わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

私的「韓国語と日本語のあいだ」(前編)

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こちらの本を読みました。

斎藤真理子さんには、ほんとうにお世話になっている今日この頃……。
勝手に「師匠!」とお呼びしたい私です。

以下、本書の内容に沿って考えたこと、思い出したことの備忘録のようなものを書き留めておきたくて、書きます。

なぜ朝鮮語を勉強したか

私と朝鮮語の出会いは在日コリアンの子ども会だった。
「はな、とぅる、せっ…」「かいぱいぽ!」「あんじゅせよ~」などなど、遊びや活動のなかで使われる朝鮮語を丸覚え。その当時は3世の子どもたちが多く、当然母語は日本語なので、よく使う表現は朝鮮語だったけれど、会話は全部日本語、という世界。

それでも、壁に貼ってある反切表を見ながら、いま自分が指導員さんたちの発音を真似して言ってるこの音はどう書くのだろう…と教えてもらって覚えながら、ハングルの基本構造も覚えていった。とはいえ、ハングルが読めるようになっただけ。

それは1986年だった。

私と斎藤さんは7歳離れている。
だから光州民主化闘争のとき中学生で何も知らず気づかずだった私と違って、齋藤さんは大学生で、ちゃんと報道があったことを記憶されている。若い人からみれば、ほぼ同世代にみえるだろうし、確かに同じ時代の空気のなかで生きてきたという共感もある。でも読んでいて、7歳の違いは大きいなとも感じた。

そんな私も、小学生の時の「金大中事件」は少し覚えている。といっても「きんだいちゅうじけん」と何やら大ごとそうな面持ちで言うアナウンサーの声と、新聞の黒々とした大きな見出しだけだけれど。他にも留学生として渡った在日コリアンの青年がスパイ容疑で不当逮捕されたといったニュースもあったし、地下鉄の通路に「韓国の民主化に連帯する!〇〇組合」みたいなビラが貼ってあったのも覚えている。ひたすら暗くて怖いイメージ。クラスにも在日コリアンの友だちは複数いたけれど、日本名だったし、「韓国」とは全然結びつかなかった。

高校生になって、朝鮮中級学校から進学してきた子がいたこと、学校で本名宣言する子や入学時から民族名の子が複数いたことで、「在日朝鮮人」という存在を初めてきちんと意識するようになった。それでも、みんな日本生まれ日本育ちだし「辿っていけばルーツが違う」というだけのことでしょ?と思っていた。でも、高校での朝鮮文化研究会とその周辺…というのは、朝文研で活動している子と朝文研に入らない子、民族名の子、日本名の子、日本名だけど朝鮮人だと公言している子、特に公言しなかった子…と本当に社会の縮図のようにさまざまな子たちがいて、時として主張をぶつからせているのをみて、いったいそこに何があるんだろうか…とモヤモヤ考えていた。

たぶん、そんな引っ掛かりもあったのだと思うけれど、高2のときにオレンジ演劇祭で(当時、今のヘップファイブの前にあった阪急ファイブというビルの最上階に「オレンジルーム」という小劇場があって、関西小劇場ブームの中心だった劇)、金芝河の詩「糞氏物語」を役者二人の掛け合いで舞台化した作品を観た。「なんだこれ…」とものすごい衝撃がきた。もちろん、舞台は翻訳された日本語で行われていたけれど、痛烈なメタファー、皮肉、ユーモアが弾け飛び、そんなことばたちが混然となって権力をこき下ろしていくのが痛快だった。どれぐらい衝撃だったかって、その帰りに旭屋書店金芝河作品集を買ってしまったぐらい(笑)でも韓国の現代史も何も知らないものだから、読んでも何もわからなかった。そしてなぜか「これをわかるようになりたい!」と思った。

そこから数年して、社会では指紋押捺拒否/外国人登録法改正運動が盛り上がり、敢えて法に背いて闘う人たちがテレビでインタビューに答えている映像を見た私は、私が理解できなかった金芝河の世界がここに繋がっているのかもしれないと思った(いま考えると、ちょっと痛いやつだなと思わないでもない…)

だから大学に入って、学内にも指紋押捺拒否をしている在日コリアンの先輩がいて、その人の話が聞けるよと誘われたときに、もう飛び上がるような気持ちでそこに参加し、そのまま在日朝鮮人教育研究会というサークルに入って夏休みに子ども会に行く!とトントン突き進んでしまったのだった。

とはいえ、そこで学んだのは、ルーツのことばや文化、朝鮮半島の歴史についても学ぶ機会が少なく、自身が在日コリアンだと自覚するのは差別がきっかけ…といった子どもたちも少なくないという現実と、そういう現状を変えていこうと地域で子どもが集まる場をつくり、その場を要にして連帯してきた人たちの歴史だった。私も朝鮮語を学ぶことよりは差別について学ぶことに意味を感じたから、朝鮮語については子どもたちと遊ぶときに使う用語や一緒に歌う童謡のいくつかしか覚えなかった。

