わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

平和の感受性を育てる:PeaceMOMOワークショップの二日間

2017年夏にソウルで出会って以来、これが日本で受けられたらな…というより、日本で友人たちを誘って一緒に受けたいぞ!と夢見ていたワークショップが、ついに日本開催!(主催してくれたSVPおよび関係者のみなさまを拝み倒したい!)

本来4日間あるファシリテーター養成講座のエッセンスをむぎゅっと凝縮して2日間。…十分堪能した!という感想も真実なら、物足りない~4日間ってなにするの~!という飢餓感が残ったのもまた真実。参加してくれた友人も、私がなぜこれまで「ピースモモがぁ」とうるさかったのか、実感していただけたはず…(それが幸せ!)
その辺に関してはこちらで ↓

韓国教育視察ツアー4 - わったり☆がったり

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自己表現カードもわざわざ今回用に日本語!なんというホスピタリティ…

2日間の流れは以下の通り

D1
1.学びの共同体形成
2.平和の感受性の形成①
3.平和の感受性の形成②
4.学びあいのファシリテーション

D2
1.PeaceペタゴジーとDOERSモデル
2.平和教育を企画する
3.平和コモンズと平和教育

それぞれのワークの詳細は省きますが、私が感じたことを私自身のファシリテーター修行(?)のために書き留めます。いやホント、修行(練習)せねば…。

 

学びあう共同体づくり/Community Building

発見…だったのは、「傾聴」と「Active listening」の違い(というか、MOMOのワークでは「傾聴」という表現はなく…これまでを思い返しても出てきたことがない気がする)

相手の話に集中して、積極的に聴きましょう!ってことなのだけど(Active listening)、私はこれを「傾聴のワーク」だと思っていた…けど違う!と明確に意識させられました、今回。

二人一組になって、相手の話に関心を持って集中して積極的に聴く(1分ずつ)から始めるわけですが、そこで「アイコンタクト」「うなずき」「(声に出しての)合槌」「体の向きや動作」…と細かく自分の反応に注意を払って意識したとき、ハタと気づいたのが、私自身が「黙ってうなずく」ことと「なるほど~等と声に出して合槌を入れる」こととをあまり区別せずに「あいづち」という表現でまるっと考えていたな…ということ。

それに気づいて、2回目の「聴き役」のとき、意識的に「あぁ、そうなんですね」「なるほど」「たしかに!」等としっかり声に出すことを意識したら、明らかに相手に対する集中力が高まって、よりしっかり聴けている!と実感しました。そしてふりかえりのときにそう伝えたら、相手役の方が「確かに!一度目より声出てました!」とフィードバックをくださったので、これは大事だわ…と確信。

逆に言えば、いままで私のやってた「傾聴」ワークってば…(穴があったら入りたい)

でも、そんなふりかえりを話していたら、「言われてみれば『傾聴』を技術として求められるのはカウンセリングや相談の場で、そこでは聴く側と話す側が明瞭で入れ替わりもないからでは? ここでやった練習は双方向ですよね!」と指摘してもらい、ほんまや! それや! と腑に落ちまくる…。「傾聴」に関して「あなたの話を傾聴しますよという空気感をバシバシに出してくる人苦手…」と感じる現象が起きるのも、そういうことだろうな…。要は「お互いに話をたくさんしよう!」モードで積極的に聴く/話すをしたいのに、相手が一方的に「話を聴きますよ」モードで来たらモヤって当然だ…。

今回、このActiveに聴く、話すのワークを最初に70分ぐらいやったのですが、あとのレクチャーで「場の参加者の関係性によって、どれぐらいここに時間をかけるのかは変わる。必要な分だけ時間をかけないと、学びあう関係性が耕されないので、ここは重要な箇所です」という話があって、なるほどなるほど…でした。メモメモ。

ちなみにMOMOのワークの約束、話し合うときはこちら!
*좋아좋아(いいね!いいね!)
*많이많이(もっともっと/どんどんプラスして!)
*서로서로(おたがい、おたがい/同じぐらい聴こう、話そう)

韓国語だと4音ずつで響きよく、呪文のように唱えられるから、「ちょあちょあ、まにまに、そろそろ…」とこれから何かにつけて唱えようと思うのでした。

それから、ワークのふりかえりで「エンパワーされたのは?」「ディスパワーされたのは?」どんな出来事や態度だったか…と常に問いかけられ続けたことで、自分自身が力づけられるのはどんなときなのか、逆につらくなったり話したくなくなったりするのはどんなときなのかを何度も考えることになり、またそれをシェアしあうことで場としてのエネルギー/人に力を与えるコミュニティなのか、力を奪うコミュニティなのか、それはなぜ? といったことを一緒に考える経験の積み重ねが大切なんだなと実感しました(Community Building!)

