わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

私と“アリラン”/立場性について考えた

「ARIRANG」から、いろんなことを考えちゃう今日この頃。

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へぇ、そうなの?

と少年団が聞いてくれる気満々でこっちを見るので(笑)

Speak Myself ……だ!

 

 

公演会場でアリランをシンガロン…の風景

高陽でのコンサートのライブ配信をみて、その光景に震えてしまいました。

アリランを組み込んだ「Body to Body」、アリラン部分は客席のARMYに任され…
そしてそこからの「Idle」

「チファジャ、チョッター!」と何度もぶちあがりながら、花道をデモ隊のように練り歩いていく7人(リーダーのみ、足首負傷の影響なのか王様の椅子に座って運ばれていくので、王の行進みたいにもなってしまってましたが。東京公演初日はそれがなく一緒に歩いていたけれど、2日目はまた復活してたので、やっぱりあれに乗るのはしょうがなくそうしてるだけで、本当は歩きたいんだよね、ナムジュニ(と思う私)。そしてかれの足首が心配です。3月20日ごろの負傷で全治3週間とか言ってたのに4月初旬には飛び跳ねてたからな…)

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王様っぽい(笑)

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こちらの写真はデモっぽいというか、私は韓国のペンライトデモ、そしてなぜか『レ・ミゼラブル』の最後の場面を思い出しました。ホビだからかな。闘う民衆の先頭にいる感じがするのは…(民衆を率いる自由の女神。っぽい)

 

これを、東京ドームでもやるのか、そりゃやるよね、

そうか……

 

高陽2日目のライブビューイングでも、アリランを歌いながら胸いっぱいになってしまいましたが、

東京ドームでオッケチュムしながらARMYの歌声を聴いている推しを前に歌っていたら、それこそいろんな感慨が去来してしまい、感情が溢れました(ちょっと悔いているのは、そこに至るまでに既に叫びすぎてて、声がガラガラだったことです…朗々と歌いたかったぜ…)

この演出について、さまざまな意見が飛び交っていることに、実は東京に行く直前まで気づいていませんでした。それは、かれらが懸念したこと、議論していたこととも重なります。かつ、意見、思いを表明する人の属性(本国ARMY、日本人ARMY、在日コリアン、欧米圏で暮らすコリア系…etc)をみると、さらに考えさせられる部分もありました。これを書き始めたのも、そこで、胸を熱くして、歌いたい!歌うぜ!となって、実際、全力で歌っていた私自身の立場性とは?を考えてしまったから。

※『BTS:THE RETURN』であの議論の場面が肝になってたのは、やっぱそういうことだよな……とも。どうしたって、議論になっちゃうし、意見も割れるに決まってる、そういうセンシティブな話だと。

 

なにゆえ私は胸が高鳴ってしまったのか

アミボム(ペンライト)が輝き、フラッグがはためき、そこを歌い弾けながら歩く人たち……という光景は、私を40年前に引き戻しました。

そもそも、演出じたい、2026年の「Body to Body」から2016年の「Idle」へタイムトリップしたような、そして両者が重なり、防弾少年団の変化と変わらなさ、ここにあるコミュニティの結束の再確認を感じさせるものでした。

だから私も、自分自身の20代に遡ってしまったのかもしれません。

重なったのは、当時、日本社会全体を揺るがしていた反外登法の運動の風景でした。

指紋押捺拒否を「人差し指の自由」を求める行動なのだと

それは「日本人へのラブコール」なのだと

プラカードを掲げてコールし、歩いたデモ隊

先頭で、チャンゴやケンガリを打ち鳴らし、民族衣装で跳ね、踊っていた人たち。

それは、存在を透明化されてきた人びとの、
「私たちはここにいる」という主張そのものでした。

反外登法運動に限らず、在日コリアンが差別撤廃と人権保障を訴えるとき、集会でも、デモでも、アリランやイムジンガンといった朝鮮語の歌がよく歌われていました。80年代は小学校の教科書に「世界の民謡紹介」の一つとしてアリランが掲載されていたし、大阪では民族学級でみんながよく歌う楽曲でもあり、アリランは知る人が多い曲でした。私も、アリランは知っていて、イムジンガンやソングジャ(先駆者)、サランへ…等は、運動に参加する中で覚えていったと思います。(逆に、アリランをいつ知って覚えたかは記憶になく……。思うに高校生の頃、学校に朝鮮文化研究会があったので、そのステージで知ったのではないかと。そして朝文研が歌や踊り等をステージで披露してくれてたのも、日本に在日コリアンがいるんたぞ!と、透明化されまいとする抵抗の表現だったんだと思います)

それはかれらが生まれるはるか前の、しかも日本での話なので、BTSとは全然関係がないことではありますが……。でも、最初に「デモみたい!」と思ったとき、あの突然の戒厳令を止めるために集まった韓国の民衆の姿を思い出すと同時に、私は80年代の国会前を思い出したのです。理不尽なことにNOを突き付ける、理不尽な法律や命令には従わない、そしてその理不尽な暴力に、非暴力で立ち向かうとき、傍らにあった音楽と踊り。

元々、「Idle」も韓国的な要素を詰め込みつつ、世界的なスターに上り詰めつつあった自分たちが何者なのか、どうありたいのか、それは自分たちが決めるよ…と宣言するような曲なので、「私たちはここにいる」に通じますよね……(個人的な思い入れですが)

その流れに向かう入り口として、みんなでアリランを歌う……

地べたから生まれて、人びとに歌い継がれてきた、シンプルな歌を。

その空気に参加できることが、ただただ嬉しかったのです。

 

私の立場性

BTSを好きになってから、日韓の歴史、植民地支配の歴史について学び始めた真面目な日本人ARMYの、少なくない人たちが「私がアリランを一緒に歌っていいのか?」という逡巡を吐露しているのを見て、

「…あ」

あれ? 私はなぜ、一片の躊躇もなく「アリランだぜ!歌うぜ!」とぶちあがってしまったのか…?と思いました。そして、躊躇を感じなかった自分に、少々不安を覚えました。

旧宗主国につながる側。かつて朝鮮語を奪い、日本語を押し付けて、朝鮮の土着の豊かな文化を破壊した側につながっている者、という立場の、日本人の私。過酷な植民地支配の中で、そしてその後に続いた朝鮮戦争の混乱のなかで、朝鮮の人たちが歌い継ぎ、守り抜いた歌を、日本人の私が呑気に歌っていいのか? という問いは、とても誠実な問いかけ。

そう理解できるのに、自分自身はその問いが浮かばなかった。

なぜだろう…と考えてみて

一つは、私にとって「アリラン」という歌が、
前項で書いたように20代のころから在日コリアンの友人や先輩、子どもたちと、折に触れ一緒に歌ってきた歌で、改めて覚えたり意味を考えたりの必要がない、ただ慣れ親しんだ歌だった、ということが大きいのかも?と考えました。

そういう歌だったからこそ、今回のアルバムよりずっと以前に、
こちらの動画に感激して、一緒に歌っていた、ということもありました。

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これも10年前なんですね。私が観たのはコロナ禍だったので2021年頃かな?

え、え、こんなアリラン!? と、それこそ学生時代に一緒にアリランを歌っていた友人知人に「観て観て!」と勧めて回ってうるさがられてしまいました。

それは、学生時代、文化発表のイベントを前に、子ども会で、
「……楽しいけど、学校でやるのは緊張する」
「大事なのはわかるけど、古臭くない? なんかダサい」
とぶつくさ言っている子どもたちに、指導員さんが「ダサくないやろ~カッコええやろ~」「ほら、カッコええや~ん」と明るく盛り上げながら練習していた光景と、そのとき「いい歌やん、私は好きやで~」と陳腐なことしか言えなかった不甲斐ない自分を覚えてもいたからで……。不甲斐ないなぁと思いながら、だからこそ間違えずにちゃんと歌おうと、とにかく発音を丸暗記して歌っていた頃。

日本の人に馴染みがない朝鮮語、朝鮮の歌や踊りを発表するのは、これも「私たちはここにいる」と示す意味合いがあり、日本人マジョリティ側にとっては、身近に在日コリアンがいて、ずっと地域社会で生きてきたし、これからも隣人として生きていくのだということを、ともに生きる当事者として考えるきっかけでした。
少なくとも、そういう場を学校につくり、日本とは異なる文化につながる人たちが、日本の学校でともに学んでいることを可視化し、日本人マジョリティの子どもたちが、そこを入り口に、不幸な歴史も差別の実態もともに学び、差別のないコミュニティーを創造する、そういう場へと学校・地域を育てていこうと取り組む現場があった。そして、そこに偶然、19歳だった私は入り込み、一緒に歌ったり踊ったり、料理を作って食べたりしながら、社会に対する視点、分析力、「ともに生きる」関係性を教わってきました。

民族名を名乗れば「変な名まえ」とからかわれ、朝鮮語で何か言えば「何それ、変な発音」と言われ……とにかく一事が万事、日本文化より劣るもの、カッコ悪いものという価値観で覆われていた日本社会で、その名を名札に書き、朝鮮語であいさつをし、朝鮮語の歌を歌い…という活動をしている子どもたちにとって、学校は日々闘いの場で、
私はその闘いを応援したいと願いつつ、具体的には何が応援になるのか、支えになるのか皆目わからない、とにかく自分が不甲斐なくて毎日泣いている…という日々だった頃。

それから40年経って、不甲斐ないのは相変わらずですが、何の役に立てるかわからないけれど、とにかく「私はともにいる」と決めて傍らに居続けるということが大事なんだと実感もできるようになりました。

BTSにハマったのもたまたまだったけれど、

こんなにポップで力強い、そしてカッコいい「アリラン」があるんだ! と見つけて興奮したとき、その感激を共有できる旧知の仲間たちがいたこと--私が自分の感激と興奮を素朴に信じて、「アリラン」を一緒に歌うことに躊躇なくいられたのは、そういう日々の延長線だったから、なのかもしれません。

 

※ただし、東京公演の後、東京ドームが、旧東京砲兵工廠跡地、つまり侵略を支えた巨大軍需工場の場所であったこと等も踏まえて、アリラン歌唱が「植民地支配の歴史を乗り越えた瞬間!」と絶賛(?)するような書き込みも見かけましたが、私はそれは言い過ぎだろう…と正直思っています。というより、BTSとARMYに、そんな戦後補償の責任めいたものを押し付けるな、と思うので。総括をせねばならないのは、第一義的には日本政府だし、いまだに「謝る必要がない」だの「植民地支配はいいことだった」だの、自己都合の勝手な歴史否定が跋扈する日本社会が変わらない限り、心あるARMYが、誠意を込めてアリランを歌っていたとしても、そんなことで帳消しになるわけがないし、そうできるかのような言説を(特に日本人マジョリティが)言うのは、軽率かと。

だいたい、すぐにそうやって美談にしたがるのは、ホントに良くないですよ!
(私見ですが、そんな大上段からの論評をしているのは、たいてい中高年男性。ただ「BTSいいね、好き」と言えばいいのに、「こういうふうに意義深いからかれらは素晴らしいんだ」と注釈付けないと「好き」って言えないのかな?と思う…のは余談。でもこれもトキシック・マスキュリニティで、自分で自分の首を絞めているのかもね…)

 

素朴な愛郷心と、有害な愛国心と

ドキュメンタリー『BTS:THE RETURN』でも、楽曲として「アリラン」を使うことについて、「愛国心」の問題が出ていましたが……。
それについてはこちらで書いたので割愛しつつ)

*7人とも個性や強みがバラバラ/ソロ活動を経てそれがハッキリした
*7人の共通点は何かと考えたら「7人全員韓国人」「全員がソウル外の出身」
*原点を確認してみよう…

からの、「ARIRANG」(英語にしたら7文字だった!というのは冗談でしょうけどw)

ドキュメンタリー内でも、他のインタビューでも、
「忘れちゃいけないのは、僕らはただの、韓国の田舎者だということ」とRMさんも語っています。

「田舎者」にもさまざまな含意があるのだろうと思いますが

音楽市場の中心であるアメリカから見れば極東というド田舎から出てきた、英語話者でもない「Alians」の自分たち、というアイデンティティ

ヒップホップ由来のレペゼン(Represent:代表する)にあたりますが、

つまりグローバル市場で勝負しているからこそ、中心であるアメリカに対して、辺境の韓国が自分たちの地元であること、それがかれらのアイデンティティとして非常に重要だし、外せない、ということですよね。

そしてそもそも「レペゼン」というとき、そこにあるのは抽象的な愛国心のようなものではなく、そこで生まれ育ったという愛着や大事な家族や友人が暮らす街に向ける愛情といった、具体的な風景を伴う愛郷心を誇りとして顕示するものだと思うのです(ヒップホップにそんなに造詣が深いわけじゃないのですが、ここは合ってるはず)

素朴な愛郷心は、誰にもあるし、いいとか悪いとかでなく、自然な感情だと思っていますが、愛国心(ナショナリズム)の方は、しばしば有害なので、要警戒。

それこそ、「アジアの優等生たる大日本帝国の帝国臣民として国家を愛し国家に尽くす」ことが愛国心とされ、そのプライドをふりかざして近隣諸国を侵略支配し、戦争に突き進む国に滅私奉公する国民であることを強要した「愛国心」。それは、自分が生まれ育った街にも、愛する人たちとも関係がない。なのに、「大事な人を守るために国を守らねば」「ふるさと、我が日本を守るのだ!」とすりかえられ、故郷への素朴な愛情を国家への忠誠に読み替えられて、滅私奉公に動員されてきた歴史をふりかえれば、もはや百害あって一利もないのが愛国心じゃなかろうか、とも思えます。

韓国の場合、日本の支配に対する抵抗、独立運動が、そのナショナリズムの根にあるので、日本とは事情が異なる面がありますが、それでもやはり、国家権力が間違った道を歩もうとしているのに無批判に支持する態度を「愛国心」と呼ぶなら、それは有害だろ!と考える市民が多かったからこそ、「12.3.内乱」を止めることもできたのだと思うのです。あのとき、夜中に国会前に駆けつけた市民たちにあったのは、偏狭で有害な愛国心ではなく、民主主義を希求する意志だったと思うし、BTSもそちら側に与する人たちだと思っています(そもそもあのまま戒厳令下になってたら、BTSなんて真っ先にブラックリスト入りして国外活動できなくなってたと思うし)

愛郷心の意味で、母国のことを「好き」というのは全然かまわないし、私も生まれ育った国ですから「日本」に愛情はある(だからこそ、おかしなことをする政府に激怒もするわけで)。ただ、自分の素朴な感情が、愛国心の枠に組み込まれて利用されるのは嫌なので、そこにはきっちり線引きをしておきたいのです。そもそも、人あっての国です。人が人の暮らしを守るために仕組みとしてつくったものが、仕組みの方を優先して人を疎外してどうするんだよ……。

そして、BTSのメンバーもきっと、そこの線引きを持っているはず(と信じている)

そう考えていたら、これも「有害な男性性」と同じで、
「男らしさ」と呼ばれる態度、外見やふるまい、それじたいが有害なわけではなく、その「らしさ」に固執することで自分や他人の感情や意思をないがしろにし、抑圧してしまうから「有害」になるように、「愛国心」も、「母国のこういうとこ、いいよね、大好き」と感じることが有害なわけじゃなく、母国・祖国といったものは愛すべきものだと強要する結果、個人の自由を侵害するから「有害」になるんだ、と思います。

 

それでも、それでも、

コンサート全体の流れと演出、アルバムの構成、全楽曲のメッセージを通してみれば、かれらが有害な愛国心にはきっぱり線を引き、自分たちのレペゼンとは何かに立ち戻り、「いま・ここ」の思いを最大限に伝えているのが『ARIRANG』だとわかるけれど、

