わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

私的韓国映画week

日曜日、東京出張ついでに野田秀樹観ようと思ってたのを台風が心配で断念し、
月曜日、授業の感想のなかに凹むヤツがいくつかあって落ち込み、
星占いでも「くよくよ悩んでしまいそう」12位! という具合だった神無月終わり。

こういう時は体調にもくるんだなー。私的わかりやすいカラダ。

んで、気分も変えたかったので夕方から韓国映画をはしごして
日が変わる頃に帰宅という暴挙に出た昨日(笑)

バッカス・レディ』原題Spring has come

『バッカス・レディ』 - 映画レビュー

現代韓国の「影」を描いた・・・という映画評が多い。
(劇中、ドキュメンタリー映画をつくりたい青年が「GDP11位になったのに、高齢者の貧困が―」等々と語る場面が挟まれていて、「光」部分しか知らない人にとったら、この兄ちゃんが橋渡し役なのかな? と思った)

けど、「影」部分で生きている人にとっては、それはただの日常で、
楽しいこともしんどいことも、悲し過ぎて滑稽だよ! なこともある。

うまくいえないんだけど、社会問題に取り組まねばと思う人であればあるほど
そういう日常の細々とした姿は「置いといて」
わかりやすく「貧困」とか、わかりやすく「不幸」とか、を切り取りがち。

映画や小説の役割は、そんな細々した日常を可視化できることだと思いますが、
その意味でこの作品は佳作。観て良かったです。

あー、この年代の人は「パゴダ公園」って言うのね、やっぱり・・・とか

たしかにパゴダ公園はじいちゃんいっぱいいてるよなー、とか
(90年代初頭に初めて行ったときは、おじいちゃんたちの視線が冷たかった。
 けど、最近はそんな感じも薄れた気がするよな・・・と関係ないことを考えたり)

「韓国人の男はみんなクズっ!」という台詞に「いや、国関係ないよ」と
つぶやいてしまったり(フィリピン現地妻と子どもを捨ててきて、
知らん顔しようとするクソ医者が登場するのです)

そんな安い金額でフェラさすな! と怒りでえづいてしまったり

高齢者の孤独問題つらいよな・・・とは思えど、じじい身勝手が過ぎるやろ!
とまたまた怒りが湧きあがったり

フィギュア(しかもエロフィギュアっぽい)作ってるにいちゃんが義足なのは
兵役で事故ったんやろか、と考えたり

端々にフィリピン人とかアフリカ系の人とかが雑に登場するのはステキだし

韓国映画って、こういう役柄にトランスジェンダー(しかもだいたいMtF
もってくるの好きよなーと(嫌ではないけど定型化してる気もして)
ちょっと複雑な気分になったり

朝鮮戦争、国際養子・・・というのは韓国現代史では抜けない要素だよなと
再確認させられたり

・・・そしてたぶん、日本にもこういう人たちはたくさんいるんだろうな。
見えていないだけで。

『わたしたち』原題우리들

わたしたち(2016) - 映画情報・レビュー・評価・キャスト | Filmarks

こちらは子どもの世界。小学校4年生。ギャングエイジ終って思春期に向かう頃

バッカス・レディ』も生々しかったけど、また少し違う生々しさ。

監督は、子役の彼女たちに事前に台本を渡さず、
当日その場で状況設定と最初のいくつかのセリフを伝えて、
あとは場の流れに任せながら撮影していたらしい(是枝監督と似ている)

リアル。すごいリアル。そうよ、小4こんな感じよね! という・・・

私も小4夏休みに突然転校したんだな。
(小2の1,2学期を過ごした学校に戻る形だったけど)
女子のトップ?のボア。そのボアたちに嫌われているソン。
あからさまにいじめがあるというより、
だれもソンを気にかけないという空気が漂っている教室。
(ボアは割とはっきり意地悪していますが、これも痛々しい)
その力関係のなかに転校してくるジア。

偶然出会って、クラスと関係のないところで友情を育めたのもつかの間、
クラスの力関係に巻き込まれて、ふたりの友情はねじ曲がる。

こちらも映画評で「いじめ」という単語がよく出てきて、
たしかに劇中でも「いじめ」ということばが出てくるんだけど、
子どもたちがそこについての心情を一切語らない作りになっているのが
秀逸だなと思いました。「さびしい」とか「つらい」とか一切なし。

