わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

(2014から引っ越し)転載:大阪の在日朝鮮人教育(1972年のレポート)

この文章は、1972年に市川正昭(当時・鶴見橋中学校教諭)さんが書き、東京の雑誌(林克行さん)にあてて送られ、結局日の目を見なかったもの…らしいです。(ネットで今見つけましたが、消えると嫌なので、こちらにコピーしました)   *以下、1972年に書かれたもの

Ⅰ.はじめに   編集部からの依頼にどう応えるか。

私は大分迷ったのち、原稿にむかった。今日の問題について証言し、主張するにしても、私自身の過去から体験してきた事実にもとづいて書くことにしようと考えた。 私は1954年9月から1961年8月まで、大阪市立西今里中学校(東成区)に勤務した。この学校の諸問題については、日教組教研集会にも報告したし、それらをふくめて大分大学教育学部研究紀要に坂本清泉氏が正確な報告を発表しておられる(第3巻2・4・5号。第4巻1号)。私はこの学校で、朝鮮戦争直後の民族教育運動、民戦から朝総連への路線転換、朝鮮民主主義人民共和国からの教育費援助、帰国運動、市立校から自主学校への移管という「歴史」を体験した。この間、学校には共和国旗が掲げられ、金日成首相と祖国のために尽くそうとする生徒が育っていった。 私は昨年4月から現任校(西成区)に移った。ここは全校下が同和地区指定を受けており、在日朝鮮人生徒は18%である。私は毎日、この子らとともに暮らしている。 私のレポートは結局、この間の自分の体験という限界内のものとなるだろう。私がつねずね敬意を抱いている他の学校や地域の実践や問題意識によるレポートの方がはるかに今日的なものになるのにとも考えながら、主として大阪市内での実例に沿って、これをまとめることにした。 レポート作成に立ち向かう私をとらえてはなさぬ思いは次の2点である。 第2次大戦での日本帝国主義の敗北から、今日の経済大国まで、さまざまな変化があったけれども、在日朝鮮人に対する日本政府の政策は、基本的に敵視・同化であったということである。そこには諸民族の平等互恵の精神は全く見られず、植民地支配者意識を払拭できず、ことあるごとに差別と偏見の国民感情を利用してきた。そのような日本国家の中にいる自己を発見するときの抑えがたい怒りがその一つである。 同時に、こうした敵視・同化政策とたたかう在日朝鮮人の諸運動との連帯・友好の存在を認めたうえでなお生まれてくる日本人側の責任で推進されねばならない、今日の排外主義的国家とのたたかいの現状へのいらだちである。「無関心」「無感覚」状況が多くの教育労働者をとらえていることの事実を認めるときのいらだちは、直接私自身を悩ましつづけている。  