アリランがサンプリングされたということだけを切り取られたり、
アリランを歌うあの光景だけを切り取られたり、
太極旗のデザインをモチーフにした映像や演出だけを切り取られたりすると、

「ナショナリズムに全振り?」みたいな誤解を招く、そういう危うさは確かにあるな…とも思っています。だから、その危うさに対するモヤモヤや批判の意見には、頷けるものもたくさんありました。韓国での評価も割れているし、ARMYの間でもいろんな意見があり、特に(私の目に入りやすいというのもあるけれど)在日コリアンの方の意見が百家争鳴なのは、これはもう仕方がない気がしています。だって、有害な愛国心・ナショナリズムにずっとふりまわされてきた過去があるから。今回だって、「BTSが愛国心むき出しにしてきた、やっぱり奴らは反日アイドルだ」と反日反日と言いたがる人たちのガソリンになってしまったら、その攻撃に直撃されるのは、かれらではなく在日コリアンです(この、ある国の有名人を標的に差別的な言辞を連ねることによって、その国に繋がる在日外国人への偏見・差別意識が助長され、差別が悪化するという構造が、なかなか理解されないのが厄介。かれらも韓国の韓国人で、民族的なマイノリティとして生まれ育っているわけじゃないから、ナショナリズムが高揚したときに身の危険を覚えるエスニック・マイノリティの存在を、どれぐらいわかってるのかな…と、私も気にはなっている…)

アルバム・楽曲を聴かずに、そういう意見に乗っかって悪口を言っているアンチも多いので、あんまり根を詰めて全部を追ってはいませんが……。

BTSのかれら自身は、韓国の田舎者、たかだか30代の若造…と、自分を考えているし、その立ち位置から楽曲をつくり、公演をつくり、しているんだけど、
ちょっと何か言っただけでそれがニュースになって世界中を駆け巡ってしまうぐらい、破格の影響力をもってしまった、いわば強い権力性を帯びてしまっている面もあるわけで…。もうずいぶん前だけど、ユンギとナムジュニが「もう僕らはアンダードッグじゃなくなったんだから、こんな歌詞…」「いや、こんな社会は変だろ?っていうのは大事でしょ」と話したことがあったらしいのだけど、きっとそういう逡巡と葛藤は、まだしばらくついて回るのだろうな。辛いけど、そこをどう昇華していくのか、できれば長く見守っていきたいオンマアミです。
※この曲をつくった時のエピソード。ユンギさん談

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そんな、自分たちの置かれた状況、立場性は重々承知しつつ、それでも「ぼくらは極東の小さな国の田舎者だ」というところに依拠して、そこから出発することは譲れないのだと言うかれらを、私は応援したいです。

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だってこんなに可愛いのに!(そこじゃないってばw)

でも、こういうのって、日々、マジョリティ性とマイノリティ性の混合体である自分自身の立場性について考えながら、ことばを選び、考え、働く私にとっては、

「同志よ!」

って気持ちになる要素でもあって、沼はますます深まっていくのでした。

 

아리랑/ARIRANGを巡る対話

BTSカムバックに心震える日々です……

アルバム「ARIRANG」素晴らしい……14曲、最初から通しで聴くべき!というか通しで聴き倒している日々ですが、

そもそもアルバムタイトルが発表された時点で
「アリランですと!?」と胸が震え、届いたその日に
「Body to Body」を聴いて歌い踊り、
光化門広場のステージでも感極まり…… だったもので、

こちらのドキュメンタリーでの、「아리랑」を巡る話し合いの場面が非常に興味深くて、日本語字幕では飽き足らず、韓国語字幕を書き写し、自分で訳しなおしてみました。

(なお、私の韓国語力は中級です。聴き取り切れない韓国語力が悲しい。もっとがんばらねば。そして、東京公演前には完成させるつもりが、東京公演終わってしまいました…時間かかりすぎーぴえん)

 

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前々から、かれらがわいわい話している様子を垣間見ては、なんとアサーティブな!と感心しており、そういう意味でもとても興味深いやりとりでした。

せっかくそれだけの労力を費やしたので、こちらにまとめておこうってことで。

※ネットフリックスのドキュメンタリー「BTS:THE RETURN」のどのあたりか、おおよそのカウント(〇:〇:〇)を適宜付記しています。気になった方はぜひ直接ご覧くださいませ!
※また、関連してこれはお勧め!と思ったインタビューや動画などを最後にリンクしておきますので、そちらもぜひ。

아리랑を巡る葛藤

葛藤その1:Legacy…とは?

この場面に入る直前に、スタジオまでの道:森の中の小道のようなところを歩きながら、ナムジュニが「いま、森全体を見れていないというか、ずっと木を…なんていうのか、斧で色を塗ろうとしているような感じで」と、何か停滞している状況を話しているのですが、

そこが日本語字幕では「木を切ることに夢中で森が見えなくなっている」になっていて……うむー、それはニュアンスが違うのでは(違わない?)。そこは翻訳+字幕に短くまとめることの難しさだとは思いつつ、こういうのがあるから「元の韓国語はどうなの?」って気になっちゃうんですよねー(オタク)

さて。アルバムタイトル「ARIRANG」とはまた別の問題として、民謡の아리랑を楽曲内に使う提案……から始まる議論の場面。

(イ D)これからもレガシーを、動きながらつくっていく私たちが、何者になっていくのかを考えたときに、伝説の中にあるどんな物語を(引き継ぐのか)、一度取り出してみる、一度聞いてみる、というのはどうかな、と

そんな前置きから(24:40あたりから)、1896年に朝鮮からアメリカに留学生として渡った7人の青年が遺した音声「アリラン」のエピソードと、そもそも「アリラン」とはどういう歌なのかという説明が挿入されます。

イDは、「アリラン」が古い朝鮮語で「美しさ」「愛」を意味し、140年の歳月のなかで民衆に広がり、愛されてきた民謡だということに触れたうえで、

(イD)ARMY、あるいは音楽に対する情熱、BTSにみあう主体(entity)にもなり得ると考えたので…

(SUGA)いいんじゃない?かっこいいね

(パンCEO)「Legacy in Motion」という適切な表現を、選んでもらったと思います。だから、選択のひとつひとつを見せなければなりませんね。みなさんが、いまの我々が、そういえる人物なのかについて…
(RM)(僕らは)そんな器なんでしょうか。
頭ではわかる、わかるんですが、からだはまだ何か…「英雄」と「伝説」という話を聞くと、若干のアレルギーが(うわぁぁ!と悶えてみせる)。ぼくらのチームの核心は…

(JIMIN)ここにありますよね、ここに(スマホを見せながら)「私たちはグローバルな英雄ではなく、素朴な韓国人だ」

「あぁあぁ!」と悶えてるナムジュニの姿をみると、2022年の防弾会食やらなにやら思い出してしまい、相変わらず、否、もはや「巨大なものを背負わされる」感じになるのを避けることもできないのがBTSの到達点なんだなぁ(つら)と思うとともに、「なんかしっくりこないよねぇ」と笑って寄り添ってくれるジミンさん尊い…と涙。

しかし、「何がしっくりこないの?」と、そこで流してくれないパンCEO。

(パンCEO)何が?感覚がつかめないって、どう?

(JIMIN)どうするのがいいか、感覚がつかめてないです。こうなったら、実際に試してみるしかないかなと

……となり、スタジオに画面が切り替わって、「試してみる」をやっているジミンさん(踊る)やユンギさん(ギターを弾く)……

という編集になっていたわけですが

Legacy in Motion……「動き続ける遺産」というのが、BTS第2章のテーマ(ってことですよね?)ちなみに、日本語字幕では「現在進行形の伝説」。

止まるつもりはないし前へ進み続ける≒「Motion」という表現には、おそらく誰も異存がない。「Legacy」も、「長く歌い継がれる、聴いてもらえる曲がいい音楽だ」とかれらが折に触れて言ってきたことでもあるし、かれらの音楽への情熱に合致はする。けれど、まさに朝鮮民族のLegacyそのものである民謡「アリラン」につながる…となると「う~ん」となってしまう…という葛藤があったことが伝わりました。

ちなみに「アリラン」には多様なバージョンがあるのですが、今回「Body to Body」にサンプリングされた、最も有名なメロディは、日本統治下で制作された映画「アリラン」(1926)で使われたことで広く知られるようになったものだとされています。
参考:韓国映画資料院blog

何度もリメイク版がつくられている有名な映画で、でも本体のフィルムは失われている、幻の、まさに「伝説」の映画なんですよね…。朝鮮民族であればだれでも知っている、長く愛され歌い継がれてきたというだけでなく、付随するエピソードもまた「伝説」。

BTSでなくても、「重っ」ってなりますよね。激重です。

この場面をみたときは、アルバムタイトルを決めるときの話?と思ったのですが、
「試してみる」や、次にあげる場面のやり取りから考えて、そもそもアルバムのタイトルは既に「ARIRANG」と決定しており、そのうえで楽曲の中にも「아리랑」を取り込むか否かという話になったのだともわかります。

ちなみに、パン・シヒョク氏のインタビュー記事(翻訳)があるので、合わせて読むと、「アレルギーがぁ!」「感覚がつかめない」等々言っているメンバーに対し、パンさんが圧強めというか、確信を持った「何を迷うの?」と言わんばかりの眼光でミーティングに臨んでいた、その理由が少しわかりました。なんやかんや言って、やっぱり7人のことを一番知っていて、最も客観的に評価しているのはこの人なんだな…と思います(別の場面でユンギが「シヒョクヒョン」と呼んでいて、関係性が伝わります。HYBEが大企業になっちゃったせいで、いろいろ問題も起きてますが、防弾少年団にとって大事な人であることは変わっていないんだなぁ、と)

ただ、90年代生まれのかれらと、70年代生まれのパンさんとで、母国愛というのか、母国と世界に対する思いが異なってる、かれらにとって世界はもう対等な仕事場であって、Kのプライドを刻み込むぞ!みたいな段階は過ぎている気がします。それに比べて、少し上のパンさん世代、世界にKを承認させたい欲がまだまだ尽きない?という感じはしました。

葛藤その2:安易なナショナリズムに回収されたくない

だからこそ生じる、アリランをサンプリングした「Body to Body」を聞いてみて…からのやり取り。個人的にはこのやり取りが非常に興味深く感じられました。(54:48あたりから)

(J-hope)あぁ、こんなふうにつなげてるんだ、いい感じだね

(JIMIN)僕もいいと思うな

(V)いい?

(JIMIN)ホビヒョンの感じ方は、ちょっと僕と似てると思う

(J-hope)お~、ちょっと鳥肌がたったよね

(V)そう? どんなふうに感じたから(そうなったの)?

(J-hope)お? ゾクッとくる感じかな

(V)あ~、そうなんだ……

ホビとジミンはノリノリ、テテはちょっと懐疑的…という空気から、ホビが「ナムジュニは聞いてみた?まだ?」と言って呼びに行き…

全員集まって、ホビはもうノリノリで「ええやん?めっちゃよくない?」とオッケチュムしているのに、その背後で「どうよ?」「うむー」と腕組みしているナムギ。それに気づいた途端、ホビの表情が急に「すんっ」となり、眉間にしわ(このシーン、何度見てもホビの反応の正直さが好きです…55:41あたりです)

(J-hope)なんで? いいと思うけど

(RM)だからさ、ラップと歌のスタイルが、若干……。歌がさ、つまり(違うものが)3つ混ざってるじゃん? いま

(J-hope)めっちゃかっこよくない?

(RM)あー、だからさ…。若干、若干さ、食パンとトンカツとキムチをのせてピビンパにして食べる感じ…

(JIMIN)ナムジュニヒョン!(笑いながら)いやいや、それ、めっちゃ美味しそうだよ? それじゃ、美味しそうなんだけど!

(RM)だから、これだとすごく「ア~リラン、ア~」が、ただただ耳に残っちゃう…

(SUGA)あー、シヒョクヒョン(パンCEO)は、もっと民謡の上手な方を呼ぶって、それできちんと録音しようっていう意見だったから、だから…

(RM)韓国人だから(自分には)そんなふうになるのかな、僕らが韓国人だから変に聞こえてしまうのかな……

(J-hope)めっちゃ、かっこいいって、最初に聞いた瞬間から。そもそも、アルバムのタイトルが「アリラン」なんだから

(SUGA)なんか、非日常の舞台みたいでさ……。

(V)だから、僕はこれが韓国人の基準でみたときに、「こいつら、完全に“クッポン(국뽕:愛国×ヒロポン中毒の造語)”で行こうって決めたんだな、って…

(口々に)あぁ、確かに/まさにまさに

(V)それは厄介な感情…

その後、ソウルに戻ってからのミーティングでもナムジュニは「パリバケでキムチ焼き飯を食べるみたい」というたとえを繰り出しますが(なぜ食べ物…笑)ジミンさんが言うように、違和感を言いたいのはわかるけど、食べてみたら美味しいかもよ?な例えになってしまっているのは、「絶対的に嫌ってわけじゃない」のが滲み出ているようにも思えて微笑ましかったです。嫌というよりチグハグ感が気になる、ということなんでしょうね……。

一方、テテが「국뽕:クッポン」という単語を使っているところ、日本語字幕は「韓国人だとこう感じない?“露骨な愛国心アピールで煽ってる”」になっていました。私は、最近の韓国の状況のなかで、偏狭なナショナリズムを憂慮する造語だと思っていたので、テテがこの単語を持ち出したことに、そうそう!それそれ!と共感もしました。

(국뽕とは)自国に対する過度な誇りや愛国心を持ち、それによって興奮状態になることを皮肉を込めて表現する言葉。主に韓国で、自国の文化、スポーツ、歴史、技術などに対する熱狂的な称賛や誇りを指す場合に使われますが、時には皮肉や批判のニュアンスを伴う  -Kpedia より

特に近年はアメリカのMAGAや日本のネット右翼、尹元大統領を支持する陰謀論者めいた人たちを指すこともあり、そういう文脈を知っていると、テテの懸念も、即座にメンバーが「あー、それは…」と反応したのも、腑に落ちます。

それでなくても「韓国代表」扱いされがち、何かと政治的なトピックにされてしまうかれらが、そこを警戒するのは当然。

また、ナムジュニの違和感は、音楽的、音的に、現代歌謡と民謡、ラッパー&ポップ歌手である自分たちの声と民謡歌唱の声とのバランスがどうなの?という観点。(ユンギが「民謡が上手な方に…」と言ったのは、プロのパンソリの声だから「アリランの声が耳に残りすぎる」んじゃないの?と、自分が考える原因を伝えたのかと)

2つの懸念が同時進行で語られてるわけです。とはいえ、それはバラバラの別問題というわけでもない。

で、どう展開したかといえば

(J-hope)もちろん、外国人じゃないからわからないけど、違う文化の人たちがこれを受けとったら、「うわぁ!(驚き)」って、ちょっとこんな感じになるじゃないかと思う

(V)だからね… 直接的すぎるっていうか…

(口々に「いやいや、だからさ…」と騒々しくて聴き取れず。字幕も諦め?)

(J-hope)いやぁ、わかるよ、どの意見も、何が言いたいのか、わかる

(V)うん、そうそう

(J-hope)何が言いたいのかはよくわかるんだけど、僕は初めて聞いたときに、めっちゃいい!と思ったから。ちょっとだけ、韓国人の血が騒ぐってのもある

(JIMIN)あー、ちょっとあるよね

(RM)僕も完全に反対ってわけじゃなくて、だからつまり…。あの歌の、歌詞のテーマとよく合ってはいる。「アリラン」が「Body to Body」の体と体が触れ合って、ただここでめっちゃ飛び跳ねようって、こんな歌で。だから、この歌じたいが…

(JIMIN)だからさ、合意できるラインがあるんじゃない?いい感じのラインがあると思う

(RM)いま、50%ぐらいはできあがってきてると思ってて。とにかく「アリラン」でやろうとした以上は、既に国家代表確定じゃん? だから、僕が言いたいのは…

(V)やっぱり、最初からもう一度だけ、もう一度聞いてみましょうか?

