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「寂しさ」に向き合う:平田オリザ『但馬日記』読後のメモ②

感性を磨くことは重要です。それはとても重要です。

しかし、感性だけでは、矛盾に満ちた世界と戦うことはできない。

みなさんの感性。たとえば皆さんが差別を憎む正しい心が折れそうになるとき、本学で培った理性がかろうじてそれを支えてくれることを願います。芸術を愛する美しい心、世界中からの観光客をもてなしたいと思う優しい気持ちがくじけそうになるとき、本学で学んだ知性がそれをかろうじて救ってくれることを願います。

(132p:芸術文化観光専門職大学2021年4月入学式式辞の一節)

引き続き平田オリザ本です…(ファンかよw)

でもまさに、私が授業や研修の仕事で願っている究極はこれなんだよな…と共感。

以前、Twitterで「知識のない子どもがすぐれた人権感覚を持っていることだってあるのに、幼い/知識がないと未熟扱いするのはエイジズムだろ」とエアリプされちゃったことがあるのだけど、感性として公正感覚の強い人というのは確かにいて、私なんかはよく言えばエンパシー派で(シンパシー力が弱め)、知識をもとにして考えてやっとこさな人なので、考えなくても感性で動ける人には憧れるけれど、でも一方で、感性だけでは限界があるとも思っていて。その人とその人の周辺の人間関係において公正で優しい人間関係を作り出す力は確かにあるんだろうけれど(そしてそれは言うまでもなく大事なことだけど)、ではなぜそれが大事なのか、その関係に亀裂を入れるような出来事や干渉に出くわしたとき「それは困る」と防御や反撃をするために説明するためには理性と知性がいる。感性だけでは戦えない。

そしてもう一つ、「感性を磨く」というのも、相当にぼんやりした表現だよな…と思う。よくいわれる「人権感覚を磨こう」みたいなのって、何をどうすることが「磨く」ことで、磨かれていないそれと、磨き上げられたそれは、何がどう違っているんだろう? どういうイメージですか? って聞き返したくなることがある(聞き返さないけど)。自分も演劇をしていたから思うに、けっきょく感性を磨くために必要なのも理性や知性だろ? と。セリフの意味を考えるために、舞台の時代背景を知ったり、心理学や社会学の本を読んだり(平田オリザさん自身、高校生の質問に対して「1本脚本を書くために軽く200冊は読みますかね…」と答えている。高校生が「マジか…」ってなったのを横目に「確かにそれぐらいは読むな…」と呟いて尊敬されたw)、知識も増やさず、対話や討論を通して思考を巡らすこともせずに感性を磨けたりはしない。

 

この本は、先ほど引用した式辞の大学を豊岡市につくり、演劇祭を豊岡市で開催し…といった一連の実践の記録本なのだけど、ちょうどその時期に青年団にかかわる演出家のハラスメント事象が明るみに出たこともあって、ハラスメントに関して書かれた箇所がある。そこでのキーワードが「寂しさ」という感情なのだけど、これがすごく考えさせられた。

スポーツの世界がタテ社会で権力関係がはっきりしていてハラスメントが発生しやすい…みたいな話はよく言われるけれど、実は芸術の世界もそうだ。演劇なんて、高校の部活動からして体育会系そのもの。自分が部員として過ごした時間も、顧問・コーチとして過ごした時間も、振りかえってみたらハラスメントの温床もいいとこだったと思う(ホントに心から反省している…)。高校で顧問をしていたときに、偶然大阪府の高校生の取り組みに平田オリザさんが助言者で来られたことがあって(まだ30代だったんじゃないかな。私も20代だった)、その的確なアドバイスと偉そぶらない立ち居振る舞いが目から鱗過ぎて、「フェアな組織づくり」のイメージが唐突に腹落ちしたのが衝撃だった(それ以来、平田オリザさんには絶大な信頼…)。

