わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

知識と知恵、行動のスキルアップ

昨日は、部落問題学習の授業プランを考える勉強会に行った。

前半、結婚差別の事例(実話を元にした架空の話)を題材に、「あなたが相談された人だとして、どんなアドバイスをするか」と考えるグループワーク、後半、部落問題のさまざまなトピックをグループで分担して授業プラン作り、という流れ(とはいえ、後半は時間も押したため、プランにまで行きつかず)

で、やっている最中もいろいろ考えさせられたのだけど、全部終わって一晩おいて、また考えさせられている。

それは、

反差別・人権教育の「ねらい(目標)」は何か、ということ。

もちろん大きくは差別をなくすことなんだけど、たとえば学校でやる場合は児童生徒、学生、大人なら研修の参加者に、何を知ってほしくて、どんな力をつけてほしいのか、ということについて、わたしたちは意外にざっくりとしか考えてこなかったんではなかろうか、と思ったのだ。

ここで「わたし」ではなく「わたしたち」にしているのが、考えさせられているところ。

前半の課題はこんな感じ。

AさんとBさんは共通の友人を介して親しくなり、つき合い始めました。結婚も意識しています。最初は自分が部落出身で、自宅の場所も同和地区内であることを隠してつきあっていたAさんですが、結婚の話が出たときに、思い切って打ち明けました。Bさんはピンとこないながら、勉強しようと部落問題の本を買って読み始めましたが、その本を見つけたお母さん問い詰められ、Aさんが部落出身であることを言いました。するとそれから、Bさんの家族は交際に強硬に反対し始めました。Bさんは毎日家族に責められ、つらい思いをしていることをAさんに言いました。Aさんはどうしていいかわからず、地域の先輩であるCさんに相談しました

で、「あなたがCさんだったら、どんなアドバイスをしますか?」というお題で。

そのアドバイスを考えているときに、私はBさんの家族を説得しようとか、そのためになぜBさんの家族が反対するのか、そこにある差別意識の内容をもっと知りたいとか、そういうことを全然考えてなくて、とりあえずBさんがしんどそうだし、家族がBさんをAさんに会わせるまいとして実力行使に出るのが一番怖い、と思って、それを防ぐ方法を考えていて(これは『結婚差別の社会学』なんかを読んでいて、かつ、この手の話をこの2年ぐらいよくしていたせいだとは思う)。

ところがグループで話し始めたら、この「なぜBさんの家族は反対してるんだろう」「偏見をたださねば」的な意見が出てきて、「え、いま、そんなことを悠長に言ってる場合?」と驚いたのだけど、驚きと同時に他のグループでもそういう意見から話が始まっていたようで、なんというか、「家族の意識変革は最後でええやろ」とキッパリ後回しにして全然考えていない自分に気づかされ、あれれ? なんでかな…と考えさせられてしまったのだ。

「正しい知識を広めれば差別はなくせる」?

これは自戒も込めて言うのだが、人権教育・啓発は、長らくこの「差別をなくすために正しい知識を啓蒙する」という考え方「だけ」で取り組まれてきたように思う。

大学で授業をしていても、学生がやたらと「正しい知識を学んで…」と書いてくる。

もちろんそれは間違いではない。「在日特権」のような妄言は「そんなものあるわけないし」の実態を正しく認識してもらうことでかなり正せると私も思っている。

ただ、酷いヘイトスピーチと、それに対する取り組みからの裁判や法律の制定…という流れのなかで、「正しい知識を広めれば偏見/差別意識はなくせる」というところだけで満足していてはダメだと痛切に思い知らされた。もちろん、ヘイトスピーチをする人が自分の過ちに気づき、考えを改めてヘイトスピーチを止めることが理想だ。けれど、彼らを啓蒙し説得しているあいだ、被害が放置されていたら本末転倒というか、木を見て森を見ず? いや、逆かな。森ばっかり見て切り倒されそうになっている木を見ないような。とにかく、まず被害を止めることが最優先事項で、加害者が悔い改めるように教育することはその次の問題だという、考えてみれば至極当然のことを、この10年ほどの歳月は私に刻み付けたと思う。

昨日の勉強会の出席者は小中学校の現場の人がほとんどだった。これまでも感じたことはあったのだが、どうも教員という職種の人は「教育」したがるというのか、被害を止めることをすっ飛ばして、次の教育の方に先走って目が行きがちなんだな、と改めて思ったのだ。そう思ってふりかえってみれば「嫌韓流」などが登場し始めだったころ、始めたブログにその手のコメントがつきまくり、それに対していちいち説得しようと試みて、説得しようとするあまり相手に合わせて「是々非々」で丁寧に…のつもりがつけこまれて「賛成してくれてありがとう」みたいなコメントが飛んできて、もはや気持ち悪すぎてブログを閉鎖してしまったころの自分の思考回路も、「まずこいつを黙らせなければ(公の場で差別的なことを書かせないことが最優先)」ではなく、「この人の考えを改めてもらおう」という、教え諭そうモードだったと思い当たるのだ。

痛い・・・

さらに思い返してみたら、基本的に私が学生時代に学んだことは、やはり「正しい知識を広めれば差別はなくなる」という素朴な啓発至上主義みたいなところがあって、「私は知識がある人、差別するのは知識がない人」という上から目線・・・

痛い。もはや、はっきりと痛いヤツ・・・

そういう素朴な啓発主義の限界があったから、同和教育/人権教育の世界にも参加型学習の波がきたはずで、昨日も形態としてはグループワークをずっとやっていたのだけど。

知識啓発+参加型学習スタイルになったのはなぜか

知識を軽視するつもりはないし、教員の重要な仕事の一つに、先行知見を教え、その利用の仕方を身に着けることを促すことがあるのは間違いない。けれど知識があるだけでは、目の前の差別を「止める」行動に出られない。「差別は間違っている」という知識と、「間違った行為を止める手段」を行使する知恵とは、別のものだからだ。

1990年代(ちょうど私が現場に出たころ)初めごろから、開発教育の手法などを取り入れた「参加型人権学習」の波が来た。なんで私が学生の間にこの波が来なかったのかな…と、現場に出てしまって勉強の機会がなかなか巡ってこない状態になった私はぶつぶつ愚痴っていた。「参加型」といわれるものは、私の眼には演劇的に映り、自分の演劇部での蓄積と人権教育がこんなふうに融合できるんだ! と嬉しくてたまらなかった。

当時は「なんでいま?」としか思っていなかったが、要は「正しい知識を教える」だけでは足りないものがある、と多くの人が限界を感じたからだったに違いない。

足りなかったのは、「差別を許さないためにどう行動するか」の行動力の部分だ。差別発言を聞いたら、それは間違っていると言う…どうやって? どんな内容を、どのタイミングで、具体的にはどんな言葉を選んで? ハウツーは実際にやってみなければ身に着かない。黙々と受動的に知識を蓄えているだけでは得られない力を鍛えるために、参加型学習は導入されたはず・・・

