わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

メッセージの正しさと、それが伝わっていくプロセスとは異なる、ということ

ジョングクさんのアルバム、リリースされましたね…。
相変わらずモヤッてはおりますが、私的にはもう腹をくくって何年でも待つよ。というモードになりつつあります。なんというか、息子を見守る母の気持ち。

公開されたシュチタでの、グク&ユンギの会話からはこの収録時点(おそらく8月末-9月頭)では何も気づいてなかったことが明白で、リリース後にこんなハレーション起こすともまったく考えていない感じが伝わってくると同時に、ARMYのために上手に歌いたい、良いパフォーマンスを見せたいという情熱と向上心の化け物たるジョングクさんの、あまりにも変わらないジョングクさんらしさを目の当たりにしたので、こりゃ気づいて考えるプロセスを待つしかなかろうよ…という気もち。

ただ、この間ずっと考えていて、眺めてると「もう聞けない」「ペン卒する」という人たちも少なからず目に入り、そこまでがっかりはしてないというのか(曲を聴く気にあまりならない状態が続いてはいるけど)、嫌いにはならないし、過去のかれらの作品について「噓だったのかよ!」みたいには思わないんですよね。かれらはその都度正直だったと、いま聴き直してもやっぱりそう思う。私はその点で揺らいでない。

 

とはいえ、揺らがない私は正しいんだろうか? とふと考えたりもして。

 

タイトルに書いたのは、この夏だったか、私が尊敬する年下の友人(アクティビストでARMYでもある)が、何かの折にふと言ったこと。聞いた瞬間、「おお、確かにそうだね」と腑に落ちたのに、聞くまで意識できていなかった自分に気づいて、ちょっと衝撃的だった。そしてそのことばを、この一連の過程の中で考えている。

 

折り悪く…と言っていいのか、パレスチナで起きているジェノサイドと、それに対する世界の反応をみていると、こんなにシンプルに「悪いに決まってるだろ」なことが公然と行われ、そしてイスラエルの行為をあれこれ正当化しようとする人たちや国家が思いのほか多いことを、改めて思い知らされて愕然としている。イスラエルユダヤ人至上主義のアパルトヘイト国家で、まさにパレスチナに対して差別意識丸出しで弾圧していることを黙認し続けてきた西欧諸国。アメリカも、アメリカべったりの日本も含めて、G7だと威張っている国々の責任は重い。そしてそんな情勢のなかで兵役履行中であり遠からず履行するであろうBTSの7人。

3Dの一件だけでなく、いまは言いたいことが言えないんだろう…と思う。
迂闊なことを言うわけにいかない。

 

「正しいことを言う」のは簡単なことではないけれど、

それがどう伝わり、受容されていくかという後の問題を考えれば、ある意味簡単だ。

なぜなら、「言う」だけなら自分の問題だから。

自分自身の考えを整理して、どう表現すればいいかを考え、ことばにしてみる。それは自分自身で自分の課題として引き受けられる。

けれど、それが発せられた瞬間、それは自分だけの課題ではなく、そのことばを受け取る人との間の問題として、別のプロセスで動き出すのだ。

…この「ズレ」の問題を、繰り返し歌っていたのが防弾少年団だった。と改めて思う。

 

さっき、
言われてみればすぐに腑に落ちるのに、言われるまで気づけなかった…と書いたけれど、私は「ちゃんと伝えられない自分が悪い」と「正しいことを言う」言い方や伝え方に、要は自分自身に過剰に責任を引き受けがちだった(というより、コントロールできない他人に期待するよりコントロールできる自分で引き受ける方が気楽だからなんだと思う)。でも、一度表現されてしまえば、それは自分だけのものではない。受け取る相手と自分とのコミュニケーションの問題であり、受け取る相手の理解と想像力の問題になっていく。

