わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

ジョングクさんのこと

7人それぞれの個性が炸裂して、ワクワクさせられる一方だったソロ活動の日々に、急に冷や水浴びせられたみたいになってしまった、ジョングクさんの「3D」リリース。

 

この記事が経緯や問題点を端的にまとめてくださっています。

(すいません。サムネイル画像にハーロウ氏が出てくるの、無理…)

 

ARMY内部も荒れ模様。

私も。…荒れ模様というか、メンタル削られてるなぁと。じわじわと「あーしんど」が降り積もってます。何がしんどいのか、何が問題なのか、ちょっと吐き出してみようとBlog開ける気になったのも、上の記事が出たので経緯の説明からする必要がなくなったから(説明するのがしんどいですよね…)

まず、私の思うことを順に挙げると、

1.ジョングクさんは当然、ハーロウ氏も「差別してやろう」という意図は毛頭なかっただろうと思う。ただ、2人を含め楽曲制作からリリース、プロモーションには大勢のスタッフがかかわっているはずであり、その中の誰も問題に気づけなかったのか? が大問題だと思っている。

2.ARMYからさまざまな意見が出ているのはいいことだし、このファンダムのそういうところが大好きなのだけれど、「さまざまな意見」のなかに「私は差別だと思わないから差別でない」論法で、批判者を「アンチ」扱いし排撃する動きがあるのはいただけない(日本社会を反映してるなと思うので、いまさらショックは受けないけれど、BTSずっと聴いてきたファンなのに、それ?という疑問はある)

3.「謝罪」ということばが飛び交っているけれど、「謝罪」の中身が言う人ごとにバラバラで、バラバラなままの空中戦になっているのが辛い(これもSNSにありがち)。私は、ジョングクさんに考えてほしいこととハーロウ氏に考えてほしいことと、会社やスタッフに考えてほしいこと、それぞれに違うし、それは一般的に「謝罪」ということばがイメージさせるものとズレているかもしれない、と思っている。

…と、箇条書きのつもりが長くなってしまった(笑)

2016年のミソジニー批判からのBighit「謝罪」声明文やナムジュンが語った思い、2018年の国連スピーチにコロナ禍の#BLM #StopAsianHate への連帯メッセージや寄付行動など、これまでBTSが世界に示し、築いてきた「社会正義」アイデンティティに反する事態になっている。とはいえ、BTS名義ではなくジョングクさん個人名義なので、リーダーはじめ他のメンバーが代わりに何か言うということにはならないだろう。しかし、かといって「あれはジョングク個人の問題でBTSブランディングには関係ない」ということにもならない。なぜならジョングクさんはかけがえのない1/7だから。

これは私が大好きな写真で。BTSのリーダーとしてさまざまな葛藤を乗り越えてきたナムジュンにとって、「僕のヒーローはナムジュニヒョン!」と飛び込んできて、未だに屈託なくそう言い続けて慕ってくれる末っ子・ジョングクさんの存在は、ものすごく支えになっていたんだろう、と思っている。だからナムペンとして、ジョングクさんには他のメンバーに対してとは異なる感情がある。
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2016年に「知らぬうちに内面化していたミソジニーによって、意図せずマイノリティを傷つける歌詞を書いてしまったという現実」に向き合って、よく眠れないほど悩んでいた、その大好きなヒョンのことを、どう思ってたのさ…(悲)と、「3D」リリース直後、実は私は少し怒っていた。「ジョングク! ちょっとここへきて座んなさい!」と正座させて説教したいモードだった(オカンか)。

…でも考えてみたら、当時、ナムジュン22歳、ジョングク19歳、その辺の大学生男子の年代なわけで「なんか先輩大変そう」「だって先輩が差別なんかするわけないじゃん?(めっちゃいい人なのに!)」「そんなに悩まなくても…」とか、問題の本質よりも大好きなヒョンが苦しそうなことにばかり目がいって、そうこうするうちに先輩はあちこちに相談して考えて自分なりに結論を出して「僕はもっといい人になります!」とポジティブに立ち直り、後輩としては「何かわかんないけど元気になって良かった~」「やっぱヒョン最高やんな!」とご機嫌になってお終い、ということも全然あり得る。むしろ、そっちの方がリアリティある(だいたい、その年齢であの批判を受けてあそこまでまじめに考え抜いて勉強するナムジュンがレアなのだよね。だから私はかれが好きなわけでさ…)

