わったり☆がったり

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"カミングアウト”をめぐるあれこれ

先週、被差別部落につながる人と、朝鮮半島につながる人のお話を聞く機会があった。

たまたま、続けざまになったのだけど。これはタイミングだな…と。

それぞれは、とある研究調査のためのインタビューだったり、在日コリアンの青年たちが主催する小さなブックトークの集まりだったりで、「カミングアウト」が主要なテーマだったわけではないのだけれど。たまたま、そんな話になった。でもそれは、そこにいた人たちがみんな、実は常に考え続けている話題なのだろうな、とも思わされた。

常に考えている人たちでなければ、あんなにいろんなことは話せない。

カミングアウトってなんだろう? 人権教育の場から

社会的にネガティブイメージを押しつけられている属性(スティグマを受けやすい/被差別マイノリティグループにつながること、などなど)は、なかなか率直に表明しづらい。だから「あえて公開する/打ち明ける」カミングアウトという行為が課題にあがる。同和教育在日朝鮮人教育では「立場宣言」「本名宣言」等と呼ばれてきたものも、カミングアウトの一つだ。

私が解放教育(人権教育)に出会ったのは80年代後半のこと。

それ以前にも、在日外国人(コリア系、台湾系、大陸系etc)の多い学校で育ったから、卒業式に本名で臨んだ友だちもいたし、学年途中で「今日から本名に変える」友だちもいたけれど、それはただ名前が変わるだけのもので、傍らにいた私は「じゃあ、これからは〇〇って早く覚えて慣れて正確に呼べるようにならねば」程度の良心的な受け止めはあっても、そこ止まりだった(私がそこを理屈でどうこう考えていたわけではまったくなく、感覚的に「こう呼ばれたいとわざわざ言うわけだからちゃんと呼ばねば」というレベル。周りには「そんなこと突然言われても、いままで△△やったのに、違和感あるわー」と呼び方を変えることに抵抗する子もいて、そういう受け止め方のバラバラさに対して教師は何も言わなかった。個人的には「先生が言わしたんじゃないの?(少なくともその決意を表明する場を作った人として責任持たんのか?)」とモヤモヤしながら、でもそのモヤモヤを言語化することができなかった。だから「本名宣言」という教育実践がどういう文脈で生まれたものなのか、私の知らないところでの「ちゃんとした」実践の姿に触れて、そういうことだったのか・・・と、ショックだったことを覚えている。

大阪では「本名を呼び名のる運動」といい、当事者が「名のる」ことと、それ受けた周囲の人間が「呼ぶ」ことが不可分だった(本来は)。つまり「ちゃんと呼べるようになろう」と思う私にしても「違和感あるわー」と抵抗していた友だちにしても、「なぜそう思うの?」ということを掘り下げていく、その事態に向き合っていくことが大切だったのに、「向き合うこと」を促されることがないまま、宣言だけが独り歩きさせられてたんだなぁ・・・と思った。実際、卒業式は本名だったのに、大学ではまた日本名で通っている・・・という友だちのうわさも耳にして、切なくなった記憶もある。

それから時は流れ、在日外国人/海外にルーツがある人の「本名」が必ずしも民族名ではない時代になった。親のどちらかが、祖父母の一人が、といったように、ルーツそのものが重層化してもいる。それでもかつて「本名宣言」でめざしていたことは、相変わらず必要とされている。というより、それが必要な社会状況が相変わらず、ある。

でも「本名宣言」っていう表現はいろいろとそぐわないよな・・・と思っていたときに、この本を読んだ。

https://www.amazon.co.jp/LGBTなんでも聞いてみよう-中・高生が知りたいホントのところ-徳永-桂子/dp/4864121125

QWRCさんは、私がセクシャルマイノリティの問題を初めてちゃんと勉強し始めるきっかけをくれた団体さんでもあるのだけれど、ここを入り口にして、セクシャルマイノリティの権利運動の中で整理されてきた「カミングアウト」に対する考え方を知って、「おお、なるほど!」と頭の中がずいぶん整理された。以下は、そこで知ったことを軸にして、前述した「本名宣言をめぐるあーでもないこーでもない」という私の逡巡を整理しなおしたもの。カミングアウトって一言のなかには、いくつかの段階があるよなぁという整理です。

3段階:いつでもだれにでも、自分の立場を明らかにして啓発を担える段階

2段階:自分が居心地よく過ごせる、わかってくれる仲間を増やすために、自分が属するコミュニティにカミングアウトする段階(仲間づくり:「本名宣言」実践はこの段階)

1段階:この人ならわかってくれるかなーと思える相手を選んでカミングアウトする段階。この段階を数回踏むことで、「自分が自分であること」を肯定しエンパワメントされていく(と思う)

0段階:自分が「打ち明けにくい属性」だと感じていることは、自分に自信がないとか弱いとか、そういうことではなく、社会的にそう感じさせる構造があるからだと(うっすら)理解し「自分が自分であること」の一部としてその属性を肯定する・受け入れる、自分にOKを出す段階(カミングアウトまでの準備期間、的な段階)

こうして整理すると、人権教育で大切なのは0段階と2段階。1段階は、0段階にみんなが至れるように丁寧に環境を耕した結果生じるもの、ではないか。そして、1段階で一また一人、築いていった仲間とともに、もっと仲間を広げたい・・・とやってきたときに、それをフォローするのが大人(教員)の役目なのだろう、と。

教員だって、自分にOKを出せているのか? と自分に問うたときに、怪しい人が大勢いるはずなんだよね、たぶん。なぜなら、社会情勢がこんなに厳しく、能力主義の「自己責任」主義がはびこって、常に「仕事をうまく遂行していなければ使えないヤツと切り捨てられる恐怖」に追い立てられる構造がある中で、自分にOKなんて出しにくい。教師自身が0段階を大事にしていなければ、人権教育なんてありえない。

カミングアウトして/カミングアウトされて

人権教育の教材として、カミングアウトを考えさせるものがいくつかある。そして、そこでよく出てくるのが、カミングアウトされて「そんなこと関係ない」と答えることをどう考える? というのがある。

これは実際にありがちな話の一つで、「思い切って話したのに『関係ない』と言われて話が続かなくなって、それ以後も(自分の属性をめぐるあれこれ)を話せない空気になってしまった・・・」という、しんどくなってしまった当事者の声に基づいたものだ。ただ、一方で「そういわれて安心した~」という場合もある。だから、その教材にカミングアウトされる側として向き合うと「じゃあどう言えばいいの?」と困惑する人がけっこう出てきてしまう。その困惑をどうするかーーファシリテーターの腕の見せ所です! といえばそうなのだけれど、その困惑の中身を考えきれていないのに、そんな教材を扱うのはリスクが大きいよなぁ・・・ということも今年はよく考えさせられていた。

  • カミングアウト受けた側もびっくりするわけやん?「部落出身やねん」って言われて、「え? それなに? なんか(自分たちの仲に)関係あるん?」みたいな。そこで必死で考えて「それ、関係なくない? 俺らは俺らやん?」とか、「それってなんなん? どういうこと?」とかって、話がつながっていくほうが大事
  • (関係ない、と答えられて傷つく)っていうんは、そもそもコミュニケーション不足なんちゃうの? そもそも関係がちゃんと深まってないから、「関係ない」って言われたら、そこで止まってまうんやろなぁと思う

・・・という言を聞き。ああ、そうかと気づいたのは、「関係ない」って答えはあんまりよくないよーという趣旨で作られている教材の多くが、2段階レベルで生じた反応(個人的に関係が深いから打ち明ける、ではなく、打ち明けることで一緒に考えられるようになりたい、そういう仲間が広がってほしいから打ち明ける段階)を想定していて、学習者の側は1個人として友だちから打ち明けられたらどうするか、つまり1段階レベルで考えているから困惑が起きるのではないか、ということ。

自分のカッコ悪い面も、しんどくて未整理な部分も、この人には見せても大丈夫。という関係性の中で起こるカミングアウトと、それに対する「関係ないやん」は、何の問題もない(のかもしれない:とりあえず仮説)

