わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

日本語教育のその前に(覚書)

私の専攻は「国語科教育学」だった。

「国語科」というのは、日本語ネイティブの子ども向けの「ことばの時間」として設計された教科目の名称。だから当然のこととして、学習指導要領も教科書も、学習者である児童生徒が日本語ネイティブであることを前提にしています。

さて。

2019年4月の出入国管理法改正で、これまで国境管理のことしか考えていなかった入管局が「出入国管理庁」に格上げされて、生活支援に関しても取り組むのだ! と言い始めました。これが本気の「移民統合政策」になるのなら歓迎ですが、正直、期待はまったくなし。現時点でも入管の収容所は不当な長期収容という人権侵害が常態化したまま、一向に改善の気配がないのに、期待しろというほうが無理ってものです。
そして、そんな法改正に伴って、文科省の「外国人児童生徒受入れの手引き」も改訂。

※PDFで章ごとにダウンロードなので面倒ですが、無料→ 外国人児童生徒受入れの手引き:文部科学省

90年代、急激に外国からの転入生/日本語ネイティブではない子どもたちが増加しても「それは日本の学校の仕事じゃねーよ」と言わんばかりに放置していたころと比べると、隔世の感があるぐらいに良くなってはいます。が、相変わらず人権感覚はゼロ。朝鮮高校を「無償化」の枠組みから外し、今度は幼稚園まで「無償化」から除外する文科省(日本政府)が「外国人の子どもにも就学の権利があります」と明記したところで、どの口が? と聞き返したいですよね…。はさておき、ともかくも「日本語ネイティブではない子どもたちが学校にいる」という現状認識はしてくれて、かつ「その子どもたちに学校の責任で日本語指導をすべし」と決めて、そのための仕組み(日本語指導加配教員や「特別の指導過程」等)をつくったことは大きいので、そこを利用して私たちがやりたいことをやればいいとも思うわけです。

ーーということで、漠然と考えていることを言語化するのが今日の目標。

日本語ネイティブの「読解力」問題×ノンネイティブへの「日本語指導」問題

そもそもが国語科教育の人間で、かつ日本語ノンネイティブの子どもに対する日本語指導の歴史(植民地での「国語教育」)を研究していた立場でもある私は、「国語科」と「日本語指導」が切り離されていることに常にモヤモヤしてきました。いや、切り離されているという意識は現場にはないのかも。でも、だいたいの学校で「日本語指導を要する子ども」は「国語」の時間には別室で日本語の授業を受けてますよね。要は日本語ネイティブが受講することばの授業は上級者向けだから、日本語初級のあなたはついていけないよね、という発想だと思うのです。

それが間違っているというつもりはないのですが、一方で、小学校の「国語」の時間は1年生から6年生に向かって、初級から上級へ発展していくカリキュラムではないのか? それならば、初級授業を工夫する、さらにいえば言語としての日本語を学ぶカリキュラムとして整備しなおすことで、日本語に入門したての子どもが途中から接続しやすい道筋をつくることもできるのではないか、という気がするわけです……。

気がするだけではダメでしょうよ。と自分で思いますが。

そこへ、例のPISAOECDの15歳対象学習到達度調査)の結果。「日本の読解力急落!」大騒ぎがきました。ほらほら、「国語科」考え直す時期なんじゃないの?

ゲームやSNSのせいにする論も見ましたが、要は「国語科」の使命である、自分から、本を読みたい!読書楽しい!ことばでのコミュニケーション楽しい! と思う子どもを育てられてないから、ゲームやSNSに負けてんじゃん。と、私の国語教師アイデンティティ面がガガガとせりあがってきて叫ぶ(笑)

そこにこんな記事を読みました。(有料記事ですが)

www.asahi.co

一部引用「…青少年がSNSに耽溺するのは、先進国共通の悩みで合って、日本固有の問題ではない。/私が今回注目をしたのは、アメリカの順位だった。13位。20年前の調査開始以来、初めて日本はアメリカ以下に落ちたということだ。移民大国アメリカには、両親が英語母語話者ではない、という生徒も多い。経済格差・地域格差も激しい。ただ、だからこそ、だろう。アメリカには「英語は母語なのだから、自然に身につく」という先入観がない。多様な背景の生徒に対して、学習に必要となる英語を体系的・段階的に身につけさせるカリキュラムの研究が盛んだ。加えて、そのカリキュラムの実践や教員の養成にいして、多くの予算が投じられてきた。一方、日本は、移民が少ないことや、「一億総中流」といわれるくらい同質性が高かったことから、学習スキルとして国語を身につけさせる体系的カリキュラムを編む発想が極めて乏しかった」