(RM)OK、聞こう!

お互いに意見を出し合い、それを「うん、わかるよ」と受容しつつ、「でも僕はこう思う」と主張する。そして「合意できる線があるはず」「もう一度聞いてみよう」と落としどころを探っていく…という展開。(ちなみにこのすぐ後に、ソウルに帰ってからの場面でナムジュニは「一つにまとめるのが本当に難しい」と言うのですが、その前にあることばが韓国語字幕によると「머리가 컸기 때문에」で「成長した、大人になった」だと私は訳したい! 日本語字幕では「こだわりが強くて」となっているのですが。私的には、ソロ活動を経て、全員が音楽に対する知識も考え方も変化/成長して、その個性と能力を評価しているからこその、嬉しさ半分の発言だと思いました)

なお、声が出てきていないメンバーもいますが、黙っているだけで考えながら耳を傾けているし、相槌を打ったり、眉間にしわを寄せたり微笑んだりして、議論にはちゃんと参加しています。すごくアサーティブな、いい議論の風景だなぁと思ったのですが、それについては後ほど。

その後、ソウルでさらにサンプリングの調整やら、再びパンさん交えてのミーティングやらを経て、おそらく私たちが聞くことになったバージョンが出たと推察されます。

そういう諸々の末の(?)ナムギのモノローグ(1:19:31辺りから)

(SUGA)わかりませんよ。出来上がった作品がどんなふうになるか、わかりません。出してみて、また結果がどうなるかはわからないんです。けっきょく、自然に、自然に、なるようにしか……。僕らは楽しんで、おもしろがって、一生懸命準備して…

(RM)「アリラン」は「恨(한)」がこもった歌で、昔から、その「恨(한)」を「興(흥)」で乗り越えていこうとするときに「アリラン」を歌いながら、つまり、恋しさ・寂しさを乗り越えていこうとしてきたと思うんです。

私たちは韓国人だから、「アリラン」なんて国楽を持ってくるのは、ちょっと一次元的(安直)じゃない?って、そんな考えになりますが、考えてみれば、既に「アリラン」という、その大きなタイトルを通して、私たちが伝えようとするメッセージは自然に溶け入ってるんじゃないかって。

こんなふうに進んできた以上は、曖昧にグズグズしていないで、もっと遠くに行く(挑戦する)ことが、正解なのかと思いました。

葛藤その3:何語で歌うのか

今回のアルバム、発売前から、英語と韓国語がどれぐらいの比率になるんだろう…とあれやこれやの予想や期待が渦巻いていたわけですが……(かくいう私、韓国語でいいよ!何なら全部韓国語でも!と思っていたクチです…)

だから、そういう声に応える意味もあったのか、言語を巡る話し合い場面もありました(33:08あたりから)

(SUGA)全般的に英語の歌詞が多すぎるから、少し韓国語で歌詞を増やした方がいいと思う

(RM)ラップは特にもっと(増やしたい)。なぜなら、今回のアルバムはそもそもオーセンティック(Authentic:真正性)でなければならないし…

(ニコル副社長)当然、真正性も重要だけど、どうあろうと、アルバムが少しでもグローバルにいこうとするのなら、(英語で)やってみること、やるべきこと、でもあると思うけど?

(RM)現実的に、どうやってこの時間内にやりきるのか、英語の発音を……これがないまま作っても、実際のところ現実的に足りない時間で…

(Vが「Normal」の歌いだしを口ずさみ、発音練習用に音声メモを送るよ、とRMが答えるところで場面は終わり)

Authentic:真正性は、ヒップホップに根っこがある防弾少年団、ラッパーとしては外せないところ。会話の流れとしては、ユンギが「韓国語歌詞を増やしたい」と言い始めたのに、ニコルさんが「英語で出すことも大事では?」と返した形になるので、ネット上では「韓国語で歌いたいと言ってるのにニコルさんはひどい」みたいな反応も見かけましたが、ナムジュニが悩んでいるのはさらにもう一層、問題が重なっていて、

「英語で歌うなら歌うで、そこでも真正性を担保しなければ」ってところなんですよね。

母語なら、あれこれ考えなくても率直に正直に、素直に心情を表現できる。だって母語だから。そして、韓国人であるかれらのアイデンティティの表現としても、韓国語で歌うことはしっくりくる。とはいえ、韓国市場だけを相手にしているわけではないし、ワールドワイドに、世界中にファンがいる状況で(ファンも韓国語を学んで受け取ってはいるけど)、英語を採用しないというのも考えにくい。そして、そもそもラップは英語圏・アメリカから出てきた音楽でもある。

宿舎で夜ご飯を食べているテーブルのところでの会話。

(J-hope)ナムジュニ、今日はちょっとは進んだの?歌詞
(RM)あー、いま書きながら、ずっと心配してたことがあって。これがちょっとうまくできなくて……中途半端に聞こえたら……。なんか、そうじゃないだろっていうか、ちょっと幼稚に聞こえるっていうか……

(JK)発音の問題?

(RM)そう。発音が…(涙目) 見通しが立たなくて辛い…

(J-hope)大丈夫、練習すればいいだけでしょ? 韓国語(歌詞)より(英語の部分)練習すればいいだけだよ。これまでだってやってきたじゃん?

(JIMIN)でも短い期間では限界があるじゃん…

(JK)まぁね。とにかく、練習練習。

ナムジュニ、英語の歌詞を、英語ネイティブの人に「これは不自然じゃない?」と確認しながら書いていて、そこまでやるのか……と感嘆。要するに、母語でない英語で歌うことが、ただグローバル展開のための手段と思われるのが嫌だってことですよね……。あくまでも、Authentic:真正性。母語だろうが英語だろうが、これは僕たちの歌です!正直な、誠実な、メッセージです!という線を守ろりたいから、こだわるんだな…と納得しました(私は)。

別のインタビューで「みんな、いい加減に英語覚えてよ!」と叫んでたけど(笑)、そんなグループでも世界を席巻してやったぜ!ハハハ!と「Aliens」でラップをかましてくる、ウリリーダー、素敵です(大好き)

英語で歌わなければ、世界市場で(という名のアメリカ市場で)勝負できないんだと思われてきたけれど、それを覆した面もBTSにはある。世界は「何語か」よりも「どんなメッセージか」の方を重視している。だからこそ、BTSは真正性にこだわる、そういう図式なんだと思います。

そしてできたアルバムが、Authentic:真正性を如実に証明していますよね……

 

アサーティブ・コミュニケーション

「アサーティブ・コミュニケーション」でググると解説記事がいっぱい出てくるので、解説はそちらに任せて。

まず、4つの柱:「誠実」「率直」「対等」「自己責任」が、かれらはほぼ完璧です。

徹底して話し合う姿勢

K-pop業界で、バンドグループが一人も欠けることなく10年以上活動を続けているということじたいが稀有なので、「なぜ長く続けられるのか」「長く続けるためにはどうしたらいいのか」と質問されたり、後輩から相談されたりも多いとのこと……。あるインタビューで、そんな質問に「喧嘩をしたら、なぜ喧嘩になったかをみんなに話して共有する」ということを繰り返してきた、と答えていたことがありました。また、このドキュメンタリーでも、パンさんが「最終的に決めるのは君たち」と何度も言っていましたが、常に「君たちはどうしたいの? 話し合って君たちの意向を決めなさい」という方針で動いてきたことも、折に触れて語られてきました。

いろんなコンテンツをみていてもわかるけれど、とにかくみんなよくしゃべる。きちんと言語化して、そしてみんなが耳を傾けて、どんなに小さな意見でも、本筋外れてない?みたいな意見でも、それをスルーしたり茶化したりしない。「思ってることがあるなら言いな」と黙っているメンバーを促す、肯定、質問、確認、というやりとりが通常運転。グループ/組織として、理想的では……といつも思います。

上で挙げた場面でも、個々に主張はしながらも「その意見もわかるよ」と別の主張や思いを受け止めるひと言を伝えるのを忘れない。そして、異論であってもちゃんと言う/聞く、そういう雰囲気は伝わってきます。

ケア的な関係とフォロワーシップ

言語を巡るやり取りの、食事しながらの場面(35:40あたりから)がわかりやすいのですが、私がBTSを好きな理由の一つに、かれらの関係性がお互いをケアしあうものになっていること、があります。

日本のバラエティ番組なんかを見ていると、とにかくマウントの取り合いというのか、誰かを持ち上げて、誰かを腐して茶化して……というコミュニケーションで、上下関係を強化して、切磋琢磨という名の競争的な関係性を築いている感じが強いなと思います。私も偉そうに言ってますが、BTSの「RUN BTS」というコンテンツを見ているうちに、そう気づいただけで、それまでは「芸能界という業界はそういうものなんだろう(封建的、縦社会)」と何となく流していました。「RUN BTS」見過ぎて(笑)それに耐えられなくなっただけです。切磋琢磨って競争的でなくても成立するんだね…と今は思います。

長幼の序を重んじる韓国ですが、そもそもBTSはリーダーが最年長ではなく、誕生日的には7人の真ん中です。だからなのか、「グイグイ引っ張っていく」のではなく、みんなの意見を聞いて調整する、いわゆるサーヴァント・リーダーシップと呼ばれるタイプのリーダーなんですよね。

そしてみんなが、自分たちは完璧じゃない、弱くて脆い人間だと、率直に語るし、だから弱音も吐く。弱音を吐くことを「男らしくない」と切り捨てたり、吐露されたそれを欠点・弱みとみなして見下したりするような価値観を、トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)と呼びますが、かれらには、その有害性がない!
「有害な男性性」は、男だから有害な価値観を持ってると言いたいわけじゃなく、男性優位の社会が長く続いてきた結果、根付いてしまっている、競争主義的で権力志向の価値観を考えるための概念。その有害さは男性にとっても有害。

前述の場面で言うと、歌詞を(特に英語の歌詞を)担当しているリーダーが、「進んでる?」と聞かれて、弱音を吐くわけですが、たとえばそれに対して、

「リーダーなんだからしっかりしろ」だとか

「困るなぁ、そんな頼りないことじゃ」だとか

そんな応答をすればトキシックになります
(男社会って、往々にしてそんなやり取り多くないですか……)

でも、かれらの応答、コミュニケーションは

「練習すればできるから、心配しすぎずに進めて大丈夫」と、心配を軽くするための具体的な見通しを示し、抱え込まず、仲間を任せて信頼してくれたらいい、と負担を分かち合っています。ジミンが「時間がない中では限界があるじゃん」と言いますが、それもホビの声を否定したり責めたりするわけではなく、物理的に自分たちが置かれているスケジュールの問題は押さえておく必要があると釘を刺しているのだと思えます(時間がないことは全員がわかっている状態だし、続けてグクが「とにかく(自分は)練習するよ」と、ない時間の中で最善を尽くそうと言いたげに頷いているし)。いずれにせよ、困っている、悩んでいる人を突き放さず、ケアしつつ、チームで負担を分かち合う、分かち合った責任を引き受ける意思を示していて、フォロワーシップの塊だな、と私は思いました。

リーダシップというとき、リーダーの力量ばかり云々されがちだけど、リーダーがいるということはそのチームのメンバーがいるということ。チームメンバーがリーダーを信頼し、チームのためにリーダーを支えるフォロワーシップが機能しなければ、リーダーが何をしてもうまくいかないはずだという視点がとても大事だと思います。

そして、BTSでいうと、実はさまざまな場面で、実質的なリーダー役が入れ替わるチームなんですよね。パフォーマンスを考えたり、指揮したりするのはホビだし、話し合いの場でファシリテーター的な動きをするのもナムジュニに限らない。このドキュメンタリーでいうと、ジミンさんの動き方が、とてもファシリテーター的。メンバーのそれぞれがチーム全体をよく見ていて、声をかける、個別に話す、といった動きを自然にしていることにも気づけます(そのやり方が7人7様なのもおもしろい)。それが、かれらの水平的な関係性のポイントかもしれません。

 

おまけ:お勧めコンテンツ

youtu.be

ユンギとナムジュニは、EPIK HIGHのファンクラブ会員だったという経歴もあって、信頼関係が半端ない。TABLOさんがいろいろ質問しながら、BTSメンバーのこと、活動の現状を気遣ってくれているのもわかるので安心してみていられるし、語られるエピソードも興味深かったです。

 

youtu.be

そして、こちらのインタビュー、全文通しで早く読みたいです…

rollingstonejapan.com

4/23追記
こちらのARMYさんがリンクをまとめてくださったので有難く…
(自分でやろうとして挫折してしまってました…)

note.com

植民地主義2025展@高麗博物館

高麗博物館で25年11月からやっていた企画展示。

植民地支配からの解放(日本の敗戦)80年の節目、各地で様々な企画があったけれど、こちらは展示告知見たときから行きたいなぁと思いつつ、年内に行けそうにない…と諦めていたら会期を延長してくださったので有難く!訪問してきました。

私たちのアミボムもいたよ💖

サブタイトル【ミュージアムで考える「私たち」の応答可能性】が素敵。

 

5つのテーマ:時系列ではないことの大切さ

もちろん、時系列も大事。年表も示されていますし、「1910年以前のソウル」というテーマは一番初めに置かれ、日本による支配がどんなふうに始まっていったのか、日本人の入植状況、そして朝鮮の人びとの抵抗/義兵闘争の件数や頻度などをまとめたアニメーションが流れていました。

そうそう、ここ大事!(と、いちいち思うことになるのですが。そして、なんか「そうよ、ここ大事なのよ!」という共感、同志よ!って感じなのだけど、口にするとなんか上から評価してるみたいでヤダなーと思ってしまいました…語彙…)

何が大切って

「植民地」は、支配側の人間が「入植する」から「植民地」なのですが、なぜか日本では「支配された朝鮮から支配する日本に人が移動した」ことばかり注目されがち。が、当初は日本から移動した日本人の方が朝鮮から日本に来る朝鮮人の数を圧倒して多く、そして植民者の民間人が支配に果たした役割も大きいのに……

(いま、書いていて思いましたが、たとえば空爆を「空襲」と呼んで自然災害みたいに語ったり、泥沼の戦争に突入したのは一部軍人・軍部の暴走のせいだと言ってみたり、そういう「民間人は被害者」位置に自分を置いてしまう語りと同列だなぁと。植民地支配も国家が勝手にやったことで、庶民は関係ない、みたいな。そんなわけない…)

テーマは続けて「マルモイ」「親日派」「ライフヒストリー」「現代社会とカルチャー」の順で展示されていくのですが、どのテーマを取っても、オーソドックスな、時系列順に政策を追っていくタイプの歴史学習から零れ落ちやすいところなので、一通り歴史を知っているつもりの人にも、ぜひ見てほしい展示だと思いました。

在廊されていた制作チームの学生さんと、館の事務局の方と、テーマ決定や担当チーム分け、展示内容にまとめていく経緯のお話も伺ったのですが(お話しするためのカフェコーナーがあるのも素晴らしい…)、長年、高麗博物館にかかわっているベテランの方と、K-popなんかを入り口に学び始めた学生たちの混合チーム、いい形で、疑問や問題意識を分かち合って生まれた企画だったのだなぁと感心しました。見習いたい…。