なので、最初に書いた1.について、ジョングクさんに関してはあのときのナムジュンの位置にいま立たされていると、気づいてくれたらいいなと思っている。ちょっと違うのは、ジョングクさん自身が書いた歌詞なわけではない点。だから問題のありかと自分自身がどうすればよかったか、今後どうすべきかを探るのに、あのときのナムジュンとは異なる困難があるかもしれない。でも君の大好きなヒョンが、ロールモデルとして傍にいるのだから、がんばれ! と思っている。「自分にそんなつもりがなくても、自分の作品で人を傷つけてしまうことが起きるという現実」を引き受けて、「そこに責任を持つことが大人になるということ」だと、あのときナムジュンは言った。

weverse.io

(このライブ動画、何回見たかわからないぐらい見てしまっていて。差別を指摘されたマジョリティの動揺と葛藤、そして展望をこんなに正直に吐露してくれるなんてさ…)

その後のナムジュンの発言に「1.1人分の大人」という表現があって、いいこと言うなぁと感心したけれど、「自分の言動に責任を持つ」ということの核心をついてますよね。私もそうだけれど、そう言いながらも「そんなつもりで言ったわけでは」と言い訳したくなるのが常で、自分の意図と他者の受け止め方のあいだにある溝、亀裂のようなものに意識が向かず、自分の意図が正確に伝わらないことを自分のせいにしたり相手のせいにしたり、しがち。そうではなく「なぜそうしたズレが起きるのか、その〈生じている現実〉に向き合って考えること」が、0.1人分多めの大人になるってことなのだと私も思う(ナムペンの贔屓目はお許しください)

ジョングクさんも、1人前の大人ではなく、1.1人分の大人をめざしてほしいし、ジョングクさんならなれるよ! と思っている。

ということで改めて、順番に。

1.問題は「目的」ではなく「結果」。加えて「立場性」の問題

ジョングクが作詞したわけではない。ただしジョングク名義でリリースするわけだし、最近判明してきた楽曲制作過程によれば、ハーロウ氏とのコラボはジョングクさんの希望でもあったようなので、やはりできあがってきた歌詞について、そしてその部分のMV演出について、問題点に気づけなかった「不勉強」はジョングクさんの責任。

そしてハーロウ氏も、おそらく悪意はなかったと思うけれど、英語ネイティブの白人シスヘテロ男性っていうのは地球上最強マジョリティなわけで、そこの立場性への自覚や謙虚さを欠いているという点で、ジョングクさんよりはるかに猛省してほしい立場にある。確かに白人男性が自分たちを一方的に名付けた「ABG」ということばを、欧米に暮らすアジア系の若い女性たちが自分の側に取り戻すために「カッコいい私たち=ABG」を標榜する動きはある。同様に、差別的に名付けられた名称を「取り戻す」当事者運動はセクシュアルマイノリティや障害者や、さまざまなマイノリティが行ってきたし、いまも行われている。でも、その運動が積み上げられて、社会的に誰しもがそこに差別を見出さない、マイノリティのアイデンティティを示すだけの「名称」扱いになるには時間がかかる。ハーロウ氏が慣れ親しんでいるであろうアメリカのラッパー達の世界でも、黒人ラッパーが自らをNワードで自称することはあっても、白人ラッパーがそのことばを安易に使うのはダメだろう。ハーロウ氏がそれに関して「そりゃ、自分は白人ラッパーだからNワードには慎重だよ」という認知をできる人なのであれば、ABGだって同様なのだ。そこを「同様のこと」と気づけなかった、要はアジア系に対する差別、そこに女性であることが重なって起きる「アジア系女性に対する見下しと性的搾取の眼差し」の現実に疎過ぎた、という問題だ。英語ネイティブではなくアメリカ社会のマジョリティという立ち位置でもないジョングクさんとは反省すべき次元が異なる。さらにいえば、アジア系であるジョングクさんとのコラボなのに、なぜそこに神経質になれないのか、ハーロウ氏はじめアメリカ側のスタッフの全員を問いただしたいところだよ…。

