わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

知識と知恵、行動のスキルアップ

昨日は、部落問題学習の授業プランを考える勉強会に行った。

前半、結婚差別の事例(実話を元にした架空の話)を題材に、「あなたが相談された人だとして、どんなアドバイスをするか」と考えるグループワーク、後半、部落問題のさまざまなトピックをグループで分担して授業プラン作り、という流れ(とはいえ、後半は時間も押したため、プランにまで行きつかず)

で、やっている最中もいろいろ考えさせられたのだけど、全部終わって一晩おいて、また考えさせられている。

それは、

反差別・人権教育の「ねらい(目標)」は何か、ということ。

もちろん大きくは差別をなくすことなんだけど、たとえば学校でやる場合は児童生徒、学生、大人なら研修の参加者に、何を知ってほしくて、どんな力をつけてほしいのか、ということについて、わたしたちは意外にざっくりとしか考えてこなかったんではなかろうか、と思ったのだ。

ここで「わたし」ではなく「わたしたち」にしているのが、考えさせられているところ。

前半の課題はこんな感じ。

AさんとBさんは共通の友人を介して親しくなり、つき合い始めました。結婚も意識しています。最初は自分が部落出身で、自宅の場所も同和地区内であることを隠してつきあっていたAさんですが、結婚の話が出たときに、思い切って打ち明けました。Bさんはピンとこないながら、勉強しようと部落問題の本を買って読み始めましたが、その本を見つけたお母さん問い詰められ、Aさんが部落出身であることを言いました。するとそれから、Bさんの家族は交際に強硬に反対し始めました。Bさんは毎日家族に責められ、つらい思いをしていることをAさんに言いました。Aさんはどうしていいかわからず、地域の先輩であるCさんに相談しました

で、「あなたがCさんだったら、どんなアドバイスをしますか?」というお題で。

そのアドバイスを考えているときに、私はBさんの家族を説得しようとか、そのためになぜBさんの家族が反対するのか、そこにある差別意識の内容をもっと知りたいとか、そういうことを全然考えてなくて、とりあえずBさんがしんどそうだし、家族がBさんをAさんに会わせるまいとして実力行使に出るのが一番怖い、と思って、それを防ぐ方法を考えていて(これは『結婚差別の社会学』なんかを読んでいて、かつ、この手の話をこの2年ぐらいよくしていたせいだとは思う)。

ところがグループで話し始めたら、この「なぜBさんの家族は反対してるんだろう」「偏見をたださねば」的な意見が出てきて、「え、いま、そんなことを悠長に言ってる場合?」と驚いたのだけど、驚きと同時に他のグループでもそういう意見から話が始まっていたようで、なんというか、「家族の意識変革は最後でええやろ」とキッパリ後回しにして全然考えていない自分に気づかされ、あれれ? なんでかな…と考えさせられてしまったのだ。

「正しい知識を広めれば差別はなくせる」?

これは自戒も込めて言うのだが、人権教育・啓発は、長らくこの「差別をなくすために正しい知識を啓蒙する」という考え方「だけ」で取り組まれてきたように思う。

大学で授業をしていても、学生がやたらと「正しい知識を学んで…」と書いてくる。

もちろんそれは間違いではない。「在日特権」のような妄言は「そんなものあるわけないし」の実態を正しく認識してもらうことでかなり正せると私も思っている。

ただ、酷いヘイトスピーチと、それに対する取り組みからの裁判や法律の制定…という流れのなかで、「正しい知識を広めれば偏見/差別意識はなくせる」というところだけで満足していてはダメだと痛切に思い知らされた。もちろん、ヘイトスピーチをする人が自分の過ちに気づき、考えを改めてヘイトスピーチを止めることが理想だ。けれど、彼らを啓蒙し説得しているあいだ、被害が放置されていたら本末転倒というか、木を見て森を見ず? いや、逆かな。森ばっかり見て切り倒されそうになっている木を見ないような。とにかく、まず被害を止めることが最優先事項で、加害者が悔い改めるように教育することはその次の問題だという、考えてみれば至極当然のことを、この10年ほどの歳月は私に刻み付けたと思う。

昨日の勉強会の出席者は小中学校の現場の人がほとんどだった。これまでも感じたことはあったのだが、どうも教員という職種の人は「教育」したがるというのか、被害を止めることをすっ飛ばして、次の教育の方に先走って目が行きがちなんだな、と改めて思ったのだ。そう思ってふりかえってみれば「嫌韓流」などが登場し始めだったころ、始めたブログにその手のコメントがつきまくり、それに対していちいち説得しようと試みて、説得しようとするあまり相手に合わせて「是々非々」で丁寧に…のつもりがつけこまれて「賛成してくれてありがとう」みたいなコメントが飛んできて、もはや気持ち悪すぎてブログを閉鎖してしまったころの自分の思考回路も、「まずこいつを黙らせなければ(公の場で差別的なことを書かせないことが最優先)」ではなく、「この人の考えを改めてもらおう」という、教え諭そうモードだったと思い当たるのだ。

痛い・・・

さらに思い返してみたら、基本的に私が学生時代に学んだことは、やはり「正しい知識を広めれば差別はなくなる」という素朴な啓発至上主義みたいなところがあって、「私は知識がある人、差別するのは知識がない人」という上から目線・・・

痛い。もはや、はっきりと痛いヤツ・・・

そういう素朴な啓発主義の限界があったから、同和教育/人権教育の世界にも参加型学習の波がきたはずで、昨日も形態としてはグループワークをずっとやっていたのだけど。

知識啓発+参加型学習スタイルになったのはなぜか

知識を軽視するつもりはないし、教員の重要な仕事の一つに、先行知見を教え、その利用の仕方を身に着けることを促すことがあるのは間違いない。けれど知識があるだけでは、目の前の差別を「止める」行動に出られない。「差別は間違っている」という知識と、「間違った行為を止める手段」を行使する知恵とは、別のものだからだ。