この子は今何を考えているんだろうか・・・が、
観る側の想像力に全部任されていて、画面にあるのは
少女たちの小さな表情の動きや、その目に映っている状況・・・

だれも悪意がないけれど、力関係が発生し、その力関係のなかで
自分の位置を必死で探している。これは社会そのものだ。

学校は社会の始まりだと、改めて実感させられました・・・。

そして、大人が無神経なんですよね(笑)
大人にも悪気はないし、むしろ子どもを心配しているんだけど
裏目にしか出ないというのがリアルすぎて怖いぐらい。

ソンの弟、ユンは友だちのヨノ(出てこない・・・見たかった 笑)に
いつもケガさせられているけど、仲良し。
顏に派手に青たん作っているユンに、ソンが
「なんでヨノと遊ぶの? やられたらやり返さなきゃ」と訊いたときの、
ユンの答えがすごいのです。

「叩くでしょ、叩き返すでしょ・・・そしたら、いつ遊ぶの?」

哲学だ・・・。ユン、神か! と思いました。

 

・・・ということで、昨日はプチ休暇のような日でした。

韓国で考えたこと

9月11日~14日、韓国の代案教育運動を勉強しにソウルと江華島に行っていました。

これ コアプラス企画・韓国教育視察ツアー on Strikingly

代案教育運動の詳しいところは「韓国 代案教育」「韓国 代案学校」でググると、日本語の論文も幾つかヒットしたので、そちらに譲りまして。

ここでは少し、考えたことや共鳴したことなどを雑駁に書いておこうかと思います。

 

まず用語問題。~というか、その背後にある思想?姿勢?の問題。

「代案教育」は日本では「オルタナティブ教育」と呼ばれているあたりで、
「代案学校」は「オルタナティブスクール」。
日本語に訳しづらい(?)ということで外来語ママになったのだろう・・・と思っていて、今回ツアー参加を決めたときも、韓国では「代案」と訳したのだな、ぐらいに思っていました。韓国語を勉強していたときの印象で、韓国では日本よりも「外来語ママ」の単語が少ない≒翻訳努力を惜しまないんだなという認識だったせいもあります。

が、しかし。

いろんな人に会っていろんな人に話を聞いていると、この人たちはまさに「代案」を出そうとしているんだなということをひしひしと感じました。もちろん、日本でオルタナティブな学校や教育の場を作っている人たちも、公教育(公立という意味ではなく、公制度的に学校と認められているもの)に「代わる場」を模索してきたわけだから、同じなのかもしれないけれど、もっと明確に政府や社会に対して「これが私たちの考える代案ですけど、どう?」と積極的に打って出ている感じが強かった。なおかつ、それが学校に止まらず、「こんなに受験競争でみんな疲弊しているのに、それでいいの?」「人を蹴落とす生き方でない生き方を学べる場を作ろうよ」「自分のためだけにガツガツ勉強して周りが見えない生き方なんてつまんないぞ」と、個人個人の生き方や社会のあり方にまでハッキリ切りこんでいくパワフルさ。

なぜ違うのか・・・は386世代とか民主化運動の経験・蓄積の違い(朝鮮戦争から軍事独裁政権という歴史の違い)とか、いろんな理由づけができるし、それぞれに納得もできるのだけど、それだけの問題なのだろうか・・・と考えさせられています。

帰ってきてからいろいろググってみてにわか勉強していたら、こんな解説がありました。(適当にメモしたもので、出典わからなくなってしまった。すいません)

受験のための教育はエリートを育てたが、エリートは地域を捨てていく。 その教育を担ったのが公教育:学校への代案は「地域に根ざす教育:学校」になるのが必然だった

不登校になる/学校不適応を起こす子どもがいて、最初は「適応できないその子どもの問題」だと考えられた(私が中学生の頃は「登校拒否」とか言ってましたもんね)。しかし、そうではなく「学校に来られない子ども」を生み出してしまう構造的な問題が学校の方にあるのだというとらえ方に変わってきて、フリースクール等の「オルタナティブな学びの場」が社会的にも認知され始め・・・今日に至る。わけですが、

