わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

8月6日と9日のあいだで

朝から、こんな記事がTLに上がってきて、つい読みふけってしまった。

news.yahoo.co.jp

webmedia.akashi.co.jp

どちらも、私の課題意識をたいそう刺激する記事だった。

オーラルヒストリーで人生を聞くことで分かるのは、原爆投下の日の話から聞かなくても。その人の文脈と背景の中に、原爆という要素が入っている。その人がどういう経緯でそこにいて、その後をどう過ごしたのかを何時間もかけてすべてを聞くから、「あ、なんだ。私が考えていたことと全然違うんだ」という驚きが、そこに見えてくるんです。

しかし、それが平和学習のように1時間の枠で「分かった」ってなることは、あり得ないと思うんです。感想文を書くことになっても、それは自分の文脈で解釈して書くか、定型に当てはめて感想を書くことしかできないんじゃないかと思うんです。 

 

今思っているのは、伝承者=かつての文脈の通訳と考えれば、通訳にはかならず辞書が必要です。「文脈の辞書」のようなものがあれば、これから証言者の方がいなくなったとしても、残っている既存のアーカイブから現代語訳をするようなかたちで、かつての文脈を理解できるものができたら良いなと思うんです

「多文化共生」という言葉があります。これは横の展開の話で、例えばイスラエルパレスチナのように、文化や宗教が違う人々がどうわかり合うかという点が世界の課題です。原爆や戦争を経験した人としていない人の間で、世代間の理解力を付けるためには、なにかしらつなぐものが必要です。 

 

 「『背後』のない証言はない」。そう述べた文学評論家の李知垠(イ・ジウン)の言葉を参照しよう。


……証言はそれを取り巻くものと関係を結ぶしかない。であるならば、「背後」という陰険な言葉を再専有し、証言者の側から打ち立てることはできないだろうか。
 振り返ってみると、すべての証言には「裏に隠れた背後」の聴取者がいる。……金学順(キム・ハクスン)ハルモニの証言が「最初の公式証言」であると記憶されるのは、金学順ハルモニが日本政府を対象に戦争犯罪の責任を問うたからでもあるが、他方では、そうした「語りの場」を準備しハルモニの言葉を傾聴した「頼もしい背後」がいたからであった。……証言があるまで当事者ではなかった人々、戦争犯罪に反対した人々の努力が、まさに金学順ハルモニの証言の「背後」である。そうであれば、私たちは「証言の背後に誰がいるのか」を問う代わりに「どのような背後となるか」を問うべきではないだろうか

 

「背後」にある陰謀を暴こうとする旧世代の男性主義的な視線に対して、「背後」を自らの言葉で定義し直し、「背後になる」ことによって被害者と証言に寄り添おうとする人々がいる。「証言の背後になる」ということは、自ら被害者の声を聞き取り、証言をバックアップすることで問題の当事者となることである。被害者と支援者、証言者と聴取者といった相互関係を一対一の平面的なものではなく、相互に支え合う立体的な経験として捉え直すということでもある。そして、私たちはこれまでこの「背後」の役割を、正義連と地域の支援団体など一部の活動家たちに過剰に負わせてきたという事実をあらためて認めなくてはならない。

 

支援者たちはただ被害者のケアをするだけの存在ではない。彼女たちは生活上の支援者であると同時に平和運動の活動家であり、市民団体の職員であると同時に「慰安婦」被害者の証言を聴き取ってきた専門家でもある。そしてそれは専従の支援者たちだけに任されているのではない。韓国と日本の多くの市民たちは、すでに日本軍「慰安婦」被害者たちの声の聴き手としての経験を共有しており、それについて議論をしてきた蓄積もある。韓国と日本の研究者や活動家がともにつくりあげた日本語で読める書籍や漫画、オンライン資料も多数存在する。こうした蓄積が証言を支える分厚い「背後」となり、それぞれが「慰安婦」問題に関与する当事者となることを切に願う。 

 長々と引用してしまいましたが

まとめてしまうならば、「語りは聴き手(受け取り手)がいて成立する」

そして人は「自分が理解したいように受け取ってしまう」

この間をつなぐということが、証言を残す、証言から学ぶ、ということではないのか? という問いかけが、両者を貫いていると思い、朝から読みふけって考えていたのでした。(そして今これを書きながら、この受けとめも私が読みたいように読んだその結果でしかないよな、とふと思う)

 