けっきょく、理に適ったことばで的確に指示を出せない未熟な演出が「怒鳴る」「苛立つ」というふるまいをやってしまうんだなと。そして当然ながら、それではどう改善していいものかわからないから、役者はあれこれ試行錯誤してみるしかないんだけど、演出が苛立っていたら委縮して「あれこれ」思いつくのが難しくなる。スタッフもそうだ。明確にイメージを説明してもらえれば「だったらこういうのは?」と提案もしやすいけれど。そして、監督、演出や舞台監督といった役職は権限が持たされる側なので、そうでない役者やスタッフはその権限に従わざるを得ない面もある。その権力性を重々承知し、自らコントロールして傍若無人にならない振る舞いを考えることが必要なのに、そう思ってない人がかつては多すぎた(私も。そしてこの間の芸能界のあれこれをみるに、未だにそうなんだろうなと思う)。

 

20代の頃、私は従来型の「劇団」という組織になじめず、これをどうにかして、もっと緩やかな共同体にできないかと考えた。演劇は省力化の難しい分野で、どうしてもマンパワーに頼らざるを得ない部分が多い。諦めているわけではないが、貧乏がつきまとうのも宿命のようになっている。

欧米では、演劇をつくる主体は多くの場合、劇場なのだが、日本はこれを民間劇団が担ってきた。公的支援も少ない我が国では、経済的には、なかなか採算を取るのが難しい。劇団がある種の政治的理念で集まる結社のような時代ならば、それも仕方のないことだった。(略)

そのような強制力の強い集団を維持していくためには、何か架空、仮想のイデオロギーが必要だ。劇団においてのそれは「かけがえのない役」という幻想だというのが、その頃の私の分析だった。当時、多くの劇団において、それがどんなに小さな役であっても、かけがえのない役であり、俳優一人ひとりは劇団にとってかけがえのない存在だとされていた。(略)いま思えば、その当時はそんな言葉さえなかった「やりがい搾取」について私は考え、語っていたのだと思う。私たちの劇団は、劇団員の数を増やし、作品の再演を続ける課程で、俳優が代替わりしていくシステムを構築した。そしてそのことが図らずも、劇団員が安心して出産し、子育てが落ち着いたら、また現場に戻ってくる環境の整備につながった。(略)

交換不能な仕事などないし、交換不可能な役などない。企業も劇団も、それを前提にして人事を進めなければならない時代が来ている。そしてその方が最終的に生産性も向上する。

(121-122pp)

いま、学校が抱えている問題がまさにこれで、人事が必要最低限しか配置されない(ばかりか最低限さえ確保できていない現場が出てきている状態)から、必然的に「かけがえのない先生」になってしまう。だから休めない。先日も若手の先生と話したときに「いま、私が産休入るわけにはいかない…」と言うから「そんなこと言ってたら産むタイミングなんて来ないぞ!」と真面目に話したけど、理屈ではわかっても、実際に産休の代替教員が確保できない現実を目の当たりにして、そのことで激務に陥ってもいるその人からしたら、「そうは言っても…」になって当然だ。そんなギリギリの状態で仕事をしていたら、摩耗するし、実際に病休者や退職者も増えている。相当にマズい。

そして、そういう状況を打破するためなのか、「教師ってこんなにやりがいのある仕事ですよ!」とアピールし始めたり(#教師のバトン…てそういえばどうなった?)、教員養成系大学にやたら「即戦力」要請だか何だか知らないけどハウツー系の授業ばかり増えたりしている。でもそれはけっきょくのところ「かけがえのない優秀な教員をめざそうぜ!」みたいな話になってしまうから、「交換可能なひとりの教員になろう」という組織作りとは(観念的に)逆行する。

 

すべての役は交換可能だ、すべての仕事は交換可能だという前提で私たちは劇団運営を進めてきた。しかしそうなると今度は、承認欲求の発露としてハラスメントを起こす人間が一定数現れた。要するに人は「自分だけはかけがえのない存在だ」と認めてほしいのだ。だから要職に就いている人間ほど、自分がかけがえのない存在だということを周囲に認めさせたくて暴言を吐いたり、ハラスメントを起こしたりする。

