わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

「差別」とは何か

いきなり引用。

「差別してはいけない」という点に反対する人はほとんどいないであろう。しかし、何をもって差別と規定するのか、具体的にどのような現象を差別と見なし、どのような行動を差別として処罰したり規制したりするべきなのか、明らかではない場合がほとんどである。

 

「差別」とは、雇用・教育・住宅・融資・政治などのさまざまな分野で、個人や集団がもっている現実もしくは架空の特徴に基づいて、不公正に人への処遇を違えることをさしている。この場合のポイントは「不公正」という点にある。処遇を違える方が公正だという場合には、同じ処遇にすることが逆に差別になる。

          ーー『人権教育への招待』解放出版社42pより

 

大学で人権に関する講義を担当させてもらうようになって10年が過ぎ…。

毎年、毎期、考えさせられるのが、学生さんたちの最終レポートを読むことになるこの時期。なぜ考えさせられるかって、授業のキモが一向に伝わっていない現実に打ちひしがれるからです(苦笑…まぁ、半年やそこらで全受講生に劇的に伝わるんなら、差別撤廃なんてもうとっくにできているはず? なので、伝わる人には伝わる、伝わらない人には伝わらない、ただ、いま明確に伝わってなくても何らかの引っ掛かりを心に残すことで、いつかどこかで「あ、こういうことか」となってくれたらいいなぁと思っています。それはそれとして)

「差別をしない」のは「やさしい」からか?

学生さんもそうですが、小中学校現場の若い先生たちと接していて思うのが、「やさしい」人がずいぶん多いなぁということです(私の接している範囲が偏っているのかもしれませんが)。そして往々にして「差別をしてはいけません」が、「人を傷つけてはいけません」とイコールでつながっている思考回路があります。

「その何がいけないの?」と思われるかもしれません。私も「いけない」とは思っていませんが、危ういなと思うのです。・・・この思考回路から出てくる「差別」の定義は「人の心を傷つけること」ということになってしまうからです。

もちろん、傷つける目的で故意に攻撃的な言動をぶつけるのはよくないことですが、人が傷つくのは「故意」によらない場合だってある。だから「故意」、つまり「悪意」の有無に注目しすぎていると、ある差別発言に傷ついた人が「それは差別だよ」と指摘したときに「そんなつもり(故意)ではなかった」という言い訳が成り立ってしまいます。

「やさしい」人たちは、思いもよらないところで傷つける発言をしてしまった自分に気づき、「無知の罪」を恥じ、知らないうちに差別してしまう怖さを実感し、「もっと差別や人権について勉強しよう」というモチベーションを持ってくれることもあります。それはもちろん有難いし、学ぶモチベーションはどんなものでもよいと思うのです。

ただ、一方で「こっちには悪意がないんだから、それを責められると辛い」という感情から、「うかつにものを言うと責められる」「なんでも差別だといえば勝てると思ってるマイノリティがうざい」…等々、明後日の方向に行ってしまう人もいます。個人的には「責められると辛い」という感情に向き合ってくれたらいいのになぁとは思いますが、多くの場合、そういう人は自分自身の感情に向き合う前に「責めるあなたが悪い」という思考回路になってしまいがち。そこで「やさしい」人がいくら「でもあの人は傷ついているんだから、そこは考えないと」と情緒的に攻めても、「どうせ私はやさしくありません」と開き直ったり、「私にはやさしさが足りない/人間的に劣るのか」と自己肯定感を損ねる方向にいってしまったりするだけです。

 

やさしさで差別問題は解決しない。要は道徳/心の持ちようをいくら説いても(無駄とまでは言いませんが)、ハマらない人には永遠にハマらない。まずそこに気づいて、「やさしさ」は「差別をしない」ための必要条件かもしれないけれど十分条件ではないと考えるところから、人権学習を組み立てなければいけないのだと思います。

なぜ「悪意」の有無にこだわるのか

実は日本語表現の問題が大きくかかわっていて、私としては「差別」をどうとらえるか、考えるかに関わる日本語表現の整理と使い方を人権教育/啓発に関わる人たちの間で統一、徹底したいなぁという野望があるのですが。・・・それはさておき

故意かどうか、悪意があるかどうかにこだわってしまうのは、前述した通り、「差別とは人の心を傷つけること」という共通理解(?)が社会にあるからだろうと私は考えています。つまり「差別はよくないこと」だとみんなわかっている・・・ようでいて、実はそれが意味しているのは「人が傷つくようなことを言ってはいけない」「人を不快にさせるのはよくない」という、多分に情緒的なものでしかありません。そして、そう考えているときの「差別」は、だれかとだれかの間に個人的に生じるトラブルでしかありません。もちろん、加害者・被害者が明確な差別事件もたくさんありますが、それは「差別」のごく一面でしかありません。

