6月が終わろうとしていて。
鬱々としながら始まったオンライン授業も、気づけば2/3終わって、ゴールが見えてきて。その日その日、目の前のことを愚直に片づけていれば時は過ぎゆくんだな…というあたりまえのことを考えながら、もにょってしまう。
6月は、6.23と6.25の月なんだよ。日本の戦後史を考えるために、すごく大事な日が二つも来るんだけれど、どっちもスルーされがち。
#BLMに絡む報道を見るたびに、同じようなモヤモヤが重なる。
…と、もう既に的確な文章が発信されているので、それ以上私が何かを言える気もしない。学生さんも言っていたけれど、なぜ日本では、足元にいくらでも差別があるのに、「差別といえば黒人?」と黒人差別が真っ先に頭に浮かぶ人がこうも多いのだろうか。
ある学生さんが「英語の時間にキング牧師のことを習うから?」とか言っていたけれど、確かに日本で水平社宣言をじっくり読む授業とかないもんな。と思う(とはいえ、数年前に「公民権運動って知ってますか?」と聞いたら大半の学生さんがきょとん…としたので、びっくりして「え、I have a Dream教わらんの?」と聞き返したら「それは知ってる!」とみんな頷いたので、のけぞったんだけど)
6.23は沖縄慰霊の日で、6.25は朝鮮半島で冷戦が熱い戦争になった日だ。そして、その熱い戦争がひとまず終わった後も、東西冷戦の最前線に置かれ続けたことで、東アジアの矛盾を引き受けさせられた人たちがそこにいる。日本のいま・ここの立ち位置の、足元を掘り返していったときに現れる、厚い岩盤のようなものだと私は思う。でも、日本社会でこのことに関心のあるマジョリティがどれぐらいいるんだろう。
心許ない話…。
そんな6月末、授業で部落差別を解説した。毎度のことながら
*自分は学校で教えられて初めて知った。ということは教えなければ知らない人の方が増えて差別はなくなるだろうになぜ教えるのか
*見た目も言語も何一つ変わらないのに、なぜ差別があるのかがわからない(≒古臭い封建的な意識を引きずっている年寄りだけの問題で若者は関係ない)
学校が教えなくても、ネットが教えるじゃんよー。しかも「教わるぞ!」という心構えもないところに不意打ちで酷いデマ情報を送り込まれて、ひとたまりもなく偏見を学んでしまう人たちが増えていく勢いに、人権教育は全然追いつけてないのに、何言ってんだ。……悪意のある人が相手を痛めつけようと思って酷いことを言ったりやったりすることだけが差別ではないんだし。そもそも「差別を知ったから差別するようになる」というロジックじたいが変だよね……。あなたは人殺しの方法を知ったら人殺ししてみたくなって実行するんですか? って聞いてみたい。
私が、より厄介だなと思っているのが後者の方で。
こういう人たちは、「黒人は肌の色で区別がつくから」差別のターゲットにされているのだと思ってるんだろうな、と思う。同様に、外見でわかる障害者や外国人が差別されることは「わかる」けど、外見でわからない人は「差別されようがないはず」と思っているんだと思う。そして自分の見えている範囲内に「外見で自分と異なる」相手が「いない」から、自分の身の回りには差別がないと信じている。
……そう思いこみたいだけの妄想の世界に住んでますよ、あなたは。と言ったら?