仕事柄、できるかぎり伝えたい内容が伝えたいように伝わるように、資料を準備し、ことばを選び、準備をするのが日常だけれど、どんなに周到に綿密に準備したところで、やはり受け取る側の知識や経験、態度のいかんによって、伝わり具合はさまざまだ。それなのにその多様さを引き受けられずに過剰にガッカリし、自分の「伝える力」不足を嘆いて、自分を責めて胃が痛かった。

BTSが爆発的なヒットとともに世界に受容され、そのメッセージが伝播していくさまをみて、こんなに真っ直ぐでまっとうな正義感がポップに届いてしまう世界線があるのか!と衝撃だった。もちろん、かれらだけの力ではなく、ナムジュンも言ったように、そのメッセージをまっすぐ受け取った多くのマイノリティが、そのメッセージに勇気づけられて拳をあげ、声をあげ、それが楽曲と共鳴し合うというプロセスとして、それは起きた(そしてBTS&ARMYは社会現象になった)

でもかれら自身は「僕らは自分のことを歌っただけ」だと言い、まさかそんなプロセスが起きるなんて予想外だと、これまた素直に困惑してみせ、その困惑と葛藤が、成長途上の青年という生身の人間らしさとして魅力的に映る…という好循環が、BTSの起こした奇跡だったのかもしれない(ゆえに、「3D」からの混乱はその好循環の流れをぐちゃぐちゃにしてしまったようにも思う。そして循環である以上、BTSの責任はもちろん、ファンダム側の問題でもあると思う)

 

私の日常は、人権という普遍的価値について、自分自身の尊厳を守るために基本的人権という概念が役立つこと、そして過去も現在も、尊厳を踏みにじられ差別されてきたマイノリティのサバイバルの知恵や社会に対する闘いがあり、その勝ち取ってきたものに守られて生きていること、だからそれを守り続ける責任がある…等などといったことを、あの手この手で伝えることが仕事で。

でも往々にして「偏ってる」だの「偽善者」だの、伝える前からブロックされるような拒否反応に出くわし、「人権なんてきれいごとだ」「資本主義社会なんだから差がつくのはしょうがない」という諦めモードに阻まれ、「きれいごと言うな」とーーーまさに「メッセージの正しさ」だけが成立して、そこから先へ行けない/その後のプロセスが続かないような状況にジリジリ、ジタバタしてばかりいる。

それでも、BTSに出会って、そのプロセスの問題を前よりは考えるようになった気がしている。うまく言えないけれど、以前は自分の伝え方の問題ばかり注目していたけれど、ある程度まで考えて努力して「これでいこう」と決めて発した後は、受け止める相手の問題だと思って手放す勇気をもとうと努められるようになった。

「手放す」というのは、どう受け取られてもいいということではなくて、伝わることも伝わらないこともあるだろうし、私の伝え方の問題として反省すべき点もあるにせよ、受ける相手のコンディションや能力をすべて掌握して対応することはできないんだと自覚しよう、ということ。いまはわからなくても、別のことを学んだり、何かを体験したりする中で、不意に「あぁ、あれはこういうことか!」と腑に落ちることはいくらでもある。いま伝わらなかったことが、他の要素と絡まって、いつか伝わっていく、そういうことだってある。その、未来に起きるかもしれないプロセスの可能性を、もう少し信じてみよう……。

そんなふうに考えるようになってから、受け取る側のさまざまな反応に対して、少し自分がオープンマインドになったような気がしている。オープンマインドというか、あまり肩ひじ張らずに「おぉ、そういう受け止めもありか!」とリラックスした状態でキャッチできることが増えた。今日も今から仕事なんだけど(こんなこと書いてる場合か 笑)、オープンマインドでがんばってくるよ…。

 

そんなことをつらつら考え、またかれらがいま置かれている状況を考えると、性急に答えを求めるわけにはいかないんじゃないか…と。いま、たとえ「正しいこと」であっても発しにくいメッセージがある。それを発してくれと望むことを、私はできない。米韓軍事同盟とウクライナパレスチナの問題。世界が暴力を止めきれない情勢下で軍隊に所属するということの意味。それとミソジニーは関係ないだろ、と言われるかもしれないけど、韓国社会のミソジニー、家父長制の根っこにあるのは軍隊であり分断国家であることだ。おそらくはパレスチナの側にシンパシーがあるはずの小さな国なのに、米韓軍事同盟に縛られているという立ち位置にある社会の緊張感を、日本にいる日本人の自分がどこまで正確に掴めているかも心許ない。

