わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

多様な子どもたちの学ぶ権利と学校と多様性

今朝、「こんなにあれやこれや業務が増える一方では先生がつぶれるよ!」という記事を読んだ。読んでいたら近くの小学校から「今日は赤旗(雨の後で運動場が泥んこだから運動場には出ないでねの旗)が立ってます。だから児童のみなさんは、運動場の端っこを通って校舎まで来てください」という放送が聞こえてきた。

半月ほど前、分散登校が始まった日は、お昼ごろに「B班のみなさんの登校時間は12:10です! 時間になるまで運動場で待っていてください! 鉄棒とかうんていとか、余計なものを触らないで!」と「ちっ」と舌打ちする音が聞こえてきそうなトーンの放送が2日ぐらい連続で聞こえたし、分散が終わって全員が揃うようになった日には、「運動場で遊んでいるみなさーん、くっつきすぎですよー」という放送が聞こえていた。もうそのときには「ちっ」という感情は声に乗っていなくて、微笑ましくて仕事しながら噴き出したのだけど、それにつけても先生たちは大変だよなぁと同情を禁じ得ない。

 

私も、この記事の住田さんの主張に完全に同意する

webronza.asahi.com

「学力」なんてくそくらえだ。そもそも「学力」ってなんなんだ。

テストではかれることなんて、ごく一部に過ぎない。

教育を考えるとき、迷ったらここに戻れ!に戻ってみる。

 学習権とは、 読み書きの権利であり、 問い続け、深く考える権利であり、 想像し、創造する権利であり、 自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、 あらゆる教育の手だてを得る権利であり、 個人的・集団的力量を発達させる権利である。(ユネスコ学習者の権利宣言1985)

 いま学校でやるべきは、子どもも大人も直面しているこの「新型コロナウイルス」によって起きたさまざまなできごとを話し合い、体験や気持ちを記録し、「個人的なことは社会的なことなのだ」という気付きを深めていくことではないのだろうか。このすごい経験を共有している「わたしたち」の学び合い以上の学びが、あるだろうか?

なんでそこをそっちのけで、受験学力の心配ばかりしているのか。と、この国の教育の本末転倒っぷりに今更ながら頭痛が悪化しそうになる(昨日からの低気圧にやられているところ)

 

そんなこんでモヤモヤしっぱなしの先日、とある知人(いちおう教え子なのか?なのか?教えてないけど 笑 という関係性の若者ががんばっているのが嬉しい)から教えてもらって、ああそういえばそうだ。と思い出したので、朝から以下の資料を並べて読んでいた。

その1「外国人児童生徒等の教育の充実について (報告) 」2020.3.

https://www.mext.go.jp/content/20200528-mxt_kyousei01-000006118-01.pdf

その2「新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議
これまでの議論の整理(案) 」2020.6.

https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/content/20200630-mxt_tokubetu02-000008308_1.pdf

(いずれも文科省の会議資料…どうでもいいけど、公文書すべてにおいて、西暦を併記してほしい。平成と令和がこんがらがってややこしくて仕方がない。研究者に対する嫌がらせか? と思う。院生のとき明治大正昭和と西暦の併記表をノートに貼って持ち歩いてたけど、21世紀になってもこれかよ! と思うのは私だけだろうか)

 

何が「そういえばそうだ」かというと、日本語の力が日本語ネイティブに比べて弱い子どもたちが、日本語ネイティブ基準の発達検査で「障害あり」とみなされて特別支援学級や特別支援学校に送られてしまう問題。のこと。昨年春に政府が「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」というのをぶち上げたこともあって、実は日本国籍がない子どもの就学実態がつかめず2万人が「不明」だ!とか、ことばの壁が知的障害と誤解されている!とか、以前からあった問題が急にクローズアップされて日の目を見た、というのが昨年、2019年だった。