その伝でいえば、先ほどのワークでも「Aさんとの交際を反対されて弱っているBさん」を助けるための行動を考えることが最優先、になる。そして実際に、どのグループも「Bさんの家族はなぜ…」とBさん家族に考えを改めてもらうという話は出ながらも、まず最初のアドバイスは「Bさんを孤立させない・AさんにBさんとしっかり話す時間を確保するよう言う」という結論にはなっていた。

結論にはなっていたけれど。グループで話しながら、

まっさきに「Bさん家族の部落差別意識はどこから来たんやろう?」がくるのと、「Bさんが辛い状況をとにかく何とかしなければ」がくるのとは、やはり少し違うような気がして、モヤモヤ考えてしまったのだ。

ヘイトスピーチを最初に聞いたころの私は、前者だった。「なぜそんなことを言うのだろう」「何か、よほど嫌な体験/個人的な恨みでもあるんだろうか」等々。でも、そう考えているあいだは、攻撃されている人を守れていない。差別の痛みを放置して「差別をなくす方法」を一生懸命考えている頓珍漢さに気づいたとき、恥ずかしくてたまらなくなった。まず、ヘイトスピーチを止めさせる。つまり凶器を取り上げる。動機の解明や意識変革はその次の段階。・・・ここをはっきり意識化したことが、それ以前とそれ以後の私を分けているんだと、改めて気がついた。

Bさん家族の説得の類を一切考えないという昨日の私の発想も、おそらくそこから来ていた。Bさん家族の反対の意思が、教育や啓発で変わることが可能かどうかわからない。簡単に変容しない強固なものであった場合、反対が賛成に転じるのを待っていたら結婚なんてできないんだから、そこに労力を割くのはリスキーだし、BさんやAさんの手に余る話ではないか。だったらここでは考えなくてよい、と無意識的に排除したのだと思う。おそらく以前の私ならまちがいなく、同じように、なぜBさんの家族は反対するんだろう、どうすれば賛成してくれるだろうと説得の方策を一生懸命考えたに違いない。「差別をなくす」ということは、Bさん家族のように差別をする人を、差別をしない人に変えることなのだから。

でも、大事にしないといけないのは、いままさに結婚の意思を阻まれて困っている二人が結婚するにはどうすればいいかであって、それは別に、Bさん家族の賛成を勝ち取らなければできないことではないのだ。

被差別体験から編み出された「知恵」を大事にすること

ちなみに、このエピソードにはモデルがあり、相談されたCさんが実際に言ったアドバイスもある。実際のアドバイスはもっと現実的で「別れたと嘘をついてでも、Bさんが座敷牢に入れられないようにして、毎日会う時間をつくれ」というものだった。結婚差別を乗り切るための、実際的なサバイバルの知恵だなぁと思う(詳しくは『結婚差別の社会学』に出てきます…昨日は「なんかどっかで聞いたことがあるような?」と思いながらワークをしていて、後から思い出しました…)

部落問題にせよ、在日朝鮮人問題にせよ、厳しい差別のなかを生き抜いてきた人たちの知恵に触れると、いつも感心するし、人間の底力を感じてドキドキする。そういうしたたかな知恵に触れることなく、ただ厳しい実態だけを学ぶと「差別はいけない」ことは学ぶが、一方で「自分は差別される側でなくてよかった」「自分ならそんな目に遭ったら耐えられなくて自殺するかも」といった感想も同時に持ってしまう。もちろん、実際に亡くなる人もいるし、そんな目に遭わないで済むならその方がいいのだから、その感想ももっともな思いではあるけれど。でも、差別にやすやすと殺されないために、わたしたちは学ぶのだ。そこに目標を置くなら、受け取るべきは「知恵」の方だと思う。

その知恵は正しい知識に裏打ちされたものでもある。いわば先行知見だ。

先行知見に学び、知識を知恵にして、感覚的反射的に「それはおかしいよ!」と行動できるように練習する。どんな練習が可能なのか、どんなスキルの獲得をめざすのか。それを考えることが、人権教育のミッションでなければならない。

 

・・・つくづく、教育にはマニュアルやハウツーではなく、哲学が必要だなと再認識するのでした。

(そういえば「Knowledge and Wisdom」というバートランド・ラッセルのエッセイを高校のとき読まされたな…と思いだして検索したら、こういうのがあったので、貼っとこ。高三の1月に、これをリーダーの時間に読んでいた(笑)受験なのに…)

ラッセル「知識と知恵」n.1 - Bertrand Russell : Knowledge and Wisdom (1952) 知識と知恵

母語で「書く」ということ

温又柔さんの御著書やトークに触発されて、既にいろいろ書きましたが・・・。

 

先日、田辺聖子さんが亡くなられました。

学生時代の一時期、女性の書き手のものばかり読んでいた時期があって、山田詠美、日刈あがた、落合恵子如月小春鷺沢萠、李良枝・・・(と考えて、如月小春さんも鷺沢萠さんも李良枝さんも、彼岸にいると気づく)。それは、子どものころのように異世界にトリップするための読書ではなく、日頃感じるもやもやしたものにコトバを与えるための読書だった。そして田辺さんの作品は「大阪弁を紙の上に再現する」という点で、ちょっと別格だった。田辺さんは、大阪弁を書きコトバとして成立させたパイオニアだと思う。ふわふわして人を食ったような、しつこくてしたたかで、ときに悪賢くするっとすり抜けていくかと思うと、ねちゃねちゃまとわりつくこともある、微妙な語尾のニュアンスを「こうすれば表せるのか!」と感心しながら読んでいた。

 

こうして書いているブログの文章も、私にとっては母語ではない「日本語の書きコトバ」だということ。すなわち「母語で書く」ということが、ほとんどすべての人間にとって実は難しいことなのだということに、私たちはふだん無自覚だ。

 

温さんの文章の中に、小学校に入って日本語の読み書きを習い、作文が書けるようになったとき、だれに何を言われたわけでもないのに、おかあさんの中国語と台湾語と日本語が入り混じった(それはのちに温さんによって「ママ語」という素敵な名づけに至るのだけど)コトバを、日本語に訳して「  」のなかに書いていた、というエピソードがある。温さんはそれを「私のなかに小さな翻訳家が住んでいた」と表現する。