学生時代、8月のこの時期に2回、広島に行った。
そのときにお世話になったのは「ヒロシマを語る会」の豊永恵三郎先生で、豊永先生経由で出会ったのが朱碩(チュ・ソク)さんだった。

朱さんは2002年に亡くなられて、その後、たまたま広島平和記念資料館にいったときに、証言アーカイブに朱さんのものを見つけた記憶があったので、

広島平和記念資料館 平和データベース で検索してみたのだけど、書籍しかヒットしなかった…なんでだ。とはいえ、ヒットした『在日として被爆者として ある民族教師の生涯』は読みたいなぁ… http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/detail/31341

その「見つけた」とき、私は懐かしくてさっそくそのアーカイブを聞いたのだけど、私自身の心に刺さった部分はなく、ショックと怒りで「平和記念館くそか!」と思った覚えだけは残っていて。それは先に引用した記事の久保田さんへのインタビューの中で「被爆者の方にインタビューした時、当日の話をしたあとで、「...普段お話ししているのはここまでなんですけど、まあ、実はこの後が大変でね....。お時間があれば、お話しますけど」と言われたことがある」という、そっくりそのままの体験でもあって。やっぱり資料館行って確認したいぞ…はさておき。

 

ヒロシマを語る会」での被爆語り部のみなさんとの出会いは、私に「なぜ原爆を語るとき、原爆投下直前直後しか語られないのか」という引っ掛かりを残すものだったのだけど、特に朱碩さんの印象は強烈だった。なぜなら「語られない部分」に朝鮮植民地支配と朱さんが受けた皇民化教育、そして戦後の差別の話があり、「語られない」ことの理由に「被爆語り部に、そこは求められていない」、つまり原爆被害の話はしてほしいが日本の加害の部分は求めない「聞き手たち」の存在があったからだった。私も詳細に記録しているわけではなく(探せば残っていると思うけど探せない…整理していない資料はゴミと同じである。反省…)、30年以上前のことを記憶に頼って書いているのだけれど、私たちに朱さんが語ってくれたのも「普段お話しているのはここまで」の話を大阪から来た学生団体に話す、という大きな場での話の翌日に、豊永先生が治療のために訪日中の在韓被爆者の聞き取りを少人数で行うために残っていた私たちグループの元に改めて朱さんと共に現れたからだった。そして朱さんは「大きな場」では話していない、被爆証言のために活動する日本人被爆者からも差別され「朝鮮抜きの証言」をしていた時期の話や、日本人になりきった、軍国少年だった自分への悔恨と教育への思い(戦後は長く朝鮮学校の教壇に立っておられた)などを私たちにしてくださったのだった。そこに在日コリアンの学生もいたから「同胞の若い人たちに」という思いもあっただろうし、朝鮮人被爆者の問題を私たちが学んでいると聞いて、それを信頼してくださったからだろうと、当時も「聴いてしまった責任」をずっしりと感じてはいた。有難かった。それが、朱さんの「人生の文脈と背景」で、それが語られる「背後の聴取者」に私たちがなれた、ということだったのかなぁと、今朝、おこがましくも考えたのだ。

 

被爆語り部として、広く求められ話してきたエピソードに価値がないわけではない。それが全国から平和学習に訪れた小中学生の心に種をまき、芽生えていく可能性は十分にある。けれど「語られない話」の存在、それは聞く側の問題でもあるということに思いを致さないまま、「実体験の証言を聞く」ことでなにがしかを学んだ気になってしまうことは危うい、と改めて身が引き締まる。

昨日は6日で、明後日は9日。

私が子どものころはNHKも民放も関係なく、その時間になると中継があり黙とうをしたのに、いつのころからか民放は同時中継をしなくなり、ニュースで扱う歳時記になってしまっている。なにがしか学んだ気になる機会すら、いまの子どもたちは奪われ始めているようにも思う。危ういどころの話ではない。

 

人権教育がやるべきことも、証言を聞いて「なにがしか学んだ気になる」人を量産することではなく、その証言を支える「分厚い背後」になれる人間を育てること、そういう「背後」があたりまえに存在する文化を広めることではないだろうか。

個別の問題に対する知識を学ぶことも大切だけれど、それ以上に

他者の文脈に敬意を払うこと

証言の背後になること

それはいったいどういう態度で、どういうスキルなのだろうか、ということを考え続ける胆力みたいなものがないと、「学び続ける」こともできないのだろうなと思う。

 

・・・ということで仕事します(笑)採点地獄だー