(122p)

「20年、30年かけて、国を開く寂しさを受け止め、それを乗り越え、少しずつ異文化を受け入れられる国を創っていくことは、決して非現実的な話ではないでしょう。それを、いまからすぐに始められるのならば。しかし、きっと何より難しいのは、三つ目の寂しさに耐えることです。(中略_引用注:「」内は2015年Webサイト・ポリタスへの寄稿の引用。「三つ目の寂しさ」は日本が「アジア唯一の先進国ではなくなった」寂しさを指す)この寂しさに耐えられずヘイトスピーチを繰り返す人々や、ネトウヨと呼ばれる極端に心の弱い方々をもどうやって包摂していくのか、これもまた時間のかかる問題です」

翌2016年、当初は泡沫候補と見られていたドナルド・トランプが、アメリカ合衆国の大統領選挙を勝ち上がる。トランプ氏に投票したのは、例えばラストベルトと呼ばれる五大湖周辺の工業地帯の人びとだった。(略)この人々の「取り残された感覚」まさに「寂しさ」がトランプを大統領に押し上げた。

(157-158pp)

言ってみれば、役職だのなんだの関係なく、人は生きているだけで一人ひとりがかけがえのないたった一人のその人なのであって、「余人をもって代えがたい…」的な「かけがえのなさ」に囚われて焦ったりする必要はないはずなのだ。でも、多くの人はそう思えていない、と思う。

なぜなら私たちの生きるハイパー資本主義のクソ社会は、生産性≒仕事ができる人かどうかというものさしで、人を測るから。そういう社会でサバイブせねばならないから、人は自分の「能力」を磨く。それはあるときは「子どもの適性を伸ばす」ということばでお稽古ごとに邁進させ、「いい学校に進学できるように」と受験学力を伸ばすための叱咤激励になる。そして就活で有利になるように「かけがえのない」役職、働きをした経験をアピールせねばならず、だからアルバイトやサークル活動やボランティアや…と課外活動もがんばらねばならない。そんなふうにして「勝ち得た」職場の椅子で、「いや、あなたは交換可能だよ」と言われたら、そりゃ納得いかないよね……。

ラストベルトのおじさんたちの「寂しさ」は他人事ではなく、誰しもが抱えさせられる類のものだと思う。私は「承認欲求」ということばが嫌いで(得体がしれない感じがあるから)あまり自分では使わないのだけど、本文(引用した122pの箇所)を読んで、「かけがえのない私」でありたいという願望、という意味でとらえてみたら、なるほどなと納得した。

私自身、妊娠がわかって産休に入るまで、この「交換可能性」をつきつけられて、すごく悶々としたことを思い出した。産休代替…だけでなく、病休や介護休暇などで休まざるを得ない教員がいたら、代替をきちんと配置できる、そういう職場でなければみんな安心して休めない。業務を滞らせない、学校を止めないために、それは必要な条件整備だ。それは重々わかっていても、「あぁ、私がいなくても代わりの誰かがいるんだな」というのは、「余人をもって代えがたい」私ではないのだという意味でもあって、それは私の価値とは関係ないと頭でわかっても、寂しかった。まさに「寂しさ」に苛まれたのだ。

担任業務もだったけど、その当時、顧問だった演劇部が前年に地区大会で好成績を出したばかりで、当然次を狙っていたのにコンクール前に産休に入らねばならず、それももどかしかった。とはいえ、文化祭から練ってきた演目でもあったので、最後の最後に私がいない程度のことでポシャることもなく、それなりに好成績を残したこと、そしてその翌年は私が不在の元で(いちおう脚本は書いて、部長と連絡を取り合いながら、たまにこっそり練習を見に行ったりもしつつ)、それでも同様の成績をしっかりゲットしてきた部員たちのおかげで、私は前述の「寂しさ」を乗り越えることができた。