外見の違いはわかりやすいから、初対面でドキッとしたり、どう接したらいいんだろうと迷ったり、そういうことが起きやすいのはわかる。だれでも、接したことがないタイプの人を前にしたらドギマギするものだし、それはしょうがないと思う。
(もちろん、ドギマギして緊張することと、それを言い訳に失礼なふるまいをすることとは別の問題。ドギマギしている自分に正直に、最低限失礼がないように、謙虚な態度を維持するのが成熟したふるまいで、差別云々以前に、日本ではそういう類の練習が全然足りてない。まぁ、だからそういうのと差別との区別がつかずに変な論理展開を平気でするんだろうなとも思う)
外見の違いなんて、実は大した問題ではない。要は慣れだからだ。失礼なこと言ったら怒ってね、教えてね、とおずおずと話し始めて、関係ができていけばドギマギしなくなるし、同じようなタイプの人と次に新しく出会ったら、前よりは少しドギマギせずに話ができるはずだ。人間はそうやって、自分の知らない世界を増やしていく
だから、肌の色が違う、見た目が普通ではない友だちがいる人ほど、これまた逆に「私にはこんな友だちがいて、私たちの間には差別はない。わざわざ勉強しなくても純粋な子どものうちからいろんな人と知り合っていれば差別はなくなる」というネオ「寝た子を起こすな論」みたいなのが登場したりもするんだけど。
ややこしい……。
(そもそも「子どもは純粋だから」っていうの、子どもをバカにしてると私は思っている。子どもは子どもなりに手垢にまみれて薄汚かったりするんだぞ(笑) そして賢いし鋭い。純粋では生き抜けないんだよ!)
外見…もそうだけど、その人のアイデンティティがどうあろうと、そんなことは差別される理由でも何でもない。問題は、そのアイデンティティがあることで不利になるような社会の仕組みができあがってしまっていることにある。何が不利になるかは社会によって微妙に異なる。アフリカで黒人は差別されないし、日本で黄色い人は差別されない。国籍の違いがどれぐらい不利になるかも、社会のあり方によって変わる。障害や病気だってそうだろう。そしてあなたも私も、そういう社会の一員として暮らしている。
だいたい、「見た目も変わらないし言語も同じだし、だから私たちと同じ」と認定しているのは「あなた」に過ぎず、認定されている当の相手は「私とあなたは違うよ」と思っているかもしれないよ? 「いや、同じじゃないし」「勝手に仲間に入れないで」と反撃されたらどうするんだろうか?(だいたい、逆上するよね…。「仲間に入れてやっている」つもりだもんね。上から目線。何様?)
私自身が幼少期から、多様な友だちのいる環境で育ち、途中までは「うちらの間に差別なんてないし!」とお気楽に育っていたから、自戒を込めて思うこと。
国籍のことや名前のこと、海外も含めた親戚関係の複雑さなどで、友だちはきっといろんなモヤモヤしたものを抱えていたと、いまならわかる。私(も含めたマジョリティ日本人の子どもや親)がそんなことはつゆ知らず、「うちらは差別もなく平和」と思いこむことができていたのは、そんなマジョリティの思い込みの世界を、彼らが壊さずにいてくれたからだ。壊さずにいてくれたというより、どう壊していいかわからなかったと言ったほうがいいかもしれない。「なんで自分は行ったこともない国に国籍があって、そのせいで外国人登録なんてしないといけないんだろう」とか「なんで『お前は公務員無理やからな』って最初からあきらめさせられるんだろう」とか「なんでうちの親は医学部医学部ってうるさいんやろう」とか、そういうモヤモヤを言語化できない、言ったところで能天気な日本人の子に通じると思えないから、黙っていただけなのだ、きっと。
マジョリティが意識もしない「ふつう」「あたりまえ」から、はみ出さざるを得ない人たちが、「ふつう」と「ふつうじゃない」世界の境界線の上でモヤモヤしながら立ちすくんでいる。境界線の上で曖昧に笑いながら、「ふつうじゃない」方に遠く弾き飛ばされないように、細心の注意を払ってサバイバルしている。そのことのストレス、疲労感だって、差別の産物だ。わかりやすい排除や見下しだけが差別なわけじゃない。
差別は差別する側に原因がある
そして差別を生み出す社会の仕組みを変えていかなければ、差別は再生産され続ける
その再生産の輪に加担するのか、その輪を断つ努力をするのか
日本には日本社会の、断ち切るべき差別がある
他人事のように報道したり、眺めたりしている場合ではない