Ⅱ.在日朝鮮人子弟が公立義務教育学校に 在籍することの意味  

1.西今里中学校の歴史の中から  
1948年の“阪神朝鮮人学校事件”につづく、翌49年の「朝鮮人学校閉鎖令」によって、大阪の自主的民族教育運動は大打撃を受け、児童・生徒は、日本の公立学校に分散して転入学を余儀なくされた。そして朝鮮戦争。この1950年7月にどうして共和国を支持する人々の子弟が通う西今里(公立朝鮮人)中学校が大阪市に開校されたのだろうか。私は、在阪朝鮮人の民族教育に対する切実な要求とねばり強い運動が基本的要因と考えるが、同時に、「朝鮮人生徒を公立中学校へ分散入学させて教育することによって起こる数々の問題やトラブルを考え合わせたならば、“安全弁”的役割としてでも西今里で集団教育することが得策だという教育委員会側の判断がはたらいたもの」とも考えてきた。 「閉鎖・分散入学」という暴挙は、アメリカ占領軍の弾圧と強制によって、大阪でとくに徹底して実施された(府下朝鮮人学校39校が全面的に閉鎖され、10075名の児童生徒が“日本の学校”に強制的に入学させられたという)。このことは、西今里中学校をふくむ大阪の公立学校では、この時点から、朝鮮人子弟に対する同化教育との闘争が、日本の教育労働者の責任において系統的・意図的にすすめられねばならぬ特別な事情があったことが、今日からみれば明らかである。しかし実情はまるっきり違っており、不幸な路をたどっていたのだ。「閉鎖・分散入学」に対する朝鮮人側の抵抗闘争は各地で激しく闘われ、一定の成果をあげていた。兵庫・愛知・広島などでは自主学校を守り抜き、東京では都立校(16校)として運営されるようになっていた。だが、大阪の闘いについては、李東準氏の言うように「一部の指導者が民族教育を守る朝鮮人大衆の闘いをおさえつけ・・日本の学校民主化するために、そして朝鮮人と日本人が手をつないで仲良くするために、朝鮮人の子どもを日本人の学校へ入れなければならないと考えていた。学校を守る大衆の闘いは犠牲者を出すだけ無駄だと考えていた」(「日本にいる朝鮮の子ども」1956年5月)というもう一つの事情があったのだ。 「閉鎖・やむなく分散入学」という実態が大阪では“一部の朝鮮人指導者”によって、「閉鎖・積極的分散入学」という方向に歪められたというのは、李東準氏の配慮ある表現だと思う。当時の在日朝鮮人運動(朝連―民戦時代)は主として日本共産党の影響を受け、その指導者や活動家の多くが入党していた事実から判断して、この方針は、少なくとも大阪の党の方針であり、党中央もかかわったものと推定しないわけにゆかぬ。 生野・東成区には、在籍率が30%以上の学校が数多くある。一時は50%を超える小学校が2校あった(現在1校)。こうした異常なほどの高在籍率の意味を考える場合に、一般的な理由だけでなくこうした歴史的な闘いの中身をも合わせて考えねばならぬ。「同化教育との闘い」が日本人教育労働者の重要な課題として自覚されてきた今日、あらためて、当時の民族教育防衛闘争における日本人側の責任について考える必要がある。  
2.日韓条約・法的地位協定以後  