お話しした学生さんは「親日派」チームだったそうなのですが、韓国留学中、日本帰国後、韓国の友人にも日本の友人にもいろいろともどかしい思いがあったそうで、「わかる」というのもおこがましいけど、知識や経験のズレー量として考えれば教科書数ページ程度の知識があるかないか程度なんだけどーのせいで、「いや、そうじゃなくってさ…」とモニョモニョしてしまう自分へのいら立ち、どう説明すれば!?の悶々…。私もそれがあったから学んできたという面は確かにあるもんな…と気づけばずいぶん話し込んでしまっていました(独占してすいません💦状態。コーン茶、おいしかったです…)

思いがけない再会

「マルモイ」テーマのところで、李洋秀さんという方の「ライフストーリー」をたどる形で「あなたの名前は誰が決めましたか?」と問う展示がありました。在日朝鮮人の父と日本人の母が婚姻を届け出たのが1950年の日本で、そのときの氏は創氏改名による「李家」、洋秀さんは51年生まれで「李家洋」と名付けられ出生時は日本国籍……。しかしその後、1952年のサ条約発効で日本国籍剥奪となった際、朝鮮人と婚姻していた母もともに日本国籍を喪失、ところが1950年当時、その届を韓国での戸籍に反映させる手続きは取られていなかったため、父の戸籍に実は入っていないということも後に判明して……と、まさに民事局長通達一片のために翻弄された家族史。

その李洋秀さんのトークイベントが過日あったとのことで、そのときの資料もいただけたのですが(ホントに有難い…お世話になりすぎ…)、そのお母さんのお名まえ「李家美代子」に見覚えが。

なんと。

大学1回生のとき、とある集会でこの人のお話を聴いたことがある!と思い出したのでした。驚きの再会……。

そのときも、「え、そんなことが起きるの?」と驚いた記憶はうっすら残っているのですが(日本人なのに「日本国籍喪失」に巻き込まれて、その後、国籍回復もできず、外国人だからと保険も年金も加入できず…という状況を訴えておられたはず)、その内容を資料を読んでいて思い出し、気づいたという次第。

ちなみに「李家」という氏は、「李」は朝鮮王朝の王様一族の姓だった、朝鮮の本家なのだという意味合いを込めて創られた氏だそうで、「りか」あるいは「りのいえ」と読みます。

高麗博物館を出て、新幹線での帰路、つらつら考えていていろいろ思い出しました。

その会場が民族差別と闘う全国協議会(民闘連)の全国大会の一つの分科会だったこと。当時、帰化の際に日本的な氏にせざるを得なかった(昔は民族的な姓のままだと帰化が許可されなかったため)が、それを元の姓「朴」に戻すために裁判で闘っていた京都の朴実(ぱく・しる)さんの報告を聞きたかった私と友人(在日3世)、二人で参加したこと。

……説明するのが難しいのですが、1986年、東西冷戦下の南北分断、韓国はまだ軍事独裁、在日コリアンの民族団体が今よりもはるかに党派性が鮮明で対立も深く、何かにつけ「おまえはどっちや?」と聞かれる(私は日本人なので「どこの味方やねん」程度で済んだとはいえ、民族団体によって日本人に対する温度差が違い、民闘連は「一緒に闘おう」と今でいう「アライ」日本人も受け入れてくれたけど、「日本人はお呼びじゃない」的な外野扱い?されることもしばしば)。そういう状況下で、コリアルーツでも日本国籍のある人の人権課題については、民族団体からの支援が乏しく、取り残されがちだったのです。その分科会はそういう課題を集めたような場でした。だから李家美代子さんの報告もその分科会だったのだと思います。

李家美代子さんは、歌人として活動しておられ、ご自身の境遇とともに自作の短歌も紹介しながらの報告だったと記憶しているのですが、報告が終わって質疑応答の時間になったとき、会場の真ん中あたりにいた在日1世の高齢男性が、最初からはっきりと怒気を含んだ口調で「おまえはしょせん日本人じゃないか」という主旨のことを話し始めたのです。内容はあまり覚えていないのですが、マイクを握り、壇上の李家美代子さんを詰問し、戦後間もない時期のご自身の被差別体験を「朝鮮人差別っていうのはこういうことだ!お前の体験は違う!」と言うために語るその男性の後ろ姿と、目を伏せて黙っている李家美代子さん、その状況に誰も割って入れないピリピリした緊張感、私と友人も息を殺すようにただ黙っていた、長い時間……。その場がどう終わったのかを全く覚えていないのですが、会場を出るときに、友人が「…1世だしさ、そういう目には遭ってないくせにって言いたくなるのはわかる。けど、それを(あの人に)ぶつけるのは、なぁ…」とブツブツ呟き、「そやなぁ…」としか言えなかった、そのときの友人の表情も覚えています……

というより、思い出しました。

長い間、すっかり忘れていた記憶でした。

なんで忘れてたんだろうな……と思い、でも、
忘れていたというのはちょっと違うかもな、とも思い。

19歳のあの1年から今まで、たくさんの人と出会って、たくさんのライフストーリーに触れ、考えてきたから、その一つひとつを同じ熱量で、同じ正確さで覚えてはいないけれど、「そんな理不尽な目に遭いたくないし、誰かがそんな理不尽な目に遭うのも嫌だ」という感情は、私の中に確かに残っていて、そういう理不尽に敏感に反応して感情が動く、そういう私になっているのだな、ということを考えました。

 

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植民地主義は終わらない

下書きに写真と単語だけ放り込んで放置している間に、イスラエルとアメリカがイランを攻撃するという何の正義も正当性もない暴力行使に至るという、ク〇な世界…

まさに植民地主義は全然終わってない。トランプは独立国家の主権侵害・内政干渉を何の躊躇もなく口走り実行する、宗主国メンタリティ丸出しで反吐が出る(けど、アメリカ国内でそれに抗議するアメリカ市民のみなさんとは連帯したい)

館内で話していたときにも、そんな話になったのですが、

「植民地主義」と言うと、何かしらのイデオロギー、考え方、だという印象になるけど(って、考え方には違いないけど)、それについて考える際には、それが実際の生活にどう表れ、影響し、人を傷つけ、人と人とのつながり・社会を毀損していくのかを具体的に見ていかないと、その「ダメさ加減」を実感できないよね、ってことを、切実に思います。

この展示は、まさにその視点が貫かれているので、一人ひとり名まえのある、具体的な個人が登場する出来事、生活史がコンパクトな展示のなかにふんだんに盛り込まれています。それがやはり、得難い、魅力的な空間になっている要因だと思います。

イランが空爆され、小学校で女子児童が100人以上死んでいる。確かに独裁的な、問題のある政治状況だったかもしれないし、イランの人びとの受け止め方も多様で、アメリカの行為に賛同する人もいる。でも、そういう状況を生み出したのも、先進国の身勝手とご都合主義じゃないのか、私はひたすら悶々としているのだけれど、
一方で「株価が「経済が」と、そんなことばかり気にしている人たちがいる。日本政府は「邦人保護と避難」の話しかしないし、報道も「日本への影響は…」ばかり。

人が死んでるんだぞ…。理不尽に。

いまに始まったことじゃないけど。

空爆は、その下にある人の暮らしを破壊する。独裁者だけピンポイントで殺されるわけじゃない。そして独裁者であったとしても、他国の軍隊が暴力で引きずりおろしていいわけがない。これまでだって、ほとんどの戦争は「自衛のための先制攻撃」で始まっている。攻撃する側が、何か理由をつけて「恐れがある」と言えば「自衛」「先制」が成り立つなんて、手前勝手も甚だしい。

そして、戦争になれば、ほとんどの人間は殺される側になる。自分だけ無傷で安全にいられるなんて錯覚だ。それを自覚するために、深く認識するために、過去の侵略や戦争で、具体的な個々の人間の人生に何が起き、どうなったのかについて知る努力、その物語を語り継いで忘れない努力が必要なのだと思います。

 

ホントに、あれだけ人が理不尽に死んだ世界大戦から何を学んだら80年後にこんな世界になるんだよ…と嘆いていても始まらないので、81年目の私をどう生きるか、考えて新年度を迎えたいです。

「いつもとなりに」を考える

横浜美術館に、この展示を観に行きました。

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午後いっぱい時間をとれるように、お昼過ぎには横浜に着く時間に家を出たのですが、全然時間が足りませんでした…(4時間ぐらい館内にいたはずなのに、あれ?見落とした作品がある?と後で気づいたり……)

こちらの展覧会評記事が写真も多く、解説も良くてお勧め。

www.tokyoartbeat.com

とにかく、思うことがありすぎました。

美術館は思索の海。

作品自体は静かに、ただそこにあるだけなのに、そこに立って向き合うことで喚起される自分の感情や記憶の渦にダイブして、その水に「たったひとりで」包まれて、作品に映る自分と対話する。現代アートは音声を伴ったり、言語的なメッセージが付随したりしていることも多いけれど、「ただそこにある」ことは同じで、作品と対話しているというより、作品を通して、作品を鏡にして、あくまで問われているのは観ている自分なんだなと感じます。この展示はとりわけ、そんな思いがあふれてくるものでした。

 

朝鮮半島と日本、その「はざま」

1章 はざまにー在日コリアンの視点

最初の部屋は、1945年から1965年の20年間、日本の植民地支配からの解放、朝鮮戦争から南北分断、北朝鮮への「帰国」事業、韓国との国交回復までの時期に焦点化した、在日コリアンのアーティストの作品が展示されていました。

(1章をはじめ、撮影禁止の部屋の方が多かったので、作品写真は上にリンクした記事をご覧ください/記事が消えないことを願います…

曺良奎(チョ・ヤンギュ)の《密閉せる倉庫》(1957)は、去年、東京国立近代美術館でも観た作品でしたが、他の作品やデッサン、日本の作家とやり取りした手紙なども合わせて見せてもらえたことで、当時の日本で「在日であること」「画家であり労働者であること」をアイデンティティとした作品だったのだなと改めて、油絵の具の筆致に強いエネルギーを感じました。

 

曺良奎も「帰国」事業で北朝鮮に渡り、その後消息不明になるのですが、帰国船、帰国事業を題材にした作品とともに、「帰国」に帯同した日本人妻を訪問した林典子のポートレイト、インタビュー動画の展示も印象的でした(《sawasawato》というシリーズ作品で、まだ継続中だそう)

「帰国」事業のこと、もっと知られないとダメだよなぁ…とは以前から思っているのですが、それをさらにさらに痛感。なぜ、その事業が成立し、多くの人が新潟港から旅立ったのか。そこに遭った差別の問題と「人道的配慮」という美名のもとで、事実上マイノリティの追放を実現した日本政府の思惑と。

最初の訪問の際に、いきなり撮影は…と対話して関係性をつなぐことに留め、でも再訪したときには、その女性が亡くなっていた…という経験から、「いま、記録することの意味」にこだわるようになったという林典子さんの言を読み

朝鮮人との結婚を反対され、その反対を押し切って結婚、ともに北朝鮮に渡った日本人妻の、故郷を懐かしんで歌う「この道」の歌声を聞き

その人が主体的に選んできた選択の積み重ねとして、そこにおられるという事実と、その背景にあった東アジア情勢と日本の政策とを考えると、何が正解か?とか、だれの責任か?とか、単純な答えなんてあるわけもなくて、ただ切なくて苦しくなる。

結婚は家同士のものだという考えが今よりずっと強かった時代、民族差別も今よりずっと露骨で酷かった時代に、人生の伴侶を自分で選択した女性のパワフルさはとても眩しく、美しい。そういう女性たちに私も続きたいと思うけれど、そんな強さと美しさを強調すると、なぜこの人が北朝鮮に渡ることになり、その結果何十年も日本に戻れないままその地で人生を終えることになった、その遠因にある日本政府の無責任さが不問にされそうで、そんなのは耐えられない、とも思うのです。

 

曺智鉉(チョ・ジヒョン)「猪飼野」写真集から選ばれた数点の写真展示も、私的には必見で、多くの人がここで足を止めて、この写真の意味を感じてほしいと思うものでした。

当時は朝鮮市場と呼ばれていた、現在のコリアタウンの商店街の上に掲げられた横断幕が映る2枚の写真。ひとつは、1965年の日韓法的地位協定の発効によって、韓国領事館への申請のみで韓国籍取得=協定永住権取得という、日本で暮らすための法的地位の安定がもたらされたこと、だから「早く申請を!」と呼びかける横断幕。もうひとつは、南側とだけ講和、国交回復したことへの抗議、南北分断を固定化する、そんな施策にのって韓国籍を取得するなと訴える横断幕。

それは私が生まれた頃のこと。

私が在日コリアンの友人たちのことを通して、民族差別や植民地支配の問題を考え始めた80年代も、南北分断は在日コリアンの世界に深く影を落としていました(同時に、それゆえに「南北統一」「一つの朝鮮」を希求する主張や運動も今よりずっと強く…)。

いまの若い人たちにすれば、どれもこれもピンとこないのだろうけれど、やはりこの時代の空気感、歴史を知っておかないと、いま起きるさまざまな問題も理解しきれないだろうと私は思います。近現代史の教育が手薄だとはよく言われますが、1945年以降のこの時代は手薄どころか歴史教育の領域として意識すらされていないかもしれない…と思ったりします(100年も経っていない時期を「歴史」とみなせるのか?というと、難しい気もしますが)

その横断幕さえなければ、猪飼野の日常生活、大阪の何ということはない下町のスナップにも見えるモノクロの写真ですが、いまのコリアタウンしか知らない人たちに、これは同じその場所なんだよ!ということもふまえて、ぜひ観てほしいです。

 

2章 ナム・ジュン・パイクと日本のアーティスト

2022年にソウルに行ったとき、植民地歴史博物館で開催されていた『イ・サンホ、歴史を解剖する』という展示を観て、しかもたまたま作家が在廊されていて直接解説していただくという幸運を得ました。これがその時の記録。

jihyang-tomo.hatenablog.com

このとき、写真も撮らなかったのですが、最後に「親日派弾劾」をテーマにした大きな作品があり、さまざまな政治家や実業家(財閥)の人物像がコラージュされているものだったのですが、そこにナム・ジュン・パイクの顔もあって、それが衝撃すぎて…(ゆえに写真も撮れなかった…)

上にリンクした記事にもありますが、展示室にも同様の説明文は置いてありました。

パイクは日本統治下の京城(現在のソウル)に生まれ、繊維会社を営む裕福な家庭に育った。父の仕事の関係から当時非常に入手の難しかったパスポートを所持しており、1950年に起こった朝鮮戦争を逃れて、家族とともに兄のいた日本に渡る。東京大学で美学美術史学を学び、1956年にはドイツに渡ってフルクサスの作家たちと出会い、芸術家としてのキャリアを始動させた。

植民地期に裕福だった/事業経営者だったということは、朝鮮総督府とうまく付き合っていたということで、かつ旅券まで持っていて、朝鮮戦争を逃れて日本に渡り、大学に入り、さらにドイツ留学まで…と、相当な特権階層だったということ。韓国でいう「親日派」は、単に日本との親交が深いということではなく、日本支配時代に築いた財産資源(金銭だけでなく人脈的なものも含む)を元手に、解放後に特権的な地位を築いた人々を指すので、当然ナム・ジュン・パイクも含まれるわけです。

私は、前衛的なアーティストであったがゆえに軍事独裁政権下の韓国にいられない、帰れない境遇にあったアーティストだと思っていたので(それは確かにそう)、それだけではない、一筋縄でいかない韓国現代史とそこにある大日本帝国の影をつきつけられて、衝撃だったのです。

