わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

優しいパターナリズム

昨日も講師を頼まれてのお仕事。

小中学校の先生方、それも人権教育やりたい!という意欲のある人たちが、ただ学ぶというより実際に学校で取り組むことを前提にコアな活動をしている人たちの集まる場だったので、ウヨな人が紛れ込んでいることを想定して揚げ足取られないように微に入り細に入りしゃべる内容を考え抜いてやる仕事に比べれば、はるかに気楽なお仕事。

…だったわけですが、アクティビティやった後のふりかえり(意見交流)あたりから、どうにもモヤモヤが止まらず、この違和感は何だろうなぁとずっと考えていた。

で、朝起きて。

昨日、友人の何人かがFBでシェアしていたこの記事を布団のなかで読んで、あぁ、これかもしれないなーと思ったのが「優しいパターナリズム」というキーワード。

gendai.ismedia.jp

大西さんの本、買わねば。は ひとりごと(笑)

パターナリズムってなに?

ここはウイキペディアさんから引用。

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている[要出典]。日本語では家族主義、温情主義、父権主義、家父長制、中国語では家長式領導、溫情主義などと訳される。語源はパトロンの語源となったラテン語の pater(パテル、父)である。

ポイントは「本人の意志は問わずに」「よかれと思って」というところ。

要は「大きなお世話」ってやつ(笑)

と、こう説明されると、少なくとも人権教育が大事だと思う人は「これはアカン」と理解する人の方が多い(はず)と思う。でも一方で「だって子どもは判断力が未熟なんだからある程度は大人がやってあげないとダメじゃん?」とか「でも患者は医療の専門知識がないし、最善の治療を判断できるのはやっぱりドクターじゃん?」とかいう意見もあり、それも間違ってはいないと思う。そこで大事なのが「本人の意志」という点で、医療現場でインフォームドコンセントだのセカンドオピニオンの保障だのという考え方が生まれてきたのも、圧倒的に専門知の差がある医者と患者の力関係から生じがちなパターナリズム問題に「患者の意志決定」という歯止めをかけるため。

では子どもと大人では? 先に紹介したような「要支援者と支援者」という関係性では? ここに、医療の世界でいうインフォームドコンセントのような仕組みをうまく作れていない(作ろうと努めている人たちも少なくないけど)し、そもそもパターナリズムに気づかず「よかれと思って」善意の塊でがんばってしまっている人が教育や福祉の界隈には多い(それがアカンと気づいている人も少なくない…個人的には、この両者の溝がいろんな問題の背後にあるような気がしている)

「子どもために」というマジックワード

昨今、日本の教員の異常な働き蜂っぷり(このたとえも、実際の蜂に失礼ですが)がバレてきて、「働き方改革」という旗がしきりに振られている…なかで「仕事を取捨選択すればいい」というのは簡単ですが「これをやれ、あれもやれ」と強制力が働く中で取捨選択すると、けっきょく「どれが大事か」と自律的に判断することはできなくて、「やっとかんと後で怒られるかも」「やっとかんと評価下がるかも」という他律的な取捨選択が起こる。いまの現場でいえば「全国学力調査」がらみの仕事とか「いじめの調査」とか、文科省や教育行政から降りてくる指令は有無を言わさず優先される、つまりは強制力が働く。そうすると、強制力の弱い部分、子どもとなんでもない雑談をする時間とか、保護者の不安や困りごとに耳を傾ける時間とか、そういう「どこに位置づくかが説明しづらい仕事」の優先順位が低くなって零れ落ちていってしまう。

昨日も「まじめな若い先生ほど『やれと言われること』『やらなければいけないこと』でいっぱいいっぱいになって、人権が後回しにされる」という話が出ていた。要は人権教育は強制力が弱い。いじめの有無を確認して取り締まることには熱心でも、いじめの起きにくい教室をどうつくるかということには不熱心だから(というより、そこを人権教育ではなく道徳でやりたいというのが文科省、もとい日本政府の方針)。

そこで何が起きているかといえば、優先順位の低い人権教育をあえてがんばる先生は「働きすぎ」になって、あなた自身の人権はどうなってんの? という事態…なんだけど、なぜかそこになると「子どものために」というマジックワードが出てきて「働きすぎって言われても、子どものためを思ったら省けませんよね」というところで収まってしまう人が多い。なぜそこで人権教育の優先順位を上げさせる、優先順位を根本から整理しなおす提起をする、といった労働運動のステージに上がらないんだ! と思うけど、実際に現場にいたこともある私自身も(組合もやってたけど)、日常があまりにも忙しいと「こんな無駄なことするぐらいなら生徒と面談したい」と思う「無駄なこと」をストライキして後からごちゃごちゃ怒られて余計に時間が取られる面倒さやら、運動組むための議論の時間が取れないことやらの実務的に「無理だよ!」のなかで、けっきょく面談の時間を捻出するために残業増やす、ということを繰り返していたから、難しいことも重々わかる。

それでもやはり「子どもために」をマジックワードにすることを思い切ってやめないとダメなんじゃないか、と思う。やめる、というより、そこに潜むパターナリズムの誘惑(?)に自覚的になった方がいい、という感じかな。

「子どものために」のなかみは?