1949年以降の“分散入学”の中身とは何であったのか。サンフランシスコ条約にともなう文部省通達は「引き続き就学の便宜を図る」(1953年)である。だから、日本国民の子弟が学校教育を受ける“権利”をもち、国・自治体は就学させる“義務”があるのと全く異なる。「入学させてあげる」ということになる。大阪では、学校ごとに誓約書をとったり、日本人より多額の寄付金をとったりしたケースがめずらしくない。そうして非行問題などで除籍(退学)させられる場合、長欠生として放置される場合もかなりあった。府立高校でも入試の際に点数による差別を平然と行い、かなりの私学がシャットアウトしてきた。 民族教育運動が、共和国からの教育費援助もあって急速に発展し、さらに共和国への帰国が実現したことは、こうした状況の中では絶大な希望を関係者にもたらすものであった。今はもう「昔の話」といわれる後述の“朝問教”の活動はこの時期のものである。 だが、私たちは、今日振り返ってみて、当時の運動の中にある情勢判断の甘さや誤りにふれないわけにはいかない。 第1に、共和国からの教育費援助-自主学校の急速な整備・量的増大-帰国の実現といった好条件が、公立学校に在籍する朝鮮人子弟の数を激減させ、問題の“解決”が可能であったかということについてである。公立学校の朝鮮人子弟は確かに「余儀なく」在籍させられたものである。だが、だからといって「日本人教師の任務は朝鮮人子弟を自主学校の門までつれていくことなのだ」というような単純な規定にあぐらをかくことは許されなかった。まず在日朝鮮人のおかれている社会的・政治的条件は、もっと厳しいものであった。 これらの好条件の中でも、在日朝鮮人60万人という総数や、大阪の公立学校に在籍する子弟の数にきわだった変化はあらわれなかった。むしろ一部の学校では在籍率の漸増傾向が根強くあり、特定校への集中現象もみられた。結局“千里馬=チョンリマ”の躍進をとげる共和国との友好・連帯の活動をすすめることはあくまで正しいけれども、日本人教育労働者にとっては、日本の教育の中にある排外主義的大国主義と同化政策との闘いこそが主題なのだという思想が貫徹できず、「好条件」にもたれかかっていたのではなかろうか。 私たちは「好条件」を活用して精一杯の活動をおし進めながらも、決して「公立学校の朝鮮人子弟」問題は“片がつかぬ”と一方では予測していた。しかし、ではどうすればよいかについて具体的な展望をもたなかった。 第2に、日韓条約・法的地位協定・永住権申請によって、決定的に新しい困難な条件が生まれたが、これを十分予測できなかった。「便宜を図る」は「希望する場合は入学が認められるよう必要な措置をとる」と変化したことによって、表面的には公立学校での朝鮮人子弟の地位が安定したように見える。 しかし、永住権・韓国との往来の自由などの面での利益誘導を図り、一方で情報活動による監視体制が韓国側から強化されている以上、在日朝鮮人は自らの生活防衛の必要上から子弟を日本の学校に就学させざるをえなくなっている。公立学校に追い立てておいて、そこでは「日本国民と同様に」教育されるということになれば、勢いそれは同化教育そのものである。私たちは、朝総連系の民族教育運動の情熱的展開をまのあたりに見てきたために、かえって、こうした自主学校児童・生徒数の増加率の鈍化・停滞(大阪の)を予想もできなかった。 以上のような甘さや誤りの発生する原因は、結局のところ、私を含めて、これまでの運動が、いわば朝鮮総連を中心とする民族教育運動の「応援団」という質をこえることがなかったところにあるのではなかろうか。自主学校設立・認可に協力し、自主学校に「教え子」を入学させるという活動は大切なことである。だが、それ以上に、日本の教育労働者の責任において闘わねばならぬことがらにおいて、無能・無力であったことの自覚、全体として自らが同化教育のメカニズムに組み込まれているという思想の欠落こそ重大なのである。    