韓国ではその「学校側に存在する構造的な問題」は「社会構造に由来する問題」なのだという意識が明確。私も子どもの居場所づくり、学習支援の場にいくつか関わってきたけれど、子どもが学校に対して感じているしんどさや違和感をほぐせる場、学校だけが世界のすべてじゃないと気づける場にしたいという思いはあっても、その先の社会を変えるということをどれぐらいハッキリ意識できていたかと考えると、どうも心許ない。もちろん掘り下げて突き詰めていけば、そういうふうに答えられる中身はあると思うのだけれど、勉強を教えたり、イベントを考えたり手伝ったり・・・という一つひとつに「これが(学校のしんどさや矛盾に対する)私たちの代案だ!」なんてふうには思っていなかったよなぁと痛切に感じました。もしかしたら「オルタナティブ」という外来語に頼ってきたのも「学校とは別の世界があるよ」と、代案とまで言い切らない、既存の学校を敵に回したい訳ではないんですよという留保を無意識にアピールしていた結果では・・・等々(まぁ、だとしたらそこには日本の事情というか、「代案だ!」と張り切って打ち出したら「お上に歯向かうサヨク」レッテル貼られてやりづらくなるんだろうしなぁ・・・とも思うので、悪いとばかりは思わないけど)。

生き方の「代案」を出す

韓国の受験競争の激烈さが日本の比ではないことは、比較的よく知られたことだと思う(とはいえ、それは2月ごろの大学入試をめぐるイベント?をおもしろおかしく伝える、要は韓国を茶化す材料として知れ渡っている感もあって、なんだかなーですが)。

競争には勝つ人もいれば負ける人もいる。日本でも「勝ち組/負け組」などという下品な表現が大手を振ってまかり通っていて、負ける方が悪いと言わんばかりに子どもは叱咤激励され、「がんばりたくない」という選択肢は初めから「ない」社会。日本の学校だって毎年毎年学力調査という名でランク付けされて現場も保護者も右往左往して、学力さえ上がれば学校の仕事は終わりなのか?と思うぐらいの競争っぷり。競争すれば「いいもの」が残る、と新自由主義の人たちは言いたいのだろうけど、人間は「もの」ではない。勝ち残れずに脱落していった人はどうすればいいのだ?・・・そこに答えを出そうとせずに競争を煽り続ける態度は、教育:Educationと真逆だ。

韓国で最後に訪れたサンマウル(산마울)高校の校長先生が、卒業生の大学進学率なんかを話しながら「もっと下がればいいと私は思うんですよね~みんなこぞって大学に行くだけが人生じゃない。別の生き方を創造していけるようになるといい」みたいなことをしみじみおっしゃっていました。・・・個人的には、これがかなり衝撃的で。

同和教育でも在日朝鮮人教育でも、学力保障・進路保障は昔から大きな柱で、それは今も変わらないし、変わってはダメだとも思う。差別によって学習の場/進学の機会から排除されてきたマイノリティが学習権を取り戻していく取り組みだったという事実。学力は競争に勝つためではなく、自分たちの生活の貧しさやしんどさが社会構造上の問題であり、父や母の人間的な弱さや自分の能力のなさといった個人の問題ではないととらえ返すために必要なのだし、差別によって排除されてきた〈場〉に機会をつかんで入っていくことは「私はここにいる!」と宣言することでもあった。

ただ、学力、進路、進学・・・というルートが、受験競争と親和性が高いことも事実で、「進路保障」と銘打っての取り組みのなかで、子ども一人ひとりの生き方/長い人生を見据えての試行錯誤が不十分なまま、とにかく大学に進学することを良しとしてこなかっただろうか。高卒より専門学校卒、短大卒、それよりも大卒・・・と進むほうが選択肢は確かに広がる。選択肢が広がるのは良いことだし、現実問題として選択肢をあまり持たないまま日本社会に放り出すことは危なっかしくて、教師の立場としては躊躇される。7~8年前、twitter上で外国人児童生徒支援に関わる方と「進学指導一辺倒でいいのか」というやりとりをしたことがあった。「中卒で自動車整備工になる人生を否定すべきでない」というのは正論であっても、高校進学率が9割を超え、かつ学齢期を超えた人びとの「学び直し」ルートが貧弱な日本社会で生きていく子どもの未来を考えたとき、本人の希望だからといって高校進学を勧めなくていいのか? というのが私の迷いであり、実感だった。自動車整備工になることと高卒資格を取ることを両立させる道を探るのが、教師の仕事だと思っていた(今も思っている)。しかしそれを社会変革という視点でもう一度見直すと、けっきょく現状の受験競争、学歴社会を追認して、それに対応する「進路」を子どもに押しつけているだけではないかとも考えられる。問題は、中卒で働き始めた青年が何年か後に「やっぱり高校に行こう」と思ったときに定時制高校すらほとんどないという社会の不備ではないのか。あるいは「中卒」というだけで何か欠陥があるかのように処遇する社会の問題ではないのか。差別は許さないと言いながら、差別を受け入れてしまっているのではないか。・・・そんな問いかけを抜きにした「進路保障」の危うさを、改めて考えさせられてしまった。