1990年代(ちょうど私が現場に出たころ)初めごろから、開発教育の手法などを取り入れた「参加型人権学習」の波が来た。なんで私が学生の間にこの波が来なかったのかな…と、現場に出てしまって勉強の機会がなかなか巡ってこない状態になった私はぶつぶつ愚痴っていた。「参加型」といわれるものは、私の眼には演劇的に映り、自分の演劇部での蓄積と人権教育がこんなふうに融合できるんだ! と嬉しくてたまらなかった。

当時は「なんでいま?」としか思っていなかったが、要は「正しい知識を教える」だけでは足りないものがある、と多くの人が限界を感じたからだったに違いない。

足りなかったのは、「差別を許さないためにどう行動するか」の行動力の部分だ。差別発言を聞いたら、それは間違っていると言う…どうやって? どんな内容を、どのタイミングで、具体的にはどんな言葉を選んで? ハウツーは実際にやってみなければ身に着かない。黙々と受動的に知識を蓄えているだけでは得られない力を鍛えるために、参加型学習は導入されたはず・・・

その伝でいえば、先ほどのワークでも「Aさんとの交際を反対されて弱っているBさん」を助けるための行動を考えることが最優先、になる。そして実際に、どのグループも「Bさんの家族はなぜ…」とBさん家族に考えを改めてもらうという話は出ながらも、まず最初のアドバイスは「Bさんを孤立させない・AさんにBさんとしっかり話す時間を確保するよう言う」という結論にはなっていた。

結論にはなっていたけれど。グループで話しながら、

まっさきに「Bさん家族の部落差別意識はどこから来たんやろう?」がくるのと、「Bさんが辛い状況をとにかく何とかしなければ」がくるのとは、やはり少し違うような気がして、モヤモヤ考えてしまったのだ。

ヘイトスピーチを最初に聞いたころの私は、前者だった。「なぜそんなことを言うのだろう」「何か、よほど嫌な体験/個人的な恨みでもあるんだろうか」等々。でも、そう考えているあいだは、攻撃されている人を守れていない。差別の痛みを放置して「差別をなくす方法」を一生懸命考えている頓珍漢さに気づいたとき、恥ずかしくてたまらなくなった。まず、ヘイトスピーチを止めさせる。つまり凶器を取り上げる。動機の解明や意識変革はその次の段階。・・・ここをはっきり意識化したことが、それ以前とそれ以後の私を分けているんだと、改めて気がついた。

Bさん家族の説得の類を一切考えないという昨日の私の発想も、おそらくそこから来ていた。Bさん家族の反対の意思が、教育や啓発で変わることが可能かどうかわからない。簡単に変容しない強固なものであった場合、反対が賛成に転じるのを待っていたら結婚なんてできないんだから、そこに労力を割くのはリスキーだし、BさんやAさんの手に余る話ではないか。だったらここでは考えなくてよい、と無意識的に排除したのだと思う。おそらく以前の私ならまちがいなく、同じように、なぜBさんの家族は反対するんだろう、どうすれば賛成してくれるだろうと説得の方策を一生懸命考えたに違いない。「差別をなくす」ということは、Bさん家族のように差別をする人を、差別をしない人に変えることなのだから。

でも、大事にしないといけないのは、いままさに結婚の意思を阻まれて困っている二人が結婚するにはどうすればいいかであって、それは別に、Bさん家族の賛成を勝ち取らなければできないことではないのだ。

被差別体験から編み出された「知恵」を大事にすること

ちなみに、このエピソードにはモデルがあり、相談されたCさんが実際に言ったアドバイスもある。実際のアドバイスはもっと現実的で「別れたと嘘をついてでも、Bさんが座敷牢に入れられないようにして、毎日会う時間をつくれ」というものだった。結婚差別を乗り切るための、実際的なサバイバルの知恵だなぁと思う(詳しくは『結婚差別の社会学』に出てきます…昨日は「なんかどっかで聞いたことがあるような?」と思いながらワークをしていて、後から思い出しました…)

部落問題にせよ、在日朝鮮人問題にせよ、厳しい差別のなかを生き抜いてきた人たちの知恵に触れると、いつも感心するし、人間の底力を感じてドキドキする。そういうしたたかな知恵に触れることなく、ただ厳しい実態だけを学ぶと「差別はいけない」ことは学ぶが、一方で「自分は差別される側でなくてよかった」「自分ならそんな目に遭ったら耐えられなくて自殺するかも」といった感想も同時に持ってしまう。もちろん、実際に亡くなる人もいるし、そんな目に遭わないで済むならその方がいいのだから、その感想ももっともな思いではあるけれど。でも、差別にやすやすと殺されないために、わたしたちは学ぶのだ。そこに目標を置くなら、受け取るべきは「知恵」の方だと思う。

その知恵は正しい知識に裏打ちされたものでもある。いわば先行知見だ。

先行知見に学び、知識を知恵にして、感覚的反射的に「それはおかしいよ!」と行動できるように練習する。どんな練習が可能なのか、どんなスキルの獲得をめざすのか。それを考えることが、人権教育のミッションでなければならない。

 

・・・つくづく、教育にはマニュアルやハウツーではなく、哲学が必要だなと再認識するのでした。

(そういえば「Knowledge and Wisdom」というバートランド・ラッセルのエッセイを高校のとき読まされたな…と思いだして検索したら、こういうのがあったので、貼っとこ。高三の1月に、これをリーダーの時間に読んでいた(笑)受験なのに…)

ラッセル「知識と知恵」n.1 - Bertrand Russell : Knowledge and Wisdom (1952) 知識と知恵