 

そんなこんなのせいで、私は「見守る」「待つ」モードになっていて、ペン卒という発想は全然出てこないんだろうな。

かつて何かを学んだから、2度と差別しないで生きていける!なんて無理なんだし、学んで反省して考える姿をこれからもみせてくれるだろうと信じたい。

 

というまとまりのない日記でした。行ってまいります。

 

 

*11月16日追記
こんなこと書いたちょうど1週間後に、Wライブでナムジュニが「3D」を「お気に入り」だと言い、麦茶のペットボトル片手に熱唱するという事案が発生…。

おいおい(涙)

とはいえ、いま読み返してみて、私の気持ちは上のとおりだな、と再確認。

もちろん、夜遅く(でもないか)たまたまライブに気づいて、そこにリアタイしてしまったときはちょっと頭がグラグラして、反射的に画面を閉じた。そしてちょっとイラつきながら寝たら夢のなかでナムジュニを弩詰めに説教してて、苦笑…(ちなみに夢のなかで、ナムジュニはずっとぶうたれてて、途中から泣いてました。あまりに号泣されて目が覚めた。どういう夢なの…)

ずっと頭の片隅で考え続けてしまっている(脳ミソ多動)

ちょっと既視感があるというのか、これまでも「人権」のために活動しているはずのさまざまな団体やグループのなかで、こと女性差別に関しては鈍い男連中は見慣れていて「アンタもかーい!」と内心毒づきながら「えっとですね…」と自ら話をしてみたり、他の人に告げ口して「なんとかしてくれ」とお願いしたり、あるいはそっと離れたり、を私はしてきたんだよな…と(ナムジュニにはそうなってほしくなかったという気持ちは、もちろんあるけども)

同情するとか許すとかいうことではまったくないけれど、この社会のなかで気楽に生きられる位置にいるドマジョリティ男子にとって、下手にフェミニズムを知って自分の挙動を逐一考えるというのは、なかなかしんどい道のりなのだろうとは想像する。敵は強大だし巧妙なので、ちょっと油断するとすぐに足元すくわれてしまうわけで、そこを踏ん張って耐え抜くには1人では無理だ。だからこそ、ARMYはクリティカルフレンドでなければならなかったし、メンバー同士の「良い影響」が必要だったのだろうと、改めて思う。

だから私は、クリティカルフレンドとしてのARMYを辞めるつもりはまだ「ない」です。

それは、ドマジョリティ日本人である私が、在日コリアンのコミュニティと市民運動体に若い頃に出会って、それこそナムジュニの人生より長い期間、ときとして「やらかす」私を見守って諫めてくれたコミュニティの人たちや、一緒に考えてきた仲間への義理があるから。学んで変わっていく可能性があると思える人たちには、つきあう義務がある(徒労になること必至のレイシストと対話することは申し訳ないけれどこの数年スルーさせてもらっている(通報等はしてますが)。時間が惜しいから)。

 

直接会って、話せたらいいのにな。

もっと韓国語が流暢になって、ビッヒに人権研修講師に呼んでもらえるぐらいの私になれたら、超絶張り切って仕事するよ!という夢妄想を胸に、私は私で日々やらねばならないことをするだけ(笑…こんなこといつまでも言ってて、人生何年生きるつもりなんだろうな、私)

 

そして、落ち着いてゆっくり学び直して考える時間の未来のためにも、極東アジアの平和、世界の平和を守らねばと。世界がこんなにも暴力で覆われていて、無力感を覚えない方が無理、みたいになってるけど、そこで諦めるのが一番カッコ悪いんだぞ。

(聞いてる? ジュナ…)私は諦めないよ!