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『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』(金春喜・明石書店)

発刊前からチェックし、半年ぐらい前に買ったのに、読む始めたのは先月という…

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とても読みごたえがありました。元は修士論文とのことで、研究続けてほしいなぁ…と思いきやの日経の記者さんになられたらしい。それはそれで、今後のご活躍が楽しみではありますが…。

 

本書では
「外国人児童」というけれど、そこに日本国籍の子どもも含まれているように、生活面でも学習面でも個々の違いが大きく実態は多様であること、そして日本の「外国人政策」が基本的に鎖国論で「足りない労働力を埋めるピース」としか外国人を見ておらず、ましてその子どもたちとなると完全の視野の外で、何の施策もなかった…といった「外国人の子ども」を取り巻く社会背景を押さえるとともに、
「障害児」の就学、基礎教育保障/義務教育学校からも「就学猶予」で排除されてきた時代から、1979年の養護学校義務化、そこで巻き起こった「分離なのか統合なのか」論争(そしてそれは現在も「排除なのか包摂なのか」の議論として続いており)その延長上にある「発達障害」の位置づけ、そもそも「支援教育」と呼んでいる、その「支援」とは何なのか…といったことに関する先行知の整理も行われています。

この第1章部分だけでも、教員を志望する学生や、教壇に立ったばかりの若い先生たちにぜひ知っておいてほしいところだと思いました。

そして、本書の著者はその概念を用いてはいないけれど、これはまさに差別の交差性(intersectionality)だなと。外国人差別だけを見ていても気づけない、障害者差別だけを見ていても気づけない、その交差点で起きているからこそ見落とされてきたのだなと考えさせられました。

※なお、通常教育行政や学校の用語では、小学生までを「児童」、中学生以上を「生徒」と呼びます。私もその用法に慣れているので、本書の用法には少々違和感がありました。序章でその説明はされているのですが慣性というのはいかんともしがたい(苦笑)。ということで、以下、引用文中の「児童」が本書で取り上げられているきょうだいを指しているとき、そのきょうだいは中学生です。

《医療化》と《心理学化

読み終わって、キーワードだなと思ったのはこの二つ。

まず、私も曖昧な理解しかしていなかったなと反省したのが、「発達障害」と呼ばれているものが、実は科学的根拠に乏しい「仮説」に過ぎないということ…。

え、じゃあ、特別支援学級に行くか行かないかの根拠として実施されている「発達検査」って何だったの……??? と衝撃を受けてしまったのですが。

よくよく考えてみれば、「発達障害とかいうけど、こういう子たち、いくらでもまわりにいたし、一緒に教室で勉強してたと思うけどな…」と懐疑的に見ていたくせに、「発達検査」といってわざわざ受検しに行くわけだから、医学的根拠(いわゆる「脳機能の障害」)に基づいて判定されているのだろうと信じていたのはなぜだろう……でした。もちろん、まったく医学的な根拠がない似非診断だというわけではない、実際にその診断を受けることによって適切な環境整備が行われ、その子どもが安心して学習できる、生活できるようになっている面もある……。でも一方で「科学的根拠や原因が特定されている」と100%言い切れるわけではなく、「曖昧で不確実な要素」もあるということを、私はよくわかっていませんでした。特別支援教育を専攻している、その免許持ちの先生たちはご存知で、私が門外漢でわかっていなかっただけなのでしょうか……(不安)

《医療化》とは「もともとは医療の対象でなかったにもかかわらず医療問題として定義され処理されるようになる現象」を示す概念(本書63p)
つまり、「発達障害」も、かつては「不器用」「スローラーナー」「コミュニケーションが苦手」といった認識でとらえられていた個性が《医療化》されたものととらえることができるということ……まさに上述した私の懐疑と納得にあてはまる……

 こうして無自覚を貫いた教育現場で「発達障害」の概念が受け入れられ、より多くの子どもがそう認められ 、選別され、リスク管理の対象となる。そして、彼らは特別支援教育の対象となり、「わけられ」、「支援」されることになる。こうして「通常教育」から追いやられるようになると、議論は先の特別支援教育のものとも接続し、より複雑なことになる。

 まして、この「発達障害」をめぐる状況に外国人児童が巻き込まれたら、どういうことが起こるだろうか。なんらかの経緯を経て、外国人児童が、不確実で曖昧な「発達障害」の概念のもと、特別支援教育の対象となり、「通常教育」から追いやられていく。しかも、まさにそのとき、教育現場においてはその「発達障害」の概念の不確実性が全くもって自覚されないままに、その道がつくられていく。こんなことは想像に難くない。なぜなら、すでに見てきたように、「通常教育」の側は「発達障害」とされた児童および外国人児童のための変容を志向してはいないからだ。そのような「通常教育」から追いやられやすい条件を持つ者が、曖昧な言葉をもってして、なんらかの方法で排除されることは、決して難しくないということになる。(67p 下線は引用者)

 ゆえに筆者は、中学校で「支援学級在籍が望ましい」と認定され、支援学校(高校)に進学したフィリピン・日本ダブルのきょうだいが、渡日以降にどういった経緯をたどって「支援学級」に至り、高校進学に際して「職業科を持つ支援学校」を選択するに至ったのかを、その周辺でかかわった10人の大人にインタビューを行い、その《なんらかの経緯》について解き明かそうと試みたわけです。第4章・第5章のインタビュー分析は、読んでいて、とにかく「切ない」「やりきれない」ものでした(ぜひ広く読まれてほしいです)

