わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

もしも「コロナ世代」と呼ばれるとしたら。

相変わらず、オンライン授業(準備とふりかえり)でキュウキュウですが…

 

先日、学生さんのジャーナル(授業のふりかえり記録)を読んでいたら、

「母に『もう少ししたらあんたらは《コロナ世代》って言われるんやで』と言われて遣る瀬ない…」と書いてあって。

アホの私は、なんで遣る瀬ないの? と一瞬、なやみ。

若い友人に「それ、うちらが『ゆとり世代』って揶揄されてきたのと同じ語法ってことでしょ?」と指摘されて、おお、そういうことか! と、3日遅れぐらいで理解。

コロナのせいで、学校が休校になって学力低いんやろ?というスティグマになるってことかよ……。日本、クソやなーと呆れてしまいました。

 

かくいう私は、丙午(1966年生まれ)の学年。まだ子どもが多くて、団塊ジュニアで子どもの数がピークに達する右肩上がりグラフの最中に、なぜかそこだけポッコリ少子化だった学年なので「丙午は競争してないからアホ(人数が少ないゆえに入試楽勝?)」というスティグマ貼られてた世代(イマドキの人には謎でしょうけど、その原因が「丙午の女は男の運をつぶすから」という迷信だという地獄みの深さ(笑)あと6年ぐらいしたら、また丙午巡ってくるけど、どうなるんでしょうねー)

 

私がちょうど大学で教える仕事をもらったころが、ゆとり世代の学生さん真っただ中ぐらいだったはずなんですよね。で、いまちょうど「ゆとり」課程終了後の人たちが学部生を占めていると思う(この春に卒業した人たちあたりが分岐点のはず)。

そして、その、今30歳前後ぐらいの世代の人たちと、あらためて仕事でご一緒することも増えてきた昨今、個人的にはとてもおもしろいので、そもそも私は「ゆとり世代」が揶揄のことばだということじたいがピンとこない…。おもしろい、賢い人にいっぱい会うんだけどなぁ…??? と思っています。それはさておき。

いまオンライン授業でつながっている学生さんたち(1年生が多い)を見ていて(まだ授業4回分ぐらいですけど)、私が実感していることは、

人間は環境から学ぶ

というゆるぎない事実です。だから、それがなぜ「コロナ世代」と揶揄される事態を心配させられることになるのか、さっぱりわからないです…(冒頭の「なんで遣る瀬ない?」に戻る)

 

私が授業で、日本赤十字のスライドや動画を見せるなどして、「いま、どんなきもち?」「いま、どんなこと考えてる?」「この時期はどうだった?」と掘り返す作業をしているせいもあるけれど、夢と期待に胸躍らせていたのに、なんでコロナ!?オンライン授業ってなに!? という理不尽な運命に見舞われて、ほんとうにいろんなことを考え、自問自答し、葛藤し、考えている。そんな学生さんたちが、もし将来、「コロナ世代」と呼ばれるのだとしたら、それは褒めことばでなくてはいけないと思う。

だって、だれも経験したことのない、「学校」という制度そのものが大きく問い直されてしまう(なぜなら「学校」は三密要素が高いから)事態のなかで、手探りで「学びを止めない/学習者の権利ってなんだ?」ということを、自然と考えざるをえず、考え抜いた世代ってことになるわけでしょう? その深い哲学。得ようとして得られるものではないでしょう。それは、今後の人生を支える哲学になるんじゃないかな。と本気で思っています。

 

そんなこと褒められてもうれしくない、ふつうにキャンパスライフ送りたかった!

と学生さんたちは思っているだろうけど、でも長い目で考えたときに、いまのこの経験が、今後の学校のあり方、学習スタイルの多様化、子どもの権利……そもそも教育とは? といったことが議論になるときに、非常に重要な経験知になるのは間違いないと思うのです。

 

考えてみれば「ゆとり世代」って揶揄する人たちって、《ゆとり教育》が気に入らなかった人たち。その人たちは、何が気に入らないって「大人しく詰めこまれて従順に教えられてくれる人たち」にならないことが気に入らなかったわけでしょう?(なのに「主体的探究的で深い学び」とか言い出す矛盾ですよ…)その人たちの頭の中にある、1学級にできるだけたくさんの子どものを放り込んで、1対大勢で一斉指導する「学校」というスタイルが、いまコロナのおかげで揺さぶられているわけですよね。教員一人当たり、教室1つあたりの児童生徒定員が多いから「密集」になる。クローズした教室設計だから「密閉」になる(廊下につながった開放型の教室のある学校もありますけど、少数派ですよね、まだ…)。つまり、今後も同じ「学校」スタイルを続けていって、また同じようなパンデミックが起きたらどうするの? ということを否応なしに考えなければいけないはずで。まさか、何もなかったかのように元に戻る気じゃないよね、文科省…(というより、そこにお金を出すのを渋り続けている財務省かな)

 

調べればすぐわかることを、いちいち暗記させるとか

大人の顔色だとかまわりの「空気」だとかを読む力ばっかり伸ばされるとか
(あるいは、そんな力を拒否した子を置き去りにしたり切り捨てたり)

プロセスを無視して、形だけ整える

予算もケチって子どもを詰め込んで、いろんな不備を教員の「やる気」「熱意」でごまかして乗り切っている(実際には乗り切れてない)

 

なんとなく、これではダメなんじゃないか? と、うすうす見えていたことが、一気に露呈している、それをなかったことにされないようにしたいです。

もしも、いまの子どもたちが「コロナ世代」と呼ばれるとしたら、
「日本の教育が大きく変わる分岐点に立ち会った世代」として、敬意をもって「どう思う?」と意見を聞かれる対象として、でなくてはならない。

 

…てか、私は尊敬しているのです。18歳や19歳でこういう経験をしている人たちが、どんな次の一歩を踏み出すかが、ほんとうに楽しみ。応援します。