わったり☆がったり

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(2014から引っ越し)2014年HPFパンフレット巻頭言より

(HPFとは、大阪の中高演劇部の夏のイベントです。実行委員会形式で、大阪市内の小ホールをお借りして開催しています。今年、私の関わる高校演劇部は参加しなかったのですが、実行委員会代表:金蘭会高校演劇部顧問の先生が書かれた巻頭言が印象的だったので、ここにメモ代わりに引用しておこうと思います……)  

 

演劇とは想像と創造の産物だ。現実の様々な事象を捉えては、そこから「明日」へと展開し変容する姿に思いを馳せる。そして、そのイメージされる世界への自らのスタンスを意識しながら、それを「見える世界」へと造形していく。勿論、身体を使って。この「想像と創造」の営為は、不可避的に身体が介在する為に、常にその時代の情況を色濃くにじませる事になる。 さて、そこで「今」という時代である。世界の様々な所で銃声が響き、今この瞬間にも、世界のどこかで誰かが殺されている。ウクライナ、シリア、イラク・・・それ以外にも内戦や紛争の火種を燻らせ、日々人の命が失われている国は24ヶ国にも及ぶ。そのどこでも、敵も味方も誰もがそれぞれ力強く「正義」を叫んでいる。銃を握る誰もが「平和」を熱く希求し、その為に、容赦なく「敵」の人々を大量に殺していく、そう、これが戦争だ。 日頃、社会では様々な事件や事故で人が命を失う。その「1人死亡」の重みを噛みしめるように、その犯人や原因を徹底的に追求し、その死を心から悼む。ところが、「戦争」になると、死者の数は桁違い、そして勿論、それは通常の犯罪として罪に問われる事はない、「正義」なのだから。何という矛盾がこの現代社会を大手を振ってまかりとおっている事だろうか。 世界中の情報が瞬時に入ってくるネット社会になっても、その事情は変わらない。

そして、我が日本である。政治家たちは今執拗に日本を「普通」の国にしたがっている。「普通」の国とは「正義」を振りかざして「普通」に人を殺すことのできる国である。殺されるという被害者的側面ばかりを人はつい強調したがるが、戦争の本質はそうではない、「敵」と認定された他国の名もなき民を「殺す」行為なのだ。世界に誇る平和理念の象徴、憲法9条をずたずたに骨抜きにしてまで、集団的自衛権を振りかざし、「普通」に殺す国になろうとする日本は、さて、一体これからどこに向かう? 問題は価値観の有り様である。正義も真実も決して一義的ではない。世界中を見渡してみると、正義も真実もまさに多種多様、あらゆる正義と真実がどれも唯一絶対と自己主張している。領土問題もしかりである。1つの正義に盲目的に傾倒して拳を振りかざす所から、ピュアな者達の痛ましい「殺し」が始まるのだ。

さて、ここで「劇」の出番となる。HPF25年目の夏、劇創りに汗を流す若い感受性は、「普通」化するこの時代とどう向き合うのだろうか? 劇創りには、「普通」に固定されない多様な視点が要求される。劇は決して人を殺さない。劇はいつも一回性のはかない「生」の中を息づいている。劇は限られた小空間という制約の中で、限りなく自由だ。そして、劇はいつも、現実の向こうに「夢」を見ている。 実は劇はこれまでも、若者達の躍動するエネルギーと共に、大きな時代の節目に逞しい力を発揮してきた。1950年代、若者達の既成社会への反抗を示す「怒れる若者たち」という、世界中を席巻した言葉は、イギリスのオズボーンの劇「怒りを込めて振り返れ」から生み出された。又、1960年から70年代、社会を変革しようとする学生運動のうねりと呼応するように、旧来の新劇や商業演劇と一線を画する新たな演劇、アングラ(正式にはアンダーグラウンド演劇)が若い演劇人達によって生み出された。唐十郎別役実寺山修司清水邦夫蜷川幸雄佐藤信など、当時のアングラの旗手達は、今や演劇界の重鎮的存在である。 あの頃彼らは無名であり、夢を握りしめているだけの貧乏な演劇青年であった。ただ、若かった。ただただ若い情熱を迸らせ、それぞれがそれぞれのスタンスで、時代としっかりと抱き合おうとしていた。

そして、長い歳月が流れた。

今、この時代に、状況と対峙しうる若さは、このHPFの担い手、舞台創りに懸命に汗を流す、現代の無名の高校生達が握りしめている。「さとり世代」とも呼ばれる事のある彼らだが、時代と向き合い、時代を揺るがし、明日を構築するエネルギーは、一見ちっぽけで脆弱な今のこの若さの中にある、必ずある。 だから、君たち、(中略)舞台の幕が開く直前、大きく深呼吸して、時代の空気を思いっきり吸い込んで欲しい。そして、舞台でライトを浴びながら、役者それぞれが発する台詞と一緒に、それを客席に向かって、力の限り吐き出すのだ。その時、君たちに、又、君たちの舞台を見詰める観客達に、吐き出される君たちの熱い息づかい、「生きる風」は、どんな色に見えるだろう? 今の風潮そのままの「普通」色なのか、それとも、今までに見たこともない「明日」色に染め上げられているだろうか? 太宰治の名言に「富士には月見草がよく似合う」という言葉がある。高校演劇の舞台は、所詮は月見草のようにちっぽけなものだ。しかし、それが、富士山の様にそびえ立つ巨大な「時代」「権力」に、怖じけることなく無邪気にしっかりと向き合う、そんな力に満ちた、ちっぽけで大きな劇世界が、きっと今年、暑いこの夏の大阪で、いくつも見られる、そう信じている、確信している。なぜって、若さはいつも、いつだって、澄み渡る程に無限なのだから。

(2014HPF 7/19~7/31開催パンフレットより)