昨日も意見交流のなかで、「子どものために」に類似するワードが何度も出てきていたような気がする(モヤモヤしながら聞いていたから、正確に覚えてない…あ、誤解のないように今更ですが言っておくと、モヤモヤするのはたぶん私の側の課題意識の問題で、モヤモヤのきっかけとなった発言の発言者がおかしいとかそういう問題ではないんです。念のため)

でも、「子どものため」ということばで表されているなかみが、みんな実は微妙にずれているのではないかな、ということ。

ある課題を抱えている人がいたとして、その人を支援者が望む(社会の在り方として望む)形での課題解決に向かわせることは、一見、正しいようで、支援と引き換えに「特定の在り方を強制させる」ことでもあります。

というのは先ほどの記事のなかにある大西蓮さんの発言。

「子どものために」というときに自分が何をどうイメージしているか。

そのイメージは「子どもはこうあるべき」「子どものために教員はこうあるべき」という「特定の在り方」・・・それも、現在の矛盾だらけの世の中に適合的な「在り方」だったり、自分自身の「こうあってほしい」欲望に沿った「在り方」になってしまってはいないか。その子どもの「意志」はどこまで尊重されているのか。そもそも「意志を尊重する」とはどうすることなのか・・・

ほんとうは、その部分のすり合わせをしなければいけないのに、あまりにも「自明のこと」として、みんなが自分と同じような意味となかみで「子どものために」を使っている信じ切っている? そんな危うさが人権教育に熱心で、しかも長年取り組んできた人ほど、あるのかもしれない(これは支援教育だとか地域の日本語教育にかかわってくださるボランティアさんだとかにも共通するかもしれない)。

私のモヤモヤは、「なんか危ういぞ」という直感だった。

私の直感を支えるもの

そこらへんは、けっこう今までも書いてるな(苦笑)

たとえば、これとか。

日本語教育と母語保障と・・・バイリンガル人材? - わったり☆がったり

8月中、この記事の後半に紹介した史料を再び引っ張り出しての、自分の過去の研究のまとめ的な原稿を2本抱えていて、〆切が迫るとタイムリープして8月31日が何時までも終わりません…状態に陥っていたから、「子どものため」ということに過敏に反応したのだと思う。

植民地期の史料で、特に人びとの「肉声」に近いものを読むと、ほんとうにいろいろな人がいて、日本人の私は「差別しない優しい日本人」エピソードにホッとしたりもしがちだけど、その優しさもけっきょくパターナリズムでしかないと気づくことも、同じぐらい多い。ことほどさように、社会的にはっきりと強者と弱者に分けられている状況のなかで強者が弱者の権利や意志に意識的になって、「よかれと思って」行動を先走らせないことは難しい…と痛切に思う。痛い。

最近の日韓関係…というより、外交上の諸々をきっかけに噴出している日本語言説の数々(政治家やメディアから個人の発言まで) に、植民地時代の「上から目線」がまったく正されずに生き残っていたことを思い知らされて、軽く絶望しそうになる。え、この人も?と思うようなこともたびたびで、そういうタイプの人がまさに「優しいパターナリズム」だったということ。痛い。と同時に、そこらへんの自覚のしづらさ、だからこその歯止めをかける仕組みづくりをすることが、真の意味での植民地主義清算なんだろうなと思う。

植民地主義引きずったまま、いくら国際理解だの多文化共生だのいっても、パターナリズムに陥るだけだろうと思う。なんといっても大日本帝国天皇を父とする家父長制イデオロギー国家だったのだから、パターナリズムと親和性が高いんだよ。その枠組みのなかで「優しいいい人」をめざしたら、そりゃ家父長制的温情主義(パターナリズム)になるよ…ということ。

清算されないまま社会の底流に流れ続けた植民地主義から、まだ全然自由になっていない日本社会で、私もあなたも生きている。まず敵を知って、そこから自由にならなければ。