「ちがい」…から何を学ぶ?

みんな一人ひとり、同じ顔の人がいないように、考えることも体験もみんな「ちがう」

そんなことはわかっているし、だから「ちがい」を差別に結び付けちゃいけないんでしょ? は、たいていの人が既にわかりきっていることでもある。でも現実には差別がある社会のなかで、「ちがい」が差別に結びつくことはままあることで。

そこを体感的に、オープンマインドで考えるためには仕掛けがいる…と思うから、これまでもさまざまなワークショップが開発されてきて、私もいろんなものを試したり、自分で少し改良を試みたりしてきたわけですが…

今回初めて体験したワーク2つ(「3つの島」と「センターとコーナー」)は、シンプルなのに見事な仕掛け!うわぁ、すごいすごい~と興奮してしまいました。と同時にここで発揮される最初のCommunity Buildingの力! 十分耕された土台があるからこそ成立する突っ込んだ話し合い…実り多いぞ…(これまた自分の仕事の雑さをふりかえって穴があったら入りたい)

「文化」というと踊りとか言語とか食べ物とか、明示的でわかりやすいものに目が向きがちだけれど、実際は説明しづらい習慣的なもの、考え方や気性といったかなり接近して交流しないとわからないことはたくさんあり、衝突やトラブルってその段階で起きるんですよね。「異文化理解」はいい感じで距離をとれているならそれなりに耐えられるし簡単な気がするけれど、自分が慣れ親しんでいて意識もしていない「そういうもんだからね」に侵入されると激しいフラストレーションが起きるから。

そういう状況を疑似的につくり、そこで「自分に何が起きたか?」身体の反応や感情の動きを丁寧に考えてみる……ここでも「どんなことが起きましたか?」「そのとき、力を弱められた人はいますか? あなた自身はどうですか?」「弱まった力をエンパワーすることはできそうですか? どうやって元気づけますか?」と体験と感覚で、全身で考えることをうながされる問いの数々…(普段の頭でっかちさが…。問いって大事だ…)

「ちがい」は個性で、違って当然で、優劣なんてないと言いつつ…
でも「ちがう」とはいえ、私たちには共通点もあるわけで、だから私にとって「この人とはここが同じだ、この人とはここが違うな」という人の集合体が世界。それはどれも正解で間違いはない。なのに、
× 〇〇と〇〇の考え/感じ方は違うね? どっちが正しいかな?…と対立させたり
× この感じ方が絶対だ!と権力者が力を利用して正誤を決めてしまったり
× 中心(正・主流)と 端(誤・傍流)とに人をより分けたり  ……する

特に二分法で分けて、そこに価値づけ/序列化することでヒエラルキーをつくると、分断を加速させてしまう…

わかりみが深かった…

「分ける」ことが必要なこともあるし、そもそも「ちがい」はあるわけで、そこでの区別は(というか特徴を認識する、ぐらいのことは)、世界を認識するために日々必要なことでもある。

でも、必要があって「分ける」とき、その必要って支援の有無だったり、特別な配慮の有無だったりするので、どうしても「支援の要らない/自分でできる〇〇」と「支援の必要な/自分でできない〇〇」という評価と結びつき、自由競争と能力主義の社会のなかで、それはどうしても序列に結びつきやすい……。じゃあどうすれば!は難しいけれど、この「二分法の罠」があることを意識して、あきらめずに抗い続けることが「平和を創る人」になることなんだろうなと。意識もせず、知ったところで「だってしょうがなくね?」と考えるのをあきらめて現状追認すれば、分断は深まるばかり…ですもんね…。

MOMOがいう「平和の感受性」とは、センシティブであることという意味だけでなく、全身を通して「空洞/分断」に気づき、お互いを観察して感じ、感情を読み取り共鳴する、知覚的な力としての感受性なのだと説明されました。だからそれは学ぶだけではだめで、学んだことを実践して「感受性」に落とし込んでいくこと、そのために学びと実践が相互作用的に反復することを狙ってワークショップも組み立てている…とのこと。

「お互いに学びあう」のも、お互いを解放する、自分自身を自由にする「実践」なのだということでした。…そんなワークショップをがっつり受けたら、みんなすごく温かくていい雰囲気になってしまうの、当然ですよね…(これを「仲良くなる」と表現するの、ことばがあってない気がして難しい。別に仲良くはないんだよなぁ…2日程度でわかりあえるわけもないし。でも「平和を創る人になろう」という点でここにいる人たちは仲間で同志で信頼できる!ということは間違いない、そんな空気感です!)