もう一つ上げたキーワード《心理学化》は、そのインタビュー調査をとおして明らかにした「事実」を、より広い社会的文脈でとらえるために、筆者が援用したもので、「ある社会現象が心理学的用語で説明されるようになること」をいう概念。要は社会現象を社会構造の問題としてとらえるのではなく、個人の内面的な心理の問題、「心の闇」だとか「パーソナリティ障害」「心的外傷」だとかに問題を求めていくこと。そうやって「現実の心理学化」が進行することで、個人の行動や心理の背景にある社会的文脈への関心が薄れ、個人の問題として片づけられていく傾向が強まるのだという先行知が紹介されます(第6章冒頭部分204-206pp)

私は障害者解放運動でいう「医療モデル(個人モデル)」と「社会モデル」の問題とつなげて読みました。障害を個人の肉体の内側の問題ととらえると、それはその個人に対する治療や訓練の問題に帰されてしまい、まわりは何も変容する必要がない。「健常者」側は1ミリも変化を迫られずに済みます。でも障害は個人の肉体の外側に、社会の側にあるのだととらえれば、変わるべきはまわりであり、「健常者」の側が変容を迫られます。

筆者はこの《心理学化》という概念を使って、先のインタビュー調査で明らかになった事態の推移をさらにふりかえっていきます……。さらに切ない……。

 第二に、外国人児童が「発達障害」になるという出来事を心理学化の視点から見たとき、このミクロな文脈での心理学化はいかにして実現したかが明らかになった。ここでの必要条件は、「包括的な移民統合政策」不在の日本では「外国人としての困難」を抱える外国人児童のためにアクセスできる支援に限りがある中で、「障害児としての支援」を利用するしか思いつけないような窮状が用意されていた、ということだ。だからこそ教員たちは、ちぐはぐな対応をせざるをえなかった。心理学化するしかない状況が社会的に用意されていたのだ。

 さらに、この心理学化を実現するための要件は、あと2つ存在していた。まず、ミクロな文脈で、外国人児童とその保護者たちの立場がきわめて弱く、教員たちになんら主張できず、彼らの提案を善意や温情として受け入れるしかなかったこと、次に、よりマクロな文脈で、外国人児童たちの置かれる構造的に劣位な立場を温存しようとする日本社会の意図を示すかのような政策が取られていること。この日本社会の意図そのものは、よりミクロな教育現場での善意や温情の実践ないしそれらの語彙を通して、教員たちの意図せざる形で実現された。そして、その共犯関係自体、原因を外国人児童本人に帰する心理学化の作用によって見えなくされていった。(226-227pp 下線は引用者)

だれにも悪意はないけれど、直感的に「うちの子は障害なんかではない、日本語が難しいからだ」と違和感を覚えていた保護者の声は、届かない。届いたとして、ではどうする? という別の道が「ない」日本社会。そこで、目の前のきょうだいの生活、将来の仕事etc……を親身になって考えていった先に「支援学級」在籍があり、「支援学校」への進学という事実が「ある」日本社会……。

この現実をまず認識しなければ、この構造を知っておかなければ、くりかえし善意と温情は発動し続け、子どもの希望や保護者の思いは二の次にされながら、「異物を排除する日本社会」だけが持続し続けてしまうということです。善意だからこそ「ほんとうにそれでいいのか」を常に疑い続けなければいけないのだと、改めて感じました

デジャブ

と同時に、これは私がずっと考えてきたことと同じだなとも思い、筆者に勝手に「同志感」を強めています。

私は植民地期の朝鮮で行われていた「国語(日本語)」教育を勉強し続けている者ですが、教科書づくりから現場での実践まで、そこにかかわった人たちに「悪意なく」「善意にあふれ」「子どもの幸福を願う」教育者が少なくなかったことを、もっと考えなくてはいけないと常に思っています。

インタビューに現れたさまざまな先生たちの姿・ことばは、決して特別ではなく、デジャブ感のあるものです。それは現在の日本で、おそらくほかのさまざまな地域でこういうやりとりが起きているだろうという意味でもそうだし、100年前の朝鮮で「日本語を母語としない子どもたちに朝鮮の地で日本語を教えること」のほうがおかしい、そちらの現実こそ撤退すべきものだと露も思わず、その枠組みの中で生きる、生きていかざるを得ない「子どもの将来」を誠実に考えて働いた多くの人によって、植民地支配が維持されたという意味でも、やはりデジャブなのです。

戦後補償というと、謝罪と賠償の問題にばかり注目されますが(もちろんそれすら誠実に履行していないから問題になるわけですが)、政府間で考えるべきこと、日本政府が考えるべきこととは別に、一人ひとりの市井のわたしたちが考えるべきこと、自分につなげて、他人事でなく心に留めておくべきことがある、と改めて思います。

そういう意味での、市井のわたしたちレベルの「反省」がなかったことが、筆者が描出したような事実をいまもなお、日本社会に残し続けている元凶かもしれない、と思いました。