そしてこの過程にパン・シヒョク議長も噛んでたらしいじゃないですか(怒)名誉白人気取りかよ。女を踏んででもアメリカ様に認めてほしいのかよ(怒)…と、歌手2人に対してとはまったく別種の憤りで、ある意味今回最もムカつくのはおまえだよ!ってなってますが、今日はこれぐらいにしといたろ…。

(10/24追記:「名誉白人」というのを、今どきの若い人は知らないかもしれない…とTwiter/Xを眺めていてハッとさせられたので、最後にこの表現について書き足しました)

2.差別は解釈/お気持ちの問題ではない

2016年に起きた問題を知って、詳細を調べたとき、正直に言うと「え? この程度の歌詞で?」と私も思った。「女は最高のプレゼント」とかイキッタ男子の戯言だし(あの時期のバンタンにはそういう雰囲気もあったし…ゆえに当時の私は防弾少年団をスルーした……)、「JOKE」の歌詞も下品だけどラップの音遊び面もあるしなぁ…「コンバースロウは履かないで」に至っては、私も高校生のとき赤いハイカットのコンバースが最高におしゃれだと思ってたよなーとか(苦笑)。要は社会にはびこる「女性をモノ扱いする眼差し」や「俺好みの女であれ」という呪いを吐いて平気な男にも慣れきっていて、感覚がマヒしていた。だからこそ、そりゃ困惑しただろうな…とちょっと同情すらしてしまい、その当時の韓国#metooの勢いを思い出して、よくぞこの批判に耳を傾けてまともに向き合ってくれたよな…と感心してしまったのだった(沼落ち加速)。その後の韓国社会でのアンチ・フェミなバックラッシュの凄まじさから考えても、背を向けてマッチョ・ホモソーシャルに迎合する道もあったはずなのに、かれらはそうしなかった。ただ、メンバーたちは(特にラプラの3人)はまじめに向き合ったにせよ、会社は情勢を読んだ故だったんだろうなとは思っている。女性ファンが多く、そこを無視すればビジネスが成り立たない、#metooの勢いがどこまで行くかわからないなかで、下手を打ったら総スカン食って終わってしまうかも、という状況判断が、ことに誠実に向き合わざるを得ないと思わせ、あの声明文につながったのだろうなと(だから、社会がどうあるのかって大事なことなのだ。個人の人間性のおかげだけではなく、韓国#metooBTSを育てたのだと私は思う)

ちなみに、当時の声明文

 Big Hitエンターテインメントと防弾少年団は、2015年末から防弾少年団の歌詞をめぐり、女性嫌悪に関する議論がなされていることを知り、歌詞を再検討した結果、内容の一部が創作意図とは異なり、女性を侮辱していると誤解される可能性があり、そのために多くの方々を不快にさせる可能性があると判断しました。
(中略)
 Big Hitエンターテインメントと防弾少年団のメンバー全員は、防弾少年団の歌詞とSNSのコンテンツのせいで不快にさせてしまった方々とファンのみなさんに対し、心より深くお詫び申し上げます。このような指摘事項と問題点を、今後創作活動を行う上で持続的に参考にし、注意していきたいと思います。
 今回、内部での検討と議論を通じて、音楽の創作活動は個人の成長過程や経験、そして社会で見て学んだものの影響を受けるものであるため、どのような社会の偏見や過ちからも自由ではないことを学びました。
 また、社会において女性の役割や価値を男性的な観点から定義することも望ましくないと気付きました。
防弾少年団は大衆文化のトレンドを生み出すアイドルグループの一員として、メンバーたちの発言や行動などが多くの人と社会に大きな影響を与えかねないと認識しております。
 また、Big Hitエンターテインメントは防弾少年団のコンテンツ制作において、より慎重でなかったことや、多くの方々にご心配をおかけしたことについて大きな責任を痛感しております。
 今後も引き続き、防弾少年団の成長を見守ってください。未熟な部分について指摘していただければ、さらに努力する姿勢でファンと社会の助言に耳を傾けていきます。
みなさんの応援と激励にいつも感謝しております。      

