前編はこちら。
在日コリアンの先輩から初級の手ほどきを受けたものの、それは長く続かず(先輩も私もライフステージが変わる節目だったものだから…)、就職した後は勉強する時間もないまま、10年以上が経過して。
後編は00年代と10年代と、最近の話。
韓流ブーム到来、そして
やってきた日韓ワールドカップ共催とヨン様ブーム。韓国のナショナルチームの誰がカッコいいだの、冬ソナめっちゃおもろい!だの、いったい何が起きてるんだ???という感じだった。私は斎藤さんが『隣の国の人々と出会う』に書かれているようには「差別もなくなっていく」という期待は持たなかった。ついこの前まで「キムチ臭い」だの「何その料理w」だの小馬鹿にしてたはずの世間が、その反省の欠片も示さずにコロッと韓流に乗っかる姿への嫌悪感しかなかったからだ。
ただ、ヨン様と同じ姓の友人が自己紹介のときに「ヨン様と同じ“ぺ“です」と言えば半笑いで聞き返されることがなくなったよ。と言ってたのは「良かったこと」?……とそれもまたモヤモヤしつつ考えていた。
その翌々年ぐらいに職を辞した。再就職の当てもなく、失業保険の手続きに職安に行った帰りに入った書店で、平積みになっていた『嫌韓流』を手に取った。「韓流」嫌い?批判本?と手に取ってみたら、トンデモない差別本だった。
韓流ブームに、こういう形で便乗してくる奴がいるのか……と暗澹としつつ、でも内容が荒唐無稽過ぎて、よくこんな本に出版社がゴーサイン出すな……とそのときはそのまま棚に返して店を出たのだけど、その後、覗き見たインターネットの中の酷い状況に気づいて、吐きそうになった。
ヨン様ブームから始まって、韓流四天王、映画にドラマ……渡韓する人たちも一気に増え、「近くて遠い国が近い国になった!」という現象がコインの表側で、その裏側にはヘイトスピーチの隆盛が貼りついていたのだ。そんな状況が21世紀に起きるなんて、想像を超えていた。90年代まで社会は少しずつ良くなっていくと信じていられたのに、あれは錯覚だったのか……と。
(その後、ヘイトスピーチはオンラインからオフラインの社会に溢れ出し、カウンター行動の端っこに私も参加することになるのだけど、それはまた別の話…)
そんな中で、仕事を辞めた私を心配した友人が「この際、韓国語勉強しに行けば?」と領事館が主催している教室を勧めてくれ、韓国語学習を再開したのだった。
韓国領事館/文化院の語学堂で
そんな状況下で、しかも申し込んだ昼間のクラスはヨン様はじめとする韓流スターファンの女性が8割方を占めていたものだから、クラスが始まった当初は「RightPlaceWrongPerson」そのものだった。差別のことも歴史のことも知らずにキャッキャしてる人たち? でも、授業が始まってしばらくしてわかってきたのは、実は4割ぐらいを在日コリアンが占めているということだった。
みなさん、最初の自己紹介のときは「◯◯のファンです」的なことをおっしゃっていて、それも正直な理由ではあるのだけど、いろいろ話していると、実は在日で、いつか韓国語も勉強したいと思ってたけど機会がなく、ヨン様のお陰で教室も増えて行きやすくなってヨン様様々!と言う方や、実は親の代に帰化してて民族名はこうなんよねーと言いだす方や。そしてそんな話を真面目に頷きながら聴いている日本人。……あれ?なんか、韓流ブームってこういうことだっけ?という驚きとともに、毛嫌いしてた自分を少し反省した。