乗り越えるというのもちょっと違うかな。

代替可能でいいんだな、と素直に思えたのだ。「先生がいないと困る」と言われたら、そりゃ嬉しいけれど、その嬉しさは自分だけに留まる嬉しさだ。私がいなくても、いないならその穴埋めをしようとがんばれる人がいて、代わりを担うことで、その人も成長するし、組織が強くなる。いわば「余人をもって代えがたい人」が複数いる状態になるということ。私が不在のコンクールで「2位でした!」と電話してきた部長が、電話口で泣きながら「先生おらんからどうしようと思ってたけど、うちら、ちゃんとやれましたよねぇ…」と言った声を今も覚えている。私が私の「かけがえのなさ」にこだわって居座り続けていたら、この成長はなかったってことだよな…とそのとき思い知って、この嬉しさに比べたら、「寂しさ」なんてどうってことないな、と思えたのだった。

(そういえば平田オリザさんに初めて会ったのも、この部員たちが在学していた時期だった。育休明けて復帰したものの、部活指導に以前ほど時間が割けないから、他校とのジョイント公演など、外の企画にどんどん送り出していた、その流れだ…)

 

でも、そんなこと言いながら、その後も「かけがえのなさ」の居心地よさに執着して、代替可能の「寂しさ」に向き合えず、ハラスメントまがいの言動のやらかしはけっこうあるよな…と思い当たるから、この「寂しさ」の厄介さを痛切に感じる(各方面?に謝り倒したい気もちになるけど、それは置いて…)

 

平田さんはハラスメントだけでなく、ヘイトスピーチやトランプ現象も、この「寂しさ」を鍵に読み解いていて、100%賛同はできないけれど、「感情に向き合う」という視点で考えてみるのも有りだな、と。

100%賛同できないというのは、私はネトウヨを「極端に心が弱い人」だとは思えないという点と、ここをあまり強調しすぎると、差別はする奴が悪いという人間性の問題に回収されて終わっちゃわないかと危惧するからだ。平田オリザさん自身は、ハラスメントは環境とシステムで防げると考えている人だけれど、日本社会では一般的に差別もハラスメントも心情と人間性に回収させて終了、になりやすい。具体的に加害に及んだ人に対して、なぜそうなったのかを掘り下げてもらって、その人自身の課題を分析するのは大事だけれど(いわば「差別をする人の研究」は必要)、それだって目的は再発防止であって、その人の人間性の欠陥を暴きたいからではない。認知の歪みは正してもらいたいし、やらかしたことは謝罪してほしいけれど、その人にだって人間として間違う権利も学ぶ権利も、成長する権利もある。「寂しさ」に向き合えない心の弱い人、だから私とは違うとか、精神的に強くならねばとか(何をどうすれば精神的に強くなれるのか謎すぎる)には帰着してしまったら、何の意味もない(現に私もやらかしたことはあるし、差別はダメだ、人権が大事だと活動している組織内でも問題を起こす人はいる…残念ながら珍しくもない)

いくら環境整備をしてハラスメントが起きにくい構造をつくっても、なおかつハラスメントをしでかす人が一定数出るという事実から発した分析だから、一考の価値がある、と思う。

立てられる問いとしては、こういうことだろうか。

*私は「代替可能な私」をつきつけられた「寂しさ」にどう向き合っているのか?
*まず、その「寂しさ」をしっかり「私のもの」として感じているか?