…この主旨に従うならば、「3D」への批判に対応して当然なんだがな? ビッヒさん…

この声明が出色なのは、中盤に示された「音楽の創作活動は個人の成長過程や経験、そして社会で見て学んだものの影響を受けるものであるため、どのような社会の偏見や過ちからも自由ではない」「社会において女性の役割や価値を男性的な観点から定義することも望ましくない」という形で、問題は差別的な意図が個人にあったかどうかではなく、社会の一員として差別の影響を受けるのだからそこから自由になるためには意志的に学び、既存の価値観を疑い、その都度自分で考えてみるしかないのだと言明した点で。情勢を読んでの行動だったにせよ、決して当座しのぎのごまかしではない、フェミニズムや差別研究の知見をふまえたものを出してるよな…と評価できる。これまで、やらかして謝罪文出した個人や企業や政治家や…は数あれど、このクオリティのものは稀有だと思う。

なのに! いま! なぜ!? と思うわけですよ?パン議長…(怒)

差別は人を傷つけるものだけれど、「傷ついた!」と訴える人がいるから差別なのではなく、社会の現実として「差別がある」のだ。そのなかで傷つく、傷つきに気づけた人が訴えの声をあげる。「差別がある」社会のなかで感覚がマヒする、「その程度のことでいちいち傷ついていられないし」と鈍感に生きることをサバイブのために選択して生きる人たちは、自覚的には「傷つかない」のだ。でもそれは自覚されないだけで、その人の魂を深いところで少しずつ抉っていく。容姿を評価され、品定めされ、従順であることをよしとされ、能力や個性を正当に評価されない。そんな日々のなかで、自分を愛せなくなる。

そんな現実に抗う魔法のことば「Love Myself」を言ってくれたのがかれらだった。まず自分を愛そう。他人の視線とか評価とか、そんなものから離れて、自分自身の喜怒哀楽、何が好きでどんなことにときめく人なのか、あなたのことを教えて…と。2016年を乗り越えたかれらのことばだったから、胸に響いて、みんなBTSが好きなったんじゃないのかな(私の沼落ち一歩目は2018年スピーチ、2歩目は「Life goes on」です)

3.「謝罪」について

これは前にもどこかに書いたかもしれないけれど、差別したことについての「謝罪」というのは、3つの要素が必要だと私は思っていて、

A:被害の事実を確定し責任の所在を明確にする(謝罪)

B:被害によって毀損されたものを回復させる(賠償)

C:問題点を明らかにし再発防止の策を打つ(教育)

これは、戦後補償の3原則と呼ばれる考え方に倣ったもので、こうした点を明らかにしないまま、とにかく「何かわかんないけど傷つけたんだったらごめんなさい」というのは最悪だと常々思っている(日本はその手のものを「謝罪」と呼んで憚らない人が多すぎる)。個人の友だち関係のなかで「いまのなんか嫌やったわ!傷つくわ!」と言われて、「え、そうなん? 何かごめん」と謝ってから「ところで、何がアカンの…?」と対話が始まるのは全然いいと思っているけれど。

Aはつまり、自分がやらかしたこと相応の責任を、相応の人の口からハッキリと「私のこの点がダメだったとわかった」と言ってもらうこと。これが大事なのは、被害者には何の責任も落ち度もないこと、ましてや「傷ついた人が繊細だから悪い」わけではないことを明示するため。言った奴が悪い。やらかした奴が悪い。その「やらかし」がダメなんだとはっきりさせることがポイント。

Bは、Aの認識を受けて、具体的にその被害がどれほどのものかをきちんと調べ、毀損されたものを回復させる、いわば「傷つける前の状態に原状復帰させる」こと。物的な損失はお金なり物なりで埋め直せるとして、心情の傷は難しい(「慰謝料」は便宜的にあるけども)。※この点について、日系人強制収容問題の被害補償の法律ができたとき(1988年)レーガン大統領(当時)がスピーチで、「賠償金は、実際に被害の埋め合わせには到底足りない額だし、本来金銭での埋め合わせができるわけでもないのだが、日系人市民を不当な目に遭わせ名誉を棄損した合衆国の過ちを認め、その責任においてみなさんの名誉を回復する、その象徴として賠償金を支払わせてほしい」とおっしゃっていて、レーガン嫌いだったけどいいことも言うな…と思ったのだった。