私は日本人として、80年代に「朝鮮語も勉強しようかなー」と言ったら変わり者扱いされて憤慨してた訳だけど、そのことは同時に、民族名でもなく民族団体との接点もなく生きていた人たちにとって「朝鮮語を学ぶ」ことがそのままカムアウトになってしまうリスクのある社会だったということなのだった。当時は学ぶとなったらこの語学堂か民団や総聯が開いてる教室ぐらいしかなかったし、ルーツのある人か変わり者かしか学ばない言語とみなされている社会で、「ちょっと学んでみたい」という思いを叶えるのは難しかったのだ。それが「韓流ドラマおもしろいよねー」と気軽に門を叩く人たちが現れたことでハードルが一気に下がり、カムアウトしなくても学べる環境が整った。そのことの意味の大きさに初めて気づいて、自分の思い上がりを恥じた。
それこそ、「韓国語と日本語のあいだ」の人たち、だった。
同じころ、李良枝や鷺沢萠の小説やエッセイも読むようになった。
学びたいと思う自由、学べる自由、学ばない自由。
どの選択肢も等分に開かれているべきなのに、そうではない現実。
教室で、私もときどき「あ、あれはこれのことか」と子ども会で丸暗記した単語や表現に、ハングルと文法が合致してワクワクしていたけれど、在日コリアンの人たちにとってのそれは「おばあちゃんが言ってたのはこれか!」といった、生活の記憶そのものだった。当時の語学堂の先生は日本に在住している言語学畑の留学生が多く、そういう感嘆や呟きを「おもしろいですね!」と拾ってくださった。だから授業のなかでそんな発見について在日コリアンの人たちが縷々語り、そして先生によって、それらが慶尚道や済州島の方言につながっているのだということも知らされて、なんだか胸がキュッとなった。
田中克彦の『ことばと国家』だったか、植民地支配等で上から強引に言語を引き剥がされ取り替えられようとしても、生活者のことばはそう簡単に変わらない、そして最後まで言語を守るのは学問に近づけなかった女性たちだったりするって書いてあったな、と思いながらそれらのエピソードを聴いていた。まさに、食にかかわる単語・エピソードが多くて、1世の女性たちが外では覚えた日本語で話しながら、台所で馴染んだ作業や食材については朝鮮語のまま暮らしてこられた姿が伝わってきた。そして、私も子ども会の行事等で「ねえちゃん、これ食べ」と勧められた料理やその勧めてくれた「手(손)」を思い出した。日本で言う「おふくろの味」を韓国語では「손맛(手の味)」と言うこともそんな頃に知ったと思う。キムチを漬けたり、ナムルを和えたりするときの、手の動きを彷彿する表現だなぁと思う。大好きな表現の一つになった。
教室には2年通った。その間、先生は5人。最後に通った会話クラスの先生が男性で、兵役(90年代)の話をしてくださったのは強烈に印象に残っている。それまで韓流ファンの生徒の中に「兵役があるから」親孝行になる?みたいな説を出して「うちのコも行かせたいわ〜」とか言い出す人がいて、そのたびに私はギョッとしていたのだけど、さすがにその話を聴いた後はそんな戯言は出てこなくなった。でも、その先生は一方で、その強烈に辛いし怖い体験を共有した者同士のホモソーシャルな連帯感?に肯定的で、最初の先生がそういうホモソーシャルへの嫌悪感について話していたこともセットになって記憶に残っている(「キム・ジヨン」現象が起きた際にセットで思い出した)
韓流ブームで韓国の俳優やアイドルに沸いてる日本人女性がいる一方で、当時の韓国では嵐の人気に火がついていて語学堂の事務の人も嵐ファンだった。「いや、韓国のエンタメの人たちの方がダンスも歌も桁違いに上手いのに、なんで?」という私に、居合わせた女性の先生と二人して声を揃えて「ヤツラはマッチョだから!」と笑って答えるから、こっちも笑ってしまった。日本のアイドルはマッチョじゃないからいいのだと。「兵役のせいですけどねー」「軍隊の話とサッカーの話と、軍隊でサッカーする話で延々繋がって『女にはわからん』っていう連帯感でつるむのが韓国男子ですよ」「맞아맞아!ウザっ」と若い韓国人女性が2人して笑い転げているのに「へぇ…」とつられて笑いつつ、何とも言えない居心地悪さも感じた。徴兵制のある国と、ない国。韓国にそれがあり、日本にそれがないのは、かつての植民地支配/大日本帝国のせいでもある。