そんなことを思い出し、複雑な気分で作品を観ていて……

なかに、パートナーでもある久保田成子のビデオアート作品が2点あり、その1つが33年ぶりに韓国に帰郷し、親戚と会い、一族の墓に参るナム・ジュン・パイクの姿を収めたものでした。すでに世界的に名声を得ているので、空港で若い人にサインや記念撮影を求められ、気さくに応じる姿と、それを誇らしげに見守る親戚の人たちと、「幼稚園の同級生」という人たち(その時代に幼稚園に通っていた、ほんの一握りの恵まれた境遇)。その輪の中にいるナム・ジュン・パイクがそのとき何を思っていたのか、それを記録している久保田成子が何を思っていたのか、それは直接には語られず、ただ淡々と、「久しぶりに会った親戚や友達」とのごくありきたりなことばのやりとりが展開していく画面をしばらく眺めていました。

 

地理的に、日本と朝鮮半島は「いつもとなりに」あった。でも…

 

日本人マジョリティが気づいていなくても、この社会で「いつもとなりに」在日コリアンがいた。でも…

 

この企画展全体として、「いつもとなりに」、でも、そこにあった「はざま」を感じさせ、考えさせるものだったけれど、そこに差しはさまれたナム・ジュン・パイクは「はざま」でもない、遠く離れた位置、あるいは異なる次元? 日本からも韓国からも、どうにも測りがたい位置に置かれてしまった人、のように感じました(あるいは、そういう位置を自ら引き受けること抜きに、彼の作品は成立しないのかもしれない…とも)

 

「日韓交流」…の複雑な重層性

3章 ひろがった道 日韓国交正常化以後

この部屋は撮影可、でした。

日韓国交正常化以後に、日本と韓国で開催された展示会(1968年 韓国現代絵画展in東京、75年 韓国・五人の作家 五つのヒンセク〈白〉in東京・明洞、77年 韓国・現代美術の断面in東京、79年 第5回大邱(テグ)現代美術祭in大邱、81年 日本現代美術展─70年代日本美術の動向inソウル)での展示作品を紹介しながら、相互の交流と影響について考えていくという構成でした。

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そしてここでも、「日韓交流」なのかな?それは……とモヤモヤ

李禹煥回顧展に行ったときの、拙blogより

李禹煥先生は1936年慶尚南道生まれ。中学生の時に朝鮮戦争が始まり、戦後、ソウルの高校に進学。1956年に親戚を尋ねて来日し、日本の大学へ。以後、日本で創作活動を開始して現在に至っている…というライフストーリー。
一方、推しの推しである尹亨根画伯(Yun Hyong-keun, 1928 – 2007)。8歳違いで、同時代をアーティストとして生きた人だけれど、日本にいたか韓国にいたか、どの環境の違いがもたらしたものを考えるに、何とも言えない気持ちになってしまう

余白に響くもの 李禹煥展 - わったり☆がったり

尹亨根は軍事政権下の韓国で、4回も投獄され、創作活動も監視されるなど、不自由な環境の中でも韓国で創作を続けられたんですよね……

李禹煥も、日本での活動を経て著名になり、韓国に逆輸入されたような形で、いまでこそ生まれ故郷の釜山に李禹煥美術館もあるわけですが……

(そのお二人の作品が並んでいる…のが感慨深くて)

植民地時代も含めて、日本で美術教育を受けたり、日本で創作活動をしていた時期がある韓国の作家は珍しくないし、軍事政権下の韓国を離れて海外で創作活動をせざるを得なかった作家も全然珍しくない。そういう韓国の作家たちにとっての「日本」と、日本の作家たちにとっての「韓国」……あまりにも違いすぎやしないか? 「交流」ということばは、交流する双方が対等であることが前提だと思うのです。そりゃ、対等でない「交流」も世間には溢れているけれど、そこにある段差、「はざま」、すれ違いやわかりあえなさが、「交流」と名付けられた途端に覆い隠されて、「共感できた」「わかりあえた」側面だけが前掲に押し出されてくることへの違和感が、この展示室に沈潜しているような気がしました。

…と、それはそれとして

尹亨根の作品、ずっと観たいと思っていて、やっと実物と対面できたので感無量でした。この絵の前に立つために、Bluetoothのイヤホンを買って、一人で「YUN」を聴きました(我ながら…)

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惚れ惚れ……

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このテクスチャ、たまりません……

天の青、大地の黄褐色、その重なり合いに生まれた褐色の黒。

「芸術家である前に、まず善き人でなければ」という人としての矜持にも痺れますが、空と大地の間にある人間が、そこで自然から何を感じ、受け止めて生きるのか…という問いがそのままアートになったようで、静かに伝わってくるものがありました。

日本の作家のもので印象的だった作品

李禹煥の絵の前に置かれていた、同じく「もの派」の海老塚耕一「大邱の余韻」2024
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・・・横浜市鶴見区出身の海老塚は、幼少期から在日コリアンが身近にいる環境で育ちましたが、高の自叙伝(引用注:高峻石『越境-朝鮮人・私の記録』)との出会いは、日本の植民地支配がコリアンにもたらしたものと、在日コリアンの歴史をまざまざと思い知らせるものでした。この作品は、第5回大邱現代美術祭参加のために海老塚が初めて訪れた韓国で、オンドルに使われる壮版紙にひかれ入手したものを、約半世紀後に素材としたものです。

……出会いとか交流とか、その場の光景で切り取られがちだけれど、そこで受けたインパクトが、いつどんな形で昇華していくかは、わからない、未来の領域なんだよな……とつくづく思います。

こちらは菅木志雄、「AS FACT」というタイトル

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黒糸で刺しゅうしているのかと思いきや、墨の線……

私たちは、遠目で「線」だと思って済ませているけれど、実はまっすぐでもなければ、繋がらない箇所もあったり、もつれ合っていたり、事実は複雑だということかな…と思いました。ことばは大事だけど、ときとして、複雑なものを単純化しすぎてしまう暴力として作動する。だから、ときどき細部に目を凝らさないと。

4章 あたらしい世代、あたらしい関係

90年代以降、それまでは韓国からの日本留学が圧倒的だったものが、日本から韓国に留学し、創作活動を始めるアーティストが登場…という時代の変化を掲げた部屋でしたが

……正直、私には響かない部屋でした

イ・ブルは好きなので、もっと作品置いてほしかったかな(好みの問題)

最近の村上隆にがっかりしてるので、昔は面白かったのになーと面白かったころの作品を前に、さらにがっかり感が募ってしまったのも、響かなかった原因かな

そして、この時点で滞在3時間を超えていたので、「じぇじぇじぇ」(古)

 

「となりにいる」私の席について考える

5章 ともに生きる

この展示会のタイトル「いつもとなりにいるから」について、「いつもとなりにいたのに」の方がしっくりきた…という感想をネット上で見かけて、それもわからないではないけれど、「いたのに」とするなら、その後にどんな表現が、誰を主語にして続くのかによって、かなり意味が変わってしまうよね…と思いました。そう考えると「いつもとなりにいるから」を言っている、その主語は誰なのか、それをこの展示会は問うているのではないか…とも思えます。

この場に来て、観覧して回る自分自身を主語に「いつもとなりにいるから」と、すぐ傍らにずっといた人たちに声をかけることが、あなたはできているのか、できるのか、という問い。

 

4章が90年代だったのに、5章は80年代、韓国の民主化闘争とそこに心を寄せた日本人の「共闘」から始まりました。交流と、共闘。二つは別に対立しないはずだけれど、ただの知り合いとソウルメイトの違い?のような。

 

富山妙子を軸に、イ・ウンノ(李應魯)、パク・インギョン(朴仁景)といった民主化闘争を象徴する作家の作品が並ぶのは圧巻でした。(ここも撮影不可だったのが残念)

富山妙子の「光州のピエタ」も実物は初対面。個人的にはイ・ウンノの作品が素晴らしくて、特に「群像」!民衆のエネルギーを感じました。

思えば80年代、植民地で生まれ育った経歴から(富山妙子も満州生まれ)、日本の植民地支配責任や日本軍の加害責任について発言したり、それをモチーフに創作活動を行っていたりする作家が、少なくなかったように思います。そういう人たちが高齢になり、彼岸に去り…としているうちに、「戦争なんてダメに決まっている」「人が人を支配するなんて理不尽だろ」という、「なぜ?」と問い直す必要もないような普遍的な真理だったはずの価値観が揺らぎ始めたような気がしている昨今、改めて富山妙子や丸木位里・丸木俊夫妻の仕事の価値を、もっと噛みしめたいなと思います(パリで亡命生活を送るイ・ウンノ夫妻を日本に招いての展示会の折、夫妻とともに丸木美術館を訪問し語り合う映像があり、思わず見入ってしまったのでした…)

あとは、発表当時話題になり、観たいなぁと思っていた作品が観れて大満足

「Baby Insa-dong」2004 高嶺格

「可傷的な歴史(ロードムービー)」2018 田中功起

…と言いたいところですが、ムービーは2/3ぐらいしか観られませんでした…(時間的に)

この2作品は、どちらからも、安易に「わかる」ということを拒絶する意思がもたらす関係性…ということを考えさせられました。そう簡単には、わかりあえたりしない。人には、その人自身の生まれてから今日までの経験があると同時に、生まれる前からの、自分につながるさまざまな人の歴史が刻まれていて、その文脈を外れては生きられないから。

壁/境界の多義性

もう一つ、どうしても観たかったのが、「突然、目の前がひらけて」

武蔵野美術大学と朝鮮大学校の美術科の学生による共同プロジェクトで、2015年にクラウドファンディングで資金を募ったこともあって話題になりました。隣り合う両校の間にある塀をまたぐ橋を架け、両校を行き交うように会場を設けて展示を行う、という発想が刺激的で、当時、とてもとても行きたかったのだけど、いかんせん、東京……ということで(そういいながら今回、横浜まで遠征してるんだから、当時だって行けたよなぁと、なぜか当時はその発想がなかった自分を叱りたい…)

その当時のままの再現というわけではなく、そのプロジェクトをきっかけに始まった対話が、プロジェクトを担った若いアーティストに与えた影響、その後の創作まで含めた10年の時間をまとめた展示でしたが、本当に観てよかったです。

個人的には、この展示会のテーマを最も象徴的にあらわす、要の展示だと思いました(なのに、これは韓国の現代美術館には行かないようなので残念……)

プロジェクトの企画書というか、制作のためのタイムラインに、その都度どんな意見が出たのかを付箋で書き込んでいる、いわば対話をそのまま作品化したようなものだったのですが、それが本当に興味深くて、小さな字を一生懸命読んでしまい。おかげで、目の疲れが極まって、ふらふらになってしまいましたw)

物理的に、まさに「いつもとなりに」校舎があり、それぞれの校舎で、アートを学ぶ学生が創作活動をしていた。その間には当然のように敷地を分けるための塀があり、物理的にそこを通れないし、向こう側は見えない(見えない向こう側と、ピンク色のボールを「いくよー」「いいよー」と声を掛け合いながらトスしあっている映像が、コミュニケーションの楽しさともどかしさを同時に感じさせました)。

そこに「橋を架ける」

先に「交流」ということばが取りこぼすものについて書きましたが、

同様に「橋を架ける」も、隔たりを超えて、隔たったものを取り持って、何か良きことがもたらされるようなイメージで使われる表現だな、と。実際には、その橋とはどんな橋になるのか、誰が渡り、渡らないのか、人を選ばず渡れるものなのか、渡ってよいのか、渡ろうとしない人はどうする? と派生的な問いはいくらでも出てきます。

壁/境界は、隔たりや拒絶の象徴でもあるけれど、同時に敵から身を守るための防御壁だったり、自分自身を守る境界線(バウンダリー)だったり、でもあるわけで、やみくもになくせばいいというものでもないんですよね。

この展示のテーマは、「対話」に間違いなくて、その対話の進行に触れて考えているうちに、対話というのは、境界をなくすための営みではなくて、対話することで相手と自分の境界線を引きなおす、壁の高さを調整する、そういうことなんだな…と不意に思いました。それは、自分と他者の間にある境界線であると同時に、自分自身の輪郭線/世界との境界線でもある。

「いつもとなりに」いる、そこにある境界線の色、濃淡や太さ。線の震え具合

「わたし」は、そんな線が何重にも重なった輪郭線を生きているのだと思いました。

 

わたしの「席」

対話の記録の中に、日ごろ、人権研修の仕事をしている身としては既視感のある表現もたくさんありました。

たとえば、在日コリアンの学生の「いつもこちらが質問されて、答える側になっている気がする」という記述。隣が朝鮮大学校、在日コリアンの学校だったから「橋を架けよう」になったのでは?そこに、歴史問題等々、「隔たり」ネタがあるから…?というモヤモヤ。逆に日本人学生の「(なに人とか民族とか)属性を抜きにして考えたらダメなの?」という問い。それに対して「マジョリティの発想だな」と感じる人と感じない人。「属性って、人間にとってなんだろう?」と次に生まれる問い。また、歴史の話になると「加害者の席に座らされてしまう感じ」に居心地悪くなる経験。では、その席に着かずに話せるか?と言えば、それもちょっと違う気がする…等々。

「いつもとなりに」いた人について考えるようで、実際には

「いつもとなりに」置かれていた自分自身の「席」の在り方を考えていたかも

具体的な友人の顔がいくつも浮かんで、

友人の隣で、私が座っていた「席」は、友人の方を向いていたのか、友人と並んで同じ方向を見ながら話すような席だったのか、それは緊張感のあるしっかりした造作の椅子だったのか、頼りないパイプ椅子だったのか、あるいはゆったりとくつろいで話し込むためのソファだったのか……。どんな席について、どんな話をしてきたのか。

ふりかえってみれば、そのときどきで、さまざまな席についてきたような気がしました。

最初は緊張して、あるいはとりあえず間に合わせの、頼りない椅子に身体を固くして座っていたかもしれない。でも、時には二人掛けのふわふわのソファのような席で、寛いで呑気におしゃべりしていたこともある。そして、そうなってからも、やはり時として、きちんと向き合い背筋を伸ばして話すためにふさわしい席が必要なこともある。

 

それでも、それがどんな席でも、「いつもとなりに」その席があることが大事。

 

横浜美術館はリニューアルしたてで、いろんな「座る席」がありました。

今度は、ゆっくり座る時間も込みで行きたいです。

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KOYAたんとのんびり座って寛ぎたかった(笑) TimeOverでした。

Black Box Diaries を観ました

Black Box Diaries を観てきました。

とにかく観ていない状態で、否定にせよ賛辞にせよ次から次へと「ご意見」らしきものが流れてくるのがしんどくて。

やっと観たよ…と同時に、猛烈にわからなくなった。

どんな作品でも、完全無欠なんて無理だし、だから批判は全然ありだと思っている。でも、この映画に関しては、的外れな、本当に映画を観たのか?と思うレベルの酷いものが多すぎるような気がしてきました…

逐一、何がどう酷いかを論評することはしません。

それよりも、私が観て感じたことを書いておくことにしました。

親密な、手紙のような映画

冒頭、川面を流れていく桜の花びらの映像に、伊藤さんの手書きの文字で「この映画には性暴力の描写があります。・・・辛いときは目を閉じて、深呼吸を」という警告文が出てきたとき、あぁ、これは手紙だ、と思いました。

(後でパンフレットで「機械的な文じゃなくて、一種の手紙のように出せたらいい」と伊藤さんが考えてそうしたという説明を読み、納得!)

