わったり☆がったり

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《暴力装置》について考え…ざるを得なかった7月について

7月8日に銃撃事件が起き。

すわ、テロか、暗殺か、と世間は色めき立ったけれど、行為そのものは怨恨による殺人に過ぎなかった(と私は思う)。大した情報も得られていないのに、特別報道?を組んでしまったがために、何度も襲撃のそのときの映像を繰り返し流し続けることになった地上波のテレビジョンが、もはや暴力装置だった。

 

テレビも新聞もしんどくて、BTSのMVを延々とループで見続けてしまったではないか。
(と、それはどうでもいい話。でも彼らがいなかったら、確実に病んでた。ありがとう! バンタン)

 

殺されたことは理不尽に違いない。ただ、納得がいかないのは「殺された」というその事実の一点をもって、殺されたその人が生前に傷つけた命とそれへの責任は不問になったかのように、「立派な人が…」的語りばかりが公に流されたことである。

自民党政治、安倍政権に対してNoを言う人びとを、「あんな人たち」と切って捨てたこと。

国会で、質問にまともに答えもせず、質問者に対して下品なヤジを飛ばし続けた大人げなさ。対話軽視。

誠実な国家公務員が自死している事実に向き合わず、何の証言もせず、調査もせず、うやむやに終わらせようと主導したこと。

…彼の不誠実さなら、いくらでも挙げられるではないか。

彼の周辺から「暴力に屈しない」だとか「民主主義への挑戦だ」とかいうことばが出るたびに、どの口がそれを言えるのだと、うすら寒くなるばかりだった。

 

そんなこんなで、このことは言語化しておかなければと思うものの、まったく考えがまとまらず、けっきょく1ヶ月と10日ほど経ってしまった。いまも言語化できる気が実はしないのだけれど、とりあえず、だらだらとでも書いておかないといけない気がするので、書きます。(前置きが長すぎる…)

 

カルトの暴力

当初、「ある宗教団体の…」と報道された統一協会だったけれど、私ぐらいの世代(50代)はちょうど大学生だった頃が「霊感商法」問題のピークで、被害の実態が暴かれてカルト団体への注意喚起も盛んに行われていた記憶を、だれもが持っているはず(その意味で、その世代である政治家が「知りませんでした」「気づきませんでした」はあり得ない。本気で気づけなかったとしたら、バカなの? である)。そして、それは、自分とは遠い世界で被害に遭う人がいてリアリティを感じられない注意喚起が頭越しに流れていくといったものではなく、身近に被害者がいたり、入信した身内や友人と言い争いになったりといったリアリティのある記憶だ。

私の身近にも、統一協会の集団結婚式でご夫婦になった人がいる。いまはもうかかわりは持っていないと言っているけれど、実際のところはわからない(少なくとも親せきや友人知人とのお金のトラブルはこの20年ぐらい聞いていないから、ほんとうに離れているのかもしれない)。結婚だけでなく就職も、入信していたからその企業に入れたのだと聞かされたこともある(そこそこの中堅企業なので、信ぴょう性は?)。ごくふつうの、まじめな人がカルトに行ってしまうのだ。だまされる方が悪いとか、なぜ見抜けないんだとか言っている人は、紀藤弁護士有田芳生さんの仕事から学ぶことから始めてほしいと切に思う。私も何度か勧誘されたことがあるけれど、私がそちらになびかなかったのは、私の根が(道徳的に)不真面目だったからだと今でも思っている。

 

カルトの暴力性は何よりも、そのカルトが描く世界観からの逸脱を許さない点にある。宗教の体を取るから「信仰」と表現されるけれど、その「教え(教義)」を共有するメンバーで形成する共同体にこだわり、共有しない人たちを徹底的に排撃する。誰と話そうが出会おうが、考えは一ミリも変わらない。変われない。変わることは変節であり裏切りだから。相手が入信して変わることを一方的に希求し、変わらない者は排斥する。

*ただし、厄介なのは、「宗教の体」と言ったけれど、既存宗教にも同様の暴力性はあり得るということだ。今回の事件で「宗教2世」問題がにわかに注目されたけれど、子どもにとっては、生まれたときからその「信仰」に囲まれて育つわけで選択肢がない。けれど成長するうちに疑問を感じたり矛盾を感じたりする機会は訪れるわけで、その際にその疑問や葛藤を自然なこととして受け止め、許容し、親の「信仰」と距離を置いて考える時間を保障できるかどうかという問題は、宗教界全体で考えなければいけない面もあるのではないかと思う(ここは余談)

 

歴史認識ジェンダー平等を巡るバックラッシュとの関係

報道で、いちいちモヤモヤさせられたのは、そのカルトが「韓国発祥」で、教義として、植民地支配を行った日本は悪であり被害者たる韓国に償いをする責任があり、だから団体への貢献や献金をするのだというロジックを持っていることが繰り返し語られたことである。

それは事実だから仕方がない? でも、そういう語りが嫌韓、ヘイターに燃料を注いでしまう面が確実にある。そこに注意を払った言い方はできないのか…と一人気をもんでイライラしていた(言語化が難しいのはそのせいもあるかもしれない)。