温さんの場合、それが「  」のなかで起こり、お母さんのコトバと書かれた日本語との差異は明白だから、「小さな翻訳家」と自覚され、「なぜ日本語でしか書けないと思ったのだろう?」という内省になって、それを私たちは著作として受け取れる。しかし、実は私たちだって、作文を書くときは母語を書きコトバの表現に修正しながら書いている。少なくとも私はそうだ。大阪弁で書く、ということはほとんどない。ただ、温さんとは逆に「   」のなかだけは聞こえたままをどうにか忠実に再現しようとして「なんでぇや!」とか「そやけどさぁ…」とか、ひらがなやカタカナの小さい文字まで駆使して書く(その意味では、聞こえたままの音をそのまま覚えたてのひらがなで再現しようとして書いている小学校1年生の原稿用紙は、とても素敵だ。「そう書くか!」という発見に満ちている)

いま、外国人児童生徒の受入れうんぬん、ということで、これまで母語の教育なんて見向きもしなかった(むしろ叩き潰すようなことばかりしてきた)文科省が急に「母語保障、母文化の尊重」を言い出して、どの口が言うねん…といらつきつつ、でも言質を取ってがんばろうと思っているところだけれど。よく考えれば「話しことばはすぐ上達するけどね」とか「母語の力も伸ばしていくことがアイデンティティの安定に大切」とか言っていることは、日本語話者の子どもたちにも同様に当てはまる部分がある。つまり、外国ルーツの子どもで日本語以外の複言語環境にいる子どもたちへの配慮、と大上段に構えているけれど、実際には小学校6年間を通して、すべての子どもが自分がふだん話している、自分を守り育ててきた母語/話しコトバとは違う書きコトバの世界に慣らされ、習熟させられていくのだと考えれば、ただその差異が大きいだけととらえることも可能だ。

逆に言えば、小学校1年生の話しコトバと書きコトバのギャップ問題や、家庭で話される言語とメディアから流れてくる言語のちがいという複言語環境で育っている子どもたちのことを、私たちは今までどれだけ注意深く見守り、寄り添って考えてこれただろうか? と、そんなことを考えさせられる。

 

私の本棚に『小学1年生のことばとの出会い』早川勝広 がある。それはまさに小学校1年生の書きコトバ/学校言語への戸惑いに寄り添った研究入門書で、学生時代の恩師の1人の著作なのだが、私はその本に出合うことで、ことばの規則(文法)の成り立ち、なぜその表現を人は選ぶのか、といったことに自覚的になれるようになった。

私たちはだれ一人、母語でそのまま「書く」ということをしていない。

そう自覚することで、言葉の壁は日本人vs外国人の問題ではないのだと、自分に引き付けて考えることができれば、世界はもう少し風通しが良くなるのかもしれない。

 

私のなかにも小さな翻訳家が住んでいる。あなたのなかにも。

「寝た子を起こすな」論 について

部落問題を人に教えるのはむずかしい。

ということを思っている人は(人権学習をやらねば!と思っている人であっても)そこそこいる。そして、実際に学校の人権学習計画を考えている場で「部落問題は難しいから障害者問題にしよう」と言い出す人を見たこともある(「それって、障害者問題は簡単だと思ってるんですか?」と思わず言ったら「いや、そういう意味じゃない。そんな上げ足を取るな」と怒られたけど、そういう意味にしか取れんやろ・・・。もう20年以上前の、某高校の人権教育担当の一員だった時の話。確か初任2年目ぐらいのぺーぺーのとき 生意気ー笑)

どんな問題も結局は「差別を再生産し続ける社会の一画にいる私」を自覚して問い直さねばならないわけで、難しさは同じのはずなのに(むしろ障害者問題の方が根深く内面化された優生思想の難しさを感じる・・・個人的には)。

部落問題以外の人権「なんちゃら問題」については、障害の種別や特性の知識だったり、国籍や在留資格に関する法律の知識だったり、LGBTのLはなに? という知識だったり・・・ともかく、何らかの「知識項目」を並べて説明すると「教えた」観が出て、「教えた」つもりになれるという点が大きいのだと思う(それが落とし穴でもある)

部落問題にしても、考えていくために必要な知識は当然ある。

そして、部落問題学習に取り組んでいる学校も(少なくなったとはいえ)あるし、そういう学校では水平社宣言やら教科書無償化闘争やら、地域の人を招いての聞き取りやら、きちんとしっかり「教えて」いる。ただ、そういう学校で学んでいても、「お年寄りの話/昔は大変やってんな」という話としてしか落ちておらず、「いま、なぜ部落差別について学ぶ必要があるのか」納得していないパターンが少なからず、ある。1969年の同対法から2002年まで続いた特別措置のおかげで、見た目は周辺地域と変わらないし、長欠不就学問題もない。日本社会全体が不景気で、労働者の非正規化が進み、被差別部落の人たちだけが突出して不安定就労かというと、それも微妙? みたいな社会のなかで、部落差別は見えにくくなった。それは見えにくいだけで、実際には差別はなくなっていない(むしろ激化しているように思う)が、とりあえず「私には見えません、気づけません」状態で、せっかく聞いた当事者の話も「お年寄りの話」で片づけられている、その状況にどう切り込む部落問題学習をするのか、が今の課題なんだと思う。

・・・と、前置き長くなりましたが、そんないまの「寝た子を起こすな」論です。

「寝た子を起こすな」論

「学校やマスコミなどで、差別について教えたりせずに、そっとしておけば差別はなくなるのに、なぜわざわざ教えるのか」という考え方のことである(『人権教育への招待』59p)。何重にも無理のある発想なのだけど、まじめにこれを言う人が後を絶たない。特に部落問題に関しては強烈に根強い。つまり部落問題を考える際の重要トピックで、すごく象徴的で部落差別ならでは感のあるものだ。

実際に差別の実態が「ある」のに、「ない」ことにしてそっとしておけ、って。

ちょっと考えればかなりの暴論だし、そっとしておいたところで、実態の「ある」ものが勝手に向こうから消えていってくれるわけがない。それを痛感して後悔した最近のいちばんのできごとが「ヘイトスピーチを街頭でのさばらせてしまったこと」ではないのか。当初、インターネットの一角で始まり、マスコミも取り上げず、学校も取り上げず、気づいた一部の人たち/インターネット上で攻撃されたり応酬したりしていた人たちだけが「ある」ことを知っていた。けれど「相手にする/取り上げることで彼らの目立ちたい欲を満たすのは良くないから、放っておこう。目立ちたいだけのバカなんだから、そのうち消えるだろう」と放置している間に実態は増殖し、インターネットから街頭に出てしまった(そして2013年ごろの最もひどかった時期でさえ、知らない人は知らなかった。そして動画を見せても「こんなバカは放っておいたほうがいい」「こんな言説が世間に支持されるわけがないんだから放っておけば消える」と言う人も後を絶たなかった。まさに「寝た子を起こすな」論だ)