でも、その後、朝鮮語をきちんと学び始めたときに、当時丸暗記したフレーズが文法的に解読されて「わお!」となる場面はたくさんあったし、何よりも反切表と初声―中声―終声の仕組みがわかっていたのは学び始めるのにすごく役立った。立場を変えれば、挨拶してるだけ、掛け声が朝鮮語なだけ…であっても、それを聴く、声に出す、という体験を子ども時代にしていることが、ルーツの言語を学んでみようかなと思い立ったときに、「あ、これは知ってる!」と背中を押してくれるということなのだろうなと思う。そして、それはとても大きなことだ。

でも一方で、金芝河のことはもうすっかり忘れていた。韓国のことより、自分の足元の日本の、在日コリアンに対する差別の問題の方が私には重要になったからだ。

「怒り」を取り戻すための学びとは

サークルでは、在日コリアンの形成史を学んだり、コリアタウン猪飼野)にフィールドワークに行ったりもした。80年代後半の猪飼野はまだ今のようなコリアタウンではまったくなく、私たちも「朝鮮市場」と呼んでいた。周辺には小さな町工場がひしめいていて、市場も近所の人たちの生活市場感が強かった。いまでも当時の空気感を思い出すと、胸がキュッとなる(いまのコリアタウンはソウルが引っ越してきたみたいだ。それでも昔からある商店のおばちゃんたちと話すと、変わってないなと思える)

そのときも、土地調査事業や産米増殖計画で土地を奪われ困窮した人びとが…と、渡航史について勉強した帰りだったように思う。一緒に歩いていた在日コリアンの子が「歴史、ええねんけどさ…」と話し始めた。その子は中学校が人権教育に熱心な学校だったから、授業で植民地支配のことや在日コリアンの歴史についても学ぶ機会があったらしい。私はそんな授業は受けたことがなかったから、単純に「いい学校だな」と聞いていた。けれどその子が続けて言ったのは「歴史の授業がめっちゃ嫌やった」ということだった。

そりゃ事実やん?でも日本がこんな酷いことをしたっていう話を聞いてたら、うちのおじいちゃんやおばあちゃんはなんでこんな目に遭わされたんやろう、やっぱり朝鮮が弱い国やったから、弱いからやられたんかな…って恥ずかしくなってきてさ。いまはなんでそんな目に遭わすんやって怒れるんやけど、そのときは怒りが全然出てこなくてさ…

それを隣で聞きながら、単純に「日本は日本が酷いことをした歴史をちゃんとわかってないから未だに差別がなくならないんだ。だから勉強しないと」と思っていた私は、頭をぶん殴られたような気分だった。こんなの酷い、許せない!とストレートに思えないということもあるのだ。差別について学んでいると、よく「怒りを奪われる」という表現に出くわすけれど、まさにそれだった。じゃあどうしたらいいんだ?という問いは、そこから私の命題になった。

先にも書いたけれど、当時は指紋押捺拒否闘争の真っ最中で、その友だちも自分が暮らす街の市役所の外国人登録の窓口で「私は指紋を押しません」と拒否をした。私もその場に立ち会った。その場には突然行くのではなく、伝手をたどって市役所の担当者の人に「〇日に外国人登録の更新手続きに行きますが、指紋押捺は拒否するので対応をよろしくお願いします」とお伝えし、当日は窓口で本人が「なぜ押したくないか」を話し、付き添った日本人の誰かが代表して「なぜ付き添ったか、指紋押捺拒否に対して日本人としてどう思っているか」を話した。市役所の人はたいてい真面目に聴いてくださった。外国人登録窓口を担当する/したことのある行政職員の少なくない人たちが「本人確認は顔写真で行っていて指紋で本人確認などしていない」と行政実務について証言し、外国人だけから指紋を採取するのは人権侵害だと、運動に共感してくれた時代だった。いくつもの市役所や区役所で立ち会ったけれど、どの役所でも、職員さんたちは好意的だったように記憶している(それは日本人市民が大勢付き添っていたからかもしれないけど)。

もちろん、そんな行動を起こす前に、そもそもなぜ外国人登録指紋押捺が必要なのか、諸外国の外国人登録制度はどうなっているのか、法律や制度についても、大人の人たちの学習会に混ぜてもらって勉強した(その講師役をよくしてくださった1人が一橋大学名誉教授の田中宏先生だ。当時は愛知県立大学の先生だった)。勉強すればするほど理不尽極まりなく、またその政策の根っこが植民地期の政策にあるんだなということもわかってきた。反省もしていないし勉強もしない。いや勉強しないから反省しないのか? とにかく、植民地支配の総括をきちんとしていないことが負のループになって綿々と問題を繋げているのだなと思った。

