わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

ふたたび『夜と霧』

『夜と霧』をなぜそんなに一生懸命読んでいたかって・・・

来週から、ポーランドアウシュビッツ)を訪れる予定だったのです。

3月当初は、日本政府のアホで差別的な的外れ対応のせいでヨーロッパが怒って日本人締め出されたらどうしよう…的な心配をしていたのですが、そうこうするうちにWHOがパンデミックを宣言し、いまやヨーロッパに感染が広がって大変な状況になり…という展開になって、ツアーが中止になりました(アウシュビッツ博物館も閉館中)

 

ある著名な心理学者がなにかの折にこのこと(被収容者は解放までの期限をまったく知らなかったことー引用者注 )にふれて、強制収容所におけるありようを「暫定的存在」と呼んだが、この定義を補いたいと思う。つまり、強制収容所における被収容者は「無期限の暫定的存在」と定義される、と。   ―『夜と霧』新版118p

(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができないのだ。そのため、内面的生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。これは、別の人生の諸相においてもすでにおなじみで、似たような心理的状況はたとえば失業などでも起こりうる。 ―同 119p

 先日、同じツアーに参加予定だった若い人たちが主催した小さな読書会に参加させてもらったとき、上記の箇所が「この(COVID19)騒動がいつ終わるか見通しがつかない状況にいる私たちのことだと思った」という発題があって、あぁ、ほんとうだ! と思いました。そのときはまだ、ツアー実施に一縷の望みをかけてはいたのですが、いつ終わるかわからない、しかも不確定な情報や噂がどんどん飛んできて不安をあおられる……そんな状況。

同じ119pにフランクルは「わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ」とも書いています。まさに一日のなかで耳目に入ってしまう様々な情報に感情が振り回されて乱高下し、それに疲れて「今日も長かったな」という感覚と、でも仕事はキャンセルされるし、参加したいイベントも中止が続くしで、日常のルーティンを淡々とやって過ごすしかなく、代わり映えがしないので「あれ、もう1週間たったのか」という感覚もあるという矛盾した時間の感覚も、まさにその通り……。

読書会では、フランクルが「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ」と書く「ユーモア」ということは他に何があるんだろう…という話や、「内面的なよりどころ」とは一人ひとりにとって、具体的にどんなことなんだろう…という話などをしました。もちろん一人で読んでも学ぶところのたくさんある名著だけど、こうして書かれていることばを手がかりに話をすることで、自分自身の「いま・ここ」と目の前にいる人の「いま・ここ」、そしてフランクルの収容所内での「かつて・収容所で」や執筆時の「そのとき・書斎で」の感覚や経験が交わって、次の読みが生まれる。すごく素敵な時間を持てたなぁと思います。「暫定的存在」になってしまっているいまの私たちだけれど、その状況でもなお、そこから何かを学ぼうとすることはできる。それは私の「決断」しだいだということだなぁと、思います。

現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ「目的なんてない」からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内面的成長をうながすことがあるということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは被本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。―同 121-122pp

したがって、収容所生活が被収容者にもたらす精神病理学的症状に心理療法や精神衛生の立場から対処するには、強制収容所にいる人間に、そこが強制収容所であってもなお、なんとか未来に、未来の目的にふたたび目を向けさせることに意を用い、精神的に励ますことが有力な手立てとなる。被収容者の中には、本能的にそうした者たちもいた。その人たちは、おおむねよりどころとなるものをもっていた。そこにはたいてい、未来のなにがしかがかかわっていた。 ―同 123p

 

今回のツアーは中止になってしまったけれど、いつか必ず行くし、

今回も、行けなかったけれど貴重な学びを得ることができたから、これでいい。

フランクルには『それでも人生にイエスと言う』という本もありましたね、そういえば……(春秋社。講演録です)

悔しいけど、この経験と学びはだれからも奪われない私のもの。

そして、悔しさとともに学びを共有できた人たちがいること。

この人たちと、行けたらいいな。・・・という未来を見すえて、

パンデミックに精神まで支配されないように、私は私の主体性を信じて新年度の準備に勤しむことにします(とはいえ、悔しいぞ!)