いや、国語科教育を専攻した人間はそんなことねーよ! と国語教師の弁護はしておきたいけれど、国語科教育学をガチでしっかり学んで現場にいる小学校教員の割合なんて知れているので、多くの教員の認識としては新井さんの指摘通りだと思う。だからこそ、日本語指導を要する子どもたちの転入を「面倒」「仕事が増える」「日本語ができるようになってから来てほしい」等とプロ意識はどこに?と思うような発言を平気でする人たちが後を絶たないんだろうな…と妙な納得感もある(前述した「手引き」は、そういう無責任発言の歯止めにはなると思う)

ではどうすれば?

言語教育はスキルの教育

早期教育のあおりで「絵本の読み聞かせ」をしない親はダメだとレッテルを張られそうな昨今ですが、別に親「だけ」がする必要もないし、単に読めばいいわけでもなくて、「絵本の読み聞かせ」も含めた乳幼児期の言語的コミュニケーションを通してどんなスキルが育っているのか、なぜ育つのか、そこを明らかにして、小学校の教員ならだれでもそれを再現できるようにしておくことが重要ではないかと思います。

そもそも幼児教育は義務ではないのだから、さまざまな言語環境の子どもがいて、いえば日本語リテラシーが著しく低い子どもも入学してくるはず、というところからカリキュラムがつくられていなければおかしい。「絵本の読み聞かせ」を十分してもらって、家庭で日本語のコミュニケーションが十分育まれていることを前提に1年生と向き合うなんて、義務教育の責任放棄です。そういう自覚、あるのかな? 文科省

絵本になっている(大人から見れば)簡単な物語であっても、物語の基本構造(主人公を中心にした人間関係と、起きる事件のつながりというフレームがあること)を知らなければ楽しめない。読み方がわからないわけです。そういう子どもには読み方を教えないといけない。子どもは何がわからないのか、なぜわからないのか、おもしろくないのかなんてわからないから、そこを大人が気づかないと話にならない。そしてそこに気づく力は、日本語がわからない子どもが「わかった?」と聞かれたら「わかった」と答えてしまうことに「いやいや、そんなはずないやん」と注意深く観察しなおす力でもあるはず。いろんなことを問いかけてみて「あ、ここがつまづきか!」と気づく力。それは教師にとって、そんなに特殊な力ではないはず(現に、文科省が放置していたころ、手探りで日本語指導をしていた先生たちの話を聴いていると、ふだんから子どもたちの様子をよく見ている、「わからない」子どもに気づいて授業内容を調整するのが上手な先生なんだなと感じることが多かったです)

言語だけでなく、どんなことでもそうですが、人間は努力した自覚がなく身についていることは「フツーできるやろ」と思いこみがちです。が、自覚がないだけで、そこにトライ&エラーはあるのです。それを解析して再現するのが教師の専門性ってやつかと。そしてネイティブが無自覚に身につけていく道筋を知っておくことは、日本語がわからない子どもたちに日本語を教えるときにきっと役に立つ。だとすれば、「日本語教育」技術を現行の教師教育や学校現場に付け足す発想ではなく、それを組み込みながら再構成するという発想が必要でしょう。そしてそれは、日本語教育以外にも、やれコミュニケーションだ、英語だ、プログラミングだと、付け足すばかりで肥大化していった学校のありかたを見直すことにもつながってくのではないかな…

覚書なので、ちょい気になった記事もつけたし。

kotaenonai.org

この辺のことも、今後の国語/日本語教育を考える上では重要ですよね。そこでやり取りされるのは「ことば」なのだから。どんな授業であっても、言語表現と理解の指導/支援はつきまとうわけで。その辺もまた考えたいです。