大学に行くことが人生の幅を広げるように、大学に行かないこともまた、別の人生の幅を広げるのだという、考えてみれば当たり前のことなのに。それをさらっと言ってのける人を前にして、なんやかんやいっても私自身の人生の幅が狭いということなのだろうな・・・と、しみじみ考えてしまい、帰ってからも考えてしまっています。

「エリートは地域を捨てる」ということも。私も地に足ついてないもんなぁ・・・と(エリートかっていうと微妙だけど)常日頃思っていることをまた突きつけられて。外国から結婚で日本に来て、慣れない土地で家事や子育てに奮闘している中国人やタイ人のお母さんたちの方が、私よりもよほど近所づきあいに熱心だし、丁寧な暮らしをしているなと感じることは以前からあったけれど、そんなところまで射程に入れてやっている代案学校。でも卒業したら大学に行って都会に行ってしまう子が大半という、これも現実。

人が働いて暮らす、生きて働くとは、どういうことなのか。

教育の問いは続く。ということなんだろうな・・・(まとまらないなー)

8月末・・・1923年//2017年

8月24日に、こんな一報が流れた。

東京都の小池百合子知事は、毎年9月1日に営まれている関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を、今年は取りやめることを決めた。」

え?

そのときは、「石原慎太郎でさえ出してたのに・・・」と聞いて、逆に石原は(ふだん「僕は文学者だから」というプライドの塊が)どんな文章を出してたんだろう。前例踏襲で自分が書いてもない文章を石原慎太郎名で出すのは平気なのか? いい加減な「文学者」プライドやねんなー等々、ちょっと明後日なことを思っていた。

8月25日の会見でのやり取りを聞いて、そんな呑気な感想はぶっ飛ぶ。

www.targma.jp

「これまでにも都知事として、関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表してきた。全ての方々への慰霊を行なってきた」

「そこに民族差別という観点というよりは、私はそういう災害で亡くなられた方々、様々な被害で亡くなられた方に対しての慰霊をすべきだと考えている」

「様々な歴史的認識があると思うが、関東大震災という大きな災害、それに付随する様々な事情によって亡くなられた方々に対しての慰霊をする気持ちは変わらない」

朝鮮人虐殺は「震災に付随する様々な事情」ではなかろう。震災を生き延び、助かった命が、惨殺されたのだ。

さらに、この追悼式は9月1日に東京都墨田区横網町公園で行われるが、同日同時同場所で「真実の関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」が開催される(都が公園使用を許可)。在特会系の「そよ風」という団体が「虐殺否定の立場を明確にして行う」というのだから、嫌がらせだ。
(なお、検索すればこの団体の参加呼びかけ記事がヒットしますが、リンクは貼りません)

追悼文は送らない、
嫌がらせを許可する、

・・・要するに東京都は朝鮮人虐殺の史実に背を向け、歴史改竄主義にお墨付きを与えるということだ。

違いますか?

関東大震災での朝鮮人虐殺を否定したがる人たちがよく持ち出すのが「正確な人数もわからないじゃないか」という点ですが、そもそも官憲が加担していたがゆえに記録されなかった案件も多数あるうえに、官憲がデマに気づいて事態収拾に乗り出した後も、日本政府は被害の実態をきちんと調べようとはせず、昭和になっても戦後になっても放置し続けたから、ということをどう考えるのか。具体的な被害の実相を調べ、記録に残してきたのは名もない郷土史家の人たち、在日コリアンの研究者たちだ。

これが出たのがようやく2008年である。

報告書(1923 関東大震災第2編) : 防災情報のページ - 内閣府

関東大震災時には横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた。流言は地震前の新聞報道をはじめとする住民の予備知識や断片的に得られる情報を背景に、流言現象に一般的に見られる「意味づけの暴走」として生じた。3日までは軍隊や警察も流言に巻き込まれ、また増幅した。」

それでも、内閣府に事務局を置く中央防災会議がこうして明記した意味は大きかった。・・・と思っていた。

こういうのは日本の常で既視感しか覚えない・・・のも情けない話だが、政府が事実を(まかりなりにも)認めて、ようやく謝罪・総括の話ができるのか・・・と思いきや、それをちゃぶ台返しする人が同じ権力のすぐ近くから湧いてくる。