とはいえ、実際には「この人なら」と信頼したはずだったのに、カミングアウトで相手の差別意識に直面して、ダメージ倍加・・・という事態も時に起きる。

  • カミングアウトすることで、得ることもあれば失うこともあるな、と感じていて。僕は得るもののほうが多かったから、自信になっていったと思う
  • 嫌韓も酷い一方で「韓国人になりたい!」若者がいるように、何かにつけて二極化しているな、という実感もあって。カミングアウトにしても、マイノリティを受け入れられる人と、拒絶しかできない人に二極化しているような感じがある
  • (部落で生まれ育って)自分にはポジティブイメージがあるから、どんな反応をされても「自分」というところでは戸惑わないのかな、と思う

0段階と一段階を行ったり来たりしながら、世間ではネガティブイメージで語られがち、そのイメージを押しつけられがち、な部分を、ポジティブイメージに変換する--差別するほうが間違っているし、差別されるいわれはないし、私たちはこんなに素敵でおもしろいぞ! という自信を育てる(別に素敵でなくてもおもしろくなくてもいいんだけど(笑) 世間がレッテル貼りするほどネガティブじゃないよ、ぐらいの)。そういう人のつながりを作っていくことが、やっぱり鍵なのだろう。「自分は自分」だけど、「自分」を知るためには他者とのコミュニケーションが欠かせない。わたしがいて、あなたがいて、みんながいて。

「“ひとり”のヤツをつくったらアカンで」ということばを、先週は何度も聞いた。
カミングアウトも、そのための行為なんだなと実感したし、人権教育のコアはそこにないとダメだなと改めて考えたのでした。

 

大阪高裁不当判決ー朝鮮学校「無償化除外」が なぜ不当なのか

ついさきほど、大阪朝鮮高級学校が「無償化除外」の不当性を問うて闘ってきた裁判の控訴審で、逆転敗訴となったという一報が入り、怒り心頭。

なので、2013年1月に「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則の一部を改正する省令案に関するパブリックコメント」として書いたものをここに載せます。もともと「高校無償化」が法制化された際には朝鮮学校もその対象に入っていたのに、政府が後出しで条件を出し、なんやかやりゆうをつけて「無償化」から朝鮮高校生を除外する行為を続けた挙句、法制度的に排除できる状態にしてしまうための「改正案」が提案され、それに対してパブコメとして書いたものです。当時、私のように論拠を示したうえで反対のパブコメを書いた仲間も多かったものの、ヘイトスピーチそのものの賛成パブコメも多数押し寄せ、改正案は通ってしまいました。

わたしの考えは当時から変わっておらず、日本政府のやり方は不正義きわまりないと思っています。司法がそれを追認していく流れを鑑みて、こういう形で採録しておく方が良いかと考え、掲載します。元原稿はパブコメの字数制限(2000字)に収まらず、2回に分けて提出しました。掲載するのは分ける前の原稿を2013年6月に手直ししたものです。日本の文教政策に添いつつ(文科省宛のパブコメだったので)、朝鮮学校を正規学校として認めない/諸般の権利から除外することがいかに不当で日本にとっても益にないことか・・・という論旨で、3日ぐらいかかって書いた覚えがあります。除外から既に8年も経ち、「なんで裁判してるの?」とお思いの方に、理解の参考になれば幸いです。

 

結論:本省令案に反対します。

「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則」は、2010年4月から施行されたいわゆる「高校無償化」制度について、国公立高等学校以外に通学する生徒への適用範囲を定めたものと理解しております。高等学校(後期中等教育)の無償化は、「高校・大学までの段階的な無償化」を定めた国際人権A規約(13条2項b,c)実行の第一歩であり、実際に政府は2012年9月、この「留保」撤回を閣議決定し、国連に通告しました。教育権保障の取り組みの前進は喜ばしいことであり、政権与党の交代によって、この「高校無償化」の取組みが後退することのないよう、切に願うものです。

今回の「改正」案は、私立学校認可外になっている外国人学校(国際学校含)に通学する生徒への本制度適用について定めた以下3つの条件、

(イ)大使館を通じて日本の高等学校の課程に相当する課程であることが確認できる「民族系外国人学校

(ロ)国際的な学校評価団体から認定された「インターナショナル・スクール

(ハ)それ以外の外国人学校で文科大臣が指定したもの

から、(ハ)を削除するものです。(ハ)条項は、人権侵害を避ける/15~18歳の子どもたちが通うすべての学校を無償化の対象にするための知恵であったはずですが、2010年以来この(ハ)条項の指定審議の対象から朝鮮学校を除外してきた措置を追認し、さらに今後は法制度的に完全に排除することを宣言する改悪案がだされたものと考え、コメントするものです。

 1.国際人権規約・児童の権利条約違反である点

 「高校無償化」制度から朝鮮学校を排除し続けていることは、前述国際人権A規約、および児童の権利条約に定められた教育権の侵害に当たります。児童の権利条約第28条第1項b「種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる」とあるのに、日本で生まれ育った15歳~18歳の朝鮮高級学校生は「財政的援助」から除外されているのです。さらにいえば、朝鮮学校が学校教育法第一条に相当する学校と認められず、各種学校の地位に置かれ続けてきたことが、同じく児童の権利条約第29条第1項c「児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」、第30条「種族的、宗教的若しくは言語的少数民族又は原住民である者が存在する国において、当該少数民族に属し又は原住民である児童は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」といったマイノリティの教育権保障を定めた条文に既に違反しており、現に2010年2月24日国連人種差別撤廃委員会日本政府報告書審査(ジュネーブ)にて「朝鮮学校は、税制上の扱い、資金供与、その他、不利な状況に置かれている」「すべての民族の子どもに教育を保障すべきであり、高校無償化問題で朝鮮学校をはずすなど差別的措置がなされないことを望む」と指摘されています。つまり、国際的には日本が重大な人権侵害国家だと従前から指弾されているのです。今回の「改正」を実行すれば、これまでは「法令の運用における差別的取扱い」だったものが、明確に「差別的法令」になるといえます。国際社会に背を向け、民主主義の実践から後退する道を日本は選択するのでしょうか。私は日本で生まれ育った市民の一人として、日本社会が民主主義の発展に背を向け、国際社会からの孤立を招く本「改正」案に断固反対します。

 2.外交課題と内政課題との混同を糾すべきだという点

 2012年12月28日の閣僚懇談会の場で、下村博文文部科学大臣が「朝鮮学校については、拉致問題の進展がないこと、朝鮮総連と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいることなどから、現時点の指定は国民の理解が得られないので、不指定の方向で検討したい」と提案し、安倍晋三総理大臣が「その方向でしっかり検討してほしい」と返答、その場で了承されました。しかし、「国民の理解が得られない」ならば得られる努力をするのが政府の責任ですし、拉致問題解決に進展がないことの原因が朝鮮総連朝鮮学校にあるのでしょうか。朝鮮学校に通う生徒を差別し、不利な状況におくことが、拉致問題の解決に結びつくのでしょうか。下村大臣の発言は、国民が朝鮮学校の生徒を「高校無償化」制度から排除することが拉致問題の解決に「結びつく」と考えているから政府がそれに追従するのだと述べたと解せます。では、少なくない国民が放射能汚染・原発事故への不安を訴えていることには追従せず、「安易に原発ゼロを言うべきでない」とおっしゃるのはなぜでしょうか。「世論/国民の理解」のありようを、そのときどきで都合よく利用する政府を、国民の一人として私は信用できません。

 拉致問題や「ミサイル」発射問題といった課題は外交で解決すべき課題であり、日本に暮らす高校生の教育権侵害を正当化する理由にはなりません。仮に「国民の理解が得られない」のならば、国民がこの点を混同しているからであり、政府として成すべきは混同を糾すことです。政府が率先して混同をうながし、子どもたちの教育権侵害に加担するなど、民主主義国家日本の政権として恥ずべきことだと考えます。