構造的暴力を考える

MOMOのワークショップは根っこに「平和学(byヨハン・ガルトゥング)」があるので、構造を考えるためのワークがいくつかあり、そこが私のお気に入りなのですが、今回も大好きなワークをまた受けました!同じワークなのに、毎回新鮮…すごい。
(ワークショップって、そういう意味で一期一会の生ものなんですよね……楽しい)

過去受けたことがあるワークをふたつ(「マリオネット」「トライアングル」)したのですが、今回はその二つを「比較する」というふりかえり時間があったのが初体験。

「マリオネット」は文字通り操る側と操られる側が役割として明示されるので、序列と権力関係が非常にわかりやすい。そしてボスがいて部下がいて…という「こんな組織あるある!」もある意味わかりやすいのですが、性質の違う「トライアングル」構造を対置することで、権力関係が不明瞭でいっけん個々の自立性が高いように思える構造であっても、やはりある構造が成立して固定的になるとそこで発生する人間疎外、抑圧ってあるんだな……ということがみえてきて、衝撃的でした(詳細は説明しようがないのですが)

「トライアングル」は2017年に体験して2回目でしたが、1回目のときは「そうか、人間が3人以上集まれば社会ができるってこういうことか!」という程度の気づきでしたが(その当時は「それが体感的にわかるなんて!」と感動したのですが)、命令する/されるより、自分で選べるほうがいいよね……とはいえ、自分で選んでいるようで実際には守るべきルールに従ってもいるわけだよな、とか、とはいえそのルールすらなかったらぐちゃぐちゃになってしまうもんな、とか……うまいことバランスが取れて安定してしまうと、今度はそれを守ろうとする心理が必ず出てくるな…という気付きに至って、ちょっと震撼としてしまいました……。

ずっと昔に、ある恩師から「人は一人で生きづらいから自分を守るために組織を作るんだけど、組織ができると組織を守るために個人が疎外され始めるんだよな」と聞かされて以来、なるほど…と心の片隅にいつも置いてあったのだけれど、まさにそれだぁ…

人間は社会的動物で、社会と無関係に生きられない。どんな社会問題とも、私はつながっている。だからどうする? がMOMOが発信し続けている問いなんだなぁと思いました。

構造的暴力といえばこちらですよね。
最後にこの図で「では、平和とは何か?」という話をしてもらったのですが、

ガルトゥングのいう「積極的平和」と「消極的平和」のこのモデル自体は知っていて、納得もしているつもりだったのですが、それを「プラス平和」「マイナス平和」と言い換える説明でさらに腑に落ちたと言いましょうか…

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消極的平和とは、「戦争や武力紛争がない状態」という意味で、いわば「暴力を取り除いたら平和になった」、何かをマイナスすることで成立する平和ということになると。もちろん暴力は取り除くべきだけれど、たとえば「異論をマイナス(排除)すれば言い合いにならなくて平穏だから」とか「この町の常識を知らない部外者をマイナス(排除)すれば町の平穏は保たれるから」とかいったふうに、何かをマイナスしてマイナスして…いった先で、平和な社会は広がるだろうか?と考えると、小さなコミュニティの平和は(いっけん)守られるかもしれないけれど、常に排他的、排除的に内向きに縮んでいくばかりでは? と(まさに消極的平和…)。

そこで積極的平和のほうを「プラス平和」と定義して、何かをプラスしていく…「新しい仲間をプラスして(出迎えて)、新しいつきあい方を創造する(プラスする)」「自分から遠いところで起きている問題について知識をプラスして思いを馳せ、自分にできることを考える時間を増やす(プラスする)」といったふうに考える、プラスしていくことによって、人権が守られ、コミュニケーションの豊かな社会を創造していこう…と考えている、と説明されて、よりいっそう深く腑に落ちたという……。

