わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

織姫も彦星も「こりゃデートしたいとか言ってる場合じゃないな」と思っているに違いない

 断続的に強くなったり弱くなったりの雨音。居座る低気圧・・・

なんで、こんなタイトルをつけましたが、そもそも今年の七夕(旧暦7月7日)は8月末ごろなので、彼らが気に病む必要はないんだな

 

加齢とともに天候だのなんだのに影響されまくる身体になってるよな…と実感する(鍼の先生に「素直な身体なんですよ。その方がいいですよ」と慰められたが)

だから昨日からすこぶる調子が悪い

しかも昨日は都知事選で、レイシストが17万票超の得票だし

国際児童文学館潰したことはガン無視して「中之島に新しい子ども図書館がー」とはしゃぐ報道とか(本題ではないが、私はこの件で安藤忠雄に関してはもう軽蔑しかないし、山中伸弥氏にも幻滅させられた)

気圧にも世相にもやられて、集中力切れまくり・・・。

新型コロナへの対策も「?」なのに、恐れていた通りに自然災害大国日本、避難所どうする? 災害後の後片付けにボランティアとか、どうする? と、これまた新型コロナ以前から問題だったことがなんも解決してないまま、豪雨災害じゃん・・・。

 

・・・と集中力が続かないのだけど、こんな日本に黙ってていいのか!と気持ちだけは、から回ってブログを開いてしまった昨日(そしてけっきょく書ききらずに下書き保存して今日、という。苦笑)

 

ぼんやり過去記事を読んでいて、この数か月(いや数年か?)ぐるぐる考えていることの基本は同じだな、進歩のないヤツ・・・。と、こそこそ書いているだけの当ブログに珍しくシェア数が47という驚異の数の記事があった(この数でビビるんだから、ちゃんと広く読んでもらう目的で書いている人は本当にすごいと思う)。

#オンライン授業で…「書く」タスク増えがちだよね・・・ - わったり☆がったり

・・・そういえば、引っ越しがうまくいかなくて消滅させてしまった前のブログのときも、「小論文の書き方」「文章構成」などの記事はやたらと読まれていて、「困ってる人多いんだなぁ…」と感心した記憶がある。

 

元国語科教員としては、学校の国語の時間に何やってんだか…と申し訳ない気持ちになる反面、こうして必要に駆られた人が、ググったり文章作法的な本で確認したりして、それで学びなおせて間に合うのなら、それでよくね? と思ったりもする。

 

そして、前期オンライン授業もゴール間近になって、後期はどうなるんだろうなぁとぼんやり考える。私が大学でさせてもらっている授業は一般教養で、一つはクラス指定が入った必修なので受講者数が90人を下回ることは絶対にない。その手の授業のすべてを、ソーシャルディスタンスが取れる大教室に割り振りなおす(時間割を)というのは、途方もない調整が必要になるし、そもそも調整可能なのか(教室の数が足りるのかも私には見当がつかない。だから、何かをオンラインのままにしなければならないとなったときに、真っ先にそうなるんであろうな…と、ちょっと覚悟している。もう一つは、ここ2年ぐらいは20人前後の受講生数なので、対面可能なはずなんだけど、かつては160人とかいう年もあったので、その辺を教務課が予測したうえで判断されるのかな? とか。よくわからない。

ただ、ぼんやりと考えることとして

これまでもワークショップ型の授業を、「導入でワークショップをして『え、これどういうこと?』状態をつくってからの座学(知識のレクチャー)」や「座学で一通りの知識を得たうえで(という前提での)体感的落とし込みとしてワークショップ」ということを考えながら組み立ててはいたので、この「座学」部分に関してはむしろオンラインで個々に取り組んでもらう方が効率がいいかも…ということに気づかされた。で、オンラインときどき対面で集まってワークショップがいいなぁと言っていたら、どなたかに「反転授業ってやつですね」と言われて、そういえばそういう単語を聞いたことがあるけど、あれってそういうことを言っていたのか、と初めて興味を持った。けどそのまま忘れていたんだけど、今朝、たまたまこういう記事を読んだ。

反転学習またはセイヤー・メソッド

 

なるほど。「でんぐりがえり」ね……

 

