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社会問題というけれどー映画『私のはなし、部落のはなし』

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観ました。3時間の長尺に耐えられるだろうか、私・・・というのは杞憂に終わり。

あっという間に3時間終わってしまった。「はなし」を聞き足りない気持ち。

 

インターネット上には、実際に観たのかどうかもわからない(おそらく観ていないし、観たんだとしたら、よほど映画鑑賞リテラシーがないのだろうと思われる)人たちの「そうやって話題にするから」云々の差別言辞があふれかえっていてげんなりさせられるけれど、それこそ、この映画が凌駕しようとする差別の現実。

 

けっきょく「寝た子を起こすな」論にしても「差別を主張して利権を得ている」論(NewRacism)にしても、世間に差別意識が蔓延しているから、その一言だけで何となく「そうだよねぇ」と同意する人を簡単に増やすパワーを持っている。だから、それに対抗するためには、個人個人のリアリティをもって「延々と話す」ことが必要になる。一言だけで「なるほどねぇ」と納得してくれるほど、世間の人は部落問題を知らないから説明は長くなるし、差別に対する思いだって一言では済まない(憤りもあれば虚しさもあれば寂しさもあれば、もはやアホらしすぎて笑っちゃう面だってある)から、どうしても「はなし」は長くなり、終わらない。なんでもかんでも「短く簡潔であること」が良いことのように思われている現代社会、社会運動の冗長さや面倒くささはなんだか不利な気もする。それでも、延々と話すことでしか魅力は伝わらない。

 

私がいいなと思ったのは、個人へのインタビューが延々続く…わけではなく、同じ地域の同世代の仲間、親子、ママ友、かつての同級生・・・といった人たちが、輪になっておしゃべりしているのを撮っているというスタイルだった。特に、京都で古い記録映画フィルムが復元され、それを観ながらしゃべっているおっちゃんたちの様子は、私自身がかつて学生時代に、被差別部落(以下、ふだんのことば遣いに従って「ムラ」と表記)で行事ごとを手伝う作業なんかをしながら、聞くともなしに聞いていたムラの大人たちのおしゃべりを思い出させるもので、懐かしく、楽しかった。同じ京都の、80代の女性の結婚を巡るエピソードや、嫁いできたムラでの行政闘争の折の、夫に「何で行くんや」と文句を言われながらも「うちは行くで!」「楽しかった。わからんことがわかっていくからな…」というエピソードなど、部落差別とともに女性差別の抑圧も感じさせるものでありつつ、「楽しかった」とほんとうに楽しそうに話す姿がチャーミングだった。そして、こういう話を、聞くともなしにたくさん聞かせてもらった、そういう時間があったことがいまの私をつくっているなと、唐突に理解したのだった。

 

いま、人権問題を「教える」仕事を請け負っていて、常に伝えきれないもどかしさにさいなまれる、その原因もこれだな、と唐突に腑に落ちたのだった。

 

私はずっと、自分の説明の下手くそさだとか、提示する資料の選び方の良し悪しだとか、そういうことに気を取られていたけれど、そういうことではないかもしれない。

(いや、そういう原因もあるはずだけど…)

差別の問題は社会問題だから、「差別とは何か」「なぜ発生するのか」「差別を生み出す構造とは何か」といった知識は理解のために必要だし、だから「教える」仕事に需要もあるのだけれど、そこで伝えることができる知識とは異質の、この映画のような「膨大な『私のはなし』」によってしか伝わらない、腑に落ちない「部落のはなし」があるのだと思う。

 

もうずっと以前に、「数十年生きて考えてきて到達しているところを目標にしてたら、初学の若い人がそこに至らないのはあたりまえだよ」と恩師に諫められたことがある。そのとおりだ…と思いつつ、学生時代の私の到達点? はいまさら正確に思い出せないという現実(苦笑) 思い出せたところで、社会情勢も差別の実態も変わってきているし、同列にはしづらい。

でも、そこでいう「到達点」にしても、知識であればある程度整理してスモールステップを組むことができ、説明もできそうだけれど、「はなし」に負う部分はそういう説明になじまない気がする。そして、私が常に感じてしまうもどかしさは、知識というより、その部分にあるような気がした。

あー、なるほど。と自分では腑に落ちてスッキリ!という気分もあるけれど、問題はさっぱり解決しない。アカンやん(笑)

 

3時間の長尺は、必要不可欠な長尺で、けっして長くない。

だからひるまずに、多くの人が観るとよいとほんとうに思う。

 