差別がおかしいことだなんて、みんなわかっている。だから騒がずにそっとしておけば自然と差別は消えていく・・・

そんなわけがない。

「騒がずにそっとしておけ」と言う人は、そもそも「差別の被害を受けて被害を訴えたい人」のことは考えていない、というのも特徴だと思う。それもやはり、「いま・ここ」に差別の実態があるということをわかっていないからだ。自分には見えないから、自分は知らずにすんでいて、それで平穏なのに、酷い差別があるんだよなんて憂鬱な話をしないでよ、という拒否感。知らないことはなかったことにしておきたい。都合の悪いものは見たくない。

・・・それで平穏(見かけ上でしかないにせよ)を得られるのは、被害を受ける心配がない側だ(でもそれだって、主観的な思い込みに過ぎないんだけど。社会に差別がある以上、私たちはいつだって差別に巻き込まれるし、差別する側に転じる可能性だってある)。いまここで被害を受けているから「差別がある」と話す者にとって、寝た子を起こすな論は「あったことをなかったことにされる暴力」でしかない。

 

ときに、被差別の側にいる人が「そっとしておいてほしい」「学校でそんなことに触れないでほしい」と言うことがある。それは「差別があることを知っているからこそ、そのつらい思いを味わうことをなるべく避けたい」ということであって、「嫌なことは知らないまま他人事でいたい」という欲求とは似て非なるものだということも、忘れずにいたい。

 

 

 

 

日本語教育と母語保障と・・・バイリンガル人材?

去る6月14日に「読書の学校 温又柔×高谷幸」というとても素敵なトークイベントがあった。温さんの『「国語」から旅立って』と高谷さん編の『移民政策とは何か』を両方買って、サインもいただいた(完全にミーハー 笑)

『台湾生まれ、日本語育ち』も『「国語」から旅立って』も、ものリンガル日本社会のなかで複数言語環境で育つ子どもたちの感じることや思いに的確にコトバを与えてくれる感じがして(私はそういう子どもではなかったし、いまも違うけど)、さすがだなぁと感嘆する。読んでいても、お話を聴いていても、いろんな子どもたちや友人の顔が浮かんで、泣きそうになる。

そして、実はこの日程には大きな意味があった。

翌日が大阪府在日外国人教育研究協議会という、大阪府下で在日外国人教育を牽引してきた教員たちの、年1回の全体研究会で、温さんはその記念講演の話者として登壇されたのだ。大阪の先生や子どもたちに、温さんのコトバを届けたい! という事務局の願いが叶い、ほんとうに嬉しいひとときだった。

そして昨日、文科省のプレス発表 

外国人の受入れ・共生のための教育推進検討チーム報告書:文部科学省

内容的には、ようやく文科省がここまで言ってくれるようになったか・・・と思えるものでありつつ、一抹の不安も残る(あたりまえだ。なにせ朝鮮学校に対してあんなにも冷淡で残酷なのである。一方でそんな仕打ちをしながら「母文化や母語を学ぶ機会にも配慮して」と書かれても、どの口が言う・・・としか思えない)。

歓迎しないわけではない。むしろ、文科省がここまで言っているのだから、現場からも声をあげて、そのために何が必要か、現場で実際に困っていることは何か、これまで以上に文科省に言っていけばいいと思う。これまで取り組んできたものからすれば、この報告書が言っていることは現場の努力を追認してくれたものにすぎず、がんばりやすくなっただけのこと。そして「がんばりやすくなる」ことがどれほど大事か。これもわかっている。

しかし、一抹の不安がある(一抹ではないかもしれない)

教育は「人材」をつくるためにあるのか?

たとえば、上記報告書の2p「基本的な考え方」にはこうある

○ 外国人の受入れ・共生は、我が国に豊かさをもたらすものであり、 外国人が日本人とともに今後の日本社会を作り上げていく大切な社会 の一員であることを認識し、日本人と外国人がともに尊重し合い、さ まざまな課題に対して協働していくことのできる環境を構築すること が重要である。

○ 例えば、外国人は産業の担い手となるだけでなく、少子高齢化が進 む日本社会における日本文化・地域活動の担い手となることも期待さ れる。また、彼らを通じて我が国に多様な価値観・文化がもたらされ ることは、日本人がグローバル社会で暮らしていく上でも役立つもの と考えられる。またさらには、日本の情報を世界に発信する上でも、 日本を知る外国人の貢献が期待される。    (下線は引用者)

「ちがいをゆたかさに」は、大阪府外教がずっと掲げてきたスローガンだ。そこには、えてして「ちがい」が差別の理由に使われがちな日本社会を変えたい、という思いがある。「みんなちがってみんないい」という安易な相対化ではなく、「ちがうことこそ素晴らしい」と積極的に価値づけていくところまでやらなければ、異言語・異文化の尊重にたどりつけない、日本は強烈なモノリンガル・モノカルチャーの社会だから。

2019年になって、ようやく文科省が「外国人の受入れ・共生は、我が国に豊かさをもたらす」と言ったことには意義がある。しかし、その「意義」は次のパラグラフで明確に書かれているように、日本社会の豊かさを維持するための労働力としてであり、日本人の子どもが国際感覚を身に着けるための材料としてであり、「日本すごい」を発信するための媒介として、つまり「人材」だから意義があるということにすぎない。

ことは外国人の児童生徒だけの問題ではなく、日本人マジョリティの子どもたちに対しても、産業界が要請するそのときどきの「必要な人材」としての能力を学習することが、常に学校に求められてきた歴史と現在がある。そして、あまりにも無策に放置される外国ルーツの子どもたちへの教育保障を勝ち取るために、方便として上記のような訴え方を、現場もしてきたと思う。この子どもたちが、今後の日本社会を支えていくんだから、母語保障をすることで国際的に活躍する人材になれば、日本社会にとっても悪い話ではないでしょう? といった具合に。

社会に「役立つ」か「役立たない」か。最近のコトバでいえば「使える」か「使えない」か(この表現が、私は嫌いだ。人間に対して使うことばではないと思う)。そんな線引きをされて「勝ち組」だ「負け組」だ、と右往左往させられる人びと。勝ちも負けも自己責任だといわれ、自分を責めて自傷し、立てこもる人びとを「引きこもり」と名付けてマイナスイメージを強化するだけのメディア。

現状の日本社会を考えたときに、「人材」という人間観に教育が絡めとられていかないように、細心の注意を払わなければいけないのではないか。そこは警戒しすぎてしすぎるということはないのではないか、そんな気がしている。