Ⅲ.運動の伝統の継承と新しい視点の確立  

1.「朝問教」の時代(1955年より)  

①現実主義的な 対応から発足  
在日朝鮮人生徒教育問題対策協議会」という長い名の会が大阪市内の小・中学校の教師の手で組織され、約5~6年間活動した。 在日朝鮮人を主とした外国人生徒の教育については従来より幾多の困難がある。とくに多数就学している学校では、長欠生の扱い、生活指導や進路指導の困難、学校経営上の苦労が多い。だから、そうした苦労をしている教師が集って、日本人の子どもの幸福を守るという立場も含めて、朝鮮人生徒の教育を多少とも改善したいという趣旨であった。正直なところ、非行問題、進学・就職問題、学校財政(多くを父母負担に頼っていた)などの面で、朝鮮人生徒を多くかかえた学校は困っていた。成績の良い子、家庭の経済状態の良い子は、市内中心部へどんどん越境してしまうという事情もあって、問題は切実であった。そこで何とかならぬかという声をあげたのであった。 運動の中心に、西今里中学校と隣接の玉津中学校(約30%在籍)の教師がいた。だから当初から朝鮮人教育関係者と提携してゆかねばならぬという基本的に正しい方向性はあったけれども、発足はきわめて対策主義的であり、現実主義的であった。  
②仮説を立てて 実験的なとりくみを  