もう一つ、映画の中で確信的に差別する人物が2名出てきて、その「はなし」も語られる。特に一方は21世紀になってネット上で「部落地名総監」を復活させようとして訴えられているMである。「なんであんな奴の話まで聞かされなアカンねん…」と感じる人もいて当然で、実際、私も「こいつだけは(怒)」と苛立った。ヘラヘラとしゃべっている、手前勝手な「見解」の気味悪さにも震えがきた。

でも、映画全体をふりかえると、ムラの人たちの膨大な「はなし」のなかにそれが入ることで、Mの空虚さが際立ったように思う。みんな、ムラで生きてきた日々の暮らし、人間の悩みや葛藤、おもしろさについて語っているのに、Mの話には人間がいない。暮らしもない。ただ、部外者が風景として見る「土地」があるだけだ。おそらくMの脳内では、そういう空虚な「土地」に、さも何かの意味があるように語り続ける人がいるから「部落問題」という意味が生まれて差別が起きるのだという解釈が成立しているのだろうと理解した(つまり、ムラの人びとが問題をつくり解決を騒ぐ、マッチポンプだというのがMの主張。「机上の空論」を絵に描いたような…)。でも、そうではない。その「土地」に生きてきた人びとの暮らしがあり、そこで泣いたり笑ったりしながら、差別のある社会をサバイブしてきた生きざまがある、そういう生々しさが「ムラ」なのだ。人がいない「土地」のことを、私たちは語っているのではない。そして、そういう人びとになにかしら名まえをつけ、理由をつくっては差別してきた「周囲の眼差し」が「部落問題」だ。そこにも人がいる。

 

部落差別を理解するためには、ムラの人たちを悩ませてきた「周囲の眼差し」に気づき、理解する必要がある。ムラの人たちは、毎日の生活を淡々と生き抜いているだけで、他の人と何も変わらない。それを、ある時は職業にまつわる貴賤意識、ある時は歴史(先祖)、ある時は土地(地域の雰囲気・文化)と、恣意的に、勝手気ままに理由を作り出し「眼差し」て差別の対象にしてきたのは、まわりの人間たちだ。そうやって恣意的に生み出される「理由」に対抗して、職業で差別するなら「この仕事がなかったら、あなたの口に肉は入らないよ?」あるいは「祭りの太鼓がなくなるよ?」「庭の手入れをするひとがいなくなるよ?」等々と語り、先祖を持ち出されたら「渋染一揆」や「解体新書」「竜安寺の石庭」等の話をし、地域の雰囲気をうんぬんされたら、環境改善をし、近隣地域への啓発活動に励み・・・等々と、ムラの人たちはその都度努力してきた。結果、それぞれに関する無理解は多少減り、職業に対する貴賤意識も変化し、地域環境は周辺と何も差がないぐらい整備されてきたから「昔ほどひどい差別はない」状態にはなっている。その状態をつくってきたのは、他でもないムラの人たちだ。

そして腹立たしいことだけれど、差別する側は恣意的に理由を作り出す。だから、一つ理由がなくなれば次の理由を作り出すだけだ。いわく「ずいぶん差別はなくなって、環境も良くなったのに、まだ何か要求するなんて図々しい」という類のNewRacism。Mの説だって、要はその類だ。他人の努力を土足で踏みにじる傲慢さ。それに気づかず、「それも一つの考え方ですよね」とか言い出してしまう、その時点で、あなたは日本社会の差別構造に絡めとられて、構造が見えなくなっているんだよ? ・・・ということにまず気づいて、絡めとられたままでいいのか?と自問することから、部落問題の自分事化がやっと始まるのだろうと思う。

 

・・・と、最後は理屈っぽく書いてしまったけれど(笑)

私は、私が出会ってきたムラの人たちが大好きだ。たまにキャラが濃すぎて「ど、どないしよ・・・」と戸惑わされてきたりもしたけれど、それもこれも私にとっては大事な出会いだった。私にとっての部落問題は、そういう一人ひとりの人間の顔をした問題で、何を説明していても、抽象的な理屈になっていても、そこには常に、具体的な誰かの顔が浮かんでいる。顔が浮かばない人に、そのことを説明するのは難しい。共有するイメージがないところで、どう問題を伝えていくかは、私の課題として残るけれど、

この映画を通じて、魅力的な人たちの「はなし」に多くの人が出会ってほしい。

です!