆がったり

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「寝た子を起こすな」論 について

部落問題を人に教えるのはむずかしい。

ということを思っている人は(人権学習をやらねば!と思っている人であっても)そこそこいる。そして、実際に学校の人権学習計画を考えている場で「部落問題は難しいから障害者問題にしよう」と言い出す人を見たこともある(「それって、障害者問題は簡単だと思ってるんですか?」と思わず言ったら「いや、そういう意味じゃない。そんな上げ足を取るな」と怒られたけど、そういう意味にしか取れんやろ・・・。もう20年以上前の、某高校の人権教育担当の一員だった時の話。確か初任2年目ぐらいのぺーぺーのとき 生意気ー笑)

どんな問題も結局は「差別を再生産し続ける社会の一画にいる私」を自覚して問い直さねばならないわけで、難しさは同じのはずなのに(むしろ障害者問題の方が根深く内面化された優生思想の難しさを感じる・・・個人的には)。

部落問題以外の人権「なんちゃら問題」については、障害の種別や特性の知識だったり、国籍や在留資格に関する法律の知識だったり、LGBTのLはなに? という知識だったり・・・ともかく、何らかの「知識項目」を並べて説明すると「教えた」観が出て、「教えた」つもりになれるという点が大きいのだと思う(それが落とし穴でもある)

部落問題にしても、考えていくために必要な知識は当然ある。

そして、部落問題学習に取り組んでいる学校も(少なくなったとはいえ)あるし、そういう学校では水平社宣言やら教科書無償化闘争やら、地域の人を招いての聞き取りやら、きちんとしっかり「教えて」いる。ただ、そういう学校で学んでいても、「お年寄りの話/昔は大変やってんな」という話としてしか落ちておらず、「いま、なぜ部落差別について学ぶ必要があるのか」納得していないパターンが少なからず、ある。1969年の同対法から2002年まで続いた特別措置のおかげで、見た目は周辺地域と変わらないし、長欠不就学問題もない。日本社会全体が不景気で、労働者の非正規化が進み、被差別部落の人たちだけが突出して不安定就労かというと、それも微妙? みたいな社会のなかで、部落差別は見えにくくなった。それは見えにくいだけで、実際には差別はなくなっていない(むしろ激化しているように思う)が、とりあえず「私には見えません、気づけません」状態で、せっかく聞いた当事者の話も「お年寄りの話」で片づけられている、その状況にどう切り込む部落問題学習をするのか、が今の課題なんだと思う。

・・・と、前置き長くなりましたが、そんないまの「寝た子を起こすな」論です。

「寝た子を起こすな」論

「学校やマスコミなどで、差別について教えたりせずに、そっとしておけば差別はなくなるのに、なぜわざわざ教えるのか」という考え方のことである(『人権教育への招待』59p)。何重にも無理のある発想なのだけど、まじめにこれを言う人が後を絶たない。特に部落問題に関しては強烈に根強い。つまり部落問題を考える際の重要トピックで、すごく象徴的で部落差別ならでは感のあるものだ。

実際に差別の実態が「ある」のに、「ない」ことにしてそっとしておけ、って。

ちょっと考えればかなりの暴論だし、そっとしておいたところで、実態の「ある」ものが勝手に向こうから消えていってくれるわけがない。それを痛感して後悔した最近のいちばんのできごとが「ヘイトスピーチを街頭でのさばらせてしまったこと」ではないのか。当初、インターネットの一角で始まり、マスコミも取り上げず、学校も取り上げず、気づいた一部の人たち/インターネット上で攻撃されたり応酬したりしていた人たちだけが「ある」ことを知っていた。けれど「相手にする/取り上げることで彼らの目立ちたい欲を満たすのは良くないから、放っておこう。目立ちたいだけのバカなんだから、そのうち消えるだろう」と放置している間に実態は増殖し、インターネットから街頭に出てしまった(そして2013年ごろの最もひどかった時期でさえ、知らない人は知らなかった。そして動画を見せても「こんなバカは放っておいたほうがいい」「こんな言説が世間に支持されるわけがないんだから放っておけば消える」と言う人も後を絶たなかった。まさに「寝た子を起こすな」論だ)

差別がおかしいことだなんて、みんなわかっている。だから騒がずにそっとしておけば自然と差別は消えていく・・・

そんなわけがない。

「騒がずにそっとしておけ」と言う人は、そもそも「差別の被害を受けて被害を訴えたい人」のことは考えていない、というのも特徴だと思う。それもやはり、「いま・ここ」に差別の実態があるということをわかっていないからだ。自分には見えないから、自分は知らずにすんでいて、それで平穏なのに、酷い差別があるんだよなんて憂鬱な話をしないでよ、という拒否感。知らないことはなかったことにしておきたい。都合の悪いものは見たくない。

・・・それで平穏(見かけ上でしかないにせよ)を得られるのは、被害を受ける心配がない側だ(でもそれだって、主観的な思い込みに過ぎないんだけど。社会に差別がある以上、私たちはいつだって差別に巻き込まれるし、差別する側に転じる可能性だってある)。いまここで被害を受けているから「差別がある」と話す者にとって、寝た子を起こすな論は「あったことをなかったことにされる暴力」でしかない。

 

ときに、被差別の側にいる人が「そっとしておいてほしい」「学校でそんなことに触れないでほしい」と言うことがある。それは「差別があることを知っているからこそ、そのつらい思いを味わうことをなるべく避けたい」ということであって、「嫌なことは知らないまま他人事でいたい」という欲求とは似て非なるものだということも、忘れずにいたい。