当時は、あらゆる点で未開状態であった。誰もとりくんだことがなく、ほとんどどこからも具体的に教えてもらうわけにはいかなかった。ただ、朝鮮人の教育関係者や父母から直接話を聞き、自分たちの頭で考えて実践化するということだった。 日本人教師の社会では、朝鮮人の問題にとりくむというのは希有の存在・物好きという空気だった。また、民団・総連・中立系の学校があり、むずかしくてわからない、うっかり手を出してヤケドせぬでもないからというのが実情だった。 私たちは幾つかの仮説を立てた。   1) 日本人の側からは、民団・総連・中立系のいづれの学校とも親しくしてゆく。なぜなら、子どもたちの世界では全部つながっており、その子らの教育という場合に頭からいづれかを排除するのは誤りである。(ちなみに、民団系の金剛学園の先生たちが、総連系の先生たちともども、私たちと同席して交流できたのはごくわずかの期間だけであった。李承晩大統領が失脚・亡命したのち、軍事政権樹立までであった。)玉津中学校では、この立場から、朝鮮人父兄会をつくるにあたって、「民団・総連の組織的な争いは校内に持ち込まない。学校としては、あくまで、朝鮮人子弟の幸せにつながる一切のことを判断してやってゆく」という方針で進んだ。 2) 日本人教師には民族教育はできない。しかしだからといって朝鮮人生徒が民族的自覚や誇りを持つための条件や機会を積極的につくってゆくことは可能であり、当然しなくてはならない。「日本人と同様に」で「差別していません」というのは誤りだ。ここから、自主学校との交流、生徒のサークルづくり、映画鑑賞、図書指導など、さまざまなとりくみが生まれた。 3) 朝鮮人生徒・児童の問題に日本人教師としてとりくんでゆくというのは、もちろん直接朝鮮人の子ども自身の幸福ということを念じてであるが、それはそのまま日本人の子どもの問題なのである。 たとえば非行問題は、日朝両方入り交じったグループによって引き起こされる。また、朝鮮人が立派な朝鮮人として成長してゆくことは、当然日本人の子どもに「朝鮮人を差別せず、差別を許さぬ」立派な日本人として教育することにつながっているのだ。(当時は「在日朝鮮人問題というのは、結局、日本人の問題・日本社会の問題なのだ」とか、「朝鮮の子どもに何かをするということでなく、日本の教育の民主主義の確立のためにこそ、日本の教育百年にわたる歪みをなくすためにこそ、この問題にとりくむのだ」という具合にまではつきつめられていなかった。) 話し合って方向を見つけたことは要求して実現しよう。私たちは、府立高校の入学差別ととりくんでこれを大幅に改善させた。市教委に対して定員・配当予算・人事異動などの面で特別な対策を立てさせることにつとめた。この中で、私たちが使っていた「教育困難校」という言葉がそのまま行政用語になった。だが「困難校」という発想は、「余分な“お荷物”をかかえた学校だから何とかせよ」という質をもっており、日本の学校教育の責任の所在をアイマイにするものであった。

③「朝問教」の消滅  

西今里中学校が1961年9月、自主学校に移管される頃で、この運動は消滅に向かった。これまで述べたような思想的弱点による。だから運動主体の形成が不十分であり、勤評闘争後の一般的な教育闘争の後退期に自然消滅した。しかし、この運動に参加した人々が蓄積した経験と主張は消えることなく、後述する「考える会」の中で発展的に継承復活されているとみることが可能である。  

2.部落解放教育運動の高揚がもたらすもの  

1968年、部落解放同盟は、奈良の被差別部落を忌避して市内有名中学校に越境入学している生徒の存在を指摘して、教委に対する越境入学根絶・同和教育推進の具体化を要求する糾弾闘争を開始した。府・市教委は、「越境は違法・差別であり教育上よくない」と認め、根絶措置をとることになった。このことは、大阪市内の各学校にきわめて大きな衝撃をあたえた。市内有名校への越境生の集中(ある中学校などは3000人というマンモス校となる)と対照的に、部落・朝鮮人・スラムの忌避は「あたりまえ」の状態だった。教委・教組・校長会のいづれも、この事実をよく知っていてどうすることもできなかったのである。多くの教育労働者が自らの「差別性」を認めざるをえなくなったのもこの時点からである(越境入学の加担者として)。 大阪市内の学校で、人間尊重・基本的人権の確立を基礎に部落解放の教育にとりくむということが中心的な課題となる時代がきた。 教委は、これをタテマエ化し、管理可能な範囲にとどめようとする姿勢をとっている。けれども、解放教育運動に目覚めさせられた教育労働者は、下から自律的にこれらの枠を打ち破っていった。これまでの学校教育の中身が少しずつ点検され、非人間的・非教育的なものに対する持続した闘いが進んでいる。中教審路線に対決する質=能力主義大国主義と教育実践を基礎に組織的に対抗する運動の発展が見られるようになった(有名な矢田教育差別事件をへて、日本共産党が公然と部落解放同盟への攻撃を開始して以来、問題が混乱させられているが基本的な動向に変化はない)。 朝鮮人子弟の教育問題に直面して苦闘してきた人々は、同和教育・反差別の論理をもってこの問題へのとりくみを強めた。教室と学校の中の朝鮮人差別の克服が実践的な目標となってきた。これまで、少数の特異な人々の努力目標と見なされたことが、今では、誰もがとりくむべきことに変わったのだ。(したがって、今日では、ほどほどにやろうという姿勢の中にひそんでいる同化教育との妥協傾向の克服が重要である。) 解放教育読本「にんげん」中学校編に、金達寿氏の「在日朝鮮人と部落」、朝鮮中級学校生徒作品「オモニの歴史」が載って、全府下の生徒に無償配付された。おそらく、在日朝鮮人の手になる作品が教材として、教委を通して配付されたことはなかったであろう「にんげん」はこうして、闘う意志を持つものの手にわたるとき、部落解放教育推進の武器となり、そのまま「朝鮮を正しく教える運動」の武器ともなっている。 大阪の教育運動が、いま「部落」と「朝鮮人」という実践的な課題に直面しているのは事実である。ところで、これに対して「反差別論理による混同」とする“評論”がみられる(例えば、季刊「現代と思想」6号、川越敬三氏)。 ここで見落とされているのは、教育労働者がここから今日の教育を変革しようとしている闘いの中身である。「混同」という評論がどんなに傍観者的であるかを立証するのに、私のレポートが少しでも役立てば幸いである。  