英語では「差別」の心理面は「Bias」「~ism」等と表現し、行為面は「Discrimination」と表現します。日本語でも「差別行為」「差別発言」「偏見」「差別意識」のように分けて表現することもできますが、一般的な用法を見ていると「差別」という一語で両方をふわっとカバーしてしまう場合が、とにかく多い。いま書いたものも「差別〇〇」と「差別」の下位概念としてこう分けられますよという複合名詞の形。唯一「偏見」は違いますが、これも「偏った見方」という意味で、特に差別的なものを指さない使い方も広く行われています。「バイアスがかかる」「ステレオタイプ」等々は英語をカタカナに置き換えただけ・・・日本語には「差別」を説明するための語彙が決定的に足りず、かつ、ふだんの用法として心理面に偏った用いられ方をしている。だから「差別」を問題にするとき、「差別しようという意図があったかどうか」「相手を傷つけようという悪意があったかどうか」、意図や悪意といった内心の問題にすぐに関心がいってしまうのではないでしょうか。

内心はどうでもいい・・・極論かもしれませんが。

日本も批准済みの人種差別撤廃条約女子差別撤廃条約などで禁止している「差別」は「Discrimination」つまり明確に外部に表現された行為なり発言なりの「事象」、あるいはデータとして観察可能な格差等の「実態」を指します。

なぜなら、事象なり実態なり、とにかく外部から観察可能な形でない限り「わからない」からです。内心でどう思ってたかとか考えていたかとか、要するに意図も悪意も、行為の際に宣言しないかぎり「わからない」。わからないものは規制しようがないのだから、立法しようがないわけです(それを立法化すると「内心の自由」を国家権力が侵害することになり、そもそも世界人権宣言から出発した国際人権条約の出発点が揺らいでしまいます)

内心は、表明されない限りわからない・・・だから、最初に宣言されていない限り、私たちは「なぜあんなことを言ったの?/したの?」と後付けで確認するしかありません。「あれは差別だよ」と指摘された「差別はよくないこと(社会的に批判されること)」と知っている人が「差別しようと思ってました」「私には偏見があります」なんて正直に言うわけがないでしょう(正直に言うとしたら、それはかなり確信的な差別者なので、「知らないがゆえに足を踏んでしまった」タイプの人とは分けて考えなければなりません)。多くの場合「そんなつもりじゃなかったのに・・・」と戸惑い、「何がダメなの?」と考えることがそこからスタートするはずです。行為者に悪意がなくても、差別が起きることがある。なぜなら私たちが「差別がある」社会に生きていて、社会からの影響を絶えず受け続けているから。そしてそういう仕組みを知らずに、自然と差別を容認し肯定する言動を再生産してしまっているから。「いまのは差別じゃない?」という問いかけによって、その仕組みに気づき、再生産に加担しない生き方を具体的に模索していくことを考えるーーこれが人権教育の意義だと思います。

 

ちなみに、実は善意に関しても同じことが言えるんですよね。たとえば、電車で「席を譲ろう、譲りたいと思う」内心の動きは表現されない限りわからないし、表現された行為は「こちらにどうぞ」だったり「座りますか?」だったりのシンプルな声掛けでしかありません。その動機が「いい人だと思われたい」なのか「替わるのが当然と思っている」なのか、そんなことをいちいち宣言しません。だから「わからない」。なのに「偽善者ぶってる」等と難癖をつける人がいます。偽善だろうが何だろうが、その行為で助かる人がいるならそれでいいんじゃないでしょうか。なぜそこで「善意」の有無、個人の内心について審査したがるのだろう・・・と思います。

私は内心差別的な考え方をしていたとしても、それが「正しい」かのように堂々と表現されることがないのであれば(表現してはいけないことだと理解して抑えているのなら)、それでよいと思っています。・・・というより、表現されない以上、どうこう言いようがありません。内心には介入できないし、するべきでもない。