実際、集団結婚で韓国農村部の男性と結婚して韓国に渡った日本女性のなかに、日本の植民地支配に対する深い贖罪意識があって、意に沿わない相手や婚家への不満があってもそれを「試練」として耐えてこそ…的なメンタリティがあると聞いたこともある。やはりそこでも、まじめな人が巻き込まれるんだなと思う。そういえば私もそういうロジックで勧誘されたことがある。日本の植民地支配について学んでいるまじめ女子と思われたのだろうけれど、私は前述したとおり根が不真面目だから「私一人が贖罪として尽くすのは筋が違うだろ」とスルーできた。そういえばその勧誘では、日韓関係や日本の植民地期について学ぼうとする「動機」には必ず「日本人としての申し訳なさ(贖罪意識)」があるのだという前提になっているようだった。申し訳なさというか、若干の後ろめたさは確かにあるけれど、私はそんなことより、その歴史に端を発する現状の差別を何とかしたいというのが動機だから、当時のことを謝りたいという類の感情はなく、話が全然かみ合わなかったのだった(「自虐史観」もそういう前提の上に成り立つ見立てだなといまさら気づく…)。私に謝られて相手の気が済むなら謝ってもいいけど、日帝支配の被害に対する怒りって、そんなチンケな話ではないだろうと考えている私に、「日本人として申し訳ないですよね!」と共感を迫ろうとしていた人は、さぞがっかりしたのだろうな。

…そう考えていくと、

統一協会のこの教義こそ、歴史修正主義者が言いたがるところの「自虐史観」だったのだなと思う。両者はマッチポンプだったのだ。歴史修正主義者も人の話を全然聞かないカルト集団だなと、何となく感じていたけど、そういうことなら合点もいく。
植民地期の歴史的事実をつまびらかにし、国家としての責任を解明しようとする歴史学者が、「日本人は罪深いから償いのために個人の財産をなげうって尽くせ」なんて言うわけもない。国家を支える国民としての責任はもちろんあるが、そこでせねばならないことは、歴史的な過ちを繰り返さないための教育活動であろう。それを「自虐史観で教えるな」とわけのわからない排撃をして、結果的に知識がないから「贖罪が必要」ロジックに巻き込まれる人を生み出してきたのではないのか。罪深い。

霊感商法や集団結婚式が「ヤバい団体」イメージを広め、目立ってヤバいことはしなくなった一方で、国会議員などの「社会的影響力の強い人びと」に近づき、懇意にしていることをアピールし、名称も変更し、「ヤバい団体」イメージを払しょくすることに、この30年ほどを費やしたんだなということが徐々に明らかになってはいるけれど、イベントに出たとかでないとか、会費を払ったとか払わないとか、そういうことではなくて、そのつながりからの議員の動き、発言がマクロレベルでどんな影響を生み出したのか、そこにメスを入れてほしい。

歴史認識、戦後補償の問題に関しても、ジェンダー平等問題に関しても、00年代からバックラッシュが吹き荒れた。ジェンダー平等なんて、90年代後半は、もう夫婦別姓なんて時間の問題でしょ?ぐらいの楽観的な空気だったのに、いまに至っても実現していない。あくまで「選択的」であって夫婦同姓にしたい人はすればいいよと言っている案でさえ、「伝統的な家族を破壊する」と強硬に反対するなんて、ロジックが破綻しすぎだろうと思って呆れていたけれど、カルト教義だったのかと思えば納得もいく。論理的整合性も、異なる意見や考えと交わっての討議も、どちらもあり得ない世界から発信しているのだから、こちらがいくら言を尽くしても無駄だったわけだよ…。そしてそんな徒労感を覚えるできごとは、LGBT法案が成立しないとか、子ども庁がしれっと「子ども家庭庁」になったりだとか、こちらも枚挙にいとまがない。

いま、統一協会との関係性について名が挙がっている議員の顔ぶれは、バックラッシュを主導した顔ぶれとハッキリ重なっている。もちろん、殺された安倍は筆頭格だ。そういう志向性を持っているから統一協会につけこまれたのか、統一協会に取り込まれてそういう志向性になったのかは、ご本人にしかわからない。しかし、その志向によって攻撃された側からすれば、そのつながりは解明したい。解明されなければ割に合わない。

この20年。特にこの10年ぐらいが酷いけれど、

通したいことは「丁寧に説明させていただく」と、その説明が国民に理解されたかどうかの検証もなく一方的に言い続けて通す。通したくないことは「国民の理解が追い付いていないから」と国民のせいにして通さない。そういう態度が暴力でなくて何なのだろう。もはや国会すら、代理民主主義の舞台ではなく、少数意見を抹殺するための暴力装置かよ…という状況だった。現内閣も「聞く耳を持っています」と標榜しながら、その耳は自民党の都合で開いたり閉じたりするのだから、何も変わっていない。

そしてそのことが、政治不信、無力感、政治への無関心を強化し続けている。もはや、実態として独裁国家だ。日本のどこが民主主義国家なのだろう。

 

まとまらない…けど

こんなまとまらないこと、自分のPCのなかだけで書けよって感じですが。

でも書いてみたら、ちょっと整理できたような気もする。要は、20世紀終盤からこっち、「家父長制的家族」を守りたい排外主義カルトと、人権にあふれた世界をつくりたい個人・グループとが、闘いに明け暮れている日本だったのだな。そういう大きな文脈のなかに、個々の闘いを位置づけなおして、今後の闘い方を考えよう(って、ことばでいうほど容易ではない…)。

がんばろ。がんばります。

 

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