日本語/国語教育の歴史をふりかえれば

教員志望の学生たちに、ぜひ読んでほしいと思って紹介している史料を、少し長くなるが引用紹介する。1940年2月『国語教育』という教育雑誌に掲載された、朝鮮の女子師範学校で教える「榊原先生」と、その教え子、卒業したばかりの若い教員の手紙のやり取りに取材した記事である(筆者は小山東洋城)。教え子は、朝鮮人の小学校で男子80名(年齢的には8歳~21歳)の担任になり、師範学校時代の恩師に近況をつづる(引用は旧漢字・旧仮名遣いを現代のものに変えた)

国語を読ませてみますと、一字一字はどうにか読みますのに、長い文になって来ますと一向に読めないんですもの、そんな子供が三分の一位いるのです。放課後毎日残して個別指導をしても、その子供たちは一向に判っても判らなくても平気なものですもの、悲しくなってしまいます。

 

先生、私この頃まるで道化役者ですの。口でいくら言ってもわからない子供達でしょう、だから手真似足真似、いいえ、全身全体で芸当をやっているのですわ。コレハナンデスカ、コレハガッコウデス。コレハイエデス。コレハハタデス。コレハドナタデスカ。コレハセンセイデス。これだけ言わすのにどんなに困ったことでしょう。毎日毎時間鸚鵡のように繰り返し繰り返しやっていますが、どの程度判っていることやら。(中略)これで言葉と感情とが一致する時が何時来ることでしょう。

 

夏休暇の宿題に五年生の子供にー私の組は一年三年五年の複式なのですがー昆虫採集を命じたのです。昆虫といっても彼等には理解出来ないでしょう。それで私が黒板に名画を描いて、こんな虫を捕まえてお出でなさいとやったんですの。私在学中から絵はうまかったでしょう。ところが九月一日、熱心に捕えて来ましたわ。どの児もどの児も大きな箱―といって採集箱じゃ有りませんわ。煤けたボール紙の箱やら何か入っていたのを臨時外に出した木の箱やらですーを提出しました。自分の言い付がこんなに守られたことは教師として一寸愉快でした。そこまでは無事でしたが、大きな箱を明けさしますと、先生、大きな青大将や恐ろしい蝮がとぐろを巻いているでは有りませんか、私キャッと言って逃げ出して小使いさんを呼んで来ましたの。(中略)それから未だ驚いた事は、南京虫を何十匹も大切そうに集めてくる児があるのです。朝鮮語でビンデーと申しますね。あれをです。まあなんて汚いものを持って来るのですと叱りますと、先生が黒板に書いたでしょうと平気で言うのです。私あきれて物も言えませんでした。私の名画カブト虫は彼等には南京虫と解釈せられたのです。泣くにも泣けませんわ。

手紙を受け取る榊原先生は「耐え忍んでやって呉れ。身体を大切にせよ」といつも返事の終わりに書き添える。そして師範学校の生徒たちにこう教えるのだ。

私達は日本語をして世界語たらしめる尖兵である。国語を鍬として世界を開拓する戦士である。軍人が武器を敬する如く、国語を敬せねばならない

 筆者の小山東洋城は榊原先生をこう描写する

朝鮮の教育は国語が中心である。榊原先生は小学校にも十年ばかり勤めた経験もあり、相当口では国語は国民の血液であるの、標準語尊重などと知ったかぶりをしたものだが、実際外地に来てみて、言葉の有難さと、言葉を教えることの困難さと、言葉を広めることの国家的意義をしみじみと感じさせられたのである。自分が苦しんでいるだけ、うら若い女教師の国語普及の苦心と熱意に泣けるのである。

 

榊原先生は 小学校に入学してから「ととさん」という呼び方を急に「お父さん」と呼びかえることを強制せられたが、現在お父さんと呼んだから父の懐かしさが湧いて来ないとはちっとも感じない所の体験を反省してみたのである。又備前に生れた榊原先生は「すどぼつこうおえんぞな」というあの懐かしい方言を思い出し、あの言葉でなければ表現出来ぬと思っていた事柄も現在標準語に近い言葉を使ってもいささかも不自由なくあの事柄を表現していることを反省してみた。そんな過去にこだわるよりも、同じ家に住み乍ら、相通じない言葉を使っている方がどの位、お互に暗い心地を抱かすことであるかを反省すべきではないであろうか。明日の朝鮮にはの言葉が必要なのである。(中略)朝鮮は今日の朝鮮だけではないのだ。明日の朝鮮に産まれかわりつつあるのだ。明けゆく黎明の時代を望んで進むのも、暮れゆく今日の姿をうつ伏して悲しむのも人によりけりではあるけれど、新東亜を築き上げる使命に生きる自分達我等東洋人、大日本人が、夜明けの空を仰いで、小さい感傷を踏みにじって行く姿の方が本当のものではあるまいか。榊原先生は常に明日の朝鮮を期待しつつ、放課時間になると教官室の窓硝子越に青い空と葉の落ち盡したポプラ並木を眺めやるのであった。

 90年代、急に日系人児童が何人も転入してくる事態を前にして、手探りで身振り手振り、ポルトガル語の「指さし会話帳」などを援用しながら対応していた先生たちと、ここで紹介した手紙を書いている若い先生とが、私には重なって見えた。この手紙を書いているのは朝鮮で植民者の日本人の子どもとして育ち、現地の師範学校で学んだ教員だが、当時の日本では日本語普及のために師範学校を出たばかりの若い教員を外地赴任させることに積極的だった。そこでは国語教育の名のもとに、実質的には日本語教育が手探りで行われており、直接教授法の研修や授業実践研究などの取り組みもあった。

歴史の教科書では「日本語を強制した」と簡単に説明されてしまうが、現場でその強制を支えたのは一人ひとりの教員だった。机上で「日本領内の者が全員日本語を解せば意思疎通が容易くなって国家運営しやすくなる」と考えるのは簡単だが、その掛け声を実現するためには、「日本語を使え」と怒鳴るだけではダメなのだ。目標を立て、掛け声を高くする中央政府の方針が現場に届くとき、そこで何が起こるか。そこには具体的に教員や子どもがいて、教材があった。

そして皮肉なことに、子どもにとって楽しい物語や、口の端に上りやすいリズミカルな教材文を生み出したり、直接教授法の開発に腐心したりした教員・教育関係者は、主観的には誠実で子ども思いの、まじめな人たちなのだ。暴力的に日本語を強要し、生徒や保護者から嫌悪された教員ばかりなら、「日本語を強制した」罪はあからさまでわかりやすいが、実際には「日本語を習得することがこの子どもたちの幸福だ」という信念から、学習動機づけや日本語のスキルを伸ばす環境づくりに努力した「良い先生」が大勢いて、解放後も教え子と交流を続けていた事例がたくさんある。