問題に日の目が当たるのはいいこと。でも、ここでもやはり「教育」、学習者としての子どもの権利をどう考えているんだろうか? とモヤモヤする意見が飛び交うことが多かった(最近は新型コロナウイルスをめぐる大変さの方に移ってしまって、報道も減ったけれど、後述するように子どもの問題は親の問題でもあるので、元々脆弱だった経済基盤が余計に危うくなって、その困難が子どもを直撃しているんだけど)

 

まず第一に、わかりやすく「日本語で困っている親子」ばかりが注目されて、日本語さえ教えれば解決するという誤解の再生産になってないか? というのがモヤモヤする。「日本語がわからない/わかる」と簡単に言うけれど、日本語の日常会話が不自由なくても、たとえば「桃太郎」をはじめとする日本のおとぎ話の知識がないからCMの三太郎のおもしろさが実は半分しかわからない、といった微妙な「わからなさ」が学校での勉強を困難にするハードルの一つだということも考えてくれないと困る。日本の学校は「学校にくる以前にこういう素養は既に身についているはず」と想定しているレベルが高すぎると私は個人的に思っている。日本人の子どもにしたって、「6人に1人が貧困」と言われている昨今、全員がそんなレベルをクリアして小学校1年生になっていると思えない。ましてや海外から来た子どもや、そういう親の子どもたち、である。

そして、「2万人も不就学(かもしれない)!大変だ!」と騒ぐけれど、その2万人がどういうことなのかを掘り下げれば、就学案内と指導が徹底されているかという問題だけでなく、親の労働が不安定ゆえに転々と移動せざるを得ない子どもを各地教育委員会が追い切れるわけがないだろという問題(たとえば大阪府では入管に出入国記録まで問い合わせて出国が確認できない限りは追跡を続けている。けど、だいたいが自分たちの管轄エリアで見失ったら調査終了)もあるし、日本の学校の対応がダメすぎて不登校になっている子どもだっている(そしてそういう子どもたちを外国人学校民族学校が救ってきた面があるのに、そちらは無認可で助成もしない)。親の学校観が日本の一般的なそれとずれていて、行政からの説明が伝わっていない(翻訳の問題ではなくベースにある学校文化の問題)ということもある。「日本語さえ学校で教えることができれば解決」という単純な話ではないのだ。そこには大人の日本語教育の問題だって絡む(そしてそっちの担当は文化庁なんだよね……同じ文科省のなかとはいえ…)。ホントにいらいらするけど、子どもの問題は子どもの問題ではなくて、8割ぐらいは親の問題で、そしてそれは「あの親がなってない」と親を責めれば解決するような段階をとっくに超えているのに、子どもの問題に首を突っ込みたい大人の多さに比べて、隣にいる同じ大人の困りごとには手を貸さない大人のなんと多いことか。なんで大人になると途端に「自己責任」なんだ…

 

話がそれがち。すいません。

 

海外につながる子どもたち、特に日本語にまだ課題があるタイプの子どもたちが、特別支援学級を勧められ、そこに行かされる問題について語られるとき、危ういなぁとハラハラするのが「うちの子どもは障害なんかないのに!」と障害児扱いされたことを怒る/差別発言スレスレ、な人がそこそこいることだ。これは発達凸凹のある?子どもの親に、教員や学校が専門家による診断を受けろと勧めても「うちの子は障害なんかない!」と断固認めない保護者の問題と同じこと。もちろん、筋違いの判定をされて、見当ちがいな合わない指導をされるのでは学習権の保障にならないから、ダメですが。でもそれは「障害児扱いすんな」という怒り方をすることではない。そこは問題を論じる側がハッキリ線を引きながら話すべきだと思う(特に報道関係の人には注意してほしいと切に思う)。