例にも出されていたれど、いまならパレスチナの人たちのことを「知る・考える」時間をプラスすること、こうしてワークショップに参加して経験を増やすこと、知らない人と知り合って、対話を通して異なる考え方やアイデアを自分になかにプラスしていくこと……と、平和のために具体的に何をプラスしていこうかと考えていくことができるなぁと思いました。そして逆に、表面的な「平和」を守るために「この人さえいなければ」のマイナス志向に陥りそうなとき、「いかん、これではマイナス平和だ!」と気づくためにも有効な気がします(マイナス志向の罠…も、あるある)

PeaceペタゴジーとDOERSモデル

Peace ペタゴジーというのは、MOMOの教育哲学で
Participatory:参与的
Exchange:対話的
Artistic-Cultyral:文化芸術的
Critical-Creative:批判創造的
Estranging:慣れずに行うこと

DOERSモデルは、そんなMOMOがプログラム作りをする際の要素
Do:活動
Observe:観察
Exchange:対話
Reflect:省察
Synthesis:総合的省察

2日間、私たちはDOERSを何度も繰り返したんだなと、やったからこそ腑に落ちる解説。ちなみに、Exchangeって「交換」という訳語が私は先に出てくるので、「対話だったらDialogじゃないのかな?と思ったんですが」と質問したら、英語の原義でいくと「logos(論理)」を交わすということで、合理的論理的な意見交換みたいなイメージなるので、そうじゃなく感じたことや考えたことを合理性やら論理的かどうかやらにこだわらずに交流したいイメージだったから、Exchangeにしたんだ…というお話…なるほど。ことばって大事です(ちなみに私の浅い知識と体験ですが、韓国語で「대화(対話)」は日本語の会話・雑談までまるっと包摂して使われている感じがします。日本語だと「会話」のほうでカバーしている範囲を、韓国語では「対話(대화)」でカバーしているイメージ)

「文化芸術的であること」…は、「遊びをせんとや生まれけむ」な人間だから、楽しくなければダメ!という(笑) 実際、ファシリテーターのアヨンさんは終始いたずらっ子な雰囲気で、「わぁ!」「わお!」「それでそれで?」と全身で場にいる人たち全員に、場で起きることすべてに好奇心全開でワクワクしている、まさにEstrangingでした…。

 

これは偶然だけれど、この3月30日がJ-hopeのアルバム「HOPE on The Street」発売日で、タイトル曲が「NEURON」神経細胞

NEURON, it responds to my mind
NEURON, it responds to my life
New Run, 다시 나를 위한 time
내 신경을 곤두세워, 그때의 나처럼 dive
내 몸은 자유형, still freestyle
세월 넘는 나의 영혼, a whole new type
So 뿌리 깊은 나무, 샘이 깊은 물
그 의미가 바로, 날 깨웠던 세포니깐
I’ll tell you again We’ll never ever give up, forever
I’ll say it again We’ll always be alive to move us

・・・・

주어진 수십 가지 motivation
세포와 세포 사이에 이어진 연결고리에서
사는 이유와 의미를 촘촘히 조립해서
세상에 번개 딜리버리 공의 비거리가
짧든지 길든지는 그들이 선택할 몫
이제는 폭탄을 품지 않아
크루에게 공을 돌리고
주말엔 닮은 꼴 아들과 캐치볼

・・・・

J-hope with Gaeko yoonmirae 

全身からダンスと音楽を生み出すホビらしい曲! 上で抜き出した部分の訳…

ニューロン、それは僕の人生に答える
新しい走り、ふたたび僕のための時間
神経をとがらせ、あの時の僕のように飛び込むんだ
僕の体は自由な形、依然として自由だ
歳月を超える僕の魂魄、まったく新しい型
だから根の深い木のように、深い泉の水のように
その意味がまさに、僕を目覚めさせた細胞だから
もう一度言おう
僕らは決してあきらめない、永遠に
もう一度言うよ
僕らはずっと動き続ける
・・・・
与えられた数多くのモチベーション
細胞と細胞の間に張り巡らされたつながりから
生きる理由と意味を緻密に組み立てて
世界へ稲妻デリバリー、ボールの飛距離が
短いか長いかは彼らの選択にゆだねられて
もう爆弾は抱え込まないよ
クルーにボールを回して
週末には似た者同士の息子とキャッチボール

・・・・

 

私も自分自身のニューロンをしっかり伸ばして、世界の人たちとつながって、ずっと動き続けていたいな(多動なだけ?)

偶然だけど、なんか今の気分にぴったりなものを届けてもらった気がして、沼はさらに深まってしまうのでした。はははは(「稲妻」出てきたわ!と参加した人にだけわかるかと思いますが、偶然ってすごいな 笑)

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