私はこうした歴史を掘り起こして学ぶことで、「良い先生」であろうとするだけではダメだということをずっと考えてきた。いま感じる一抹の不安も、その延長線上にある。

母語保障はバイリンガル人材として都合よく消費させるためではない

敗戦後、外地での日本語教育、特に子ども向けに行われていたものは「なかったこと」にされていた。現地で仕事をした国語教育者の多くが、そのまま戦後の国語教育の「話し方教育」の指導法や教材づくりにスライドした。植民地教育の反省は・・・コトバの上では「申し訳なかった」と言った人もいるが、どこまで、何を申し訳ないと考えたのか、書き残されたものを調べていてもつかみきれないところがある。しかし乱暴にまとめてしまうなら、軍国主義の時代に与してしまったことへの悔恨はあっても、教材や教授方法に罪はない、といったスタンスで収まってしまい、日本の子どもたちのための「国語」の時間は残り、朝鮮や台湾の子どもたちが受けた「国語」の時間は歴史の仇花かのように忘れ去られたといっていい。日本語教育は成人向けの教育分野として残ったが、成人向け/外国人とみなされることで子どもが通う学校とは無関係になった。そして90年代に日系人労働者の激増を背景に急増した「日本語指導を要する児童生徒」問題が顕在化するまで、日本語教育と国語教育はバラバラに歩んできたのだ(いまもバラバラだと個人的には思っている。現場にも研究者にも両者をつなぐ問題意識を持つ人がいないわけではないが、少なくとも教員養成の現場ではほとんど連携がない。それもこれから変わっていかねばならないと、文科省の報告書は述べているが)

とはいえ、日本語が堪能でない親のもと、複言語環境下で育つ子どもはずっと日本に存在していた。敗戦直後の在日コリアンは現在のニューカマー親子と同じだし、在日コリアンの中心世代が2世、3世になりつつあった70~80年代にもインドシナ難民や中国帰国者という、同様の存在がいたはずである。在日コリアン日系人、中国帰国者・・・いずれも日本の移民政策・植民地政策がなければ存在しなかった人びとだ。けれど、この子どもたちは、母語を否定され、日本語習得も自己責任のように言われ、社会の片隅に放置されてきた。日本の学校は日本人のためにある。外国にルーツを持つ少数者の権利、日本の主流文化とは異なる言語や文化を学ぶ権利など、ずっと無視されてきた。

ようやく、その「無視」が終わった。しかしその先が不安なのだ。

植民地期の日本語教育の総括もないがしろだが、文科省の報告書を読む限り、1950年代以降、80年代、90年代に至るまで一貫して民族教育権を否定してきた。母語保障など念頭にないばかりか否定的な態度に終始してきたことの反省すら、一言もない。ただ、情勢が変わったから? 手のひらを返したように述べられる母語保障の胡散くささ。そこに見え隠れする日本に都合のよい「人材」を求める下心。

かつて朝鮮で「同じ家に住」む(日本の領土の民である)のだから相通じる言語≒日本語に習熟することがその子のためであると信じて疑わず、母語への愛着を「感傷」を切り捨て、日本語/標準語に熟達することを理想として努めた教員たちと同じ轍を踏まないためには、母語保障も日本語教育も、徹底して「学習者の権利のためにある」ことを追求しなければならないと思う。けっして、差別や格差を当然視する社会に「役立つ人材になるため」ではない。自分自身がよりよく生きるため、幸福を追求できる社会をつくるため、身に着けた力が結果的に役に立つのなら構わないが、「役に立つ」ことを目標にしてしまったとき、そしてそれはだれの、何の「役に立つ」のかを不問にしてしまったとき、教育はまた人間を殺す道を進んでしまうと思う。

大阪で母語保障の大切さが言われ、実践されてきたのは、日本の主流文化と異なる文化ルーツを恥じてしまう、子どもにそう思わせてしまう日本社会の差別的なまなざしに対抗するために、つまり子どものアイデンティティを守る軸になるはずだという確信があったからだし、その確信を育てたのは在日朝鮮人教育、民族学校民族学級の地道な取り組みと、そこに集まった教員たちだった(しつこいようだが、その取り組みをつぶすことしか考えてこなかったのが文科省だ)。けっして、グローバル市場で闘うためのバイリンガル人材として、日本企業に都合よく使われるためではない。

日本語がわからない子どもたちを前にして、日本語指導にあたった先生たちのなかに、「この日本語教育はかつて『日本語を押しつけた』同化教育とどう違うのだろう」と煩悶しながら取り組んだ人たちがいたことを、私は知っている。在日朝鮮人教育や、在日コリアンの権利獲得の闘いに関わってきた人たちだ。その人たちは、自分自身が「子どものため」を思うからこそ、植民地主義軍国主義に絡めとられた教員たちと自分が地続きだということを直感的に理解できる人たちだった。そんな人たちが切り拓いてきた母語保障の取り組みを、知らぬ間に換骨奪胎されて「グローバル人材育成」にもっていかれてはたまらない。

原理原則と授業の現場と

私が書いていることは原理原則、教育理念、哲学にあたるものだ。実際の教育現場では、授業で何をどのように使い、今日は何ができるようになればよしとし、繰り返しスキルとして練習させることはどれで・・・と次から次へと具体的な仕事に追われる。授業だけではなく、子どもたちのケンカや小競り合いの仲裁や解決の手助け、困りごとや悩みごとへの目配りと、あげ始めればきりがない日常がある。

そんな多忙のなかで求められるのは、手軽なハウツーだ。書店に行けば一目瞭然で、「教育」の棚は授業事例や行事への取り組み方などのハウツー本に占領され、原理原則を学ぶための専門書は年々片隅へ追いやられている。子ども向けの日本語指導に関する書籍、特に具体的な教材や指導法に言及したものも格段に増えた。もちろん、ハウツー本に助けてもらうことは悪いことではない。子ども向けの日本語教材がほとんどなかった時期の大変さを思えば、教材が増えてきたのはほんとうに有難い。

だが、原理原則を忘れた方法論は、やはり恐ろしいと思う。

その日本語、あるいは母語は、その子ども自身ためにあるのか。温又柔さんのコトバを借りるなら、世界を知るための、世界に出ていく自分を支えるための杖になるものなのか、国や会社ではなく、自分自身を支える言語として、その人と一生伴走していく、そんなコトバなのか・・・その問いを羅針盤に、この変化の年を乗り越えていかなければと思う。

 

羅針盤さえあれば、教材も方法論も、自分で発見していける。面倒がらずに、原理原則、歴史、といったことも学んでほしいし、私が提供できることはいくらでも提供していこう、と決意してみるのでした。

 

 

2001年6月8日と、2019年5月28日

川崎市登戸で、とても痛ましい事件が起こった。

たまたま自宅仕事の日で、いつものように朝ドラからつけっぱなしのNHK。まず緊急速報が入り、その後しばらくして、番組が途中で切り替わって、事件の概要を伝え始めた。

 

