わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

問いを立てること。それも「適切な問い」を。

いつのまにか3月。

時間があるような、ないような。

でも、年度末ということで、自動的に「1年の棚卸をして次年度に備えよ」スイッチが入ったりなんかする(ホントに? 笑)

 

久しぶりにワークショップ型の研修をしたり、あれこれ学習会に出てinputがきたり、もあって考えたことを備忘録的に。

まず、友だちから紹介された記事で

【30歩目】場づくりに関する3つの誤解 | 認定NPO法人アカツキ

おお・・・耳が痛いぞ(苦笑)と思いつつ、すごく納得もした。

「3つの誤解」とは

1)ワールドカフェは対話の促進にはならない
2)グラレコは議論の可視化ではない
3)ファシリテーションは仲良しの技術ではない

何が誤解なのかは、上記出典記事を読んでいただければ。

対話とは

「ワールドカフェ」というのは、3~4人でテーブルを囲んで話すような感じで参加者を分けて、数分テーマトークをしたらそのうちの何人かが次のテーブルに移り、また数分したら移り・・・とやることで、いろんな人と意見交流ができるという手法です。

私も使うけれど、これで対話ができるとは全然思わないので、「対話を深める」目的ですることはない。私が「ワールドカフェ」を使おうと思うのは、①参加者が対話に不慣れ ②どうせ意見なんて、大差ないでしょ。と思っている参加者が多い ときです。わざと、いろんな意見(感覚)が出そうなネタで、「人が話しているときは話し終わるまでしっかり聴きましょうねー」と聴く練習をすることを兼ねて、やってもらう。ワークショップとか哲学カフェとかに慣れている人や、ふだんから人と真面目に意見交換する機会が多い人(会議とか公式の場ではなく、雑談レベルで)には余計なステップかもしれないのですが、そうでない人は案外「おお、こんな意見もあるのか」「え、こんな考えもあるのか、意外・・・」「自分の意見とか考えたこと(言ったこと)なかったけど、ことばにするとこういうことか」と新鮮に驚いたりする、このステップがないとワークショップって何するの?の入り口でつまづくからやる、という感じ。
(でも、言われてみれば最近めったにやらなくなってる・・・と思ったところ)

 

そもそも、「対話」とはどういうものを指すのだろう? という問いがまず必要なのだろうなと思う。ワークショップの場って、何か課題解決的なことを考えることが求められているとは思うけど、「〇〇のために対話しましょう」という、その「対話」とは何なのかの共通認識が参加者になければ成立しない。なのに、そこをすっ飛ばして、「対話しましょう」ってやってしまうから、ワールドカフェで対話したつもりにだけなってしまって誤解が起きるんじゃないかな。

前々から思っているのだけど、

日本では「対話」と「会話(単におしゃべり)」が区別されていないし、

「討論(現時点での到達点を確認して結論を出すための議論)」と「ディベート(言語試合。ゲーム)」もごっちゃにしている人が異様に多い。討論は勝ち負けじゃないのに、勝ち負けを持ち込んで勝てば官軍!みたいなノリの政治家、ホントにウザい(という話は、いまは関係ないので置いときますが)

かつ、「コミュニケーション力」が大事と言いながら、要求されているのは発信力・プレゼン力だったりして、ややこしい。みんなが発信ばっかりしてどうするのよ・・・と思う。文脈理解の力が育ってないところに発信ばかり流し込まれたら、情報におぼれて傷つくだけだよ・・・。

だから、私自身はワークショップを「対話」の場にするためには、まず徹底して「聴く」ことを身体的にやってみて、こういう構えで、こういう姿勢で相手に向かうことなんだなと理解してもらうステップがいると思っている。

話し半分で「あー、わかるわかる!」と勝手に同感の輪に入れてしまうとか

相手は答えてないのに「しっかりしゃべったからわかってもらえてる(はず)」と思い込んでしまうとか

そういうことをやらかしている自分に気づいて、やらかさないように、ワークショップの数時間の間意識するだけでも、その人にとってはだいぶ違うと思う。

そして、そうすることで「自分は意見を言うのが苦手だと思っていたけれど、聴いてくれる人がいれば言えるんだな」と気づいてほしい。ちゃんと聴いてもらえる経験をしたことがない人が多すぎるからだ。

グラレコ(グラフィックレコーディング)などの技術も、自分の考えや他人の考えをふりかえったり、話の流れを可視化したりすることによって、「対話」促進に役立ててこそ意味がある。

私はグループで模造紙や付箋を使いながら、アイデアや意見を可視化しつつ意見交流するという、よくワークショップで見かける手法を最初に体験したとき、「なんて話しやすくなるんだ!」と驚愕した。昔からメモ魔の自覚はあって、会議でも何でも走り書きしながらいているのが常だったけど、それは私が聴覚情報をとらえるのが苦手で、視覚的に落としておかないと話についていけないから無意識に選択していた行動だったんだなと最近になって気づいた(笑)そういう手法で話し合うことに慣れると、ただただ音声ことばが飛び交うだけの会議の場とか、しんどくてたまらず・・・。

「対話」は結論を出さねばならないものではなく、とにかく相手の話をよく聴いて、自分の考えも丁寧に言語化して、なんなら対立の輪郭がくっきりしていけばいいのだ。同意を取るためにやらなくていい。同意や共感が生まれるのもいいけど、それを得ることが目的化すると対話ではなくなる(それは「交渉」だ)