これを読んでいて思い出したのは、以前「ハーバード情熱授業」でしたっけ? 思考実験みたいな議論を延々やるやつがチヤホヤされて、本を買ってみて読んだときに「こりゃ、教育費ケチってる日本では無理だわな」と一気に興味が失せたことだった(NHKが放送していた大講義室での議論バトルみたいなのの土台に大学院生のTAによる事前少人数ディスカッション(をしているから練られていないアホな質問や意見はその時点で淘汰される)があること、その準備として膨大な書籍の読み込みが課されていること・・・日本の大学は図書館24時間も開いてないし、そもそも1週間の授業数が違うから一つの講義の準備に何時間も費やすスタイルになってないし)。おそらく「反転授業」という単語にそれほど興味がわかなかったのも、同じ文脈の匂いを感じたせいだろうなーと納得。「従来学校でやっていたことを家でやらせる」ための条件整備を公で担う覚悟もないのにこんなことを言い出したら、けっきょく「家庭の教育力の差」が余計に格差を拡大して収集つかんくなるに決まってる・・・と思う人が(私も含めて)多かったから、文科省やら財界やらがなんかゆーてるな、ぐらいで大多数の教育現場の人たちがガン無視のまま数年・・・だったのだろうな、と思う。

それが新型コロナウイルスによって、強制的に「試行」させられることになって、私のように具体的に考える材料を手に入れた先生や学校が増えたのがいま、ということなのだろう。

 

これは、障害がある友人知人が口をそろえて言っているけれど「全員が障害者になって(社会のせいで行動が制約されまくって)、やっとみんなが私たちに追いついてきたよね!」「なのに、社会が動き出したら、ソッコー忘れるよね!」・・・ほんとだよ。マジョリティとはかくも業の深い連中なんである。そして「ソッコー忘れ」てるくせに、「障害者はリモートで参加すればいいんじゃない?」と排除の正当化に使えることだけは忘れない。反転授業だって、「そんなこと言われても我が家でどうしろと?」と思う子どもや家庭を置き去りにして、「できる」人たちだけで勝手に議論が進んで「(こうすれば)できるでしょ?」と押しつけられそうで怖い。他人に対して「こうすればいいじゃん」と押しつけて平気、その相手の意向を確認もせずに独りよがりの「親切のつもり」を「思いやり」と呼んで美化する風潮が病的に根深い日本社会だということを肝に銘じて考えないとダメだぞ。と自分自身の肝にも銘じておかねば。

 

(ぼやぼや書いているから話がそれがち)

 

日本で「反転授業」的な発想×オンライン活用を考えるとき、自然災害との付き合い方も織り込んでおく必要があるだろう。というより、これまで大規模自然災害によって何度も「長期の休校」や「学校施設が使えない」や「子どもや親のメンタルヘルス問題」に直面してきたはずなのに、そういう視点で学校や教育のあり方を見直すということがほとんどないままだったことが、新型コロナウイルス(を言い訳にした人災)パニックの学校直撃を招いていると私は思う。業界全体が反省しないといけない。

前述した障害のある友人たちもそうだけど、おそらく日本の各地で「そんなん、阪神淡路のときもあったやん・・・」「うちら、2011年にその状態でしたけど?」等々、モヤモヤしている人はたくさんいるんじゃないかなぁと思う。自分が嫌な思いをしたこと、大変だったことを「まぁしかたがない」と気持ちに折り合いをつけるためにも、「前の教訓がこういう形で生きています」という実感が伝わることが必要だと思うけれど、日本は何につけてもそれが下手すぎる。そして「いつまで根に持つんだ」とか「だって自然災害なんだから仕方がない」とか、声をあげにくくする空気をつくりだすのは得意な政府(そして自然災害ではなく100%人災だろの問題も同じ対処法だから問題がこじれる)

 

個人的に、こういうふうにすればいいんじゃないかと思うのは簡単だし、そこを整理して自分でできる範囲のことは精一杯工夫もしようと思う。その一方で、やはりそこにどれだけ「公」を巻き込んで、幅広い調整と条件づくりをすすめることができるか、ということも考えていかないとダメだなぁと思うのでした。

 

・・・と書いていたら、晴れ間が出てきた

でもまぁ、織姫と彦星は新暦に惑わされずに8月を待てばよいと思う(笑)

しごとしよ。