 3.朝鮮学校の歴史と現状/朝鮮学校は「日本の学校」だという点

 朝鮮学校は、植民地解放後に朝鮮半島出身者が作った小さな講習会や勉強会を端緒とします。植民地であった朝鮮半島や台湾からの労働者は1920年代から漸増し、1940年代には日本生まれの子どもたちが既に存在していました。朝鮮や台湾でも学校で朝鮮語台湾語を学ぶことはできませんでした(解放当時中学生だった老人の証言「親との会話や地域社会でのやりとりで朝鮮語の会話能力はあったが読み書き能力はなかった」)。ましてや宗主国本土である日本内地で朝鮮語や朝鮮の歴史を学べる学校は存在せず、貧困による不就学児童も多数に上りました。また、日本に生まれ育った子どもの場合、家族やコミュニティ内では朝鮮語を使っていても、暮らす社会は日本語の環境です(現在でも渡日労働者の子どもたちが、親よりも日本語に堪能で、逆に母語を喪失しがちな現象は珍しくない)。1945年以降、帰郷を考えた親たちがわが子の朝鮮語の能力に不安を覚え、帰郷準備の一つとして朝鮮語を学ばせる場を自主的に作り上げたのは、自然の成り行きではなかったかと思います。しかし折からの東アジア情勢/東西冷戦の深刻化のもと、GHQと日本政府は朝鮮学校共産主義に傾くことを恐れて弾圧、強制的に解散させました。思えばこの時代から、朝鮮学校は「朝鮮語・朝鮮の歴史を学びたい/学ばせたい」という素朴な保護者の思いに支えられる一方で、国際情勢に翻弄され続けてきた学校だといえます。そして日本政府は一貫して、朝鮮学校を私立学校として認可できない法体系を維持し続けてきました。通学定期の購入やインターハイ出場の権利なども、当事者の訴えとそれに共感する日本市民の運動によって開かれてきたものです。日本政府の姿勢は一貫して、朝鮮学校に冷淡でした。その冷淡さの延長に、「高校無償化」制度からの除外があり、拉致問題の発覚や昨今の「ミサイル」問題は、きっかけに過ぎないと考えます。

 国際情勢にせよ、日本政府の方針にせよ、それは朝鮮学校の外側の問題です。再建初期のころ(1960~70年代)、北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国から財政面・教材面で支援を受けていたことは確かですが、いまはほとんど支援などない状況で資金繰りも苦しく、教員の給料遅配、校舎補修の滞りといった問題を恒常的に抱えています。通学生徒は在日コリアンの3~5世がほとんどで、国籍も朝鮮・韓国・日本とさまざまです。保護者も日本で生まれ育った日本の市民であり、地域社会で市民としての責任を果たしながら、朝鮮学校の財政難を支えるためにも尽力しています。先の東北大震災、18年前の阪神淡路大震災の折りは、朝鮮学校も校舎やグラウンドに避難者を受け入れ、炊き出しを行い、地域住民を支えました。京阪神地域の朝鮮学校では、いまも地域住民と合同での文化交流行事などが続いています。この間「教育内容が偏っている/反日教育をしている」といった誹謗中傷が続いていることもあり、むしろ積極的に学校見学や交流行事参加を受け入れ、日常の教育活動プラスαの活動を強いられています。朝鮮学校は既に開示努力をしているのです。しかし、朝鮮学校は少数であり、身近に朝鮮学校に触れることができる日本人も限られています。蟷螂の斧で奮闘する朝鮮学校とそのコミュニティに対し、その教育活動を正当に評価せず、偏見に迎合することが、民主主義だといえるでしょうか

 私が勤める大学にも、朝鮮学校出身の学生がいます。彼らは朝鮮語と日本語のバイリンガル教育を受け、複眼的思考を持った人材です。なかには教員採用試験に合格し、公立学校の教壇に立つ卒業生もいます。つまり、朝鮮学校で教育を受けた学生の知識や能力は、日本の学校で教育を受けた学生に何ら劣りません。もともと教育課程も教科書も、日本の学習指導要領を参照しながら作られているのですから当然です。加えて、継承語指導として日本語と朝鮮語バイリンガル教育/イマージョン教育に長年取り組んできた朝鮮学校は、グローバル人材の育成/英語教育の推進を標榜する現今の日本の教育現場にとって、参照できる指導理論や指導方法の宝庫です。英語教育にも力を入れ、トリリンガル育成を目標に教育実践を重ねる朝鮮学校を差別し排斥する文教政策と、朝鮮学校との実践交流や相互研修を取り入れる文教政策の、どちらが日本の子どもたちの学力/語学力形成にとってメリットがあるか、重ねて申し上げるまでもないでしょう

 なお、「日本の学校に通うことを拒否していないのだから教育権の侵害ではない」という意見がよく聞かれます。しかしこの意見は「マイノリティの教育権」に関する理解不足から発せられる詭弁です。なぜなら、日本の学習指導要領に基づき、日本の検定教科書使用を義務付けられている日本の学校は、「(マジョリティである)日本民族教育」をする学校であり、マイノリティの文化や歴史を学ぶ場ではないからです。多住地域を抱える学校で、総合的な学習の時間等を使った異文化学習/国際交流学習に取り組む学校はありますが、それは現場の判断に負うもので、制度的に保障されているものではありません。一方で圧倒的な日本語モノリンガル社会で、マイノリティが独自の言語文化を維持することは極めて困難です。児童の権利条約等でマイノリティの教育権について特に言及があるのも、この点を踏まえているからです。朝鮮学校がもつバイリンガル教育のノウハウは、日本のなかの朝鮮学校だったからこそ蓄積できた財産であり、この財産を守ることが、国際人権規約や児童の権利条約の精神に沿うことです。

  以上、提示された省令案に反対するとともに、「高校無償化」制度からの朝鮮学校除外を直ちに改め、生徒たちに日本の高校生同様の権利を保障することを求めます。 

わたしの「特権性」を考える質問について

まえおき。「特権」の少ない「わたし」の話をする前に

“特権”を学ぶ - わったり☆がったり

・・・でアップした、「特権性を考えるための質問」

さいきん、大学の授業で使わせていただいています。
(同じ授業を担当している友人が質問に答えてスコア化していくワークシートを作ってくれたので、それを利用)

「特権性」・・・というか、「現在の社会における自分の階層位置」がスコアからおおよそ把握できる、という主旨です。不平等で不公正な社会のなかで、不利を被りやすい位置にいるか、不利を被ることが少ない位置(有利な位置)にいるか。

自分のスコアが高いか低いか、本人の努力とは関係がない部分が多分にあることがミソ(だってわたしたちは不平等な社会に住んでいるから! ということを意識化するためのものだから)なのだけれど、

なぜかこれが「スコアが高い≒幸福・恵まれている」「スコアが低い≒不幸・みじめ」と解釈されがち。

スコアの高い学生は「優位にいるくせに自覚がない/周りが見えていない自分」に愕然として、内省的になったりするのですが(「親に感謝しようと思いました」という勘違いは困りモノ)、スコアが低い学生さんの方に「わたしは可哀そうでもみじめでもない!」と戸惑いと反発が多々見られるのです。

「幸福感」は内心の問題なので、どんな状況、立場にいても「あー、幸せだなぁ」と思うことはいくらでもある。社会的に周縁化されやすい位置にいる、階層として下の方にいる・・・ということは社会構造上「そうなってしまう」問題で、「周縁化されてかわいそう」「貧乏で気の毒」という価値観はまた別の話なんだけど。

--そのあたり、授業する側としてどうしていったものか。つくづく悩ましい。

ということで、今後の授業展開でわたし自身が、どんなふうに場をつくり、解説をしていくのかを考えるための覚書です。

わたしは・・・何歩すすめたか?