あくまでも「私はこう思う、こう考える」それと同様に、他の人にもそれぞれに思いや考えがあって、自分と同じ思いの人を見つけたいとか、自分の意見に賛成してほしいとかいうのは、自分自身の願いであり課題であって、それに応じるかどうかは相手の自由で強制なんてできない。そういう「自己と他者の区別」も大切だと思う。

「適切な問い」とは

あるできごとに直接的にかかわっている人のこと、を指すのが「当事者」ということばの本来の意味だ。だから、「被差別当事者」というように、ある差別の問題について、被害に遭いやすい属性の人を指して「当事者」と呼ぶことは別に間違ってはいない。

ただ、さいきんつとに、「当事者とはだれのことか?」の問いに引っかかる(私が)。

被差別者は、「差別に遭う」から被差別なわけで、「差別に遭わせるやつら/社会のあり方」がなければ被差別にはならない。その意味では、被差別者以外の人たちもけっきょくは「当事者」だ。当事者でない人なんてだれもいない。社会問題なのだから当然なんだけど、案外そういう理解が浸透していないから困る。

「人権問題を自分事に」とも言われるけれど、そもそも人権はだれにでもあるのに、なぜわざわざ「自分事に」と言わないといけないのか。なぜ他人事になってしまうのか。

今日も少し人と話していて、「適切な問いを立てなければいけない」という話を聞いた。なるほどなぁと思う(そして忘れないうちにと思ってこれを書き始めた)

韓国語のことわざに「시작이 반이다(シジャギパニダ)」というのがあるのですが、まさに「最初に適切な問いさえ立てられたら、半分以上理解できたようなもの」だよな・・・(시작이 반이다は、「始められれば半分できたようなもの」という意味。何かを始めることがもっともエネルギーが必要で、始めて走りだせばもう半分到達したようなもんだよね・・・って話。わかりみが深い)

 

差別の問題を考えようとするときに、「〇〇はなぜ差別されるのか?」という問いから始める人は多い気がするけど、この問いは非常に筋が悪い。こんな問いを立てても何もわからない。だって差別される側に原因も理由もないからだ。

「その問いは筋が悪いよ」となると、今度は「なぜ、○○を差別するのか?」という問いを立てる人が出てくるけど、こういうとき、だいたい差別の問題を考えたい人は自分は差別していないと思っているから、主語が自分ではない。主語のボンヤリした問いは、やっぱり問いとしては筋が悪い。ヘイトスピーチを自覚的にやり続けているようなレイシストを主語にして問うても、そのレイシストの心の闇を掘り返すだけで、それが知りたいことなのか?と立ち止まって考えるに、なんか違う気がする・・・よね?と思う。そもそも、他人を主語にして問いを立てている限り、自分事にはならないだろうし。

問題を社会の課題としてとらえる、問題構造を解き明かそうとする、そのために必要な、適切な問いを一生懸命考えてみる・・・と、これが案外難しいことに気づく。

私が、この数年、いいなと思って最初に学生に提示しているのは

「差別はよくないことだと多くの人が考えているのに差別がなくならないのはなぜか」

もちろん、あなたも「差別はよくない」「自分は差別したくない」と思ってるよね? なのに、差別がなくならないのはなぜ? レイシストがいるから? ではなぜレイシストが生まれるのか? ところで、あなたが「差別」と考えているものってどういうものなのかな? ・・・と考え始めると「そんなのあたりまえじゃん」と考えずにスルーしていることが案外多いんだなと気づく。なぜ「差別はよくない」のか。「差別がなくなる」とはどういう状態なのか。説明もできないしイメージもついていない。なのに「差別が良くないなんてわかりきったこと、なんで授業でいまさら・・・」と思っている矛盾。

 

そこに気づくためには、他者との対話とともに、自分自身と深く向き合う対話も不可欠だと思う。他者との対話にしても、自分と似たような階層や属性、世代の人とではなく、異なる階層、属性、世代の、自分とはまったく異なる体験を生きている他者と対話することが重要だ。「え、そんなことあるのか?」とにわかに信じられないぐらい「ちがう」世界観にぶち当たることは必要不可欠。多様性を知るというのはそういうことで、楽しいだけではない、自分の信じていたものが破壊されて混乱する経験でもあるはずだから、気力もいるし体力もいる。

そしてそこで、自分のものさしからはみ出る相手を主語にして「こんなにはみ出しているのは変だ」とか「こんな事態に陥るのはこの人に何か欠点やつまづきがあったに違いない」結論付けるための問いを立ててしまったら、異なる世界観で生きている他者を理解することは永遠にできなくなる。

「この人と自分とで、社会の見え方が異なるのはなぜだろう」

「知識や体験の、共通点と相違点はどこにあるのだろう」

「なにが、どこで、世界観を分けてしまうのだろう」

「私はなぜ、この人が見ている世界を知らずに今まで生きてきたのだろう?」

・・・と、どこかに「自分を問う」問いかけが入っていることが大事なんじゃないだろうかと思う。

 

適切な問い・・・って難しいけれど。

でも、対話の技術:「私」を主語に、私の意見は私のもの、他者の意見はその人のもの、「わからない」ことを前提に丁寧に聴く、知ろうとする態度で臨むこと、自他を区別し、自分の課題は自分が引き受けること・・・が、適切な問い探しの道しるべでもあるのかなぁ。

 

という、まとまらないけれど、大事なことなので備忘。