語学堂での経験は、反差別の市民運動の文脈で在日コリアン社会と接点を持ってきた私にとって、そこでは会えないタイプの、でも韓国語や文化、歴史について学び始める人たちと出会えた貴重な時間でもあった。
第二次韓流ブームの頃
教室通いを辞めたのは、仕事が見つかり徐々に忙しくなり始めたからだった。仕事といってもバイトと非常勤講師だったけれど。
勉強を続けるために、これまた友だちの紹介でオリニ翻訳会に参加(私の不甲斐なさで2年ほどしか続かなかったけど、その時に会で読んだのが『ミョンヘ』。私がいたときは出版の話が軌道に乗らずお蔵入りになったのだけど、その後も諦めずに尽力されていたのだなぁと尊敬……。月1に課題を訳して行くということすら続かない体たらくな私に比べて、みなさん素晴らしい……。その後、オリニ翻訳会は『1945、鉄原』『あの夏のソウル』という秀作も翻訳している)。
久しぶりに高校の現場に戻ったら、K-POPはもはやブームではなく定着していて、単にファン、好き!を超えて「韓国で仕事したい」という生徒が出現していてビックリさせられた。時代は変わったな……とその時ようやく、韓流ブームで確かに偏見は減ったのかも?と思えた。韓国との交換留学制度を狙って進学を決めた生徒に「韓国行くのに最低限知ってた方がいいことってありますか?」と聞かれて、手持ちの歴史本の中から1冊プレゼントしたり、独学で韓国語を勉強しているという子に初級の教材本をプレゼントしたり……しているうちに「韓国通の先生がいる」ということになったらしく、全然知らない生徒から話しかけられることもあった。K-POP的には第2世代が出てきた時期で、ダンス部は「ファンタスティック・ベイビー」で踊りまくっていた。一方で「嫌韓」をまとう生徒たちもいて、そういう言動をたしなめるのに時間を取られてしまうこともあった。ケーポペンの子たちが涙目で「あの子ら、いっつもあんなんやねん。怒ってくれてありがとう」と言うのを慰めながら、この二極化は何だろう…と、遣る瀬なさも感じた。
高校現場に戻ったのは、元勤務校からのピンチヒッター要請で、それ以前の00年代の終わり頃から大学の非常勤講師とそれに伴って人権関係の仕事がポツポツ依頼されるようにもなっていて、そちらの現場でも「嫌韓/ヘイトスピーチ」の波は厳しかった。私と私の授業が偏向していると敵意をむき出しにする匿名の授業アンケート。偏向? 必要に迫られて歴史修正主義者たちが何を言っているのかまでチェックせざるを得なくなって、益々韓国語どころではなくなっていった日々。
なんでこんなことになってるんだろう…と暗澹としながら、でも一方で80年代や90年代の運動が無駄だったわけではなく、各地で自然発生的にヘイトスピーチデモに対するカウンター行動が生まれ、ヘイトスピーチ規制に関する勉強会、歴史修正主義に関する勉強会が開かれ、私もそこに参加することで、自分の感情と困惑を整理し、対処方法を考えられるようになっていった。けれど、一定の自信がつくまでにかかった時間の渦中は本当に苦しくて辛かった。いや、差別されてるのは私じゃないし。日本人の私がくじけてどうするんだ……という思いだけが支え棒のように、何とか踏ん張っていたと言っていい。ヘイトスピーチ解消法がやっと成立したときの、背筋が伸びて胸いっぱいに新鮮な空気が取り込めたような気持ちは忘れない(全然完璧な法律ではなく課題ばかりだけど、それでも一里塚として重要だった)
防弾少年団と出会い直す
大学での担当授業が増えることになって、高校を再び辞した。その翌年。
UNICEFでのRMスピーチが、来た。
あれ?防弾少年団?こんな賢い子いてたっけ?RM?ら、らっぷもんすたー!?