「19歳だった頃のわたし」が進めたのは2歩ぐらいでした。
(訳文で「合衆国/英語」になっているところは「日本/日本語」に置き換えて)

なかなか低い(ちなみに授業で使用しているワークシートだと、最高で23ポイントになるところ、わたしは7ポイントでした)。

ただ、19歳のわたしは、すでに差別撤廃や人権保障をミッションにしている市民活動に出会っていたので、その当時にこのワークをしていたら、この不平等な社会を変えたい!という気持ちにさらに火がつき、わたし自身がその行動をする必然性を確信して元気になっただろうなぁと思います。

「わたしは可哀そうじゃない」「かわいそうと思われたくない」と、そこにこだわってしまうのは、世間の価値観を内面化しているから起こることなんだよな・・・とつくづく思います。わたしは「わたしがかわいそうなんじゃなくて、社会が不平等で間違ってるんだよ」と20歳前後の頃から思っていました。

「特権性」の有無を、人はどう受け止めるか。という問題 その1

わたしは大阪ミナミの育ち。『じゃりん子チエ』というマンガがありますが、あの世界にかなり近い小学生時代を過ごしました。基本、企業勤めの人はほぼいない(自営業者か、雇われの人だと飲食・水商売系)で、日曜日はみんな仕事だし、夜に親がいない家庭もざら。質問1の「親が、夜や週末に・・・仕事をしている」のがあたりまえな世界。

とはいえ、仕事で夜遅くなる、ではなく、子どもが学校から帰るのと入れ替わりに出勤する親(たいていはシングルマザー)の場合、子どもは大変で、保育所に弟や妹を迎えに行ってご飯を食べさせて・・・等をこなす友だちもいました。かと思えば老舗料理屋の跡取りとか、有名飲食チェーンの御曹司とかもいる格差社会。子どもなりにそういう事情は理解していて、家のこと、特に経済的なところを詮索したり無責任なことを言ったりするのは「失礼なこと」だという認識が何となくみんな(保護者も含め)にあったし、子どもの世界といえども「お金はもめる元」とわきまえている子が尊敬される空気がありました。

一方で、2年生の3学期から4年生の1学期までという中途半端な期間、郊外の新興住宅地で暮らしたことがあり、そこでは本当に嫌な思いをしました。

新興住宅地なので、周りはサラリーマン・専業主婦家庭ばかり。一部自営業の家庭も、「店舗兼住宅」の電気屋さんとか美容院とか、わかりやすく昼間営業で夜に子どもだけになるような家はない。我が家の稼業は呉服商なのですが、諸般の事情で当時の父は店舗を構えない得意先行商のような形で商売をしていたため、子どもの眼からは父が何をしているのかわかりづらい。そこで友だちに「何の仕事?」と不審がられ、「呉服屋」と答えても「お店ないやん」「どっか違うとこにお店あるん?」という追及にも答えられず・・・ストレス。そして「ボーナスが出るから買い物に」といった生活スタイルもないし、日曜に出かけることもない・・・・・・「ここではわたしだけが違うのだ」という、違和感と根拠のない劣等感にさいなまれました。

さらに衝撃だったのは、母子家庭の子がいじめられたり陰口を叩かれたり、それを子どもだけではなく保護者もやるのを目の当たりにしたことでした。え、それって、そんなふうに言われるようなことなの・・・・・・とショックでしたが、そのショックを友だちがだれもわかってくれない。「そうやんなぁ。かわいそうやのに、そんなん言うたらあかんやんな」と言われると「え、かわいそうなの?」とモヤモヤ違和感でストレス。高度成長、人口増加真っただ中の超マンモス校だったため「わたしだけ違う」孤独感も半端なく、不登校スレスレ、いい思い出がまったくないまま2年生が終わり、反動で3年生に進級したらギャングそのもの問題児童と化して、担任に対しても常にケンカ腰の屁理屈と口の悪さというスキルを身につけて、4年生の2学期にミナミに戻りました。

ミナミに戻ってめでたしめでたし。ではなく、ケンカ上等の気の強さと「勉強しないのに成績がいい」キャラクターが災い?して、とにかく学校というところにあまりいい思い出がないのですが(笑)。でも、新興住宅地よりもはるかに、わたしはミナミの方が好きでした。いろんな人がいて、いろんな事情があって、それぞれに何か背負って生きている世界の方が、息苦しくはない。

でも、高校に進学したら、やはり「ミナミ」に住んでいるというのは特殊で「あんなとこに人住んでるん?」とか「治安悪そう」とか・・・。腹も立ちつつ、歓楽街と住宅地と、どちらに暮らしている方がスタンダードかといえば、そりゃ住宅地だよな・・・と多勢に無勢を自覚しつつ「田舎もんは黙れー(笑)」と自虐ネタにして切り抜けるスキルを身につけました(こういうの、マイノリティ性を売りにして芸能界に打って出るタイプの人の戦略に近い。本人が生存戦略としてやる分には生きる知恵だけど、それを例に「強く生きてほしい」とか他人に言うのは反則だと思う)

ちなみに、大阪府の府立高校は偏差値輪切りのヒエラルキーと伝統校/新設校ヒエラルキーが露骨なので、高等女学校からの歴史をもつ成績上位校に進学したわたしは初めて親の職業に「医師」「弁護士」「教師」「一部上場企業の社員」等々がある世界を知りました。中学校まで、そんな友だちはいたことがない(大卒の親そのものが少なかったと思う)。「大学進学があたりまえ」という価値観で生きている人たちのやることなすことカルチャーショック(とはいえ、高校生活も進むうちに、しんどい家庭事情を抱える子が実は大勢いて、ミナミのわたしたちだけが特殊なわけじゃないことに気づくのですが)。

 ここまでで既に、社会に格差があり、不平等だということは知っていたし、自分がどちらかというと不利/少数派に位置していることにもわたしは気づいていました。ただ、それが「理不尽だ」と葛藤するようになったのは大学受験をめぐって「わたしたちの間にある格差の問題」に否応なく直面してからだったと思います。友だちも私も何も悪くないのに溝を感じて嫌になる・・・という理不尽な感じ、納得のいかなさ。

学生さんたちがワークで見せる反発や戸惑いも、そこらへんが近いのかもしれません。

「特権性」の有無を、人はどう受け止めるか。という問題 その2

「え? 大学行くの?」と家族に訝しがられながら、演劇やりたいがための時間稼ぎ(?)のために大学に行こうと決め、(ホントに行きたいのは演劇の学科がある早稲田や大芸だけど財政的に無理なので)自分の財力・知力でどこなら行けるかと絞って教育大に決め、予備校行かずに自学、学費のためにコツコツ貯金・・・等していたわりには、奨学金が眼中に入っていませんでした。日本の奨学金(当時は日本育英会)がしょせん借金であること、借金背負うのは嫌だと思っていたこと(当時は教師になれば日育の一種奨学金は返済免除規定いう特権があったのですが、受験時点では教師になる気がまったくなかったから)、そして自分の家の財政が厳しいことは知りつつも具体的にどう厳しいのかを実感できていなかったこと等々によって、奨学金の予約申し込みの時機を逸し、入学してから諸々の制度や手続きに慌てることとなりました。

そんなことはまったく気にせず関関同立を満喫する高校時代の友人たちを横目で見つつ(時代はバブル絶頂期)、でも国立大学でも偏差値低めの教育大は貧乏学生吹き溜まりだったので、そんなに卑屈になることもなく、「奨学金懇話会」という場で先輩にいろいろと教えてもらうことで、ヨーロッパの驚愕の「高等教育無償」に触れたり、同じ国立大学でも旧帝大系の大学だと保護者の所得が教育大とは桁違いなんだよという格差×学力のリアルにも触れたりしました。

何じゃそりゃ・・・でした。世界は不公平だと思ってたけど、そこまでとは。

そして「奨学金懇話会」や、たまたま関わることになった地域子ども会の活動のなかでさまざまな人の話を聴くなかで、自分の家は貧乏でしんどいと思っていたけれど、それでも大学に来れて、しかも国立に合格できるところに自分が辿りつけた、そこにある「優位さ」にわたしは全然気づかずに、自分より上ばかり見て「甘ちゃんやな」と毒づいていたみっともなさを自覚させられていきました。

 わたしは社会が見えていなかった。

 ところで、「上を見て卑屈になる」が反転した「下を見て自分はまだ幸福だと感じる」という価値観に陥らずに、「上も下も社会構造の問題で、この格差と不平等に自分がどう向き合うかを考えよう」という価値観・思考回路にスイッチするにはどうしたらいいのでしょうか。おそらく、社会に向くべきベクトルが、身近なだれか(個人)に向いて幸不幸を比較するような方向で作用しがちなところに問題があるんだろうなーと、このブログ冒頭に戻っちゃう(笑)

わたしには元々、「だれかと比べれば自分はマシ」という思考回路に対する嫌悪感(ついそう思ってしまう自分に対しての)が強烈にありました。ついそう考えている自分が大嫌いだったし、その勢いで「そんなの、人間だからしかたがない」と悟ったようなことを言う友だちにも攻撃的に非難をぶつけてしまう(あるいは「もうこいつは信用できん」と勝手に距離を置く)人だったので、「それは社会のあり方の問題なんだよ」と説いてくれる解放運動の考え方に触れて「これだ!」と思ったんですよね。つまり、わたしには必然性があってすんなりこう考える方にスイッチできた・・・ので、「資本主義社会に格差があるのはあたりまえ」「人間だから下を見て安心したいのもあたりまえ」「上がうらやましいと思うのは努力の原動力になる(だから格差も悪い面ばかりじゃない)」等々の価値観に違和感なく過ごせている(と思いこんでいるだけとしても)人に、どんなスイッチのしかたがあるのか、自分の経験からは答えが出てこないような気がして・・・・・・だから困っている。

陳腐だけど、けっきょく「社会と向き合う」ことを実践している人と、とにかく大勢あって話を聴いて、さまざまなとらえ方、向き合い方、そのきっかけ、日々考えていること・・・の何通りもの方法に触れるしかないのかな・・・・・・。

格差を可視化して、それから?