3.「考える会」の誕生とその運動  

発端は「にんげん」実践者による市立中学校長会研究部報告「外国人子弟教育の実態と問題点」を差別文書とする追及の開始であり、その前年度に教組が展開した私立高校の入学差別追及の運動がある。私立の入学差別については公然の秘密であったが、教組運動として集められた具体的資料の前に簡単に私学経営者は屈した。一斉に平等門戸開放を約した。しかし「身元保証を」とか「人数制限」とかきわめて手のこんだ差別を追及するためには、きめの細かい監視体制がなお必要である。 校長会の差別文書とは「能力のある児童・生徒ほど高学年になるにつれ民族意識が高まり、他の児童・生徒・教師を批判的に見る」の一節に見られるとおり、民族意識を悪と見なし、朝鮮の子どもは手に負えん困り者だということを全文で主張し、教育の責任を全く放棄して平然たるものであった。この問題が公然化するや、民団・総連の区別なく、在阪朝鮮人の間から、校長会・教委の責任追及の声が上がった。結局、校長会・市教委は自己批判を行い、何らかの具体的措置を迫られた。だが、校長会の差別性を追及することは、教育労働者自身の自己点検ぬきになしえないことであった。「われわれはどうだったのか」ということである。 また、こうした情勢の中で、根本的に教委の歪みをなくしてゆくエネルギーは、やはり自立した現場教育労働者の実践と運動以外にない。「公立学校に在籍する在日朝鮮人子弟の教育を考える会」が発足したことは必然的である。(1971年7月) 「考える会」は、当初1000人を超える現場教育労働者の集まりの中から生まれた。 第1に「私たち教師の大部分が、大部分の学校で朝鮮人子弟の同化教育に手を貸してきたという事実」を点検してみること。 第2に、この点検の中から、明治百年の日本の教育にある差別性・大国主義(朝鮮をふくむアジア蔑視・欧米崇拝)と闘うこと。 第3に、直接的には、目前の朝鮮人子弟の教育にどうとりくむかを具体的に追求すること。 などを共通の課題としている。この運動はまだ始まったばかりであり、深刻な厚い壁の前で模索中といった状態であるが、約1年の活動を述べていきたい。 *1971年9月24日研究集会 350人 全体集会 分科会①校長会差別文書を生み出した教育界の体質を考える。②日本と朝鮮の友好・連帯を考える。 ③民族差別を克服する教育内容を考える。 朝鮮人子弟の進路保障を考える。 朝鮮人子弟の教育をすすめる教育条件   を考える。 以上の記録は「二つの名まえで生きる子ら―在日朝鮮人子弟の教育と日本人教師の今日的課題―」として出版された。 *1972年3月4日 「3・1独立運動記 念・日本と朝鮮を考える集会」1000人 分科会(記録は近く刊行される予定)①同化教育との闘い ②日本と朝鮮の連帯 記念講演 中塚明・金石範の両氏。 *自主的なシンポジウムの連続開催 (毎回50~100人) これまでの主なテーマ
阪神教育事件
出入国管理法案
③本名を正しく名のる運動
④朝鮮を正しく教える運動 など
「考える会」の活動のきわだった特徴は、その自立性・自主性であり、既存の各種団体が陥りがちな政党系列化やイデオロギーセクト化の排除である。そしてそのことは、学校・教室でのとりくみを中心にすえた活動を討論することによって保障されている。   
例えば、「朝鮮を正しく教える運動」は、現行社会科教科書の点検と自主教材の作成、民話の蒐集などをふくめて日教組が展開している「自主編成」運動の貴重な裾野を形成しつつある。また「本名を名のる」運動は、小・中学校段階ですでに広まってきたものを普遍化するための理論化と交流である。「朝鮮人の親が通名(日本人式の名前)を呼んでくれと言っている以上、その意見を尊重することが正しい」という“常識”をどう打破するかという“闘い”である。「考える会」の共通認識には、次のようなものがあげられる。 ①通名はかつての軍国主義植民地主義そのものの遺産(したがって、「君が代」や「日の丸」の押しつけに反対しながら、通名を見逃していること自身を問わねばならぬ)。 ②漢字名「金英勲」の日本語読み「キンエイクン」も誤りで、「キムヨンフン」と、最低改めること(学校教育が真に国際理解と基本的人権尊重の精神で営まれるとすれば、こうした改革は絶対に必要であり、このような教育上の必要性を根拠にしてこそ、日本人教師の朝鮮語学習や朝鮮人教師との交流・公立校への配置の要求が迫力をもつ)。 ③「名まえは人間にとって顔でもあり、生命でもある」とすれば、これを正しく名のること、日本人教師・日朝児童・生徒が「差別を許さず、差別と闘う人間」となるために避けられぬことである。「父母や子どもの意識が低いのでとても無理」とは口実で、実は「そんなしんどいことをどうしてやる必要があるのか」がホンネとなっているのではなかろうか、一度考えねばならない。
「考える会」に代表される学校現場の状況の変化に対応するかのように、大阪市教委指導部もいくらかその姿勢を変えようとしている。 1972年度「学校教育指針」の研究目標の中には、 次の項目があげられた。
(ア)在日朝鮮人子弟の人権を尊重する教育(民族的自覚をもつように指導にあたる)。
(イ)在日朝鮮人子弟の進路指導の充実(進学・就職上の差別の克服。社会的自己実現の方向を自ら見いだすよう援助)。
(ウ)日本人子弟に対する国際友好の資質・態度の育成(日本人子弟のなかにある民族的偏見と差別意識の排除、ともに学ぶ在日朝鮮人子弟の立場への共感的理解の育成)など。
「指針」は抽象的であるが、担当指導主事の増員をもあわせて考えれば、市教委としても何らの手も打たないで避けては通れない段階といえる。 また大阪市外国人教育問題研究協議会(市外教)は、校長会差別文書問題で自己批判と脱皮を迫られた。それは「市外教」が市内では唯一の公的な研究組織だったのに、「文書」の発想に近いものを体質的にもっていたのではないかということであった。ただ、校長会とはちがって「市外教」はその内部に、多くの朝鮮人子弟と直接かかわりをもつ教師を組織していることである。この人々の努力によって「市外教」は前進の方向を探り出しつつある。発表された研究基調は、在日朝鮮人が公立学校に在籍すること自体を「不合理なこと」と認めつつ、独立外国公民の子弟として朝鮮人児童・生徒への教育活動をすすめることの重要性を主張し、「朝鮮を正しく教える」ことを打ち出している。 「考える会」が自立的な運動の推進で成果をあげ「市外教」が公的な研究団体として着実に実績を積み上げることができるならば、この困難な問題にも展望が開かれるだろう。  

