わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

愛されて育つことがもたらすPower-子どもの、人間の力を信頼すること

昨日、私自身も19歳のときに出会って以後、ずっとつかずはなれず(?)一緒に遊んでいる地域活動なかまのみなさんのイベントに参加しました。

tokkabi.org

トッカビ子ども会……1974年の設立当時、松谷みよ子さんの『おばけのトッカビ』(太平出版社…もはや入手困難ですが、地域の図書館などにはけっこう入っているかと)で紹介された、朝鮮民話に出てくるトリックスターから名づけられた子ども会。

まさに、いたずら大好き妖怪トッカビそのものの子どもたちに翻弄されまくった、19歳の夏休み(笑)まさか30数年後にコン・ユの姿で『トケビ』が現れるとは(本気でビックリした。私たちの「トッカビ」イメージって…爆笑)というのはさておき。

 

多文化共生だの外国ルーツの子どもの学習権だの母語保障だのと言ったことが日本社会ではマイナーだったころ(いまも決してメジャーではないけど)、地域の子どもや大人の実情にべったり貼りついて寄り添いながら、日本社会でエスニックマイノリティとして、しかも植民地支配と差別という歴史的・社会的文脈を背負って生きていくために、どんな力を身につければ/子どもたちに身につけてもらえばいいんだろう? …と考え考え、試行錯誤を繰り返しながら歩んでいた1980年代。その活動を「コリアルーツの子ども」だった3人と、彼らが中学生当時に指導員だった方とのパネルトークでふりかえっていく…という企画でした。実をいうと、私自身もその中学生部会に補助指導員としてかかわった時期があって、懐かしさ半分…て、残りは何だ?(笑)
とにかく、参加してきました。そして終わった後で、主催者たちとベトナム料理で飲みながらはしゃいでしまった(そっちの話の方がおもしろかったのは言うまでもない?)

 

リンクしたトッカビのホームページから「トッカビの過去の活動」記事を見ていただければ(30周年同窓会写真にバッチリ写ってたぜ 笑)…ですが、とにかく地域で発生する課題を何とかせねば…だけで、手探りもはなはだしかったよな…と、(いまから考えれば)おかしくてしょうがないけど、とにかく走ってきて、来年で50年。私が知っているのは40年弱。よく続いたなぁと尊敬しかない。

元々が子ども会で、子ども会に学生時代にかかわった人がそのまま現場の教員になったり、子ども会の活動自体に地元の公立小中学校の先生方も協力して関わってきたりということがあって、「トッカビの子」≒「地域の子」、地域の子は地域のみんなで見守って育てるんだという教育文化とともにあったんだよな…と、しみじみ実感しました。

かつて子どもだった3人は「なんも考えず(ルーツがあるとかないとか)のびのび育ってしまった」とか言っていて。そして、そういう環境を作り上げてきた地域と学校の力を子どもの頃はあまりわかっていなかったけれど、長じて、それはどうやらどの地域にも普通にあることではないらしい…と気づいたときに、

「私が受けた教育っていうか育った環境は、日本のどこであってもあたりまえになかったらアカンものやと思うから、(それがないというなら)がんばって(要望を)していかなアカンかなって思って、がんばりました」

自分が子育てをする世代になり、民族名で小学校に通う我が子がいじめに遭って愕然とし学校と話し合った日々のことを、そんなふうにふりかえっている姿が眩しくて、学校と教育、子育ての意味を考えさせられました。

 

保育所や小学校で、丁寧な…というか、子どもの主張を聴き、意見を尊重し、差別や人権侵害に毅然と対処して、何がダメなのか、なぜダメなのかをくりかえし子どもとともに考える。そういう教育を受けてきた子どもたちが、成長して次のステージに進んでいく毎に「世間は必ずしもそういう価値観(反差別・人権保障という価値観)で動いてはいない」ことを知り、自分を守るために殻にこもったり、うまくやっていくために自分のルーツを隠したり…といったことは今も日常茶飯事に起きていて、ホントに忸怩たる思いがするけれど、
少なくとも、子ども時代に「あなたはそれでいい」と肯定されてきた体験がしっかりあることで、差別に出くわしたときに「悪いのは私じゃない」という確信だけは揺るがないんだなと。間違っているのは差別であって、私じゃない。差別を生み出すのは社会だから、社会で取り組まなければいけない。これはみんなの問題、だから黙ってはダメだ。そんなふうにがんばるPowerを、子ども時代の記憶が支えるんだなと。

 

一方で、そういう現実を見聞きしたときに、共働きの自分の家庭で子どもが嫌な目にあったときに気づけるだろうか、寄り添いきれるだろうかと不安になって、「子育てはこの地域でしよう」と決めて戻ってきた、その理由を