貧困の実態が誰の目にも見える街がサンフランシスコ市だ。ホームレスの存在が街の風景になっている。彼らが逃げたり隠れたりしなくてもいいからだ。(中略)だから、市民たちはホームレスの存在から、自分たちの街を考え、できることをボランティアとしてやっている人も多い。私の友人もその一人だ。/一方、ホームレスが表に現れず、まるで姿を見せてはいけないかのように暮らす街ではホームレスの存在は市民には見えない。ホームレスが不可視化される社会は、その存在そのものがわからず、なぜ彼らがそこに至ったのか市民が考えることができない。そういった社会ではホームレスは自己責任の結果としてだけとらえられ、社会全体で解決しなければならない問題としては遠ざけられ、社会からの排除が起きてくる。(中略)ホームレスをいくら排除しても問題は解決しない。ただ、市民の目から見えなくなるだけだ。ホームレスは大阪市では社会の中で排除される存在とみなされている。そして、そのもっとも特徴的な現象が、中高生や若者がホームレスを襲撃するという事件だ。特に夏休みなどに多発している。サンフランシスコ市でも、ホームレスを襲撃するという事件はあるそうだが、日本のように深刻な社会問題になっていない。
『サンフランシスコの少女像』平井美津子(日本機関誌出版センター)37-38pp

 わたしが子どもの頃、いつも遊ぶ公園は野宿者のオッチャン達の居場所でもあった。たまにわけのわからないことを叫んでいて怖かったり、夏場はなんともいえず臭かったりもしたから、好きといえる存在ではなかったけれど、でも「そこにいる」人たちとして、何か事情があって「いま、そうある」人として、街の中に確かに存在していた。それこそ「資本主義社会やからな・・・」という感じで、その人たちがサボった自業自得という冷たさもありつつ、自業自得だからどんな人権侵害(襲撃されるとか)を受けてもいいという空気はなかったと思う(学生さんにわりとビックリされるけれど、子どもの頃、理不尽に小さい子を除け者にしたりしていると、それをずっと見ていた野宿者のオッチャンに「それは年上の子がやったらアカンで」と諌められたり、オッチャンが寝ていて通れないから「ごめん、オッチャンどいてー」と声をかけてどいてもらったりするのは日常だった。虫の居所さえ悪くなければ子どもには優しい人たちだと今でも思っています)。

オッチャン達の存在は、自己責任も何分の一かあるとしても、やはり「資本主義社会」という社会のあり方が生み出すものなのだと、子どもの頃から肌身で考えていた面は大きいのかもしれないと、引用した部分を読んで思ったのでした。

可視化することは葛藤を呼び覚ますから、見たくない人には苦痛だということもわかる。でも「見たくないから見ない」で済む人ばかりで社会が回っているわけではない以上、やはり見なければならないし、見えた以上は考えなければいけない。

・・・・・・けっきょく、反発されようが困惑されようが、いったんは「見てもらう」ステップを踏むしかないのだなという結論で(笑)答えは難しいけれど、後期もがんばります!

「同化」にこだわる。

植民地教育史研究会というところに所属している。

先月末の2017年度第21回大会のテーマは「日中全面戦争と植民地教育の展開」
昨年の2016年度第20回大会のテーマは「教育の植民地支配責任を考える」

今年のシンポジウム参加記をまとめるためのメモをブログにアップしたのだが、その際、昨年も何か書いてアップしたような記憶があって、あちこち点検したら下書きのまま放置していた文章を見つけてしまった。まったく・・・(汗)

テーマにも表れているとおり、前回と今回は一続きのものでもあると思うので、ここでまとめておくことにした。

植民地支配責任について考える。「教育」を軸に。(20170320記に加筆修正)

私自身は植民地朝鮮での「国語」教育を対象に、研究活動を始めた。もともとそこに至った理由は、在日朝鮮人の歴史と差別の実態を知るにつけ、教育大学で国語教育を専攻する自分の立ち位置をどう考えたらよいのかがわからなくなったからだった。

当時は1980年代の後半で、まだコリアタウン(当時は「朝鮮市場」と呼んでいた)に行けば朝鮮語なまりの1世が大勢いらっしゃったし、「韓国の年配の人は日本語を話せる」エピソードもよく聞かされた。その人たちの「日本語」を育てたのは植民地期の日本であり当時の「国語教育」のはずだ。そして在日朝鮮人の2世、3世は日本語を母語としていて、私の身近にも大勢いた。大阪では民族教育として「朝鮮語」を教える学校もあれば、公立小中学校の民族学級・民族クラブもあった(それらは今ももちろんある。というより当事者の努力で何とか守られているといった方が正しい)。

言語の教育はどうあるべきか。民族の言語とは。文化とは。「同化教育」とは何か。なぜ問題なのか。文化の抑圧や押しつけにならない「言語教育」はあり得るのか。そもそも「文化を押しつける/奪う」とは具体的にどうする/どうなることなのか。日本が植民地支配をしなければ存在することもなかった「在日」2世や3世の子どもたちが、日本の学校で学ぶ「国語」の時間。それは日本語をブラッシュアップする言語技術の授業でもあるが、一方で日本の古典文学を学ぶ「日本民族教育」の時間でもある。朝鮮語民族学級にせよ民族クラブにせよ、あくまで課外活動としてしか学べない(そして、その場すら保障されていない子どもたちの方が圧倒的に多い)。かつて朝鮮でカリキュラムから朝鮮語を消して「国語」一辺倒にしたことと、何が違うのだろう。「ここは日本だから」というが、学校にいる児童や生徒は日本ルーツの日本民族だけではないのに。そして旧植民地にルーツを持つ子どもたちがその場にいることに、日本の教育は旧宗主国としての責任を負うはずなのに。--そう考えていったとき、国語教育の歴史をふりかえり総括することでしか、答えが出そうにないと思い、私は芦田惠之助という高名な国語教育者が朝鮮で教科書編纂をしたという、その一点を手がかりに「国語教育の植民地支配責任」を研究し始めたのだった。

2017.3.28.第20回大会シンポジウム「教育の植民地責任を考える」に参加して、それぞれの報告を聞きながら改めて考えさせられたのは「植民地主義」がいかにわれわれの日常に「集合的無意識」として存在しているか、ということだった。「日本の排外主義は歴史修正主義の派生だ」と指摘したのは樋口直人氏だったか、植民地支配の総括をしたくない/責任を取ろうとしない態度が歴史修正主義であり、現今のヘイトスピーチをはじめとする排外的な空気は植民地支配の歴史と切り離せない。「植民地主義・人種主義」と本研究会の初期代表だった小沢有作氏「・」でつないで示し、両者が切っても切り離せないことを意識していたという。そこを考えるカギは「支配」と「抑圧」の構造であり、その構造の中の国家と個人、支配民族(主流派)と被支配民族(傍流・周縁化された人びと)の関係性であろう。

たとえば学校で植民地支配について教える/学ぶというとき、取り上げられがちなのは「抑圧」とその被害の面だ。歴史修正主義者に言わせれば「日本の悪いところばかり取り上げる自虐史観」ということになる。私は被害の面をきちんと押さえる(日本の加害性を自覚するために)ことが自虐だとはまったく思わないが、被支配の側から被害/損害の面だけを描出するのは、確かに世界を半分しか見ていないとも考える。同化教育の具体として「日本語を教わる」人びとの姿があるのなら、それを「教える」人びとの姿もあったはずである。日本語の使用を押し付けられ不利益を被った朝鮮の人びとの反対側には、宗主国の民/日本語母語話者として植民地に赴いたことで利益を得た日本の人びとがおり、土地を奪われた人びとの反対側にはその土地を得た人びとがいたはずである。旧宗主国にルーツを持つマジョリティ日本人が学ばなければならないのは、被害をもたらした側の個別具体的な一人ひとりのこと(その一人ひとりが自分につながる人間であるという視点)ではないか。被害/損害の実態があるということは、それによって得られた利益があり、その利益を受けた人びともいるという、「構造」を考えなければならない。植民地支配とは自らの利益のために誰かに不利益を強いる社会構造であり、その社会構造自体は現在もなくなっていない。植民地の歴史は「遠い昔のできごと」ではない。

