わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

#虎に翼 がない朝を迎えて「反日」ということばを考える(仮)

タイトルが思い浮かばず(仮)…仮ってなんだ? (笑)
今日も道を歩きながら脳内では「さよーなら、またいつか!」鳴り響いてたけど(歩きやすいのよ。リズムが…ということでダンス動画)

youtu.be

 

終わったけれど、ここからさらに「翼」が広がってほしい

細かいことは後日にしますが(シナリオ集が届くので…そしてDVDボックス買おうか悩み中)

『虎に翼』がフェミニズムのドラマだったけど、私的には植民地主義について考えてしまうことが多かった。朝ドラでいうと、私は『カーネーション』がダントツで好きなのだけど、岸和田が舞台で服飾の話なのに、岸和田に大勢いたはずの朝鮮人女工に触れることはなかった(そもそも紡績工場のことが出てこなかった?)。とはいえ、勘助という幼馴染のエピソードを通して日本軍のトラウマ/日本軍が中国大陸で何をしたのかに思いを馳せるように仕掛けられていて、朝ドラでこの話題!と興奮した。その後、『ごちそうさん』で空襲(このことば遣いも嫌だな…空爆というべき)に際して逃げろではなく「消火せよ」と命じる帝国のおかしさを浮き彫りにしたり、『マッサン』ではエリーに付きまとう特高警察を描いたりと、大日本帝国の負の側面を史実に基づいて少しずつ、「これっておかしいよね?」と提示してきた小さな流れが、ここへきて大きく流れ出した、といえるのかもしれない(一方で『まんぷく』ではモデルになった安藤百福さんの台湾ルーツはガン無視するし、『らんまん』ではあの時代の台湾の山岳民族に出会う回があったのだけど、取ってつけたような感じで疑問だったし…というのもあるんだけど)

ドラマにしても映画にしても、現実の世界には「いる」のに、そのフィクションの世界では「いない」人たちが大勢いる。マイノリティとはどういう人たちか? という問いに「ドラマや映画に出てこない人たち」という答えもありだな、と思う。要はマジョリティが見ている世界の解像度がそういうことだから、そうなる。無意識的に身についてしまったフィルターに無自覚だから、そうなる。そして制作側にまだまだマイノリティは少ない(そんなふうに考えると、やはり障害者が最も画面から排除されているし、是正も難しそうだな…と思う。そもそも日常生活の中で健常者が障害者に全く触れあうことなく生きていける構造になっているわけだし)

そんな「いないことにされてしまう人たち」を「ここにいる」存在として描く、というのを意思的にやったと脚本家がはっきりとことばに出していたのも印象的だった(というより、こんなにも関連記事が続々と出てきた朝ドラもなかったと思う。頓珍漢な悪口から、深読みしすぎではないのかと思うものまで…まぁ、話題になっているから『虎に翼』で何か出せば売れる!という動機だけかもしれないけど。脚本家の吉田さんはじめ制作や考証にかかわった人たちが断りもせず取材に応じてこられたことも大きいのだろうと思う。願わくば、これをきっかけに「社会と個人」について考える人が増えるといいなと思う。

さて。

 

反日」ということばの氾濫

9月に入って、ほんとに今月中に終わるんだろうか…と思う風呂敷の広げ方で物語が展開しているときに、現実の世界では深圳の日本人学校に通う児童が殺されるという事件が発生し、例によって「反日教育のせいだ!」と言いたがる人たちがネットで吹き上がるという事象が起きた。

diamond.jp

中国政府は容疑者に同様の前科があること、学校から200メートル離れた路上での犯行であること…などを根拠に、単なる通り魔だと結論付けたそうだけど、そこはもう少しヘイトクライムの可能性について検証すべきでないのか…と正直思っている。かといって私はネトウヨが言うところの「反日教育」が原因だとは思わない。また、英語での報道などでは早くから被害児童が日本と中国のダブルであることが記されていたのに、日本の報道はずっと「日本人学校の児童」という表現だったことが薄気味悪かった(もちろんネトウヨはそこに触れない…というより知らなかった?)。上記の記事でふるまいさんが触れている「父親の手紙(日本語訳)」を私もSNSでみかけたけれど、出所不明、かつ原文が中国語というのが釈然としなかったのでシェアはせず、気になってあれこれみているうちにふるまいさんのSNS投稿に気づいた。上記の記事は、そこで小出しにされていた情報を整理してまとめられたもの。「父親の手紙」の検証と合わせて、読まれるべきは「友好商社」の歴史解説だなと思いながら拝読した(不明を恥じますが「友好商社」のことは私も知らなかった。これを知らない、忘れられるのは不味いな…と直感的に思ったという次第)。