驚愕……
……という失礼極まりない反応をしてしまったのだけど、なんという平易なことばでシンプルに人権を語れるのだろう!と感動してしまい、そこで改めて、防弾少年団の楽曲(歌詞)をチェックしてみようかな…と意識が向いたのだった。
……と、その矢先に起きる「原爆Tシャツ事件」
事件を知ったのはBTSを追っていたからではなく、ヘイトスピーチへのカウンターの人たちからの情報だったのだから、ここでかれらが標的になって、私的には「え?また防弾……」と偶然が重なった感じだった。韓流ファンがヘイトスピーチに巻き込まれてペン卒というか嫌韓に転じてしまう現象も知っていたから、BTSのファンの人たちは大丈夫かな…とか、まだまだ他人事として心配していた。それよりも何よりも、原爆ドームの前で「被爆者利権」などとヘイトスピーチしている連中のくせに、原爆被害を都合よく持ち出してヘイトスピーチをする、その軽薄さへの怒りでいっぱいだった(そこは既に書いているのでコチラ)
知らずに着ちゃったんだな…もそうだし、あのTシャツが古参のファンからのプレゼントだったとも伝え聞いて、韓国の若い人たちの原爆への関心なんてその程度なのだなということも実感した。別に責める気もちはなくて、そりゃそうだろうと思っている。だって、返す刀で日本の若い人たちが(だけじゃない、いい年した大人だって)大日本帝国が朝鮮半島で何をしたかをきちんと知っているかと問われたら、もう恥じ入るしかないぐらいの「知らなさ加減」なわけだから…。そんな知識のギャップが時として深刻な亀裂をもたらすのだということに、もう少し私たちは敏感になるべきだとも思う。そしてそこから数年経って、学生と話していると以前に比べてもさらに「知らない」学生が増えていることに気づかされて愕然としている(もはや意図的に教えないのでは?と地歴化の教員を疑いたくなるレベル…)
ここ10年ぐらいで気になっているのは、「日本の人は知らないですよね(だって教わらないんでしょ?」という慰め(?)寛容さ(?)みたいな韓国の人たちの反応だ。昔はもう少し「なんで知らないんだよ!」という憤懣がことばの端から滲み出ていた気がするのだけど、最近はすごくクールに「ま、しょうがないですよね」と淡泊さを感じることが増えた(と言って、私がかかわる人はかなり限られた範囲で、数も機会も少ないけれど)。若い人がしょっちゅう行き来するようになって、交流が増えた分「知らない」ことが一般的だということが向こうに知れ渡ってしまったということかもしれない。
一方で、BTSを追いかけ始めたたことで、ファンダムであるARMYのなかに「韓国の歴史や社会のことをもっと知ろう」とまじめに勉強し始める人たち、さらに「人権について考えよう」という人たちが爆誕していることにも気づいた。「爆誕」なんて大げさなとARMYのみなさんに言われそうだけど、人権について考える、気軽に話す人たちが1人でも増えてほしいと長年コツコツ種まき活動(?)をしている身としたら、BTSのおかげでこういう人たちがこんなに増えるのか!爆誕!激増!と感じてしまうわけで…(そんな自分がちょっと切ない)。もちろん、ファンダムの母数が大きすぎるので、私が「爆誕」と思う数字もファンダムの大きさに比すれば大した数ではないには違いない…。それでも、ね。
そんなこんなで、かれらの楽曲について、錆びつきかけていた韓国語を引っ張り出し、辞書を引っ張り出し、歌詞を翻訳し、かれらの話すことを聞き取ろうと耳を澄ませるという形で、韓国語学習が再開したのだった。
学び直しのなかで思うこと
BTSといえばラップ、ラップといえばリリック…で、詩が命だなぁと訳しながら、早くて全然耳がついていけないなと思いながら聴いていて、韓国語の「音」がおもしろいなと感じるようになった。語学堂に通っていたときは、慣用表現の言い回しなど、語彙や表現への興味が強かったのだけど、毎日延々と楽曲を回し、自分でも歌ってみたいから発音に意識を向けるようになって改めて気づいたのは、韓国語が鼻から喉の奥のほうまで大きく使って話される言語なのだということだった。それに比べると、日本語は口のまわりしか使っていない(比喩でなく「口先だけの言語」だと思う)。
もちろん語学堂のときも、先生から「日本の人は苦手ですよね…」と喉の開き方や舌の使い方、息の強弱といったことは注意されてきたけれど、日本語では使わない筋肉を使わないと、韓国語の音は出ないのだなと、ようやくちゃんと理解できた気がしている。
そんなことを考えながら、ラップを聞いていると、どんなに高速であっても、それが口先だけの早口ではない、胸から上を全部フル稼働させて繰り出されている「音」だと感じられて、感情や思考を全身でぶつけてくるかれらにどう応える?という気分になる。
ホビだけでなく、BTSのメンバーは(特にラップラインの3人は)みんな独特の泥臭さを持っていると私は思っているのだけど、