そしてその一方で、特別支援学級のことを「うちの子に合わせた個別指導をしてくれる教室」だと理解して、感謝する保護者もいる(「うちの子も入れてほしいのに、なぜ入れてもらえないのか」と抗議する保護者もいたりする)。これも発達凸凹のある?子どもの親が、学校側が「原学級指導でやっていける」と言っても「うちの子に合わせた教育をしてほしい。原学級ではできないだろう。イジメられたらどうするんだ」と言い募ってきたりする問題と同じこと。原学級の側にそもそも問題が隠れているのに。もちろん、保護者にしたらその問題の解決を待っていられない、困っているのはうちの子なのに!という思いが出るのは致し方ないんだけど。そこで「はいそうですか」と簡単に引き下がって、子どもが支援学級なり支援学校なりに出て行ってくれたおかげでとりあえず目の前から問題が減ってよかったーという思考回路になっている人たちがいることも知っている。そういう思考回路の犠牲になっているのは、実は原学級にいるその他大勢の子どもたちでもあるのになぁ、とやるせない。

 

…とどのつまり、そもそもの話が、日本の一般的な学校が「個別最適化」という課題が苦手過ぎて、一人ひとりの子どもの発達や意欲に寄り添う学びを保障するためには「特別支援」しか道がない状態に陥っていることが問題なんじゃないのか? と私には思える。そして、そういう学校全体の問題には手をつけずに、日本語指導を要する子どもには「日本語教室」や「センター校」を用意して、通級指導…

それって、特別支援教育の仕組みと同じですよね……

ということはつまり、「海外ルーツの子どもが特別支援学級に入れられる」問題解決のために「日本語教室」という別の特別支援学級がつくられるだけってことではないのかな? そして学校に在籍する大半の子どもたちの「個別最適化」は蚊帳の外。そこに教育産業が群がって、持てる子どもと持てない子どもに格差が拡大していく……。

 

でも、世界は「一人も取り残さない」SDGsで、Inclusiveな世界をめざしていて。

先ほどの文科省の会議資料でも「一人も取り残さない」と書いてある。

 

新型コロナウイルスから「子どもを守るんだ!」ともっともらしいことを言って、子どもの意見も現場の意見も、医学的なエビデンスもすべて無視して、休校措置に踏み切ったことの結果を、子どもと現場にだけ背負わせてどうするんだ。そしていま、長期の休校と、いまだに感染防止策を取りながらの学校生活のあり方を模索中ということの影響で、一人ひとりの子どもののストレス度合いや学習・生活習慣の混乱ぶりの差は無視できないはずで……いまこそ「個別最適化」を学校がどう取り入れることができるか、これまであきらめてきたことを、あきらめている場合ではないと腹をくくって改革に進めるかどうかが問われているのではないだろうか。

この情勢を無視して、「日本語指導教室やセンター校をつくってー」という従前の学校を前提に考えていたアイデアのそのままで突き進むなよ、と思う。

 

多様性(Diversity)は単にいろんな子どもがわちゃわちゃ混じってそこにいればいいということではない。多様な一人ひとりが安心して、自分のやりたいこと、やりたくないことを主張できて、適切に応答してもらえる、そういう包摂(Inclusive)の場が保障されていなければ、実現できない。特別な教育課程が「ふつうの子はこちら、ふつうでない子はあちら」と振り分けるシステムだと勘違いされている間は、居心地の悪さを感じる子どもも減らないと思う。特別な教育課程は「個別最適化」のためであって、ゆくゆくはすべての子どもに保障されるような形に変貌していくものだと考えていかなければ。そして、子どもは子どものなかで育つ、人は人のなかで学ぶという大原則。「個別最適化」は差し出されたメニューを消費するような学びではなく、周りにいるさまざまな人とともに「問い続け、深く考え、 想像し、創造する」営みの一部として構成されなければ。そういう構成力のある人が21世紀の教育を担っていく社会であってほしい。

 

(学校という小さな社会で、そんなささやかな社会実験をするための費用すら出し惜しみするような政府に、持続可能な日本社会が創造できるとは思えない。教育予算は未来への投資なんだから! と、日本政府に訴えていくこともだいじ)