「この地域なら、親だけじゃなくて子どもを見守ってくれる大人がたくさんいる、っていう確信が私にはあったから」

と語る姿も、大事なことだなと。本来、それがどこの地域であれ実現できていればいいけれど、実態としてそうはなっていない。子どもを守り、自分たち自身がサバイブするために地域を選択する。それを決断するのもまた、Powerだと思う。
また、「子育ては親だけで背負わなくていい」という直感があるって、実はすごいことではないかなと。そこには、試行錯誤のなかで大人もたくさん失敗しながら、子どもとともに「どうする?」と考え考えやってきたこと、人間は間違ったり失敗したり、それでもなんとか進むものなんだということをみせてきた大人たちの姿もあるんだろうな…。ひとりで抱え込まなくていい、相談しながら、悩みながら、ともに考える仲間がいればいい。そういう人間観。

 

19歳でトッカビ子ども会に出会ったとき、自分が体験しなかった世界を目の当たりにして、衝撃でくらくらしたのも思い出した。うらやましいと思うとともに、そういう現場をつくっていくこと、つくりだす人たちのエネルギーに圧倒された。こういうとき、しょうもない「妬み」意識から「ズルい」とか言い出す人がいるけれど、いやいや、ここまでエネルギーと知恵を持ち寄って失敗も繰り返しながらやってるのを知ったら、成果だけみて「ズルい」とか言い出すことの薄っぺらさに気づくやろ…と私は思ったんだった。

そして、私にとって大きかったのは当時指紋押捺拒否の運動が盛り上がっていて、中学生たちも目前に迫る「16歳の誕生日(外国人登録を自分でする初回登録日。ここで初めて指紋押捺を課される)」について考えている、それが中学生部会の「普通の日常」だったことだった。夏休み、中学生は部活もあるのでそう毎日は子ども会に来ないのだけど、宿題や受験勉強のことでやってきて雑談しているときに「高校入ったらバイクの免許取る?」という会話と同じトーンで「指紋どうする?」という会話が始まっていくのを目の当たりにして、指紋を押す必要なんてない人生を歩んできた日本人の私は居心地悪いことこの上なく(でもそれが嫌とかそういうことではなく。ただただ「いたたまれない」感じ)、そして唐突に14歳のときに同級生が「明日区役所行くから学校休む~」と言っていたことの意味を悟って愕然とした夏の日(※私の年代は14歳が初回登録だった)。プレハブの奥の中学生部会の部屋で、英語の宿題をしながら「〇〇は(拒否して)すごいなぁ」「うちはやらんで」「オレはわからん」としゃべっている中学3年生を前に、何も言えなかった自分を鮮明に覚えている。

 

そういうまじめな話も、恋バナや先生・学校の愚痴話も、同じトーンでわちゃわちゃ展開されるカオスのなかで、そういう信頼関係がそこにあることがほんとうにすごいと思ったし、だからそんな子どもや大人たちと仲良くなるのが楽しかったし嬉しかった。そして同時に、どんなに仲良くなっても、日本政府から指紋押捺を強要される人たちと、強要されない私という線が引かれているのだという、社会が変わらない限り消えないその線をはっきり自覚した夏でもあった。この「社会が変わらない限り、線引きされ続けるのだ」という体感は、私にとってはすごく大事なことだった。差別を考えるときに「相手の立場を思いやって」という発想にしばられなくなったから。どんなに思いやって優しくなったところで、それを引き裂くのが差別なのだという実感があったおかげで、私は差別を人間性の問題だと錯覚・誤認せずに済んできたと思う。

 

…というまじめな話はさておき。終わった後、近くのベトナム料理店ではしゃいでたら、かつての子どもたちが(パネラーとは別の人たち)子どもを連れて次々と来店して「うわぁ!久しぶり~! 元気?」とさらにはしゃいでしまってカオス(笑)になるのも、地域ならでは感。ルーツが多様なのはあたりまえ。どのルーツも大切で、尊敬されるべき。そういう空気感と文化の中で育つ子どもたち。日本社会は全然ダメダメで申し訳ないけれど、こうやって確実にパワフルに育っていく子どもたちもいるんだよね…と、申し訳ないとか言ってないでがんばらねばなと思うのでした。

とはいえ、昔話してるとホントに無茶苦茶で…。いまなら「安全配慮義務」とかでストップかかりそうなことを平気でやってたり(もう時効だと思う…そしてたまたま大事故が起きなくてよかったなと冷や汗)、コンプライアンスどうよ?みたいなエピソードにも事欠かず(いまなら絶対やらない大ぼら吹き?)、ヤバいやつらやなーうちらは!と大笑いしたのもPowerになって、明日からまたがんばれそうです。