 

いま、もっとも手軽に読めて、この問題を考える入口にふさわしいのが『九月、東京の路上で』なので、未見の方はぜひ読んでほしい(元になったブログから読んでもらっても)

tokyo1923-2013.blogspot.jp

 

虐殺を否定したい人はなぜ否定したいのか、動機を理解するのに苦しむが、いまはそこを問題にするよりも、史実を捻じ曲げ改竄して平気な態度と、それを見過ごし「それがどうした?」と言わんばかりの無関心が、日本社会を毀損しているのだと社会に訴えるほうが先決だ。

人間は間違う生き物だ。一方で、できるだけ間違いたくない、無謬でいたいと願うのも当然だ。だからこそ先人の「過ち」の経験から学ぶのではないのか。

折しもDPRKのミサイル実験を、さも「日本に向けてミサイルが撃たれた」かのように喧伝し、恐怖感をあおる報道で、昨日(2017.08.29.)の午前中は埋め尽くされた。その煽動の先に何があるのか、1923年の教訓は非常に重い。とても90年前の話とは思えないリアリティを私はつきつけられたのだが、みなさんはそんなふうに感じませんか?

いまは1923年の、この日なのかもしれない、と。

『フリーダム ライターズ』

半年放置していたブログ……(笑)

『奇跡の教室』の感想を読み直してみたら、

『フリーダムライターズ』を観たときに「ここでもホロコーストなんやな……」と思ったんだけど、両者は大分違うなと改めて思い直したので書いておこうかと。

 

フリーダムライターズ http://www.werde.com/movie/new/freedomwriters.html

も実話をもとにした作品で、こちらの舞台はアメリカ西海岸。ロサンゼルス暴動から2年という時期の高校で、家庭でも地域でも暴力にさらされながら生きている高校生たちに寄り添ってエンパワーしていく実践のお話。

(この前一緒に観た先生が「アメリカでも同和教育やってんや!」と端的な感想を述べられましたが、まさにそれ。子どもの現実に深く学ぶ実践)

 

どちらも、生徒たちが「学ぶ」ということに目を開く大きな契機としてホロコースト生存者との対話があるんだけど、そこに至る流れが違う。

 

『奇跡の教室』は、ゲゲン先生が元々歴史の教師で、ご自身が歴史と向き合うことの醍醐味を知っているし、その学びから生まれる力を信頼していて、それを生徒たちに仕掛けていった感じでしたが、

『フリーダムライターズ』は、新任のエリンが荒れまくる生徒たちを前に、何ができるんだろうと一生懸命耳を澄ませて声を聴いていった延長上に、いつ殺されるかという恐怖と緊張感、世界への不信感に気づき、彼らが共感できる学びの材料としてホロコーストの歴史にたどり着くんですね。

 

似ているようで、だいぶ違う。

 

エリンの方が好きかな(笑)

 

 

『ジニのパズル』と『ROCK U!』

『ジニのパズル』は発表時から気になっていた作品だった。
本になったら読もう・・・と思いながら、ずるずる過ごしているうちに、
ネット上でさまざまな人のさまざまな「評」を目にして、
ちょっと腰が引けるような、そういう気分になった。

なぜ腰が引けたか。

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「反日」考~『鬼郷(귀향クィヒャン)』を観て思ったこと

観てから既に1ヶ月以上・・・。

感想書かないまま年を越してはいけないわ! と、お節作って向かうPC。

 

しかし、ググってみると(予想はしたけど、実際)ろくな記事がヒットしない・・・・・・

慰安婦題材の韓国映画『鬼郷』、東京で初上映…「反日が目的ではない」 | Joongang Ilbo | 中央日報

リンク記事にあるように、東京での上映会の後、全国各地を地道に巡回し、
私は11月22日にドーンセンター(大阪)で観ることができました。

 

ググっていただければおわかりのように、「反日映画」の呼び声高いです。

というより、そんな評価しかヒットしません。

ということは、この記事もアップと共に
なんとかホイホイ状態となって炎上してしまうのだろうか・・・(笑)

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Les Heritiers 邦題『奇跡の教室』

kisekinokyoshitsu.jp

なんか忙しくて、本もあまり読み進まず、映画もあまり見られず・・・な今日この頃&ブログを全然使えてない!反省も含めて。この夏、いろんな方向で考えさせられたフランス映画について。(概要はリンク貼ったのでそちらで)

「奇跡」なのか・・・?

