わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

水平社宣言100年の日に

ウクライナ情勢を傍らに・・・

ロシアのやっていることと、それに対する世界の反応に、
歴史的既視感を覚えつつ三一節を迎えた2022年。

(1930年代、満州事変からのリットン調査団国際連盟脱退・・・既視感)

 

三一独立運動は1919年

水平社宣言・全国水平社創設は1922年

 

「宣言書」を噛みしめる

 ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである。過去のすべての歴史のなかで、磨かれ、大切に育てられてきた人間を大切にする精神は、まさに新しい文明の希望の光として、人類の歴史を照らすことになる。

 新しい春が世界にめぐってきたのであり、すべてのものがよみがえるのである。酷く寒いなかで、息もせずに土の中に閉じこもるという時期もあるが、再び暖かな春風が、お互いをつなげていく時期がくることもある。いま、世の中は再び、そうした時代を開きつつある。

 そのような世界の変化の動きに合わせて進んでいこうとしているわたしたちは、そうであるからこそ、ためらうことなく自由のための権利を守り、生きる楽しみを受け入れよう。そして、われわれがすでにもっている、知恵や工夫の力を発揮して、広い世界にわたしたちの優れた民族的な個性を花開かせよう。

 わたしたちはここに奮い立つ。良心はわれわれとともに進んでいる。老人も若者も男も女も、暗い気持ちを捨てて、この世の中に生きているすべてのものとともに、喜びを再びよみがえらせそう。

 先祖たちの魂はわたしたちのことを密かに助けてくれているし、全世界の動きはわたしたちを外側で守っている。実行することはもうすでに成功なのである。わたしたちは、ただひたすら前に見える光に向かって、進むだけでよいのである。

3・1運動の「宣言書」の現代日本語訳の意義・東アジアの平和、人権、民主宣言~外村大・東京大学大学院教授による解説 | IWJ Independent Web Journal から引用しました

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独立紀念館にあるモニュメント。大好き。

圧倒的な軍事力を背景に朝鮮半島を植民地化した日本。

1910年の「併合」以後、日常的にもあからさまに暴力で威圧し支配する、そういう社会で、「武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである」と宣言する凄み。

 

そんな非暴力の闘いは、暴力によって潰され、黙らされていくわけだけれど(それでも「鎮圧」には半年近くかかったわけで、朝鮮民衆の力には尊敬しかない・・・)、こんなふうに「宣言」として言語化され、それが口の端に上り、広く共有されていったことが、後々の独立運動民主化運動にどれほどの力を与えてきたのか、とつくづく思う。

 

「水平社宣言」を噛みしめる

その3年後。京都で読み上げられたのが水平社宣言。

日本で初めての人権宣言。

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全国水平社綱領・宣言|部落解放同盟中央本部 (bll.gr.jp) より

  全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。
 長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の爲めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

 

はじめてきちんと読んだのは、大学生のときだった。痺れた。

(いまとなっては「男らしき」はいらんやろーマッチョやなーと、時代の限界的なものも感じはするけど・・・)

これの何がすごいのかは、明治になって以後の部落差別とその「改善」と銘打たれた施策や取り組みの歴史を知らないと、わからないかもしれない。

いまもなお、まったくもって古びないのは、

これが「被差別者の側から権利を訴えた宣言」だからだ。

100年経っても相変わらず部落差別は厳しいし、他にも差別の問題はたくさん溢れていて・・・という意味で古びていないのは悲しいことだけれど、

差別の問題を考えるときの原則、真理がここにあることを噛みしめたい。

 

差別される人がかわいそう・気の毒だから助けてやろう、とか

差別されるのは、その人たちの立ち居振る舞いや教養のなさ、経済力のなさが悪いのだ。悔しかったら自らを改善しろ、とか

そういう考えの「部落改善運動」「融和運動」をキッパリと拒否し

「人間だから、差別されてはならないのだ。人間だから権利があるのだ」と言い切ったことに意味がある。

同情や温情ではなく、差別は差別だから許されないのだ

われわれは、われわれだから、素晴らしいし誇らしいのだ

100年前に、そう言い切って立ち上がった人たちを、私は尊敬している

 

いまも、差別は差別される側にも原因があるんだと言いたがる人や、
(差別する側の原因を考えたくないゆえの詭弁だと私は思うけど)

差別は「自分より下がいる」と安心したい人間の本性でしょうがないという人や、
(・・・そんなふうに人間関係を上下関係でしかとらえられないのって、まさに人間が文明の中で作り出した悪しき競争主義のなれの果てではないのかなと私は思うけど)

反対したところで差別はなくならないから徒労だという人や
(いや、あなたの人権がまかりなりにも一定程度守られているのは、その徒労を厭わずに闘った人のおかげなのにタダ乗りしといてよく言うよ・・・と思うけど)

水平社宣言が敢然と拒否した態度、言動はいまも溢れている。

むしろ現代の方がより強固に、人の心をとらえているかもしれない。

 

闘ったこともない人に「徒労じゃん?」とか言われるのは本当に腹が立つ。

 

徒手空拳かもしれないけれど、できるときにできることを、なんとか考えてやってきて、私は30年ぐらい生きてきた。これからも生きていく。

水平社運動・部落解放運動は100年やってきた。100年やって諦めていない人たちがいるのに、諦めてどうするんだよ。ねぇ?

世界では相変わらず、

暴力で問題を解決しようとする人たちが後を絶たないし、

差別も厳しいけれど、

それでも、少しずつマシになってはいるし、

ともに闘う人たちがいる

 

先祖たちの魂はわたしたちのことを密かに助けてくれているし、

全世界の動きはわたしたちを外側で守っている。

実行することはもうすでに成功なのである。

わたしたちは、ただひたすら前に見える光に向かって、

進むだけでよいのである。

 

人の世に熱あれ。

人間に光あれ。