ホントにクソ社会だな…と、私は素直に怒れた。「怒りを奪われる」というのは、不当なことを不当だと感じていい、言っていいという経験の積み重ねが奪われるということなんだなと、少しずつ私は理解できるようになった。だから「それは怒っていいことなんやで」と口に出して言うこと、「怒っていいのだ」と思えるように知識を得ること、実際に「ムカつくわ!」と声をあげて、その声を肯定されること、そういう体験をもう一度くぐり直して、積み重ねていくことが、「怒りを取り戻す」ことなのだと。

だから「怒って行動した人たち」に学ぶために、三一独立運動や岸和田紡績女工たちのストライキの話、そして日立就職差別事件のことを学び、「こんなことは不当だ、やめろ!」と行動してきた人たちが世界を少しずつ変えてきたのだということを確認していった。そんな学習会や活動の積み重ねが、中学生のときは「情けない、恥ずかしい」と思っていた子を、「これは在日朝鮮人に対する差別だと思うので(指紋押捺を)拒否します」と力強く宣言する子に変えていったのだということも、私は理解した。

「朝鮮が弱いから保護してやるのだ」…というのは植民地支配を正当化した当時のロジックでもある。その植民地主義のロジックが、日本人だけではなく在日コリアンにだって浸透してしまうのが、この社会。学校でも教えないし、学ぶ機会が少ない。そんな社会で何も考えずに生きていると、知らない間に植民地主義を内面化してしまう。だからそれを引きはがしながら学んでいくような歴史の学び方が必要なのだと思う。

ふたたび詩に出会う

そんなこんなの学部生時代。自主的にはめちゃくちゃ勉強したけれど、大学の講義はサボり倒していた(笑)さて卒論…となってどうしようかと思っていたときに出会ったのが金時鐘さんの詩だった。

「私の日本語には元手がかかっている」

皇民化教育の時代に朝鮮で、日本語で教育を受けた世代。そして日本に渡り日本で詩作を始めた詩人。金時鐘さんが師と呼ぶ小野十三郎さんも、好きな詩人だったけれど、その詩は私がそれまで出会ったことのない響きとことばの並びだった。

なくても ある町。
そのままのままで
なくなっている町。
電車はなるたけ 遠くを走り
火葬場だけは すぐそこに
しつらえてある町。

みんなが知っていて
地図になく
地図にないから
日本でなく
日本でないから
消えてもよく
どうでもいいから
気ままなものよ。(『猪飼野詩集』より)

元々、国語教育専攻のゼミにいて、子ども会で出会う子どもたちにとって「国語」ってなんだ?とモヤモヤしていた。子ども会では朝鮮語という呼び方よりも「ウリマル」という呼び方を使っていて「우리 말(わたしたちのことば)」っていい表現だなぁ、そもそもことばは国のモノじゃないんだよな…と考えるきっかけにもなっていた(ただ、それはそれで、日本人の私にとって朝鮮語はウリマルではないよなとつきつけられる時間でもあった)

まさに朝鮮語と日本語のあいだ、だった。

折しも、『在日のはざまで』(現在絶版)という分厚いエッセイ集が刊行されていて、少年期の学校での体験や、渡日後の詩作についての文章を読むことができたので、金時鐘さんの人生年をテーマに卒論書けるんじゃ…と(いま考えたら無謀…)ゼミの先生に相談したらGoサインが出た(その代わり「だったらこの時期の日本文学の動きについても、この本とこの本とこの本と…」と課題図書をいっぱい渡されて大慌て)。「おまえ、書きたいことだけ書いてたらアカンぞ」と中間発表で他の先生に苦笑されたりしながら、金時鐘さんを軸に植民地期末期の教育政策と学校現場、そして戦後の在日コリアン猪飼野の歴史と照らし合わせながら、いくつかの詩を取り上げて、そこに一貫するテーマや、描かれた人間像について(一応)分析らしきものをがんばってまとめて単位をもらった。その作業と並行しながら「植民地期の朝鮮で行われた『国語』教育」について調べるための材料探し(具体的には教科書探し)もしていて、思いのほか日本国内で閲覧できるものがあることも分かったので、そのまま修士課程へ…。

(その勉強の成果がこちら/拙著。ここに書いたのとはまた違うエピソードもこちらに…斎藤真理子さんも書いていたけれど「なぜ朝鮮語を?」と言われても理由は複雑に多数あって、一言で言いづらいっていうのがとてもよくわかる…)

ただ、日本国内で資料がほぼ手に入りそう…という目途は立ったにせよ、朝鮮語まったくできないまま研究するのはどうなの?と思ったので、在日コリアンの先輩(韓国・延世大学の語学堂留学から帰ったばかりだった)からの「初級勉強する?」というお誘いに乗ることにした。これが私の朝鮮語の勉強はじめだった。


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後編……に続く(ホントに?)