一方、日本政府は在中国日本人の安全確保の要望を、強い調子で中国政府に言い募った(その要望自体は外務省の務めだけど)。そしてそれに呼応するようにネット上では「中国に住めない」「日本人だとわかったら何をされるかわからない」投稿があふれた。しかし2000年代からこっち、ヘイトスピーチヘイトクライムと対抗してきた者からしたら、「日本に住めない」「外国人とわかったらどんな目に遭うかわからない」状況は日本にも溢れていて、それに対して日本政府は放置しているくせに、何言ってんだ? でしかない。だから中国に要求するなということではなく、その要求をそっくりそのままわが身に照らして、日本の状況を是正するために独立した国家人権委員会と総括的差別禁止法をはよ制定しろ!である。「いや、どの口がそれを?」と中国政府にせせら笑われてもしょうがないぐらい、日本も酷いのだということは、わかっておかなくてはいけないだろう。

父親が日本人、母親が中国人…ということは、生活環境の中で中国語が第一言語になるのが自然ななか、日本語の能力ともう一つのルーツである日本のことを学べるように、まさにダブルのアイデンティティをしっかり保障したいというお考えだったのだろうな…と思うと切ない。差別や分断をあおることこそ、このご家族の意に最も反する行為だろう。差別をまき散らす奴は恥を知れ、としか言いようがない。そしてそこで罪深いのが「反日」ということばだ。中身もよく確認せずにカジュアルに使われすぎだし、かつ「日本の悪口を言って敵意をあおる連中のせい」と他責することで、日本がやらねばならない、やるべきことなのに手を抜いてまじめに取り組んでこなかったことから目をそらさせる効果を発揮してしまっている。
(もっとも、そうやって他責して自分自身は責任を負わないために都合がいいから、無意識的にカジュアル遣いしてしまうんだろうなとも思っている)

 

他責志向? を正当化する「反日」ということば

そもそも「反日」だの「反日教育」だの言いだしたのは、侵略と植民地主義の歴史を認めたくない歴史修正主義者たちだった。日本で大日本帝国の加害の面についてきちんと教えよう/学ぼうという動きを「自虐史観」と名付けたこととセットで、「日本は悪くない」と言いたいがために編み出した用語であることを、何度でも確認しなければならない。人間なんて間違いを犯してあたりまえの生き物で、とりわけ19世紀後半から20世紀前半の帝国主義国が跋扈していた時代は酷かった。帝国の端くれだった日本も例外ではない。その「やらかし」の反省から世界人権宣言が生まれ、国際人権条約が結ばれていったのだから、負の歴史をきちんとふりかえることは自虐でも何でもない。むしろきちんと振り返らないから負の歴史を繰り返すのだ(ガザの問題もそういうことだろう。人権だ何だと言いながら、自分たちの植民地主義は棚に上げてたんだな…が露呈している)。

それを自虐と名付けて攻撃し、「日本は悪くない」どころか、日本はえらい、優秀だ…という日本像に固執するのは人種優越主義(Racism)そのものだろう。なぜその醜悪さに気づけないのだろう。そしておそらく多くの人が、Racismじたいには嫌悪感を示すだろうに、なぜそれと結びつく「反日」ということばをこうも無頓着に安易に使うのか、が問題だ。そこに根深い植民地主義の構造と心理があるように思う。