日中全面戦争と植民地教育の展開ー「皇民化」の位相ー

2017年は日中全面戦争の開始(1937年)から80年めの年だった。

先日(3.31.)、2017年度最後の日に行われた大会シンポジウムでは、標記のテーマを掲げ、この1937年を機に日本国内で、植民地(朝鮮・台湾)で何が起こったかをふりかえることで、植民地教育が日中戦争(~アジア太平洋戦争)にどのように関わったのかが議論された。朝鮮、台湾のいずれの報告からも多くの示唆を得たが、ここでは雑駁に私自身が考えたことをまとめておきたい。

1937年に文部省が『国体の本義』を出すが、この時期、まだ日本国内では「皇民化(皇国臣民化)」は叫ばれない。一方、朝鮮では「皇国臣民の誓詞」朗誦・・・つまり、植民地の方で先行して「皇民化教育」が叫ばれていた。

(ちなみに 国体の本義  はネットで全文公開されている。検索すると批判的な論評・考察記事とともに、絶賛?している政治家のブログなどもヒットした)

朝鮮は地理的な要因から日中戦争の「兵站基地」として重視されたこともあり、1938年には早々に朝鮮教育令改正(第3次教育令)が行われ、同時に「陸軍特別志願兵制度」実施へと進んでいく。志願兵とはいえ、植民地の人びとを兵士として動員しようというのである。兵士として武器を携行した朝鮮人宗主国日本に反旗を翻しては困るのだから、当然、徹頭徹尾「同化」し「皇国臣民」となった朝鮮人でなければ兵士にするわけにいかない。

では「皇国臣民」とは何者か。『国体の本義』ではこう述べられる。

一、肇国

(前略)我が国に於ては、皇位万世一系の皇統に出でさせられる御方によつて継承せられ、絶対に動くことがない。さればかゝる皇位にまします天皇は、自然にゆかしき御徳をそなへさせられ、従って御位は益々鞏く又神聖にましますのである。臣民が天皇に仕へ奉るのは所謂義務ではなく、又力に服することでもなく、止み難き自然の心の現れであり、至尊に対し奉る自らなる渇仰随順である。我等国民は、この皇統の弥々栄えます所以と、その外国に類例を見ない尊厳とを、深く感銘し奉るのである。

三、臣節

 我等は既に宏大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである
 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を謬り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。各々独立した個々の人間の集合である人民が、君主と対立し君主を擁立する如き場合に於ては、君主と人民との間には、これを一体ならしめる深い根源は存在しない。然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。(下線は筆者)

皇国臣民と天皇は一体で、かつ生まれながらに天皇に奉仕するのが「我等臣民」の本質・・・とはいえ、植民地の民は「肇国以来一体」の「臣民」メンバーではない。しかし大日本帝国の一員であるために「臣民」であらねばならない。「ねばならない」教育目標に、強制力・暴力が伴うのは当然だ。1937年「皇国臣民の誓詞」、神社参拝強要、1938年「陸軍特別志願兵制度」、1939年「創氏改名」・・・。

一方、朝鮮でも台湾でも、「同化」の要とも指標とも言える「国語普及」が日本の思うように進んでいなかった。台湾でも朝鮮でも初等教育学校の就学率は低く、修業年限2年の簡易学校、青年向けの社会教育施設(国語講習所、夜学校)設置等、「国語普及」施策にも相変わらず手を抜けない状態だった。教育機関を増やせば、指導者も増やさなければならない。しかし日本人教員を配置しきれず、現地の朝鮮人・台湾人教員を採用することになり、「同化」教育が徹底できない・・・という矛盾が増大していった(当時は、ちょうど戦争の長期化に伴う労働力不足から、植民地から日本国内への労働力移動が加速し、在日朝鮮人数が激増した時期にもあたる。労働者も足りず、教員も足りず、やがて兵士も足りなくなって植民地にも徴兵制を敷くことになるのである)。

「同化」とはなにか

『国体の本義』は「大日本帝国」という国家アイデンティティを支える「大きな物語」を提示したものだ。社会科学も自然科学も無視した非合理的な物語(最近流行っている「日本スゴイ!」論をあちこちから引っ張ってきた集大成ともいえる)。しかし、だからこそ、この物語を必要とした人びと/政治情勢とはなんだったのだろうか、と考える。

「同化」は朝鮮や台湾といった植民地でのみ発現したものではなく、日本で近代学制が出発した明治時代の当初から教育の軸として存在していた。厳密にいえば、明治初期の日本ではマイノリティの文化をマジョリティの文化に吸収する、というより、明治政府が境界線を設定した「大日本帝国」領域内に住まう人びとを、明治政府が構想した「理想の国民像/臣民」に育て上げることが要請されていた。そのための装置が近代学校であり、日本の文教政策は徐々に「理想の国民像」をマジョリティ日本人に教化することに成功し、そこに同調できない/しないマイノリティを差別し排除する社会を作り上げていったのだといえる。つまり日本の教育政策は内外問わず一貫して「同化」なのであり、それは現在も地続きのままで存在しているように思う。

教育には必ず「めざす人間像」がある。近代日本がめざした理想は「臣民:天皇の臣下たる民」である。それはつまり絶対権力である天皇の存在を疑わず、臣下の民としてそれにつき従い、すすんで奉仕するという人間像だった。そこには基本的人権、公正な社会といった考え方がない。20世紀前半の帝国主義と戦争の時代を経て、その禍々しい被害の実態を反省した人類がつかんだ普遍的価値に照らして、「同化」教育もまた検証されねばならなかったし、今からでも検証すべきであろう。それは単に日本語に習熟してコミュニケーション不全を解消させることや、日本の文化・慣習に熟達して「日本人らしく」することをめざしていたわけではない。支配者である日本の方針、政策に順々とつき従い、求められれば奉仕を厭わない人びとにすることが重要だったということを見落としてはならない。その反省から出発するならば、当然、(権力・権威に対する)批判的思考や他者からの搾取を拒む個の確立と主体性の尊重、といったことが「めざす人間像」として立ち上がってくるはずだ。

日本は同調圧力の強い社会だとよく言われる。そして多くの人がそれを息苦しいと言い、「みんなちがってみんないい」とか「世界に一つだけの花」とかいった個性重視のスローガンがもてはやされるが、現実には同調圧力が弱まるわけでなく、むしろ強まっているように感じる。「空気を読める」ことが賞賛され、その時その場で力があるのは誰かを素早く読み取って、力関係の序列を乱さず、分相応のふるまいができるのが「大人」として認められ、評価される。そんな社会が息苦しいと言いながら、その序列からはみ出すことが怖くて下りることができない。下りることができず、懸命にしがみつく努力をしているから、そこから下りて批判する人が許せない。その序列に入ることができない人に比べれば自分は努力している、がんばっているから偉い、と自分に言い聞かせて安心する・・・そういう形で社会が求める人間像に自分を合わせて汲々とする、そんなループに自分自身がはまってしまっていないか。そのループに子どもを参加させようとしていないか。学校だけではない。家庭でも職場でも、年長者や組織に都合のいい人間を育てようとしていないか。「同化」の呪縛は強い。常に考え続けてやっと解くことができる、ぐらいに考えないと呑み込まれてしまうと私は思う。

「同化」の呪いを解く魔法を手に入れるためにも、歴史を紐解き、どの方法が、どこの誰に効果を発揮したのか、あるいはしなかったのか、時期の違い、地域の違い、その内実の多様さを明らかにして学ばなければならない。植民地の場合、現地の人びとへの教育もあるが、その傍らで日本人植民者に対して行われた教育もある。日本支配に反発しない民(マイノリティ)の育成と、支配のリーダーになる民(マジョリティ)の育成は両輪だったはずだ。いま、力関係の上位にいるから優位で安心だと考える(現実には意識もせずにいる)人に不自由さや苦しさは自覚しづらいのかもしれないが、人を序列化して排除する構造がある限り、人間は自由に生きられない。自分を閉じ込める呪縛を理解しなければ、そこから外に出ることはできないのだ。