原題は英語でいえばHeritor/相続人・継承者という意味で、邦題はそれが副題に回って「受け継ぐ者たちへ」となっています。これもなんで「へ」を付けたかなぁ・・・そのまま「受け継ぐ者たち」でいいのに。とタイトルに納得いかない私。

ホロコーストについて学び、サバイバーから直接聞き取りをするなかで、生徒たちが歴史の「継承者」に成長していくさまが圧巻で、魅力的な映画なのに、それを「奇跡」って言っちゃうセンスの悪さ。そこに「あんな出来の悪い不良の生徒が!」という見下しを感じて気持ち悪いと思うのは私だけでしょうか。

教師の力(専門職としての技量)

たしかに、先生が「コンクールに参加します!」と宣言したとき、当の生徒たちも「うちらには無理っしょ」的な反応だし、校長も「優秀なクラスが参加するならともかく」と渋り顏。しかもテーマは「ナチスの強制収容システムにおける子どもたちと青少年」重っ!

そこでゲゲン先生が「やってみもしないで『できない』と決めつけるのはどうかしら? 失敗するのがカッコ悪いと恐れてチャレンジしないのは憶病ね」的なことを言って、及び腰の生徒にかまわずエントリーするーーそういう姿が「熱血教師」「生徒への愛」etcと映画の宣伝コメントにもあふれていましたが、彼女の教師としてのスタンスはそんなに特別なものではないと私は思いました。歴史教師としてのキャリア、一緒にコンクールまで付き添ってくれる司書の友人の専門性や、証言者として生徒に語ってくれるレオン・ズィゲル(ご本人が登場しています! 貴重映像)の語りの力を信じているから、コンクール参加に踏み切れるわけで、根拠のない熱血とは違う。

自身が教師として、歴史を学ぶということの醍醐味、ダイナミズムをよく知っているからこそできた実践だと思うし、そう考えると大切なのはゲゲン先生個人の「奇跡」だと持ち上げるのではなくて、教師がその専門性を磨くことや、それをサポートする司書のような専門職の存在を尊重する教育環境づくりを考えなければいけないのではないか。この映画を見た教育関係者が「継承」すべきことは、そこらへんにもあるんじゃないかなぁと思いました。

あんなふうに調べ学習の取り組みをするときに、司書の方が付き添って資料調査上のアドバイスをしてくれるのは、ほんとうに素晴らしいと思う。映画の中では最後まで反発して取り組みにそっぽ向いている女の子に、司書の人がさりげなく「こういうのどう?」とシモーヌ・ヴェイユ自伝を渡し、それが彼女に火をつけるのですが、生徒の様子を見ていて「あ、この子にはこういうのどうかな」と思いつくのは司書さんならでは! 学習したことをどうアウトプットするかの指導はゲゲン先生に負うわけですが、インプットの資料選びやタイミングをサポートしてくれる人が傍にいるって、素晴らしい。学校図書館にしろ地域図書館にしろ、司書さんをきちんと置いて子どもたちの学びをサポートしてもらえば、どんなに世界が広がるだろう・・・とうらやましく思いました。

歴史を学ぶということ

コンクールに取り組むことになり、生徒たちも「ホロコースト」「強制収容所」ってなに? と、ちょっとググってみたりしはじめます(ここらへん、今どきの高校生)。で、ちょっとググってみたら衝撃写真に出くわして、「え、なにこれ」とやる気になるというよりは、衝撃のあまり誰かに話さずにいられないという感じで、ポツポツと関心とやる気が生まれ、それがクラスに広がっていく展開がとてもおもしろかった。「これはどういうことだろう?」「なぜ、こんなことになったのだろう?」という、まさに学びのスタートライン。

コンクールに参加する前の段階での授業の様子で、中世キリスト教会の装飾に描かれた「異教徒」の姿を巡って、ムスリムの生徒が反発して授業から出ていこうとする場面があり(そもそも映画冒頭から、スカーフ着用を巡って卒業予定生と校長が激しくやり合う姿が出てきて緊張感満載)、ムスリムがいるとわかっている教室でこれやるんだなぁ・・・とドキドキしながら観ていたのですが、反発する生徒にゲゲン先生は極めて冷静に「もちろん、イスラム教を否定し排除するのは間違っているけれど、これは紛れもない歴史の事実だ。だから学ぶことを拒否してはいけない」と言い、その教会に生徒たちと出かけていくのです。ムスリムの生徒が、キリスト教会を見学し考える。その姿を見て、他の生徒も考える。また、ゲゲン先生は普段から、生徒たちの人種差別的な言動には厳しく接していて「冗談やん」みたいな言い逃れを一切許さない。つまり授業でも授業外でも「公正」ということで彼女なりに一貫した態度でいるから、生徒側からしたら安心できるのだろうなと思えました。

