わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

母語で「書く」ということ

温又柔さんの御著書やトークに触発されて、既にいろいろ書きましたが・・・。

 

先日、田辺聖子さんが亡くなられました。

学生時代の一時期、女性の書き手のものばかり読んでいた時期があって、山田詠美、日刈あがた、落合恵子如月小春鷺沢萠、李良枝・・・(と考えて、如月小春さんも鷺沢萠さんも李良枝さんも、彼岸にいると気づく)。それは、子どものころのように異世界にトリップするための読書ではなく、日頃感じるもやもやしたものにコトバを与えるための読書だった。そして田辺さんの作品は「大阪弁を紙の上に再現する」という点で、ちょっと別格だった。田辺さんは、大阪弁を書きコトバとして成立させたパイオニアだと思う。ふわふわして人を食ったような、しつこくてしたたかで、ときに悪賢くするっとすり抜けていくかと思うと、ねちゃねちゃまとわりつくこともある、微妙な語尾のニュアンスを「こうすれば表せるのか!」と感心しながら読んでいた。

 

こうして書いているブログの文章も、私にとっては母語ではない「日本語の書きコトバ」だということ。すなわち「母語で書く」ということが、ほとんどすべての人間にとって実は難しいことなのだということに、私たちはふだん無自覚だ。

 

温さんの文章の中に、小学校に入って日本語の読み書きを習い、作文が書けるようになったとき、だれに何を言われたわけでもないのに、おかあさんの中国語と台湾語と日本語が入り混じった(それはのちに温さんによって「ママ語」という素敵な名づけに至るのだけど)コトバを、日本語に訳して「  」のなかに書いていた、というエピソードがある。温さんはそれを「私のなかに小さな翻訳家が住んでいた」と表現する。

温さんの場合、それが「  」のなかで起こり、お母さんのコトバと書かれた日本語との差異は明白だから、「小さな翻訳家」と自覚され、「なぜ日本語でしか書けないと思ったのだろう?」という内省になって、それを私たちは著作として受け取れる。しかし、実は私たちだって、作文を書くときは母語を書きコトバの表現に修正しながら書いている。少なくとも私はそうだ。大阪弁で書く、ということはほとんどない。ただ、温さんとは逆に「   」のなかだけは聞こえたままをどうにか忠実に再現しようとして「なんでぇや!」とか「そやけどさぁ…」とか、ひらがなやカタカナの小さい文字まで駆使して書く(その意味では、聞こえたままの音をそのまま覚えたてのひらがなで再現しようとして書いている小学校1年生の原稿用紙は、とても素敵だ。「そう書くか!」という発見に満ちている)

いま、外国人児童生徒の受入れうんぬん、ということで、これまで母語の教育なんて見向きもしなかった(むしろ叩き潰すようなことばかりしてきた)文科省が急に「母語保障、母文化の尊重」を言い出して、どの口が言うねん…といらつきつつ、でも言質を取ってがんばろうと思っているところだけれど。よく考えれば「話しことばはすぐ上達するけどね」とか「母語の力も伸ばしていくことがアイデンティティの安定に大切」とか言っていることは、日本語話者の子どもたちにも同様に当てはまる部分がある。つまり、外国ルーツの子どもで日本語以外の複言語環境にいる子どもたちへの配慮、と大上段に構えているけれど、実際には小学校6年間を通して、すべての子どもが自分がふだん話している、自分を守り育ててきた母語/話しコトバとは違う書きコトバの世界に慣らされ、習熟させられていくのだと考えれば、ただその差異が大きいだけととらえることも可能だ。

逆に言えば、小学校1年生の話しコトバと書きコトバのギャップ問題や、家庭で話される言語とメディアから流れてくる言語のちがいという複言語環境で育っている子どもたちのことを、私たちは今までどれだけ注意深く見守り、寄り添って考えてこれただろうか? と、そんなことを考えさせられる。

 

私の本棚に『小学1年生のことばとの出会い』早川勝広 がある。それはまさに小学校1年生の書きコトバ/学校言語への戸惑いに寄り添った研究入門書で、学生時代の恩師の1人の著作なのだが、私はその本に出合うことで、ことばの規則(文法)の成り立ち、なぜその表現を人は選ぶのか、といったことに自覚的になれるようになった。

私たちはだれ一人、母語でそのまま「書く」ということをしていない。

そう自覚することで、言葉の壁は日本人vs外国人の問題ではないのだと、自分に引き付けて考えることができれば、世界はもう少し風通しが良くなるのかもしれない。

 

私のなかにも小さな翻訳家が住んでいる。あなたのなかにも。