だから私は「同化」にこだわるのだ、と改めて思った。

研究会参加からの大阪ダイバーシティパレード

2017年度末~2018年度初の怒涛の2日間(笑)へとへとです(笑)

www.youtube.com

これに参加するために夜行バスで大阪に帰りましたのよ。

中之島公園芝生広場から難波元町まで御堂筋を南進。

第1梯団が多様性(No Hate! No Racism!)、第2梯団が労働、第3梯団が女性・・・で、私は第3梯団を歩きながら、こんなコールをしていました。

「愛想笑いを求めるな」

「女の限界、男が決めるな」「私の問題、私が決める」

「私の体に干渉するな」「私の体に勝手に触るな」

「生きたいように生きてやる」

他にも、セクハラをはじめとする性暴力の問題や、保育所問題、「イクメン」問題・・・とさまざまなコールがありました(他のフロートでの素敵なコールは、私も今動画を見て知るという・・・他の梯団まで走って見に行くほどの体力がないから 笑)

 

コールしながら、これってすべてに通じることだよなぁと、しみじみ考えました。

 

たとえば「愛想笑いを求めるな」

女に限らず、マイノリティがなにか問題を訴えると常に「そんな攻撃的な言い方したら聞いてもらえないよ」「耳を傾けてもらえるように努力すべき(可愛げ出せ)」といったことを言われるのは本当に日常茶飯事なんだよな・・・。あるいは、ごく真面目に語っていたら「暗い」とか「固い」とか。「もっと明るく楽しそうにしゃべらないと、人は集まらないよ」・・・は一面その通りで、こちらも人権問題に取り組むことが難しくて楽しくないことだとは思っていないし、楽しさも伝えたいから、ついその忠言に従って、元気に明るく、楽しい話をしようと思ってしまう。けれど、やはり深刻なことは深刻なわけで、無理して明るく語る必要もないし、ましてや困っていたり苦しんでいたりする当事者に「愛想笑い」を求めるのは暴力だ、ということ肝に銘じておかないとダメだよな・・・と。(そもそも、日本社会が過剰に「明るさ」「物腰の柔らかさ」を求めすぎるのだとは思う。その反動で駅員とかコールセンターとか店員さんとか、自分が横柄にふるまってもいいとスイッチ入った途端に度を越した傍若無人を発揮してしまうんじゃなかろうか。・・・歪んだ社会です)

「女の問題、男が決めるな」も、「女」を他のマイノリティグループに、「男」を対応するマジョリティグループに言い換えるとすべて成り立ちます。

なぜ、あなたがジャッジするのか。

他人の問題に干渉し、ジャッジする権限があると(無意識に)なぜ思えるのか。

よく考えるとものすごく無遠慮で失敬なのに、マジョリティはマイノリティに対して平気で踏み込んでくる。

「〇〇さんは、もうすっかり日本人だよね!」
(何のどんな判定基準で判定してんの・・・てゆーか、なんでお前が判定すんの?)

「〇〇さんはオリンピックで△△を応援するんでしょ!」
(ルーツは△△やけど。だいたいオリンピックに興味ないし。なにその決めつけ)

「ええ歳したおばちゃんが痴漢の心配せんでいいでしょ」
(心配ゆーより、トラウマみたいに過去の不安が蘇るから夜道は嫌なの!)

・・・まぁ、枚挙にいとまがない。あるあるすぎて。

外国人の問題でいえば、この日本社会で暮らしているのに、その暮らしを支える法律や制度を決める仕組み(参政権)に、外国籍である限り参加できない(日本生まれ、日本育ちでも、「帰化」が「許可」されないと日本国籍を取れない)。まさに私の暮らしを私が決めることができないという社会。「公権力の行使」云々という屁理屈で、この仕事はできるけどこれはダメ、と日本社会に勝手にジャッジされ、決められている。

「私を抜きに私のことを決めるな」という、マジョリティにとっては何の変哲もないあたりまえのことが、マイノリティにはスローガンになる。

 

そんな不公平な社会で、
不公平さに目をつぶって愛想笑いをしろと
要求されることの理不尽さ。

 

・・・私も愛想笑いしてきたなぁ(苦笑)
むしろ「いつもニコニコしていて、いいね!」とオッサンたちに褒められてきた。
それが職場でうまくやっていく方法だと思っていたから。
だから習い性のように沁みついてしまった「マジョリティに都合のいいマイノリティの行動様式」が私にはあって、こりゃ呪いだなーと。コールしながら、そんな呪いも一つひとつ解いていきたいと、改めて強く思ったのでした。

同化/皇民化ということ

日本植民地教育史研究会、2017年度の大会シンボジウムは、日中戦争80年にちなみ、1937年前後で植民地教育にどんな変化が起こったかー朝鮮と台湾に関する発表と討議、でした。

 

「同化」は植民地教育に一貫している方針で、その強化形が「皇民化」。朝鮮の場合、はっきりと「皇国臣民の誓詞」を唱えさせるという形が入ってきます。

 

……とまあ、もちろん研究会だし研究者だし、史料に基づいてあれこれ討議され、帰ったらあの本読み直そう……等と考えながら参加していたのですが。

 

ここはblogなので、ちょっと雑に( ̄∇ ̄*)ゞ考えたことをメモっておきたく思います。

 

まず、「同化」とはだれが何にどのように「同じく化す」という意味なのか。ざっくり言えば、マイノリティをマジョリティに、その社会で支配的な文化(言語・習慣・考え方などなど)に「同化」させるための同化教育であり、同化政策なわけです。

 

移民マイノリティ、あるいは植民地の被支配民族にとれば、その社会の支配的な文化(価値観)をいち早く学習して、その序列に参入した方が、そのときその場の損得で考えれば得といえます(正確には、得と言えないこともない、ぐらいか)。たとえば現在でも、日本語教室にやってくる外国人の子どもに熱心に日本語を教えているボランティアや教師が「日本語を早く覚えられるように、家でも日本語を使うようにしましょう」などと言ってしまうのも、日本社会で生きていくなら早く日本語に習熟した方が便利で生きやすいはず! と、あくまでも善意(だから困る) 。でも、その結果として母語を忘れてしまったら?   母語で親と話すことができなくなったら?  そんな想像力を圧倒的に欠いた善意は、善意ゆえに反論しづらい抑圧としてはたらきます。

 

逆に、マジョリティの側が相手の言語や文化に敬意を払い、せっかく知り合ったのだから挨拶の単語ぐらいは覚えてみよう……とか、綺麗に一対一で訳語が対応するはずがないことに気づいて自らの言語を相対化し、個々の単語や表現の微妙なニュアンスの違いをお互いに発見して学びあう関係性が作っていければ。つまり、マイノリティだけに変化や学びを押しつけず、自分たちも影響を受けて変化することを恐れず、ともに暮らしていくーそれが「共生」であり、ダイバーシティだと私は考えます。

 

植民地で、支配する側は自分たちが何か変わろうとか変えようとか、微塵も考えなかっただろうと思います(考える人もいました。浅川巧さんとか)。だって支配してるんだから。しかし、そこで「変わる必要も変える必要もない」と考えられていた価値観は「大日本帝国のために命を捧げる」ことであり、「天皇を守って死ぬことは栄誉」だと考えるものでした。つまり、日本人もその価値観のために大勢死んだわけです。

 

むしろ、マイノリティだからこそ、その理不尽さに気づいて抵抗し、あるいは馴染まないという「できの悪さ」を発揮したのだと考えることはできないか。そこで立ち止まって、「この人たちに受け入れられない考え方の方に、何か矛盾や無理があるのではないか」と考え直していれば、ファシズムは止められたかもしれない。

 

歴史に「たられば」は禁物だけれど、そんなふうに妄想したくなります。

 

「同化」の肝は権利意識を磨耗させていくことにあります。そこを抜きにするとなぜ「同化」がダメなのか、その理由を見誤る、とも私は考えてきました(現に朝鮮総督府の教育官僚が「独立欲を失わせること」が目的だと言うてます……)。それは「マジョリティに歯向かわないマイノリティ」を作るための教育だったかもしれないけれど、同時にマジョリティに「支配に従順でいるべし」「権力に歯向かうと損」という価値観を強化していく側面もあったのだろうと思います。