タイトルもDiaries(日記)だけれど、この映画が私たちに伝えようとしているのは、日本社会の現実、権力の闇、なんてことではなく、そういったものに踏みにじられ振り回されながら、「私が伊藤詩織であること」を取り戻し守り抜こうとした日々の記録であり、その日々を開示することによって、同じような体験と立場を共有するサバイバーたちと繋がろうとする、そういう伊藤さんの手紙だと私は受け取りました。

たとえるなら、美しい薄紙に丁寧に綴られた手紙を受け取って、その繊細な封筒をそっと開き、たたまれた便箋を取り出して手のひらに広げて読んでいく。映画の時間がそんなふうに流れていった気がします。

苛立ちややるせなさで、時として破れてしまいそうになるけれど、意外と強靭で破れない。そういう美しい紙に書かれた手紙。

英語と日本語、声の高さ

それぞれの言語に、音韻の特徴があるものですが、

ここ数年、韓国語の発音を真面目に練習していて気づいたのは、口腔内のどこで音をつくるのか(唇や歯を使うのか、喉のぐっと奥の方や鼻腔のあたりを使うのか)日本語はその使う範囲が狭いので、その範囲を超える音が「発音が難しい」音になるのだ、ということ。

日本人女性の声は世界一高いというけれど、そもそも日本語だから、「高い声をつくる」ことが容易いということもあるのかもな…と。口腔の形や息の使い方に注意して韓国語を話すとき、私の声は自然と低くなる。喉全体を使うような音は、どうしたって低くなる。
(もちろんネイティブなら高い声も出せるだろうし、そもそも声の高さは体格・骨格に影響されるので、どこまでが自然でどこからが不自然かの線引きは難しいです。以下、私が、ただ、感じたことです)

映画を観ていて、すごく気になったのは、伊藤さんの声の高さが、英語のときと日本語のときとで、明らかに全然違う、少なくとも私には違って聞こえたことでした。

そして、画面に出てくる手書きの文字も英語。

これは、英語で話したり書いたりする方が、事件と向き合うのに、日本語よりは気持ちが楽だったということなのかな…と勝手に思ったのです。

性暴力事件で、取り調べで人形を使って事件の再現をさせられたり…という配慮のない酷い話はよく聞く(し、実際伊藤さんもそうだったと映画内でも語られる場面がある)。事件の際も取り調べの際も、裁判のための打ち合わせでも、思い出したくない酷い記憶の現場と、それを思い出して説明させられる場面では、常に日本語だったはずで、だから「日記」として向き合う作業では、日本語ではない言語が選択されたのではないか…。

私自身が、そんなふうに操れる第二言語を持っていないので、想像でしかないけれど。

英語で話す伊藤さんは低い声も相まって、すごく意志的で強い人に見えてしまうのに、日本語で話している伊藤さんは「華奢でかわいらしい女の子」に見えてしまう…のが、私には衝撃的だったのです。

捜査員Aの無神経な冗談の場面は私も腹が立ったけれど、同時に、あぁ、この人は「日本語で話す伊藤詩織さん」しか知らないのだろうな、と。自分にとって都合がいい、軽口を叩ける相手として、好意をもって対した、あの冗談。ほろ酔いで機嫌よく電話を切ったであろう捜査員Aと、電話を切ったまま固まってしまい、記憶が飛ぶぐらい消耗した伊藤さんとの落差。

(職場でのセクハラって、こういう感じだよな…と思いだして震撼した人、思わず深呼吸した人は多いんじゃないでしょうか。私は目を閉じて深呼吸しました…)

書くこと、話すこと、英語、日本語、と、使い分けていくことで、伊藤さんは「自分自身に起きたことと向き合う」作業を乗り切ったのだろうな、と思います。

そういう意味で、ある程度自在に操れる第2言語を持つということは、自分が自分であることを守るための、大事な道具を一つ増やすということなのかもしれません。

 

使い分け、ということでいえば(使い分けているわけではないと思うけれど)、監督、ジャーナリスト、被害者、というそれぞれの側面が伊藤さんのなかで交差し、混乱し、意識してある面を強く出すことで乗り越えた局面もあれば、無意識的にある面を押し殺すことで生き延びた面もあったんだなということも、伝わってきました。

ことばにせよ、面(ペルソナ)にせよ、人は意識的・無意識的に使い分けながら生きていく。

だから、映画の、特に前半部分で伊藤さんの語りのなかに「ジャーナリストとして」という前置きが頻発するのも印象的でした。それは、そう断ることで自分を奮い立たせるという意味もあったのだろうな…と思いながら観ました。

被害者は「弱い」のか?

映画には、伊藤詩織さんが出会った人たちや関係した人たちが登場しますが、

ベテランジャーナリストたちとのミーティングと裁判のための打ち合わせの場面、そして裁判所前での支援者たち…について、そのことば遣いや姿勢(気持ちではなく身体の)、表情…どこがどうとうまく言えないのですが、何かモヤモヤとした違和感が残っています。

おそらくそれは、伊藤さんが覚えた違和感が画面からにじみ出ているせいではないか、だとしたら、その違和感を私も違和感として受け止めることができた? そうだとしたら、嬉しく思います(これ、伝わるかな…説明が難しい)

最初の記者会見の時点から、一貫して伊藤さんは「性暴力の被害者はこうあるべき」像の押し付けに全力で抵抗していて、それが私が伊藤さんを好きな理由。そして、そこに伊藤さんがこだわっている、ということに対する敬意がないように感じたことが、モヤモヤの正体。

もちろん、メディア(というよりその向こうにいる偏見まみれの社会の問題だけど)対策として、リクルートスーツを推奨することも、わかる。裁判で良い判決を勝ち取るために、被害者が辛くてもしんどくても納得いかなくても、選択しなければならない闘い方というのもあるだろうし。同様に、報道としてのインパクトや正確性、途中で取材が潰されないようにあえて諦める方策というのもあるだろうし。そういうものを知り尽くしたベテラン、プロの前で、伊藤さんは初心者で素人かもしれない。でも、伊藤さんには伊藤さんの、この事件の当事者としての自我と意地と守りたい私があり、それは経験の多寡とか知識の有無とかで優劣がつけられるようなものではなく、どんな人とも対等な、要は「人としての尊厳」だと思うのです。

 

あなたのことを思っているんだよ、と、本当に心から味方になっているつもりであれこれアドバイスしたり手伝ってくれたり…有難いけど、でも、実のところ、あなたは私のことを「守ってやらないと危なっかしい子」だと思ってるよね?
そう気づくと、尊敬もなにも全部吹っ飛んで、「もういいです。自分でやります」ってぶち切れたくなりますよね…(急に自分の話 笑 いろいろ思い出して怒り再燃)

 

弁護士さんとのミーティング中に、伊藤さんの表情が本当に、虚無にみえた時間があって、だいじょうぶ? そこに座っててだいじょうぶ? と私はハラハラドキドキしているのに、画面の中のミーティングは淡々と進行していく、という場面がありました。

心ここにあらずの状態に入ってしまうのは、乖離かもしれないし、自己防衛かもしれない。うつろに虚空を見つめる伊藤さんを見つめながら、淡々と法律的なことを説明している弁護士さんの声を聞いている時間。私は頭がグルグルしてしまいました。

弁護士には法的な知識と、裁判をどう進めるかについての知恵の蓄積があるわけで、それは圧倒的なパワーです。だから弁護士を頼るし、弁護士が必要。そこでやはり、どうしてもパワーの偏りが発生する。「裁判を引っ張っていく」必要から生じる、上下関係のようなもの。

それは、弁護士だけでなく、教師だって何だって、そう。
だから自戒を込めて、ですけど

被害者/助けを必要としている人は、弱っているかもしれないけれど、弱いわけじゃない。だから助ける、手伝うことによって、力を得て回復して、自分で歩いて、何なら駆け出していくのが理想のはず…。つまり助ける・助けられる関係はいつまでも続かないし続けたらダメなのだと思うのです。一方的な関係性が固定して、その関係性が居心地よくなってしまったとしたら、お互いにとって良くない。

伊藤さんが全力で拒否したかった「被害者像」には、そんな関係性への拒絶も含まれているのではないでしょうか…。

 

ちなみに、私は映画の最中はまったく泣かなかったのですが、観終わって、パンフレットを買って、ぱらっと見た47pに「オレの心は負けてない」が引用されいるのを見て、泣きました。そうか、伊藤さんはここに繋がっているのだな、と。

同情と好意、良心の葛藤と連帯

「かわいそうだたぁ惚れたってことよ」は、夏目漱石三四郎』の一節。
Pity's akin to love.という英語のことわざの、漱石流名訳と言われています。

捜査員Aは、完全にこれだ……と、この一節を思い出しました。

私は、名訳だと言われようが英語のことわざだろうが、そんな理由で好きになられたら気持ち悪すぎるだろ!全力でお引き取り願うぞ、私は(怒)というモードの人間なのですが、気になったので調べてみました(以下、さまざまな辞書からの私のまとめ)。

日本語で、「同情」と訳されるタイプの英単語

pity:誰かの不幸に対する悲しみや悲しみの感情。ときとして見下しを帯びる

sympathy:困難を経験している人への理解、思いやり。

empathy:「他者の靴を履く」ことで相手の感情を理解する。共感。

pityとsympathyの違いは、焦点が、相手の困難な「状況」にあるか、「感情」にあるか。なので、pityの場合は状況が酷い、悲惨…だから関わらないでおこうとなる場合もある「かわいそう、哀れ」という感情で、sympathyは「困っている、辛そうだから助けてあげよう、慰めよう」という感情の動き。

sympathyとempathyの違いは、相手の状況をみて「それは辛そう」「悲しそう」と理解し、心配したり寄り添ったりする心の動きがsympathy、相手の感情を自分も実際に感じることができる、つまり自分自身の経験や知識に基づいて感情を共有できる力がempathy。

捜査員Aも、ホテルのドアマンも、伊藤さんに対して「気の毒、かわいそう」というsympathyから出発したのだろうな、と想像する。
そして、捜査員Aのsympathyはpity寄りのsympathyのままで、あんな酷い二次加害発言をそうと気づかずやらかしてしまい、
ドアマンのsympathyは、その後の伊藤さんの体験、世間のバッシング、加害者の不起訴…等々の経緯を知っていくことで、少しずつempathyにシフトし、最後のあの決意になったのだろうな、と(加えて、彼の職場であるホテルが、事件に対してどんな認識を持ち、彼に対して何を言い、何を指示したのか…といったあたりの彼自身の経験を通して、伊藤さんに共感していったのだろうな、と)

映画の感想のなかにはこの二人に言及しているものが多く、ドアマンに関しては「ヒーロー」という形容のつく感想が多かったのですが、私には「ヒーロー(英雄)」という表現がしっくりきませんでした。

いまも、単語の意味を調べていて、いっそう感じたのですが、
自分から伊藤さんに連絡を取り、当時自分が見たことを伝え、裁判で証言してもいい、職場から止められても、やります、と言った彼の勇気は、英雄的なものではなくて、連帯の勇気だと私は思うのです。

目の前で起きていたできごとに対して、不審や疑問を感じつつ、そのときは見送ってしまった自分。その先で起きたこと。その後の展開。監視カメラのエピソード一つとっても、ホテルも協力的ではなかったわけだし、彼も何か釘を刺されていたのかもしれない。そんななかでも、過ぎたこととして切り棄てず、考えてきた時間の積み重ねがあったことが、あの短い会話から、十分に伝わってきて、胸が熱くなりました。それは、誰かのためではなく、自分自身がその痛みを共感したから、そしてその胸の痛み(良心)が、彼の行動を方向づけた。それこそまさしく、empathy

そして、それを引き出せたのは、世間が押し付ける「被害者」に、私はならない、私は伊藤詩織という多面的で複雑なひとりの人間で、私が私であるために闘うのだという、その意志だったのではないか、と思うのです。

それは、連帯ですよね。

「連帯」をキーワードにふりかえると、伊藤さんを一人にできないと寄り添っていた友人のみなさんや本の編集者さんには、前項で書いたようなモヤモヤした違和感は覚えず、連帯する仲間、同志、に見えました。伊藤さんと話すときの視線、姿勢、すべてが「同じ高さ」にある感じ。けっして見下ろしたりしない、見上げることもない、同じ高さ。伊藤さんに緊張がない。屈託なく笑っているときの伊藤さんはとてもチャーミングで、本来はこういう方なんだろうなと思う瞬間が何度かあり、その都度、胸がキュッと締め付けられる思いでした。

なぜ、名前で呼ばない…

これは書くのをちょっと迷うところなのですが。

国会前で何かの抗議行動(背後の横断幕に「辺野古」の文字があった)をしていた年配の女性たちに、伊藤さんが「伊藤詩織です…」と声をかけた場面。

どういう意図で伊藤さんの事件のこと(逮捕の中止や不起訴が権力の介入、濫用ではないかという主旨)に触れるスピーチしていたのかはわからないけれど、とにかく、自分に関する内容が聞こえたから、伊藤さんは歩み寄って名乗り、謝意を述べて去っていく、という場面。カメラはそのままその場に残り、伊藤さんを見送った後の女性たち3人の会話を撮り続け…。

直接声をかけられた方(Aさんとします)は、「あら、伊藤さんなの!?」と驚き、でも満面の笑みで伊藤さんの手を取って「頑張ってくださいね」と話していた。そのすぐそばで、そのやり取りを一緒に見聞きしていたであろう方(Bさん)と、少し奥にいて、マイクを握っていた方(Cさん)の3人おられたのですが、伊藤さんが立ち去った後、Cさんが「あれは誰だったの?」と言い出し、AさんとBさんが「伊藤詩織さんじゃない」「あの事件の…」の説明に、Cさんは「え?強姦された人?」という確認をされました。その1回で終わったら、私も何も思わなかったのですが…。
驚き、信じられない!という興奮?とともに何度も確認してしまう、ということじたいはいいのです。でもその確認が「伊藤さんだったの?」ではなく「強姦された人?」という呼び方で何度も繰り返され、それに対して後のお二人がたしなめるでも言い直すでもなく、「そうよ、気づかなかったの?」と会話が進んでいったことに、私はギョッとしました。なぜ、「伊藤詩織さん」とその名で呼ばず「強姦された人」と呼ぶのだろう? しかも何度も繰り返して。

某記事で、その女性たちが日本軍「慰安婦」の問題にも長年取り組んできた人たちだと知りましたが、私は余計に釈然としませんでした。
彼女たちは、日本軍「慰安婦」サバイバーの人たちのことも、個々の名前で呼ばないのでしょうか。「強姦された人」とひとまとめに呼んでいるのでしょうか。

性暴力の被害は、ただ被害です。その被害を代名詞にされるって…

それが魂の殺人と呼ばれるほどの大きなダメージで深刻な被害だからといって、個人の多様なアイデンティティを「被害者」という名で塗りつぶして、その面にしか注目しないのも、また別の暴力ではないでしょうか。性暴力の問題を過小評価し、やれハニトラだ、お金目当てだと被害者の問題にすり替えようとしてきた社会のなかで、そうさせないために「強姦されたのだ」と加害責任を明確にする表現に言い直し、強調してきた、そんな運動の歴史があるのは知っています。でも、あの場面、自分たちと、そこに立ち寄った伊藤さんと伊藤さんを記録しているカメラがあっただけのあの場所で、伊藤さんを「強姦された人」と呼ぶ必要はない。むしろ、きちんと名前で呼ぶべきではないのかと思います。

違和感と共感

伊藤詩織さんの事件が、日本社会にさまざまな波紋を呼び、論評され、攻撃されたり称賛されたりと喧しくなったのは、加害者が逮捕されず、不起訴に終わったのは、加害者が安倍晋三(当時首相)と親しかったからではないか、要は権力によって捜査に不当な介入がなされたのではないか、という疑惑があるから、というのが大きいですよね。

もちろん、私も、そんな不当な介入、介入でなければ忖度によって捜査を歪めたのか?という疑惑について、真相を究明して詳らかにしてほしいと願います。許せない。

でも一方で、「権力の闇を暴け!」と、その面ばかりが強調されて、伊藤さんの闘いが、伊藤さんの尊厳のための個人の願い、闘いであることを置き去りにして、勝手に伊藤さんを「ジャンヌ・ダルクだ!」みたいに持ち上げる空気に、私はずっと違和感がありました。
(正直、それなりの経歴をお持ちの左派活動家の男性が、それらしきことを口にするのに触れると、反射的に「気持ち悪いな」と思ってしまいます……)