一方で、「内心から変わってほしい」と願う気持ちもあります・・・内心で差別的な考えを抱えて表出しない人たちが、いつ「抑え」を外してくるかわからない不安が嫌だと思うから。でも、「内心から変わる」という「根本的な解決」にこだわっている間に、垂れ流されるヘイトスピーチによって傷つく人の救済が後回しになることを避けるためにも、「行為」と「意識(動機)」は分けて、とりあえず行為を止めることを優先するという考え方が大切だと考えるようになりました。ここでも「法律などで強制的に行為を排除しても内心が変わらなければ根本的な解決にならない(から意味がない)」という類の主張には根強いものがあって、気持ちはすこしわかるけれど。でも「内心」を変えることができるのはその人自身であって、外側から強制的に変えることはできないし、変わったかどうかを確かめるすべもありません。その人の行動を長期間観察し続けることで初めて「あぁ、考え方が変わったのかな」と感じ取れるのが関の山です。

だから、内心の変容にこだわり過ぎるのは危うい。だから、極論かもしれないけれど、内心はどうでもいいのです。

コトバにこだわりたい

ことばが社会をつくる。ということを、最近とみに考えるようになりました。

差別を考えるとき、人権について学んでいるとき、そこでのことば遣いに「差別に苦しむ人のことを考えてあげなければ」や「問題をわかってもらうために」といった「あげもらい」表現が自然と忍び込んでいるとき、そこには「私は問題を考えてあげる立場/被差別者は周りに理解を求めて考えてもらう立場」という上下意識が潜んでいます(「当事者」ということばの使われ方にも。差別は社会問題であり、社会を構成するのは私たち一人ひとりなのだから、本来差別問題の当事者はこの社会の構成員全員であるはずなのに被差別者の意味で「当事者」を使うことの、なんと多いことか!)

エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。/両者の違いは子どもや英語学習中の外国人が重点的に教わるポイントだが(中略)つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうやらそうではなさそうである。(中略)

つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。

     ーー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
           ブレイディみかこ(新潮社)75p

思うに、日本の人権教育・人権学習は「寄り添う」「共感する」といったことばで、「シンパシー」を求めてきたのではないでしょうか。

シンパシーもエンパシーもごちゃまぜに「共感」「同情」といったことばで表現されてこなかったか。だから差別や人権侵害の被害を訴える人が、同情に値する人物かどうか(自然と共感を呼び、一緒に考えたくなる人柄かどうか)が過剰に問題視されてしまうのではないのか。・・・反省すべきところはたくさんあると思います。

人権はだれもにある権利だから、私がとても共感できない、大嫌いな相手であっても人権はあるし、尊重されなければならない。同情できる相手、共感できる相手だけを大切にするのは、人権の尊重ではありません。だからシンパシーではなく、エンパシーという概念が必要になるわけです。でも、そこを意識して使い分けるということを、日本語はまだできていないと思います。

「差別」を訴えるときに、マイノリティからの指摘、怒りの声は重要ですが、その声でしか語れないのは問題です。その差別を受けない側のマジョリティが、マイノリティのことばにタダ乗りすることなく、自分自身のことばで問題を指摘し、自分自身のコトバで怒りを表明する文化を育てることが、反差別の社会をつくるということではないでしょうか。どんな問題にも言えますが「当事者に寄り添う」と言いながら、怒りのことばを勝手に借りていくような運動のしかたが多かった気もします。

マイノリティが声をあげやすい環境をつくるためにも、マジョリティ側から「差別に対して怒ることば(表現)」を豊かにしていく、「人権を大切にすることばや行為」を豊かにしていく、ということを、もっと意識していきたいです。

 

おそらく、そういった文化が社会に醸成されていくことで、内心に差別的な考えを抱えている人たちも、何気ない会話や日常生活のなかでモヤモヤと葛藤させられることが増えていくのではないでしょうか。内心は表明されない限り「わからない」とはいえ、言動の端々に思想は現れるものです。人権文化が広がることで「いまのそれはどうなの?」と引っかかる人が増えていけば、その人が考えざるを得なくなる場面が増えていく。「内心には介入できない」けれど、社会的に人権の文化が構築されて、その人をとりまく人たちの考え方に「反差別が多め」になっていけば、変化を促されるはずだと思います(そう信じてないと、こんな地道な教育の仕事はやってられません 笑)

 

「これは差別では?」という事象、事態に出くわしたとき、まず何をすべきかという優先順位、短期的な戦術(差別言動をまず止める)と長期的な戦略(差別事象が起きにくい条件整備を考え、実行する)、並行して何をするのか(差別を見抜く力、問題が生じる構造を解析し解決策を導く力を育てる教育)という判断・・・等々を考える、その基礎力を培うことが、大学で行う人権教育のキモかなぁと考えます。

だって大学は高等教育機関ですから。小中高校では「エンパシー」の能力を育てることがキモでしょうか。「わからない」から学ぶ。「他人の靴を履いてみる」

そんなことを考える2月です。