反日教育」「反日」と名指しされていることのほとんどは、中国や韓国などのアジア諸国が、かつて大日本帝国から受けた加害、屈辱、侵された尊厳について、その具体的な事実を被害側からの視点で解説した教科書や授業のこと、あるいはドラマや映画のことを指している。いわば日本で都市爆撃や原爆被害について被爆者の視点から事実を学び、ドラマや映画をつくっているのと同じことだ。自分たちの暮らす街の歴史として、自分につながる先人たちの歴史として学ぶ、素朴なシンパシーを入り口に、普遍的な「反戦平和」価値観につなげていく入り口として、それは行われている(はず…と思いたいけれど日本の平和教育はシンパシーで終了してしまっていることが多い。それも「反日」なんていうことばにまんまと乗せられてしまう脆弱さの原因かもしれない)。ただ、事情が異なるのは、日本が受けた爆撃や攻撃は「戦争」の暴力だが、近隣アジア諸国のそれは「侵略」「支配」の暴力だということだ。現地の資源を収奪し、搾取するための暴力。物理的な暴力だけでなく、日本語教育などの文化的な暴力も含まれる。植民地支配は「そこにいる人たちを一方的に支配する」ものだから、当然、強い反発を抑え込みながらしか遂行できず、だからこそ暴力も苛烈になる。アジア諸国の歴史教科書をみて日本人の多くがギョッとしてしまうのは、その苛烈さに関する知識がなく、植民地主義を理解もしていない状態でいきなり目にするからだと思う。人間として、そんなことする? と思うような行状がたくさん記録されている(だから『カーネーション』で勘助の戦場トラウマが描かれ、勘助の母親が「あの子は酷いことをされたんやと思ってたけど、ちゃうんやな。されたんやなくて、やったんやな…」だからこそ気の好い優しい勘助の心根が深く傷つけられ、あんなに苦しんだのかと腑に落ちる姿/演技は、本当に秀逸だったと私は思っている)。

かつて侵略を受けた国が、その歴史を後世に伝えるのは、暴力に踏みにじられた尊厳を回復する意味がある。自分たち(の祖先)に落ち度はない、力で屈服させ支配した侵略側に非があるのだと確認すること。植民地主義は差別と暴力の源泉であり、だからこそ植民地主義とは何かを歴史から紐解き、この世界から差別と暴力をなくしていく努力をすること。そのための歴史教育を、「日本が責められている」と情緒的・短絡的にとらえて「反日」とレッテル貼りするのは、人間の知性を否定することだと私は思う。

自分の過ち、やらかしを認めるのは辛い。だからといって「自分は悪くない、だって〇〇が…」と他責して考えるのをやめれば、同じことを何度も繰り返してしまう。そうしないために人は「反省」「総括」といった概念を生み出し、過ちと向き合って再発防止することが大切だという価値観をつくり上げたのではないのか。まして自分が被害を与えた相手に責任転嫁するなんて、卑怯にも程がある。卑怯というより、非を受け止める自信がない、その自信のなさを虚勢を張ってごまかそうとしているのかもしれない。

 

差別を許さないこと≒植民地主義を乗り越えること

一方、中国のSNSゼノフォビア(外国人嫌悪)をあおるような投稿や動画があふれているというのも事実らしく、私もいくつか確認した。そのなかに「日本人学校はスパイ養成所だ」という主旨のものがあり、レイシストが使うロジックはどこでも一緒なんだなと苦笑するしかなかった。日本でも「朝鮮学校はスパイ養成所」と言う輩が差別を煽り、ヘイトクライムにつながっているからだ。中国のインターネット上の差別が件の事件の加害者に影響を与えている、だから取り締まれと言うなら、(繰り返しになるが)インターネット上の「嫌韓」言説に影響されて放火事件を起こしたと証言した加害者がいる日本でも、同様に取り締まりが必要だろう。差別的な書き込みに対する監視モニタリングや削除要請、プロバイダ規制など、日本政府は一貫して消極的だが、これを機に積極的になってくれるだろうか? なお、私が中国のネット状況をわずかながら知っていたのは、そのことを憂慮している中国からの留学生たちが話してくれるからだ。かれらは日本語のネット上の排外的・差別的な書き込みに傷つきながら、それを鏡のようにして自国のインターネット状況を憂慮し、心を痛めている。そんな青年たちと、日本の若い人が親交を深めることで、「歴史を学ぶ意味」や「歴史の中のひとりとしての自分」について考えてくれるといいなと思っている。

 

人を分かつのは国境ではなく、暴力(人権侵害)を許すか、許さないか、その信念だ。信念は考え方だから、自分が決心すれば変えられる。暴力を仕方がないことだと見過ごす、甘受する人生を歩むのか、自分に対しても他者に対しても暴力は許さないと抗って生きるのか、人としての生き方が問われている。

安易に「反日」ということばに逃げ込んで、自分につながる歴史から教訓を学ぼうとしない生き方は、暴力を許すことにつながると私は思う。

 

ちなみに「嫌韓」ということばについてはこちら
いずれにせよ、こういったことばがカジュアルに使われてしまうのは、カジュアルに使うことで問題を軽く見せ、なかったことに持っていきたいという集合意識が日本社会に存在しているからだと思う。自分がどのことばをどう使うか意識していなくても、政治的な意図が(主観的には)なくても、私たちはこの社会でことばによって生きている限り、常に政治的なのだということも、忘れてはいけないと思う。