伊藤さん自身も「助けを求められる社会であってほしい、正義がきちんと機能する社会であってほしい」と述べておられますが(パンフレットより)、そういうメッセージを受け取って、社会にどう働きかけ、どう行動するかは、受け取った私たちの責任であって、伊藤さんがそこまで責任を負うことじゃないし、社会を変えていくための象徴として祭り上げて、いつまでも矢面に立たせようとするのは、なんか卑怯じゃないか…と思うのです。

また、確かに伊藤さんの事件を「あったのになかったことにしようとした」のは時の権力かもしれないけれど、そんなふうに揉み消せると加害者やその周辺が思えたのは、それが性犯罪だから、ですよね? 映画内にも、告訴する、被害を届け出る人たちはほんの少数で、その背後にすさまじい数の暗数があるはずだという話は出てきましたが、性犯罪がそういうものだから、そもそも仕事を餌にすれば黙って言いなりになると思っていたから加害者は行為に及んだわけだし……。伊藤さんが闘っているのは、そういう壁のすべてであって、権力者による職権乱用の話は壁の一部でしかないのに、その一部が全部かのような取り上げ方、語られ方には、違和感しかない。

映画の感想にしても、批判にしても、そんな違和感を少しでも覚えると、私はもう無理です……

そうじゃないでしょう、と思う……

性暴力被害を、なぜ受けなければならなかったのか。なぜその被害を声にし、抗議したり助けを求めたりすることが、こんなにも難しく、被害者の多くが沈黙を強いられてきたのか。「#me_too」が広がったのは、その状況を多くの女性たちが自分のこととしてよく知っていたからだし、そこで連帯することによって、勇気を出して被害を訴えた人を孤立させまいとする、支える勇気の現れだったはず……。結果的に、業界で権力を持っている人がその立場を失ったりはするけれど、権力者を引きずり下ろすために闘ってるわけじゃない。目的を見誤ったらダメだと思います。

#me_tooは、「あなたを一人にしない、それは私だったかもしれないから」という連帯。

そういう連帯を、伊藤さんは映画の中で「ブランケットをかけてもらったよう」と表現していたけれど、そういうやさしい連帯と共感、応答の世界が、性暴力反対のムーブメントの神髄だと私は思います。権力に対して拳を突き上げるような勇ましさではなく、静かに語り、波紋を広げ、共感を増やしていく粘り強い闘い。

 

社会運動には、拳を突き上げることが必要な場面も、もちろんある。

それを否定するわけではないけれど、ブランケットをかけあうようなケアのつながりを育てることが、拳を突き上げるよりも困難な場合がある。

大きな力を結集して、敵を倒すんだ!という運動スタイルが、個人個人の体験や思い、小さなこだわり、独自の尊厳を吞み込んで押しつぶす、そういう場面だってある。

だったら、その困難と闘う、「私が私であること」にこだわって抗うのも、一つの運動だと思います。

 

性暴力は社会の問題だけれど、それを個人の尊厳の問題として徹底的に自分自身を向き合っていったら、こういう普遍性のある映画になった、これはそういう映画なのだと私は思いました。個人的なことは社会的なこと。だから、そのバトンを受け取ったら、社会がどうこうという大きな主語で語るのではなく、私自身のことを私自身のことばでゆっくり考え、話す、隣の人と話し合う、そういうところから始めなければいけないように思います。

 

だから、やっぱりこれは「手紙」なんですよね。

伊藤詩織さんからの、ラブレター。

長い返事になってしまいました。

 

追記)裁判/弁護士と被害者の関係性の難しさについて

20代のころ、誘われてある性暴力事件の裁判の支援をしていたことがありました(被害者が間接的に知る先輩で、性暴力を受けたそのシチュエーションが、私にとってはかなり身近にあり得そうなものだったので)。そのとき、捜査でも裁判でも、こんなにも追被害を受けるのかと衝撃を受けて、こんな目に遭うぐらいなら泣き寝入りした方がマシじゃないか…と本気で思いました。二次被害って、二次で終わらないじゃん!と…。でもその先輩も「ここで折れて同じような被害に遭う人が出たら困る」と頑張っておられたので、話を聞いただけで折れてしまう自分の弱さ加減に泣きました。

40年ぐらい前の話なので、いまよりもさらに性暴力に対する理解がない社会、裁判官も頓珍漢、だから一転の隙もない裁判戦術が必要なのだということで、反対尋問の想定問答づくりにリハーサルまで、弁護士事務所で何度も何度も行われたようなのですが、その過程が本当に地獄にしか私には思えなくて、なんでこんなに理不尽なんだよ!と。そしてその際の弁護士さんとのやり取りを聞いて、必要性はわかるけど、弁護士さんももうちょっと優しくできないの!?と悶々としたのです。微に入り細に入り、それこそ話し方も服装も何もかも、相手に付け入らせないために!という理由で厳しく指導される様子を聞いていたら、もう気が遠くなってしまって、私には到底無理だ…という実感しか覚えていません。裁判自体は、その努力が実って勝ち、相手は有罪になったのですが、有罪になったとて「え、そんな量刑…」だったのは、例にもれず、でした。

この映画をめぐって、元弁護団と伊藤さん(映画製作陣)との対立が伝わったとき、私は上記の自分の記憶が呼び覚まされ、おそらくどちらが悪いとかではなく性暴力の裁判を闘うことの困難さが生んでしまう亀裂なのだろうと思いました。きっとどちらの言い分も正しい。それは誰から見て、とか、この局面だから、とか、注釈付きの正しさになるのかもしれないけれど、そもそも、「同意のないセックスは強姦だ」ということがもっと社会の常識として浸透していたら、性暴力が傷害や殺人と同様の酷い暴力犯罪で、被害者に深刻なダメージを与えるのだということを真剣に受け止める社会であったなら、生まれない亀裂ではなかったのかなと思います。

弁護団の先生の言い分、それに呼応して味方する人たちの言説のいくつかに、私は強い違和感を持っていますが、それは本文中に書いたさまざまな違和感と共通するので重ねての説明はやめておきます。ただ、対立しなくていいはずの人たちが対立するのは悲しいし、やるせないです。

ASD…だったのか? というおはなし

タイトルつけるのも難しい……

きっかけはこちらの連載(写真は紙面版をスクラップしたもの)

この第一回目を読んで、あまりにも「私の話」だったのでビックリした、というおはなし。

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いま、私は幸い、主観的には「生きづらくない」状況で暮らせているので、診断を受けたいとは思わないけど(かつ受けてもかなり軽度なんじゃないかと思う)
子どものころに感じていた違和感、自分や周囲に対する納得のいかなさ…みたいなものには、一定の説明がつけられるんだな、ということが発見で。

発達障害ということばが一般的に広がって久しく、その過程を眺めながら、ときどき「それは私にもあるな」と思うことはこれまでにもあった。ただ、「でも大なり小なり、誰もが何かしら凸凹はあるよね…」と済ませていたのだけど、上記の記事を読みながら振り返ってみると、なるほどそういうことか…と一つひとつ納得できるものがあったので、それを書き留めておきます。

なお、専門書を読んだわけでもなく、あくまで上で紹介した新聞連載記事を読んだ範囲での、私自身の生い立ちを振り返っての覚書です。

「いいおねえちゃん」の仮面

私は長い間、自分が小さい子の相手が得意で苦にならないと思い込んでいました。

でも、実際には子どもの言動にうまく対応できなくて辟易してたり、苛立って爆発しそうになったり…が頻発する人でした。

(※そんなことは誰にでもあるでしょう?と言われそうですが、客観的にみて「私は子どもが苦手なんだ」と考えた方がすっきりするレベルでそうなるのに、「私はできるはずなのになんでだ!」と自己嫌悪に陥るなどして、私にとっては有害な思い込みでした…)

それなのに、子ども会やら小学校での教育実習やら、短期託児のアルバイトやら(笑)やっていた学生時代。就職を控えて、高校の教員採用試験を受けることにしたのは、「小学校は向いてない」と無意識的に回避したのかもしれません(主免許が小学校だったのに、なんで高校?とよく聞かれた…)

大きくは母が亡くなったことがきっかけですが、私の自分へのその思い込みは、「妹二人の面倒をみる長女」という役割が家族の中で期待され、そういう声掛けをされて、それが刷り込まれたんだな…とようやく気付いたのが15年ぐらい前でした。

上記連載記事で、木谷秀勝さん(山口大名誉教授)の談として、こうありました。
「特に女の子は母親の反応に敏感」
「女の子は2歳ぐらいからお母さんや周りの人から・・・言葉がけによって、徐々にカモフラージュを始める」

…まさに。妹が生まれたのが3歳の時。私には記憶にないのですが、母親の談によると、私は妹のことはとてもかわいがってお世話をしようとするのに、ご飯を食べず、それに困ったそうなのです。よく世間で言われる、「下の子に嫉妬してわがままになる」みたいな行動はまったくない、「いいおねえちゃん」なのに食事時になるとストライキ。ただ、もともと食の細い子どもだったし、だんだん食べるようになったし…という思い出話。私の子が生まれて、その子のお守りをしに来た母が「そういえばさ…」と話し始めて初めて知り、「へえぇ」と聞いたものの、記憶にないので3歳の自分が何を思っていたかはわからず…。

それが、この記事で、つまりは、「いいおねえちゃん」という仮面を身に付ける過程だったということか!と腑に落ちました…。まったく記憶にないけど。

「いいおねえちゃん」であろうとして、必死だったのは確か。妹を思って自然とそうなる、みたいな行動はほとんどなくて、「こういう場合はこうすることがいい姉なのだろう」とどこかで学習したことを実践している、という感じでした。それは長女役割だけにとどまらず、いろんな場面で自分が求められている役割を考えて、その役割ならこうするだろうなと考えて実行……だから、その役割「像」がわからない・思いつけないと上手く立ち回れないのでした……。

でも、「像」さえわかれば、割とうまくこなせてしまう人でもあったので、「こいつはできるやつ」と思われてしまい、過大評価されがちな人生でした……(つらいと言えばそれがつらかったかもしれない。「できる」と思われているけど、実際にはめちゃくちゃ無理してこなしているという側面があるから、すぐにキャパオーバーしてしまうのが自分でわかっているし、断りたいけど断れない……)

「好き嫌い」ではなく「食べられない」

幼い頃、私は食が細くて「好き嫌い」の激しい子ども、と扱われていました。

でも、私自身の感覚からいうと「好き嫌い」ではなく、「食べたくても食べられない」という方が近くて、子どものころ、そこに困惑し続けていたなぁと思います。

今はそうでもないのですが、野菜、特に葉物の生野菜の放つ香り、いわゆる「みずみずしさ」と呼ばれる要素が、苦手というより、強烈な刺激になって吐き気を誘発し、実際に吐いてしまうのです(いまも、ちょっとした刺激、ドラマや映画での「吐く」「えづく」演技描写が引き金になって吐いてしまうことが時々あります。過敏…)。でも「食べられません」と言っても「好き嫌い」「えり好み」としか受け取ってもらえず……。

小学校に上がると給食があり、当時は「完食指導」があたりまえ。「嫌いなもの・苦手なもの」は少ない量から「少しずつ食べられるようになりましょう!」と指導されます。そこで「なんで嫌いなの?味?触感?匂い?」みたいな話になり、周りの友達は「だって苦いから」とか「ブニブニして気持ち悪い」とか説明でき、そこから「〇〇と一緒に飲み込めばいける」とか「鼻をつまんで食べれば感じない」とか、対処法が次々とアドバイス?される流れにいて、でも私にそれは当てはまらない。私は「なぜ説明できるのか?」が不思議で、自分の状態をどう説明していいのかわからず、どうやら周りに自分のような子はいないらしいことにも気づき、八方ふさがりでした。「食べられません」としか言わない私に「何が嫌なの?」「思い切って飲み込んでごらんよ」等々と苛立っている先生の様子に絶望しながら、メソメソしているうちに給食の時間が終わって、仕方なく片付けてもらえる、という日々でした(よくそれで不登校にならずに通ってたな…と思うけど、メニューによっては楽しく完食できる日もあったんですよね。だから余計に「わがまま」と映ったんだろうけど)

これも、いまなら「感覚過敏」ということばで説明できます。

当時は先生にもそういう知識はなかったのだろうと思うし、誰のせいでもないけど、本当につらかった。そして、それを何とかしようとして、「その刺激を軽減しつつ飲み込む技」みたいなものを徐々に習得していった結果、高学年になるころにはだいたいのものは食べられるようになりました。ただ、いまでも特定の刺激には弱くて、うっかり食べると吐きそうになります…(特定の野菜の特定の部位の調理の状態によってそれは決まり、自分でわかっているから避けることもできる。だから困ってはいないですが、そうなるまでの道のりが長かった…)

サバイバル技術としての「迎合」

「好き嫌い」の件も含めて、「なんか周りと違う」と思うことが多く、しかもそれをうまく説明できずに誤解されたり怒られたりも多かったので、自分に自信がなくて、小学校の低学年ごろまでは、ただただ大人しい子どもでした。でも内心、「なぜ怒られないといけないのかわからない」という不満もあって、たまにそれが爆発して「今日は学校行かない、行きたくない」と布団にしがみついていたこともありました(そしてそういう時、母は「風邪ひいたみたいで~」と嘘の欠席連絡を学校に入れていて、私はそれにがっかりして、諦めて学校に行く、の繰り返し。たぶん、自分で説明できない、わからないことを何とかしたくて、大人に「どうしたん?」と聞いてほしい、一緒に考えてほしいと思ってたんだろうなぁ……。当時はそれがわからなかった……)

ただ、勉強はできたんですよね…。学習能力は高かった。

カモフラージュする、周りと同じようにふるまう(同化)ためには、周りの人を観察して擬態する必要があるわけで、その必要に迫られて、相手が何を自分に期待しているのかを考える力が異様に伸びたのか、そもそもその能力が鋭いのが特性なのかわかりませんが、相手の話を聴き、しぐさや表情をみて、「こういうことかな?」と推察してそれに合わせていく…という処世術をいつの間にか身に着けてしまいました。

よく言えば、「相手の考えていることを想像できる」力がある、でも悪く言えば「相手に迎合する≒同化する」能力であって、しかもそれを自覚的にコントロールしているわけじゃない。生き延びるための「迎合」。

高校生の頃に「私って、そのときどきの相手に迎合しているだけで自分の意見がないんじゃ?」と気づいてショックを受けたことがあり、それをきっかけに自分の迎合気質を警戒するようになりました。さらに、個性の強い人がそろってた演劇部にいたので、迎合しなくていい、人と意見や感覚が違っていてもいい、何なら人と違う方が面白いお芝居が作れるぜ!という空気と世界が安全圏になって、あまり自分を否定せずに済んだのもラッキーでした。

そういえば、組織人として働いていたころ、ある上司に「1言うたら100動いてくれる」と評されたことがありました。仕事の期日を守ることとか、細かい事務仕事を丁寧にやるとか、そういうことは得意で、そういう意味で「仕事をきちんとしている」には違いなかったのですが、「100動いてくれる」かどうかは、相手によってまちまちだったんですよね…。要は、自分と考えていること(仕事観・人間観)が似ている相手なら、求められていることが読み取りやすいから100動けるけれど、そうじゃない相手だと言われていることがよくわからない、そもそもその人が何を大事だと考えているのかがわからないから、「?」になって1言われたことを1まっとうできればいい方で、見当違いなことをやって怒られたりトラブったりも多かった…。