いっきに、2001年6月8日に引き戻された。
その日、私は勤務校の体育祭で、放送機材のあるテントの後ろにいたんだったと思う。初夏の日差しがギラギラして、グラウンドが白く光っているような、そのまばゆい日差しに目がくらみそうで眉間に力を入れながら、放送機材越しに何かを生徒としゃべっていた。そのときに、うしろから「附属池田小に不審者が侵入して、なんか大変なことになってるみたい」と話しかけられた。

私は、体育祭のさいちゅうに、またこの人は職員室のテレビがある休憩室でさぼってたのかよ・・・とあきれ、一方で、エリートの子どもに対する筋違いな逆恨みか…とぼんやり思い、筋違いだけど日本社会で「恵まれた子ども」の象徴的な立ち位置にある附属小が恨まれてしまうのは仕方がないかもしれない。などと考えていた。

そのあと、事件の内容を知ってから、私はこの時の、一瞬でも「仕方がないかもしれない」と考えてしまった自分のことが許せなくて、毎年6月8日が来るたびに、だれに向かって許しを乞うてるのかわからないなと自分でも思いながら、自分を責めてきた。

そういう諸々が、第一報を知ったときのグラウンドの空気や光の光景とともにリアルに蘇ってきて、犯人への怒りよりなにより、この18年間、私は何をしてこれたのだろうという後悔と憤りで胸がふさがれるように重苦しかった。

 

以下、整理できるかどうかわからないけれど、書きとめておきたいので書くことです。

 

「悪いのはだれ?」という問いの立て方でいいのか

あの、6月8日のあと、近所の小学校でも必ず門が閉まるようになり(それまでは地域の人が近道のために通り抜けることもあるような学校だった)、勤務校でもサスマタが購入された。犯人の男の「心の闇」がことさらに強調され、命を奪われた子どもたちの愛らしさ、思い描かれたはずの未来…と報道は続いた。その後、大阪府ではまた別の中学校で卒業生が学校に訪ねてきて教員を刺すという事件が起こり、学校の警備体制を強化しようという動きはますます強まって、保護者も学校から配られたネームプレートがなければ校内に入れなくなったりした。「不審者を校内に入れてしまった」「凶行に対して児童を適切に避難させられなかった――という点で、附属池田小学校の責任が問われ、当時校長の任にあったY先生が繰り返し取材を受けているのを見ながら、私はずっと釈然としないモヤモヤしたものを感じていた。

今回の事件から、いまは3日が経ったところだが、既にさまざまな人がさまざまな意見を発信している。(私が大事だなと思ったのは、この二つ)

川崎殺傷事件の報道について(声明文) : 一般社団法人ひきこもりUX会議 オフィシャルブログ

カリタス学園「愛の教え」さらなる分断を生まないために(飯島裕子) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

事件当日の内に、首相の意を受けた文科省から「通学路の安全確保について」各地教育委員会―各学校園に通知がとんだ。が、通学路の安全確保は学校の仕事ではなく警察や行政の仕事だろう・・・ということもそうだし、今回の事件のように殺意をもって刃物を持ち出している人物に、学校で何ができるのだろう。その後、明らかになってきたカリタス学園の通学状況からも、これ以上の配慮や対応を学校にどう求めるんだろう? という感想しかない。案の定、学校の責任を問うような報道の物言いはすぐにトーンダウンしていったし、文科省のこの通知に対する違和感も、何人もの人が表明している。

そうなると、犯人の動機、犯人の人物像・・・と報道はシフトしているが、犯人が自死してしまったために、周辺情報からの憶測ばかりだし、憶測にはたぶんに偏見が反映される。

 

6月8日から、何も変わってないじゃないか・・・と思う。

 

私は大阪教育大学の卒業生で、まだ附属池田小学校の近くにキャンパスがあったころの学生だったから、附属池田小にも何回も行ったことがあった。国立小なので、子どもたちはさまざまな地域から電車バスを使いながら通学してくるのだけれど、だからこそ地域の人たちとの交流などにも心を砕き、開かれた学校であろうと努力されていた。それが裏目に出た、と当時はよく言われたけれど、本当にそうなんだろうか? と私はずっとモヤモヤしていた。塀を高くし、校門を閉めて、門番が出入りを厳しくチェックすることが、子どもに「知らない人はとりあえず警戒するように」と教え込むことが、問題を解決するのだろうか? 安全確保のために設けたさまざまな壁が、せっかく築き上げた温かい交流の間にまで壁となって立ちはだかってしまう矛盾をどう考えたらいいのか。地域と学校の関係はどうあるべきなのだろう・・・

附属池田小には、校庭の一角に素敵なビオトープがあって、私はそこを通って校舎に向って歩くのがとても好きだった。そして、校門や塀の記憶がほとんどない。

事件のあと、門が常に閉められるようになった近所の小学校も、最初こそ警備員らしき人が門にいたが、そのうちに地域のシルバーの人の仕事になった。そうなると近所のおじいちゃんなわけだから、悪意のある屈強な犯人が来たら役に立たなそう…である一方で、登下校時の子どもたちの話に耳を傾けてくれたり、忘れ物を届けに来た保護者と世間話をしたり、ネームプレートよりも的確に、人を識別してくれる門番さんでもあった。私は、常々、子どもにとって学校で「教員以外の大人」の存在(管理作業員さんとか給食調理員さんとか)が大切だと思っているのだが、そういう大人の一角に存在してくれるようになって、警備員としては頼りないけれど、こういう人の方がありがたいなとさえ思っていた。自分の子どもが小学生になり、ネームプレートが配られて、それをつけて保護者会や参観に行くようになって数年後、ネームプレートでの識別ルールを厳格にしていないことにクレームをつけた保護者がいたらしく、人が交代して「ルールの徹底」を要請するお手紙が学校から配布されたのを見て、私はまたモヤモヤしたのだった。

問題の本質は何なのだろう。ルールを守ってきちんと運用することなのだろうか。

そのルールは本当に子どもを守るのだろうか。

 

学校の警備の問題にせよ、犯人の個人的な特異性にばかり注目することにせよ、要は「だれが悪いのか」を暴き出して、その人に責任を負わせようという問いの立て方だと思う。もちろん犯人は悪い。犯した罪は裁判を経て刑を受けて償ってもらわなければ困る。けれど、同様の事件を防ぐために、と考えるなら、なぜその「特異な人」を私たちの社会が生み出してしまったのかを考えなければならない。

学校の警備体制は、目に見えて取り組みやすいし大事なことではあるけれど、万能ではない。その責任を学校の、門番をする人の、日々の運営の完璧さにのみ求めることで、何も考えないで済んでいる自分がいないか。たまに学校に出掛ける自分。そのときたまたま、ネームプレートをもっていない保護者を顔パスで通した門番さんを見て、「ちゃんとしろよ」と怒るだけで、何か問題が解決するような、自分はちゃんと子どもの安全を考えているのだという錯覚に陥ることの方が危うくはないのか。