大事なのは謝罪も賠償も「やらかした者の責任を示すため」の行為なので、その謝罪を受け入れるかどうかは受ける側の自由だということ。「責任を認めて賠償してくれるのも有難いけど、到底許す気にはなれない」という心情になる人だっていて当然だし、そういう人に「謝ってるんだから許してやれ」というのは間違っているし、そもそも許してもらうために謝罪するんじゃないんだよ、ということ(ゆえに私は「3D」の件も、「アジア系女性に謝れ」的な論調にはちょっと与しづらい。そういうロジックで行くとアジア系女性が「別にいいよ、気にしてないし」とか言っちゃうだけで問題が終わってしまうよね? 問題はそこではなく、現状にある差別を追認し強化するのか、そういう現状をよしとしない、変えていこう!という方向に進むのか、態度の選択だと思うから)。

そこで重要なのがC。心情として「謝られましても…」となるぐらい深く傷ついた人の存在を肯定し、いま許してもらえないことを受けとめるなら、大事なのは再発防止。そして再発を防止する仕組みをつくったり、再発しないための教育や啓発に力を入れることことが、差別を肯定し助長する行為を減らし、少しでも良い世界に近づくために必要な、未来のための行動だから。いま許してもらえなくても、その努力を続けることで、未来のどこかで許してもらえる日がくるかもしれない(てか謝ったのにすぐ同じこと繰り返したら「あの謝罪はなんやったん?」ってなるよね?)だから、未来のための行動を考え、実行すること。先に引用した声明文とともに、当時ナムギが「ジェンダーの研修受けた」とか「歌詞を専門家に見てもらう」とかいう話をしていた、まさに再発防止の取り組みだよ…。

ってことで、2016年の声明は完璧なんだよね…

ゆえに私は、ジョングクさん的には、自分の名義での楽曲だったということで、それに相応する責任を明確にし、今後どうしていこうと思うかを言ってくれれば十分だと思っています(会社は違うぞ!)。ハーロウ氏も20代、ラッパーさんだし#BLMには共感していたらしいので、その学びをアジア系差別や女性差別の問題にも敷衍して、もっとカッコいいラッパーをめざしてくれたらいいと思っています(会社は違うぞ!)

youtu.be

この曲について「なんでこんな詩が書けるの!?ホントにナムジュニヒョンは天才だよね!すごいよね!」とニッコニコで語っていたジョングクさんを、私は信頼しています。

地に足がつかないとき

あなたの心があなたを見下すとき

夢が僕をのみ込んでしまうとき

僕が僕でなくなってしまうとき

そのすべてのとき

・・・

信じていたものがすっかり遠ざかってしまったとき

この すべての名誉が もはや頸木にしかならないとき

この欲深い心を どうか鎮められますように

どんなことがあっても

あぁどうか、僕を僕のままでいさせてください

痛切な叫びのような歌。

でも「僕は荒涼とした野原であっても、きっとここに戻ってこよう」という宣言で終わるこの曲を、ここ数日、何度も聴いてしまっている。

いま、少し迷走しているかもしれない(迷走させた大人! おまえらは許さんぞ!)

けど、BTSという7人で育ててきたプラットフォームがある。ジョングクさんも、そこに必ず戻ってくる。他の6人も。「あれはイケてなかった。ダサかったよね」という「謝罪」は、再結集したそのときになるかもしれない。私はそれでもいいかなと思っている。個人の、ソロ活動だから、ジョングクさんが考えて対処しなければならないし、ヒョンたちに思うところはいろいろあっても、そしてアドバイスはしたとしても、決めるのはジョングクさんだから。ジョングクさんが口を開くまで、おそらくみんな黙っていると思う(沈黙していることに対してどうこう言う人もいるけど、代わりに何か言うなんてことをしたら、それこそバンタンらしくない…と私は思う。違うかな?)

いまは、第2章で、大きなLearningEdgeに立っているんだと思う。

応援してるよ! ファイティン!