その職場はけっきょく辞めました。とにかく疲弊していて、このまま勤めていたら死ぬ。と直感的・衝動的に決断して辞職したのですが……。疲弊の中身を考えてみたら、社会の情勢の変化に伴って職場環境が変わっていく中で、理解しづらい、私にとってわかりにくいタイプの人が増えたこと、自分自身が経験年数を重ねて管理的な役職を求められるようになってプレッシャーが強まったこと…等々、「苦手」要素が増大したからだったのかもしれないな…と思います)。

この迎合的なところは、今もあります。

たとえば、何かの講演を聴いたり、まとまった論評記事などを読んだりすると、(もちろん自分の理解できた範囲でですが)その人の主張を自分の感想としてもっともらしく話せてしまいます。年の功で、自分がふだん考え抜いている事柄なら、そうはならなくなりましたが、若い時は「この前まで言ってたことと違うやん?」と友人に眉を顰められるぐらい、一貫性のない、流されやすいところがありました。

また、人と話していて、私が言ったことに「それってどういうこと?」と重ねて説明を求められたり疑問を呈されたりすると、感覚的に、とっさに「あ、間違った?」と思ってしまい、相手が求めている答えを探るような話し方、態度になってしまうということが、今でもしょっちゅうあります。単に自分の思うことを言っているだけのことで、正しいも正しくないもない、説明を追加すればいいだけのことでしょ!と頭の中にそれを俯瞰している別の私が表れて忠告してくれることで、「そうだそうだ、間違ってないし正解もない」と気を取り直して事なきを得る…という感じです。

子どものころ(いや、けっこう大人になってからも…)は、この「あ?間違った?」と思って、相手が求めている正解を探すあまりに、思ってもいないことを言う、噓をつく、ということも頻繁でした(嘘をつくのは良くないこと…という倫理観から「嘘をついてしまったー」と後悔したり悩んだりしている人を見るたび、「そんなに悩むことなのか?」とも思っていて、私の倫理観はバグってる、サイコパスか?と不安でした)。私的には、「でもそれが相手の求めていることでこの場にふさわしい『正解』なら、嘘も方便ってやつじゃない?」と、つまり嘘かどうかより、その場での「正解」であることに価値がある、間違うのは怖い、そういう感覚でした。

以前、「嘘をつく人は相手を落胆させたくない、優しい人なのだ」という説を聞いて、なるほどな…と思いました。相手をだます、罪をごまかすような嘘はもちろん良くないし、「相手を落胆させたくない」と迎合してしまうのもいいことではないけれど、そうなってしまう人の心理状態について考えずに、ただ倫理的に責めてもダメなんだな、と他人事のように思っていましたが、自分のことでしたね…。

「同化」したい?できない?したくない?

ASDの人にとっての「同化」は、「周りとうまくやっていくために、目立たないように努力する行動」だと…。

まわりとうまくいかない、そのせいで無視されたり陰口を言われたり、という経験も確かに多くて、だから目立たないように、「ふつう」でいようとは思っても、どうすればいいのかがよくわからない…から、中学生ぐらいの段階で、私の場合はもう諦めてしまって、「友達はいなくてもいい」とばかりに単独行動をとることが増えていきました。

仲良くしていても、たとえばアイドルの話題とか、趣味の話とか、私はことごとくついていけなくて、「あえていえば〇〇かなぁ~」とか言って合わせようとするものの、熱がないのはすぐばれる(笑)  逆に、私が古い映画が好きで名画座に通ってたり、バレエ・ダンスが好きでレッスンに通ってたりに共感してくれるクラスメイトもほとんどおらず(映画については数人、ダンスもレッスンに行けば同じような子がいるから孤独ではなかったけど)、私って変わり者なんだな、きっと。変人は目立たないようにしよう…と息をひそめて生きていたという感じです。

なのに、息をひそめきれない、埋没しきれなくて、何かしら目立ってぶつかってしまい、いわゆる「ハブられる」系のいじめに遭ったりもして、生きづらい中学生時代でした。埋没しきれない不器用な自分がメンドクサイなぁと嫌になる気持ちと、でも私が周りと合わないのはそんなに悪いことなのか?とムカつく気持ちがあって、そのムカついている私:我の強さ≒自分を見失うほどには迎合も同化もしきれていなかったことが、逆に私を守ったのかもしれない、という気がします。

私にとって幸いだったのは、文学、映画、ダンス…といったフィクションとエンタメの世界が、私の逃避先として常に身近にあったこと、そして高校の演劇部が私の居場所になったことでした。

会話のシミュレーション…の価値

これも連載記事で読んでいて、おぉ…となったことですが、

ASDの人は雑談が苦手なため、それを補おうと・・・練習を繰り返します。そのために学校や職場に着いたときにはすでに疲れています」

会話のシミュレーション…なるほど。

それは意識してやっていることではなく、私としては「脳内でいろんな人が動いて会話し始めるシミュレーションみたいなもの」は、「勝手に始まって自分では止められない」類のもので、みんなそういうものだろうと思っていたら、どうやら違うらしいということを、本当に数年前に知りました。イメージ的には、『インサイドヘッド』。会話シミュレーションだけでなく、こうして文章を書いているときも、脳内に複数の人物がいてしゃべっている、というのが私の思考の進み方です…。

確かに、仕事でもプライベートでも、とにかく「人と会う」「人前で話す」みたいな予定があるとき、その予定のことをちらっと考えただけで、脳内でわーっとシミュレーションが始まってしまうのは、厄介。何が厄介かというと、脳内がそれで忙しいので他のことができない、だから止めたいけど、止めるのも不安で止められない。そしてそうやってシミュレーションを繰り返すのに、実際の現場ではその通りには進まない(相手の反応は予測不能)のでバグってしまってうまく話せない(なんなら、現場の前に疲れてしまっているので反応も鈍い…)、募る徒労感…(泣)という感じはとてもよくわかります。それがASDの特性なのだという説明を読んで、このことが一番、腑に落ちたというか、早く教えてほしかった…。

そう考えてみて気づくのは、
私は演劇部時代に、脚本・演出を担当していて、「脚本書けるの、すごいね」と言われたのですが、それは勝手に始まってしまう脳内会話シミュレーションを文字に起こしているだけのことなんですよね……。登場人物のキャラと場面の設定さえ考えれば、あとは勝手にシミュレーションが始まっていくのです(だからセリフを考えて書いているわけではなく、脳内で勝手にしゃべっている人たちのセリフを再現して書き留めているイメージです)。そして、演出もやっていたので、シミュレーションをもう一段上から俯瞰する力もついたのかな?と思います。だから、勝手に始まってしまうシミュレーションがただの「余計な能力」ではなく、自分の「得意・才覚」のように位置づけられ、マイナスの評価をせずに済んだのかなぁと思います。

自分探し、とか、本当の自分、みたいなワードが流行るとき、いつも「〇〇を演じている自分」が否定すべき、悪いことのように言われるのも不思議だなと思っていました。演じている自分だって自分です。演じている意識がないなら怖いけど、演じている自覚、嘘をついている自覚があるなら、その能力は演劇に役立つぞ? みたいな(いや、大半の人は演劇をやるわけじゃないんだからな……すいません)

とはいえ、この会話シミュレーションをやらずにはいられない、「疲れてしまう」のに止められないというのに困らないかと言われれば、困りものではあるのです。本番前に練習しすぎて疲れるし、いくらやったところで、実際にはその通りに進むことの方が少ないし。でも、それでも、私は臨機応変がものすごく苦手なので、シミュレーションしておくことで、いくばくかは心の備えができるような気もするのです。というより、勝手に脳が始めてしまうというのは、不安だからやらずにいられないんだろうな……。

それでも、生きづらさの根源は環境だと思う

私はいま、困ってはいません。

「苦手なことを無理してやる必要はないのでは?」とある時から割り切ってしまったことが大きいと思います(割り切ったがゆえに経済的には大変ですが)。でも大半の人はそんなふうに割り切ったり思い切ったりするのが難しいから、困るのだと思います。

私が苦手と感じること、自分の特性?凸凹?によって、生きづらいな、しんどいな、と疲弊していたころと今とを比べて思うのは、けっきょく「周りの人」なんじゃないのかな、ということ。

迎合とか同化とか、要は「はみ出すと困ったことになるから」埋没したい、ふつうでありたいと願うわけだけど、そこでいう「ふつう」は人の社会が作り出した価値観でしかないわけで、「いや、そこをはみ出している人もいるよね、ふつうにいるよ。いるのがふつう」と受け止める人が多ければ、失敗したりバグったりしながらでも、やっていけると思うのです。そして、縦序列の命令系統があって競争的で各自の役割やノルマが厳しく求められるような環境だと、それがこなせないことで「しんど…」ってなるのもあたりまえだけど、フラットで対話的・協力的に各自のできることを最大限生かしながら、総体としてノルマをこなせたらいいじゃんね?がんばろうね!みたいな環境だったら、誰かが困っていたら手伝うし、自分が困ったら手伝ってもらおう、それなら頑張れる!って思える人は多いんじゃないのかな、と。

自分のことを整理しておきたくて書いてみたけれど、こうして書き出してみると、やっぱり「こんなの、大なり小なり誰でもありそうだよね…」とも思うのです。生身の人間が、規格品のように同じスペックを備えているわけがなく、みんな何かしらの癖やゆがみがあるはずで、一人ひとりは不完全だけど、人類として総体になれば完璧!なのが人間ってものではないでしょうか。

そんなふうに考えられる力が身についたから、私はいま困っていないのだな、と思います。そしてその力は、人権について学ぶことを通じて身についたことなので、みんなもれなく人権についてしっかり学んで人権感覚を身に着けた方がいいよ!という結論です(笑)

 

高麗美術館

12月3日……を選んだわけではないのですが、12月3日に高麗美術館に行きました。

旅のおともはいつもKOYAたん

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「朝鮮の文字図とかわいい絵」企画展に、10月末にナムジュニ(RMさん・わが最愛)が家族旅行でご訪問!をかれのインスタで知ってから、ことばでは言い尽くせない感謝と感激と喜びと多幸感で、挙動不審になってたのですが、あまりに感情の渦が荒れまくり「私も現地に行こう」という方向に頭が回らず…。ハッと気づいたときには企画展の会期終わり3日前!そんなギリギリの時期に行って、そして今頃、記事を書いている私(企画展の集客には全く貢献できずすいません…。まぁ、ド平日の午前中にもかかわらず、切れ間なくARMYが一人二人と訪れていたので、私が宣伝するまでもない…)

前庭の植栽が美しく紅葉していました。ナムジュニが来たときは、まだ青かっただろうなぁ…。この季節にまたいらしてくださいね…(ぜひ!)

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なぜ私がそんなにも感情を揺さぶられていたかというと、こちらの美術館は在日1世の方がご自宅だった建物を改装し、ご自身の所蔵品を展示するために造られた私設美術館だからです。

koryomuseum.or.jp

1988年、私は大学3年生で、金達寿先生の一連の著作「日本のなかの朝鮮文化」を時々拝読していて、この美術館ができた経緯もリアルタイムで知っていた世代です。
(詳しくはリンク先の「ご挨拶」を。創設者である鄭詔文さんの文章です)


2階には、朝鮮時代の両班の部屋のしつらえを再現した展示や図書スペースとともに、鄭 詔文さんが取材されたテレビ番組の映像(日本のものと韓国のもの)が流れています。映像を流しているすぐ横に来館者ノートが置かれた机があるので、それを書くためにここに座ったナムジュニも、この映像見たかなぁ…見てたらいいなぁ…と思いながら、私も来館ノートを書きました。そんなARMYの感想でノートは埋まっていたけれど、みなさん、この映像見てくれたかなぁ…ここは韓国のものが展示されているというだけじゃない場所なんだと伝わってるといいなぁ…。

(こういうとこが、メンドクサイBABAアミとかって悪口言われる元なんだろうなと自覚はしつつ、でも考えずにはいられない…)

 

こちらは、2階テラスにある、キムチを漬けるための壺など、生活のための焼き物が並ぶスペース。このトラさんが可愛くて思わず。

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こちらが「文字図」です。今回の企画展展示の中で、一番大きな展示物。

タルハンアリ(満月壺)も可愛いし、龍模様の白磁も可愛い。

文字図というのは、一種の教材で、儒教の理念を社会に浸透させるために、「孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥」の八徳目を示す漢字にその徳目を想起させる逸話とそこに登場する動物の絵を組み合わせ、視覚的に印象に残り、理解もしやすいように、と工夫されたものだそうです(館報より)

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この屏風だと、右から孝・悌・忠・信・礼・義で、孝には孝行説話に登場する鯉が描かれているということだそうです。

カニさん。ナムジュニと言えばカニさん(笑) こちらは「かわいい絵」ですね。

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企画展のテーマが「かわいい」なので、全部可愛いのですが。

こちらはカササギとトラ。ん?トラ?と思う模様ですが、「虎鵲図」という題名なのでトラさんです!(笑)  かささぎ(カッチ)を朝見ると良いことがあるとか。カッチホランイ(カササギ&トラ)は、よく取り合わせられます。民画のトラさんって、なぜこうも愛嬌があってユーモラスなんでしょうか…。(好き)

そういえばAPECでスピーチするとき、カッチホランイのピンバッヂつけてましたね、ナムジュニ…(韓国国立博物館のグッズらしい。今度行ったら入手したい…)

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花差しですが、持ち手としてリスがついているという…え、そこを持つの?リスさんをつまんじゃうの!?と思いながら。なんと細かい手仕事なのでしょう…。

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説明もなく並べられていた子たち。可愛すぎ。連れて帰りたーい!ってなりました。

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ちなみに、いつも冬休みから次年度展示への準備も兼ねての長期メンテナンス休館に入られるので、ただいま休館中です(それもあって、慌てて出かけたのでした)ちなみに、次の企画展は陶磁器で、青花白磁の名品が並ぶそうです。行かねば…

 

住宅街に、この佇まい。すぐ近くに小学校や中学校があるのですが、こういう場を身近に感じながら育つっていいですよね……

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入り口を入ったすぐに、こちらの説明があるのですが……
(映っていない右側が英語表示)
ナムジュニはきっと読んだと信じています…。というか、ナムジュナ!あなたはここをどこから知って、なぜ立ち寄ろうと思ってくれたの!が猛烈に気になって仕方がない私…。日本にこういう人がいて、故郷を思いながら、帰ることが叶わないまま亡くなったこと、こういう場を遺してくださったことを、Z世代の韓国人であるかれはどう感じ、何を考えたのだろうなぁ…と考えながら、この前に立ってました。感慨深すぎて、泣きそうでした。

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そんなの、私の勝手な思い入れでしかないわけですが…。

これまでも、ナムジュニが訪問した場所に出かけては「わ~い!」と喜んでいましたが、ここの場合、聖地巡りというより、私が長年知っていて、思い入れもある場所に、ナムジュニの方から訪ねてきてくれた!という感覚になっていて、なんだかとても不思議でした(そんなこと言いながら、実は、それこそ30年ぶりぐらいの訪問で、ご無沙汰していてすいません…な気持ちでもあったのだけど)

《韓国から京都へ。ここで出会えてほんとうにうれしいです。ありがとうございます。
無事に行ってきました  ナムジュン》

この短いメッセージを、あの机で、背中を丸めて書いてくれたんだなぁ…(入り口を入った真正面に、美術館の方がご厚意で展示してくださっていたので、ありがたく写真を撮りました…自筆だよ…とうるうる)

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ARMYの訪問が増えたこともうれしいけど、韓国の若い人たちが、このことを通じて高麗美術館のことを知ってくれたら嬉しいなぁと思うのでした。

日本でも、海外に移民した日本人たちの歴史や現在について知らない人が多いけれど、自分のルーツをたどっていけば、自分だってその立場の、その子孫として生まれた可能性があるわけで…。そんな時空を超えたつながりの物語を知ることも、また豊かなことではないかと思うのでした。