 

言い過ぎかもしれないけれど、学校の警備体制、学校関係者が考えればいい問題だと、私たちは6月8日を矮小化していなかっただろうか。特異な犯人の、特異な犯行として、自分から切り離していなかっただろうか。 そんなことをやはり考えてしまうのだ。

 

6月8日と5月28日を「わたしたちの問題」にしたい

最初に書いたように、私は6月8日の私自身を許せないと思っている。

この社会に格差があり、差別があり、そのなかで割を食ってしまう位置にいる人は大勢いる。だから「勝ち組」にならねばならないのだという空気が、私たちの生活を覆って日々プレッシャーをかけている。そのプレッシャーのなかで、わたしたちは生きている。

もちろん、そんな社会のなかで、大変な思いをしながらも、凶行に及ばない人の方が大半だから、やはり犯人は特異だと言えるのかもしれない。でも、だとしたらなおさら、大半の人が凶行に及んだりはしない、自死すらせずに、何とか踏ん張って生きている、そういう人たちと犯人を分けたものは何なのか、それを社会的に考えていくことが私たちの責任ではないだろうか。社会は自明のものとして存在するわけではない。私たちが社会をつくり、社会で生きているのだから。

「勝ち組にならねば」というプレッシャーを、おかしいと思いつつ、そうはいってもすぐに社会が変えられるわけもないのだから、割を食わないように頑張るしかないと、飲み込んでしまっていることが、社会が変わらない一因ではないのか。

「負けたくない」とぎりぎりで踏ん張るからこそ、がんばっていないように見える人に冷淡になってしまう、甘えんな、社会のせいにするな、という視線が、「何とかしてほしい」と助けを求めることのハードルを上げて、より窮屈な社会に向かわせているのではないのか。

犠牲者でもなく、犠牲者遺族でもない「わたし」にできることとして、考えたい。

冷静に事件を分析する口調に冷淡さを感じて「遺族の気持ちを考えろ」という人がいる。その気持ちは尊重したい。けれど、遺族が何も考えずに悲嘆し、悲嘆と付き合いながら生きていく方法をゆっくりと見つける時間のためにも、関係が遠いものが冷静に考える責を負おう、負いたい、と私は思う。

 

ただ、その道のりは時間がかかるから、いま、登下校している子どもたちや保護者の方たちの安心のために、できる警備は続けなければならない。そこは私も否定しない。

大事なのは、それは「当面の対処」にしかならないと自覚しつつ、背後にある大きなものを考える手を休めないことだと思っています。

 

とりあえず。今日はこんなところで。

 

 

「こうもり」な、私。

FBをやっています。基本的に顔見知りの人とだけ、としているけれど、
気がつけば友達100人優に超えていてビビる(笑)

いやー、友だち100人できちゃうもんなんですね(笑)

 

というのはさておき。

つまりは基本的にどういう人なのかをわかっている人しか
私のTL上には表れない。そして、私の日々の行動に繋がっているから
そんなに意見を異にする人もいない
SNSで議論したくない、議論したければ会って直接、と思うから
上述したように「顔見知りだけ」にしているわけで)

 

そんな私のTLですが、ある一つの運動(事象?)を巡って、
真逆の見解、主張が流れてくることも、たまさかあるわけです。
(「ある一つの…」が複数。私の交友関係も結構バラバラだな)

 

で、これがじわじわと精神にくる(笑)
別に、どっちの味方をしろと迫られているわけでもない。
個人的な付き合いもあって、まぁまぁ知っていて、
「なんでこの人とこの人がここで対立しないといけないのかなー」と
思いはするけど、仲裁しようと思うほど親しいわけではない。

うかつに仲裁に入ると、それこそ「どっちの味方やねん!」に
なるのが目に見えているから、モヤモヤしながら眺めている。

 

そういうとき、私って「こうもり」だなぁと思って、
ちょっと自分が嫌になったりするのです。

 

イソップ物語の「こうもり」

獣か鳥か、どっちやねん! ってやつ。

 

もちろん「差別は許しません」というところで「こうもり」にはなりません。

でも、個々人の思いとして「差別は許さない」という人ばかりなのに、
運動体、組織体として動いていると、何かしらぶつかって、
「なんで、そこでもめてるの?」という事態になるのはなんでだろう。

 

そんなことを、90年代ごろからずっと悩ましく思ってきたんだなぁと、
そこになんとなくかぶる「平成の30年」・・・

そして、そんな事態への自分なりの対処として
「こうもり」になることを厭わない、曖昧な立場に甘んじて
じゃあどうするべきなのか、自分の頭で考えて、行動する
「こうもり」であろう、と何度も決意しては、
やっぱり「それでいいのか?」とモヤモヤする繰り返し(苦笑)

 

何歳になっても、こうやってふらふらしています。

でも、できるだけ低いところや狭いところを飛ぶ「こうもり」でいたいです。

 

なんのこっちゃーな文章になってしまったけど、
平成だろうが令和だろうが、私は変わらず
低空飛行のこうもりで生きていきますってことで。

平成最後の日とかどーでもいいし(笑)むしろなんか気持ち悪い

平成30年間をやたらふりかえっているメディア。

昭和天皇が死んで平成になった年のことを鮮明に覚えている世代としては、

平成30年間をかけて、要は天皇制批判を抑え込むことに成功したんだよな、

としみじみ考えてしまう。そして怖いなと思う。

 

明仁さんはいい人なのだろうと思う。

でも、だからどーした? という話でもある。

彼個人の人柄がいいかどうかと、
天皇制と天皇を政治利用しまくる政治権力との問題は

別の話だ。

金持ち喧嘩せずじゃないけど、
衣食住に不自由なく、常に敬意をもって接してくる人に囲まれ、
馬鹿にされたり罵倒されたりすることもなく育ったら、
そりゃいい人になるでしょうよ、だし。

と、不敬な下町育ちは思うわけです。

 

私が大好きな韓国ドラマに『宮』というのがありますが、
これは「李王家が現代も存続していたら」という妄想漫画が原作。

もうめちゃくちゃおもしろかった。
プリンス、プリンセス、として存在させられることの不自由さ、
民主主義の社会との相容れなさが「ズレ」として描かれることで
大笑いしたり切なくなったり、でも妙にリアルな感じもあり。

日本では絶対につくれないドラマだよなぁ・・・と思いながら観ていた。

 

今日・明日と、メディアは浮かれ騒ぎ続けるんだろうな。

日本の歪みが、ここに象徴されているような気がする。