考えてみれば、DVなんかも同じかもしれない。家族だって代替可能だ。そもそも夫婦は他人なのだし、お互いがお互いを必要だと思えるから偶々つながっただけの話で、その思いが冷めれば、そして他の人に向かえば、入れ替え可能だ(そもそも結婚は2人の「合意」だけに基づくものなのだ)。相手にとっての自分が「かけがえのない相手」でなくなる「寂しさ」に向き合えず、自分をそんな思いにさせる奴が悪いという思考回路になったときに、暴力が発動するんだろうな。暴力では関係は修復できないし、「寂しさ」も解消しないだろうに。

 

アドラー心理学に「勇気づけ(encouragement)」という概念があって、それが「いっぱい褒めましょう~」と誤用されていることがあるのだけれど
(「褒める」というのも「かけがえのない私」を強化する行為だな、といま思った)

本来は、特に誰からも称賛されないし、「余人をもって代えがたい」非凡さは自分にはないし、平凡に淡々と毎日を生きているだけですよ…という生き方が実は大変なことだから、そこを生き抜くために「勇気」が必要で、「勇気づけ」が大切だという話なのだ…と、私は教わった。「代替可能な平凡な私」の「寂しさ」に向き合うために必要なのは「勇気」!

ひとりとして同じ人はいない、唯一無二の「個」の「わたし」というかけがえのなさは、何があっても揺るがないのだということ。それを繰り返し、自分に言い聞かせ、周りの人たちに言い続けることが、たぶん「勇気づけ」なのだろうな。

仕事にせよ何にせよ、人がする「活動」は誰がやっても良くて、だから「代替可能」になるだけ。もちろん、同じ活動もやる人が違えば微妙に差異が出て「その人らしさ/かけがえのなさ」は立ち上ってくるだろう。そのことを素直に受け止めて喜びながら、この活動を別の人がやっても、全然いい、別の人がやればまた違う雰囲気になっておもしろそう!とふだんから考える習慣をつけていくことが大事なのかな、と思う。

 

仕事に代表される「活動」の実績や「役職」「役割」だけで人を測る文化が蔓延しすぎて、それを取り上げられたら自分に価値がなくなるような錯覚を起こす。その錯覚が「寂しさ」という感情に現れるのだとしたら、まずはその感情に向き合って味わって、自分はその感情をどうすればいいのだろう? と自分で自分の機嫌を取れるような人にならないといけないんだろう。

「感情に向き合う」は人権教育の最初の一歩なんだな、と改めて思う。

どんな感情も、私自身のもの。だから大切に感じて味わうこと。

あぁ、私は寂しいんだな。それは自分がこの仕事が好きで一生懸命にやってきたから、あるいは、この組織やそこにいる人たちが好きだから、必要とされていないような気がしてしまうと、寂しくもなるよね…。でも、その仕事を手放しても、私は私で、役割に関係なく友だちで居続けることはできるよね… じゃあいったい、何が寂しいのだろう? ……

そんなふうに、じっくり考えて、その「寂しさ」とのつきあい方をみつけて、つきあっていく力のある人が、「ちゃんとした大人(≒人権感覚のある人)」なのかもしれない。だとしたら、その力を育てていくことが人権教育の仕事だろう。その感覚、感性を育て、守るために、どんな知性と理性を育てていくのか。

 

けっきょく、人権教育を考えている(笑)というメモでした。

 

それにしても、そう考えると、いまの社会はその「寂しさ」を脅迫材料にして、「もっと頑張れ!自分の価値を上げろ!」と鞭をふるい続けているような社会だなと思う。そしてみんな、お尻を叩かれながら素直に走っている。そんな痛いのは嫌だ!とか、そんなに走れねーよ!とか言わない。追いたてる方は、その路線を外れたら、もう人生が終わってしまうかのように言うけれど、実際には終わったりしない。外れて生きている人たちも実はたくさんいる(目立ってないだけ)。本来は、そんな競争から外れたって、そこそこぼちぼち、それなりにみんな生きていける社会が、生きやすい、いい社会のはず。

「寂しいよぉ!構ってよぉ!」と素直に言えば、そんな人たちが「そうなの~?」と寄ってきて、別の世界を教えてくれるかもしれない(違うか、「構ってほしいなら、こっち来て一緒に遊べばいいやんw」ってなるのかも)。

その「別の世界」を創造して構想して、つくっていくのも、人権教育の役割。

がんばろ。