ナムジュニ(RM)とユンギ(SUGA)はことば/語りの土着性、ホビは身体の土着性…って感じがある。ことばになる前に、音楽になって身体が動きだしてしまう感じ。その身体に、ことばがついてきてラップが紡がれているような、そんな感じ。で、ナムジュニから感じるのは、朝鮮の詩の伝統/「詩の国」を体現しているようなエネルギー。例えるとパンソリに感じるものに近い。吟遊詩人的な。対してユンギさんは生の語りそのものの身世打鈴(シンセタリョン)。喜怒哀楽がほとばしってくる感じ。
いずれにせよ、かつて日本に蹂躙されそれでも自分たちの歌舞音曲を手放さなかった人たちの系譜に、かれらは繋がっていると私は思っていて、私にとってのかれらの魅力はそこにある
(いや、それだけではないけどね…)※こちら、拙文より
※ナムギについては、こちらも
翻って私は、こんなふうに地に足の着いたことばを、自分の身体をきちんとくぐらせながら紡ぎ出しているだろうか?ということもよく考えるようになった。
韓国語の場合、漢語由来の語彙と固有語(日本でいう「やまとことば」。朝鮮語固有の語彙)とが明確に分かれていて、固有語の言い回しがとても音声的というのか、「춤을 추다」 「꿈을 꾸다」と、日常で韻を踏んで話してる!感があるのだ。日本語の場合、そういう繰り返しはしない…というか、文字に起こして文章として読んだときに重複と感じられるものは、話しことばの上でも「くどい繰り返し」として修正されてきたんじゃないか…という気がする(直感でしかないけれど)。少なくとも「眠りを眠る」「夢を夢見る」とは言わない。動詞に「기」「ㅁ」をつけて名詞化したり、名詞に「들(~たち)」をつけて強調したりといった表現法も、日本語にはない(日本語も元は形容詞に「み」をつけて名詞化していたはずだけど、いまは「悲しみ」「深み」といったいくつかの語彙が語彙としてあるだけだ。「わかりみ」は、その方法の借用?)。
前々から、日本は書き文字文化(書いてあるんだから読めよ文化)だなぁと思っていたけれど、それは単に「注意書きは必ず文字にして掲示する(だから読まないやつが悪い)」「大事なことは必ず文書にする(口約束は信用できない)」という慣習から価値観を生み出すに留まらず、音声言語が書記言語に影響されて書き文字的になってしまっているのでは?とか(具体的にどういうことかは、未だ説明しづらい…)。記録として残る文字というツールが、過去を私たちに伝えてくれるのだから価値があるのはそうだけれど、音声言語で口承されてきた記録にだって同様の価値がある。それなのに、日本語の世界は書記言語にばかり価値を置き過ぎでは?と、最近強くそれを思う。
話す、歌う、踊る
集まる、出会う、語り合う
韓国にいると、コンビニの前に必ずテーブルと椅子があって子どもたちがそこでおしゃべりしていたり、道端に古いソファ?が出してあって、おじいちゃんやおばあちゃんがそこで座って話していたり、公園や広場で座っておしゃべりしたり…の人たちを本当によく見かける。広場(マダン)の文化がまだ生きている、というより日々更新されながら繋がっているのだろうなと思う。日本にはそもそも広場がないし、公園のベンチすら撤去されるありさまで、人が何となく集まっておしゃべりできる空間がない。お金を出せば、カフェやファストフード店のような空間が得られるけれど。
ことばが社会的なものであることは自明だけれど、ことばが生まれる、使われる環境が、言語文化のありようにも繋がっているのだろうな。
日本語と韓国語は似ているから、初学者には学びやすい。そして似ているからこそ、異なる部分から感じるギャップ、かれわれの違いにドキドキしたりもする。そしてその表現がどんなふうに生まれ、どんな場で使われてきたのか、いまどんなふうに人の口の端にのぼるのか……そんなことにも意識を向けると、何重にも興味深さが増していく。
なかなか激音と濃音が言い分けられないし、いつになったら字幕なしでかれらのおしゃべりを聞き取れるようになるのか、全然ゴールが見えないけれど(笑)ことばの身体性とか、話しことばの文化と「場」の問題とか、考えたいことは尽きないし、おもしろい。
私の身体をくぐっていくことばが、日々少しずつ、豊かになっていますように。
12/5追記
まさか、これを書き終えたその日の夜に、尹大統領が根拠に乏しい非常戒厳令を発布し(権力の濫用としか言いようがない)、それを国会議員と市民が(深夜にもかかわらず)即座に国会に駆けつけて解除決議を成し遂げ無効化させる、という事態が起きるとは……。
私の知人にも国会前に駆けつけていた人がいたのだけれど、普段から声に出して、身体化された民主主義のことばを持つ人たちの瞬発力に瞠目させられた。やはり思いを、意見を、ことばにして身体をくぐらせることで身体に染み込ませるということが大切なのじゃないか……と、付記しておく。