 

そう考えると、「物言うマイノリティ」をバッシングし、その価値観がどうなの?と問い直すこともなく多数派に流れる/合わせることを「空気が読める」と称賛する現代の日本は、日中戦争期と何が違うのか、と思えます。

 

私たちは、歴史的な存在であるということ。過去のことを振り返るからこそ、見えてくる今がある。

 

研究活動もがんばらねば……(と、研究会にいくたびにかろうじて決意?する私)

 

 

 

 

「ともに生きる」ということ

昨日、子どもの夢応援ネットワーク主催のシンポジウム@法円坂に参加しました。

「ともにいきるシンポ~多民族社会「日本」のこれから」

メイン講演が湯浅誠さんだったからなのか、はたまた関心が高まっているからなのか、(後者だとたいへんうれしい)参加者130名で会場はぎっしり。

湯浅誠さんの総論的な講演から、外国ルーツの若者2人を交えてのパネルトーク、休憩をはさんで参加者が8人ずつのグループに分かれてのテーブルトークと全体でのシェアとまとめ、という流れでした。そこで私の考えたこと、気づいたことを備忘として書いておこうとも思います。

構造を変えなければ「生きづらさ」は変わらない

まず、湯浅誠さんは外国ルーツの子どもの「生きづらさ」のなかには、①日本社会に生きる若者・子どもに広く共通する「生きづらさ」の側面と ②国籍の違い、言語の壁など“外国人”ゆえの側面とがあるだろう、としたうえで、主に①について話されました。

高度経済成長期の社会モデルが機能しなくなっているのに、そのモデルのイメージが抜けきらず、構造を変えることができていない・・・という部分は彼の著書を読めばわかるし、前にも聞いた話なので割愛(でも説明がさらにわかりやすくなっていて、さすがです)。昨日、印象的だったのは最後の方で「メインストリームの人以外はモノを言いにくい、っていう社会を何とかしないとダメだよね」という話でした。

例として出ていたのが「専業主婦と働く女性」。高度経済成長期、専業主婦が「メインストリーム」だった時代には、働く女性が「なぜ働くのか」をいちいちエクスキューズしないといけない空気があって、「ただ働きたいから働いているではダメなのか?」というのが問題だったけれど、いまは働く女性の方がメインストリームになって(されて?)専業主婦の方が「なぜ働かないのか」を言い訳しなければならない気分に追い込まれている。つまり「メインストリームの人以外は、モノを言いにくい。でも事情の説明や言い訳は求められる」という構造自体は変わっていなくて、メインストリームが入れ替わっただけだという話に、すごく考えさせられたのでした。

男性の場合「なぜ働くか」を聞かれることはないだろうけれど、たとえば育児休暇や介護休暇を取りたい、といったときに、女性ならそう根掘り葉掘り聞かれないことまで聞かれたり、説明しなければならないような気分になったりするんだろうなぁと思う。(それも、男性差別ではなくて女性差別の別の表出の仕方なんだけど)

社会の多様性が増す、ということは、誰もが何かしらの面でマイノリティ性をもつことが可視化していく/自覚されていくということでもある。そうなったとき「メインストリームじゃないところでは発言しづらい、生きづらい」という構造のなかでは「しんどいなー」と感じる機会だけがいたずらに増えていくということになり、「多様性しんどいやん」・・・が高じて「多様性なんて認めるからしんどくなるんだ!」となると排外主義が高まってしまうんじゃないか。だから構造そのものを何とか変えて、メインストリームじゃない人も発言しやすい、多様性がフラットに語り合える構造にしていかないと「ともに生きる」社会には近づけない・・・。

・・・人権教育はもちろん「フラットに多様性を語り合える」社会をめざしているのだけど、改めてこういう形で説明されると、その必要性がよくわかるし自分のミッションが明確になるように思えました。

ロールモデルのいい面/悪い面

続くパネルトークの際に、ラボルテ雅樹さんが(これも最後の方で)「不安の多い世の中だから『モデル』が求められがちだし、その必要性は否定しないが、一方で『モデル』と比較して自分はダメだと思ってしまったり、『モデル』とされた側もその期待に縛られて過剰にがんばらないといけなくなったりするのはおかしいんじゃないかという気がしている」と言われたことも印象的でした。彼は以前も別の場で「私はロールモデルになりたくない。自分がなれると思わない」ということを言っていて、そのときも「当事者にばかり荷を負わせるな」というメッセージを強く感じさせられました。

差別のある社会のなかで、周縁化されがちなマイノリティの子どもたち。コミュニティの大人の姿が限定的になりがちで、将来像の幅が広がらない、だからこそさまざまな「大人」の姿を見せたい。できれば「同胞」の、身近な先輩たちの「多様な生きかた」をロールモデルとして見せたい。・・・それは子どもたちをエンパワメントするための一つの方法として大切なことには違いないのだけれど。

でも人間なのだから、完全無欠な「立派な人」であるわけはなく、失敗したり、くじけたり、やけを起こして変な行動に走ったり、ということだってある。条件が整ったからといって、だれもが同じようにがんばれるわけでもない。

ここにも先ほどの「構造」の問題が絡んできます。

「日本社会に貢献してがんばっている」姿が評価されるとき、その「貢献」は日本社会の能力主義や学歴主義を無批判に受け入れたものさしで計ったものではないのか? 

子どもたちが「かっこいい」「あんなふうになりたい」と思う大人像・・・大人にも子どもにも社会の価値観は刷り込まれているから、「モデル」として選ぶ人が「メインストリームに近い人」になりがちだということ、その危険性を常に頭の片隅に置いておかねばならないなと思いました。

また「モデル」が比較軸になって優劣を感じてしまう・・・のも、けっきょく「メインストリーム以外の人はモノが言いにくい」構造があって、私たちが常にそのなかで比較し、自分や他人を値踏みすることに慣れきっているからなのだろうな、と考えました。そうすると「ロールモデルを示す」ということと同時に、多様な生き方のどれもに価値があり、優劣では計れないのだという新しいモノの見方を提示し続けること。大人がその見方で人と接する「具体的なあり方や方法」を子どもたちに見せることが重要になってくるはずです。

「差別はいけない」と口先だけでいっていてもだめだ、行動しなければ、とはよく言います。それは露骨な差別発言や行為を「止める行動」として考えられていることが多いけれど、そういう特殊な場面だけでの問題ではなく、何の気なしに「〇〇さんはがんばったね、すごいね」等と評価しているときの、その評価軸を問い続けるという行動を求められるのでしょう。そう考えていくと、人権教育はゴールがなく、ずっと「学びほぐし(unlearning)」が続くものなのだということも腑に落ちるように思いました。

人間は理解できない事態にぶつかると「(当事者に)もっと頑張れよ!」と考える

あー、そのとおり! と思わず笑ってしまったのがこの発言(by湯浅さん)。90年代、それまで貧困など無縁だったはずの若年日本人男性に非正規雇用ワーキングプアが広がり始めたころ、そのじたいが理解できなかった大人たちは大真面目に「若者を鍛え直さないと!」と議論していた、という話。

笑っている場合ではありませんが。

学校でも「なんでそんなことするの!?」という事態に面食らったとき、「親はなにしてんの?」とか「いや、そこもうちょっと我慢して考えようやー」とか、「当事者の自己責任」追及という思考回路に簡単にはまってしまいがちです。時間が経って冷静になると、その思考回路では解決にならないとわかるし、反省もできる・・・と考えていて、いや待てよ、反省もしないし、ずっと「あそこの親は・・・」だの「あいつは性格が悪すぎる」だの言い続けている先生もいたなぁと思い出しました。

現に労働問題/貧困問題でいっても、未だに「努力しないから悪い」という自己責任論が大手を振っています。

「そういう問題じゃない」と気づいて軌道修正できる人と、気づかず軌道修正もしない人と。そこを分けるものは何なのでしょう。

ありていに言えば、人権教育(解放教育)でいうところの「実態に深く学ぶ」という姿勢の有無と、生活を掘り起こして社会科学の視点で解析できる能力の有無、ということになるのでしょうか。

諸々、いろいろと考え直したい宿題をたくさんもらったイベントでした。