Ⅳ.教育労働者の自己点検と今日の課題  

中教審路線との対決を迫られる日本の教育労働者は、今年の日教組秋田大会でも問題となったように、いま、自らの教育実践の点検という課題を担っている。「中教審路線粉砕を口で唱えているが、能力主義的進学指導やテスト主義のワークブックの押し付けをやっているのは自分たちではないのか」ということである。大阪の教育労働者は、ベトナム反戦の授業、沖縄を正しく教える運動の中からこれに気づかされてきた。部落解放教育運動は教育の中身に深く構築されている差別の体制を明るみに出した。在日朝鮮人子弟の教育問題がいまあらためて問うものは、日本の教育における大国主義であり民族蔑視であり、戦後民主主義がその出発点から欠落させていたものである。それは、近代百年の日本と日本人のあり方の根底にかかわっている。 こうした問題にとりくむためには、当然教育労働者自身の自己点検・自己変革がより深刻に必要となる。その際には必然的に教育労働者内部の論争が起こる。そして、それはしばしば「革新」とか「統一」を看板とする保守・エゴ擁護との論争という型をとる。 今年の日教組教研甲府集会へ向けての討論を例にとると、次の3点であった。 ① 日本の教育労働者の朝鮮人子弟に対する加害者性を主張することは「統一と団結」を乱すという反対意見。「他民族を抑圧している民族は、自分自身をも解放することができない」という真理に立てば、日本の教育労働者の国際的責任として、第1に自らの姿勢を正さねばならない。この反対意見は、困難だが避けてはならない責任と課題の放棄をもたらす。 ② 前記「にんげん」教材は「不十分でなく有害」とする評価の存在。「にんげん」に対して、反部落解放同盟の立場からする政治的な攻撃がくりかえされている。しかしここにあげたのは、そこに載っている「朝鮮」にかかわる教材の評価である。有害論者のホンネは、執筆者金達寿氏への政治的な敵対意識にもとずくもののようにも受け取れたが、表面的には「差別からでは朝鮮が正しく教えられない。共和国の歴史と現実をふくむ現代が正しく教えられないとダメだ。その意味で逆効果を生むから有害」と主張された。「にんげん」が反差別の読本である以上「朝鮮」を教えるには多分に限界があるのは当然である。しかし、「有害」とするのは無理なことである。「にんげん」をどう活用するかは教育労働者の力量如何である。有害論者が自己の主張を裏付けるために「朝鮮総連の人もそう言っていた」などと口走るのを聞いて、私は激怒せざるをえなかった。 ③ 朝鮮人子弟に対する就学奨励措置・育英制度適用を要求してはならないという見解。在日朝鮮人子弟の教育権・学習権を守る闘いは、第1に「民族教育の権利擁護・その発展保障」である。だが一方、公立学校(日本の学校)では就学・進学差別との闘いがある (例えば、就学援助措置・“育英”制度などからの排除)。前者に賛成、後者には実質的に反対というのが、この見解である。理由は「朝鮮人団体がそれを要求していない」「日本の学校での就学条件がよくなると、自主学校への進学にマイナスとならないか」などである。 日本社会が朝鮮人に対して悪くなればなるほど朝鮮人の自覚と団結が強まるのでよいとは誰も考えまい。あまりにも悪すぎるのが現状であり、それは日本人民の責任で改善さるべきなのである(朝鮮民主主義人民共和国の教育費援助により、今年から「日本の高校」に通う朝鮮人生徒への援助が実現したことを心から喜びたい)。
以上の論争に、悲しく恥ずべき“決着”をみたのは、大教組定期大会(6月24日)だった。この日、高槻市教組からの次の修正案は少数差だが否決された。 「公立学校に在学する朝鮮人子弟に対する教育条件の整備」として「①各学校において朝鮮人子弟の“子ども会”を組織し、そこで民族教育(朝鮮語の学習・歴史・民俗等の学習)を保障するための条件整備を要求する。②朝鮮人子弟の進学及び就職を具体的に保障するために府教委・関係官庁及び企業等へ積極的に働きかける。③ ①②のとりくみ及び在日朝鮮人問題を解放教育の中に位置づけ、全ての子どもたちに教えるとりくみを積極的にすすめるために、各学校に朝鮮人教育主担者の配置を要求する。」「各地方自治体で朝鮮籍在日朝鮮人に対して国民健康保険への加入を許可する条例をつくることを要求する。」 修正案の内容にも部分的な欠陥はあるだろう。けれども、その趣旨は、今日の現場の実践を踏まえた切実な要求と方針である。執行部はこの趣旨を生かそうと努力せず、討論もなく一部代議員によって「片づけられた」のである。 私はこの有り様の中に、政治的セクト主義に毒されつつ頽廃した教育労働者の側面を見る。  

Ⅴ.おわりに  

レポートが示すように、なお前途多難であり、自分の力量の不足が痛感される。けれども「西今里―朝問教」時代とは全く違った展望を持っている。それは今日は少数だが、 明日には多数の支持を得る運動主体の自己形成途上にあるという実感があり、海を越えて伝わる朝鮮の平和統一への胎動が次第にハッキリ聴こえるような最近だからである。