 

追記)「名誉白人」について
南アフリカに、未だアパルトヘイト(人種隔離政策)があった頃、南アフリカで日本人は差別される側の有色人種のはずなのに「名誉白人」という差別されない枠に入れられたことがありました。経済的な関係などもあって、黄色いけどまぁ白い人と同じ扱いしてやるよってことで「名誉白人」。要はマジョリティによって差別構造の上部にガッツリ組み込まれたってことです。
当時(80年代以前)の南アフリカに暮らしていた日本人のすべてがそれを良しとは思っていなかったと思うけれど、日本政府はそのことに抗議はしなかったし、なんなら「日本はアジアの優等生だから」の脱亜入欧意識そのままに「名誉なこと」として受け入れていたんですよね。それが国際世論が「アパルトヘイト反対!」に俄然大きく舵を切り、非難の声が高まっていく中で、日本での反アパルトヘイト運動にかかわる市民から「こんな称号を黙って受入れてたらダメでしょう?」と南アフリカに駐在する日本政府や日本企業の関係者をはじめ、現地在留日本人の人たちに「そんなもの返上して反アパルトヘイトの声をあげよう!」とラブコールを一生懸命送る…ということがあったのです。いまでは美味しくいただいているアップルタイザーの不買運動とかも懐かしい…と、そんな運動の端っこに私はいました。
運動は実を結んで、長年収監されていたネルソン・マンデラ氏が釈放され、アパルトヘイト撤廃の訴えに連帯してくれた世界のみなさんにあいさつを、ということで日本にも来られ、その集会に行って「コシシケレレリアフリカ」を一緒に歌ったのも思い出(そして大統領になるマンデラ氏については、映画『インビクタス』がオススメです。そして今年のワールドカップ、その映画のときと同じ決勝カード/ニュージーランドvs南アフリカになったので、ラグビーファンでもある私は胸熱…)

なので「名誉白人」ということばは、白人を頂点とした差別構造/アパルトヘイトにおいて、権力のある白人様が認めたやつらは権力側/差別する側に組み入れてやろうというどうしょうもないシステムを象徴したものです。抑圧される側からすれば、抑圧する側に回ったな、あいつら…とみえるし(実際「黒人・有色人種」が締め出される店に入れたり、座れない席に座れたりできるようになってたわけですが)、とはいえ、真に権力を得たのかといえばそうではない。あくまで社会的に権力をもつのは白人で、その権力に認めてもらえた例外でしかなく、権力者の気まぐれで「やっぱやめる」と取り上げられたらそれで終わり。マイノリティなのに、マイノリティを分断するために利用されていただけです。そんな状態を象徴することばとして、本文中、パン・シヒョク議長に向けて使用しました。現在のアメリカにはアパルトヘイトのような明示された差別的制度はないけれど、白人を頂点にした抑圧の構造は相変わらず存在している。「ABG」もその構造ゆえに問題になる表現なのに、アジア人なのに、そこに気づけないのか…という憤りも込めて使いました。

 

よく、差別の説明をするときに「自分では変えようがない属性を理由に不公正な対応をされること」と言ったりしますよね。マイノリティ属性に生まれることは、その人の選択でない。それは反転してマジョリティ属性にもいえるわけで、差別がある社会のなかでマジョリティ属性に生まれることは、踏みたくないのに「足を踏む側」に生まれさせられている、と考えることもできると私は思うんですよね…。差別されることはもちろん理不尽だけど、うっかりすると差別に加担してしまう立場も、選択して選べるものではないのにそれを考えなければいけない、メンドクサイな…ということは、差別を受ける人が背負わされる理不尽の裏側にある理不尽。だから、引き受けて考えるべきだと私は思っています(マイノリティ側は背負いたくなくても背負わざるを得ない。マジョリティ側は逃亡可能。この不均衡さに後ろめたさを感じて謙虚になるぐらいでちょうどいい…)

とは言いながら、自身の選択であったとしても差別される謂れはない。どんな人にも差別されない権利があります。それは同時に、どんな差別であっても許さないという義務を負うことだと私は思っています。勘違いされがちだけれど、この世界には「差別をする人と差別をしない人」がいるわけではなくて、「差別を許し追認してしまう人と、差別を許さず状況を変えようとする人」とがいるのです。自分自身がうっかり差別に加担したとき、そのことも許さずに対応できるか否か。BTSの7人には、そこを理解して「許さない人」であってほしいと願っています。