つまり、コンクールに参加したことだけが「奇跡」を起こすわけではない。コンクールへの参加は特別な取り組みではなくてゲゲン先生の普段の授業/歴史から何を学び継承するかという問いを軸につながっているからこそ、生徒たちは成長する。

レオン・ズィゲルさんの証言を聞く場面が、この映画の山場の一つ。ご本人が本当に体験を話されて、それを聞いている生徒たちの顔つきがみるみる変わっていくのが、圧巻です。生徒の一人がその後興奮して別の友人に「今日はすごい話を聞いたんだよ!」「あれは聞くべきだ」と熱く語る姿も、ひとりじっと考え込んで本を読み始める姿も。これも、当事者の語りの力ももちろんだけれど、自分たちで学習を積み重ねた上での「出逢いの力」だなぁと思いました。私は見ながら、学生時代に自分が出会ったさまざまな証言者の人たちのことや、厳しい現実を生き抜いてきた人の語りを聞く子どもたちの眼差しも思い出して、胸がいっぱいになりました。

フランスの学校

前に『バベルの学校』(中学校)を見たときも、日本とはだいぶ学校文化が違うなぁと感心したのですが、今回びっくりしたのはクラスの評価に関する会議の場面。

担任のゲゲン先生、校長、このクラスを担当する各教科の先生はもちろんですが、そこに保護者代表とクラス代表(生徒2人)も入って「先月は対室処分を受けた生徒が〇人いますがー」なんていう話をしているのです。そして「〇〇は、警告が〇回あるから謹慎処分すべきでは」という提案に対して生徒代表が「〇〇はいま家の問題で大変なんです」と〇〇くんの抱える事情を話し、それを受けて先生たちが「同情できる点もありますね」「しかし、この点については・・・」等と個別の件を説明し、対応を協議していくのです。民主主義!?

一方で、保護者代表が「一部の女子のスカートが長いことについて、学校で指導するように要請したい」と言ったことに対して(私は最初何のことかわからなかった)、校長先生が即座に「確かにスカートの長い子は何人かいるが、それが宗教的信念に基づくものかファッションなのか、明確に区別できない。それに対して学校が指導するのは行き過ぎだと思うので指導はしません」ときっぱり付き返す、という具合で(そこで初めてムスリム生徒に対する偏見なのだとわかってゾッとした)、話し合うべきことは話し合うけど、「それはダメ」という点についてははっきりきっぱり突っぱねるのね・・・と感心しました。

フランスは小学生でも容赦なく落第させる国だけど、高校ともなるともう包み隠さず(?)「そんな態度でいたら落第するわよ!」と最初から脅かしまくりなのも、ちょっと衝撃だった。フランスの高校コワ・・・・・・。そして、授業中に何度か注意しても態度が改善されないと「退室を命じます。連絡帳持ってきなさい」と言って、所定のノートに何やら書きこんで、それを持たせて追い出しちゃう(これが退室処分)。でも、生徒の方も黙って聞いているだけではなく、我慢ならない件に対してはボイコット(ゲゲン先生が長期欠勤して代理の先生が来るのだけど「ゲゲン先生はどうしてこないの!」とブーイング。代理の先生がちょっとかわいそうだった)、とにかくみんなよくしゃべる。しゃべるというか主張する。議論の国フランス。

かたや日本。生徒だけでなく、職員室/職員会議でも議論しないもんなー。そして陰で文句言う。もちろんそうじゃない学校もあるだろうけど、大半は意見言わないんじゃないだろうか。そもそも文科省が校長の権限を強くして「即断即決迅速に」させようさせようとしている国で、時間をかけて議論する文化が学校に育つには、いくつものハードルがある。

フランスほど喧々諤々でなくてもいいけど(笑)もう少し、意見の言える環境を育てた方が、グローバル社会に対応する子どもを育てる学校に近づく道だと思いましたね・・・・・・。