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『夜と霧』ー人生の意味の心理学

今朝、新聞を読んでいて。

『夜と霧』が、強制収容所を生き抜いた著者の強さから学ぶというキャッチで自己啓発本として宣伝されている…という一文を読んで驚愕。


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言わずと知れた20世紀の名著ですが……

 

自己啓発本って!?

 

あり得へん……(嘆)

 

心理学者、強制収容所を体験する

これが原題。著者のヴィクトール・E・フランクルは、フロイトアドラーに学んだ心理学者。20年ぐらい前にアドラー心理学講座に通っていたとき「フランクルはアドレリアンですよ」と聞いて「へぇ」と思った記憶がここで結びつき、昨日あらためて、当時の自分のノートを探し出して参照しながら読みなおしていたところだったので、なおさら自己啓発本扱いに怒りが……(ということで書き始めた 笑)

 

まぁ、アドラー心理学自己啓発本の棚に並んでるか……嘆かわしい。

 

原著タイトルが示すように、この本は精神科医であったフランクルが、強制収容所での体験を心理学的な立場から記録したものです。

強制収容所についての事実報告はすでにありあまるほど発表されている。したがって、事実については、ひとりの人間がほんとうにこういう経験をしたのだということを裏づけるためにだけふれることにして、ここでは、そうした経験を心理学の立場から解明してみようと思う。その意義は、強制収容所での生活をみずからの経験として知っている読者にとってとそうではない読者にとってでは異なる。第一の読者グループにとっての意義は、彼らが身をもって経験したことがこんにちの科学で解き明かされることにあり、第二のグループにとっては、それが理解可能なものになる、ということだ。(中略)

「まっただなか」にいた者は、完全に客観的な判断をくだすには、多分距離がなさすぎるだろう。しかしそうだとしても、この経験を身をもって知っているのは彼だけなのだ。もちろん、みずから経験したものの物差しはゆがんでいるかもしれない。いや、まさにゆがんでいるだろう。このことは度外視するわけにいかない。そこで、いわゆるプライヴェートなことにはできるだけふれないことが、しかし他方、必要な場合には個人的な経験を記述する勇気をふるいおこすことが重要になってくる。

――『夜と霧』新版 7-9pp

アドラー心理学で「勇気」「勇気づけ」は頻出するキーワードで、ここでの使い方が、まさにアドラー心理学! ということは、読みこめば、アドラー心理学への理解も深まるのでは……と思いついて、昨日一日読み直していたのでした(そしてこういう勉強の作業は手書きでないと頭に入らない私。どうやら具体的物理的に手を動かして、描いたものを視認して初めて落ちるという認知のクセがあるようで)

以下、昨日考えたことを書きますが、あくまで《私の理解》です。ちなみに私が通った講座はアドラーギルド主催のもの。個人的には今でも、野田俊作さんのお話がいちばんわかりやすく、巷で売れている書籍はなんかちょっと微妙だなぁと思っています。このサイトで野田さんの講座映像も公開されていますので、ご参考まで。

アドラーギルド|Adler Guild

アドラー心理学でいう主体性(creativity)

アドラー心理学の特徴の一つが「全体論

〇「個人(全体)が、心・身(部分)を動かす」

×「心(部分)が、個人(全体)を動かす」

人間は身体的諸器官と精神的諸器官の統合された「全体」であって、部分でバラバラにしたらもうそれは人間ではない(死んじゃう)・・・と書くと「あたりまえやん」って感じですが、でも私たちは「過去のトラウマが個人を〇〇させる」と、人間の心:精神という「部分」が個人という「全体」を動かしているという考え方を日常的にしています。つまりそこでは「わたし」という「個人」が目的格(客体)になってしまっている。

そうではなくて、あくまで「個人が」主語で、主体として選択し決断して「部分」を使っている。だからトラウマも「個人が(自らの心身を守るためにトラウマ経験から学んだ経験則を参照して)〇〇という行動を起こしている」というふうに考えます。野田さんいわく、そう考えないと治療ができない、なぜならトラウマをもたらした経験(過去)を変更することはできないから。そうではなく、主体である「個人」が自らの経験をどう参照するか、その参照の仕方が日常生活を送るうえで不便なら、もう少し便利な参照の仕方を探しましょう……と患者と合意が取れたら治療がスタートする、それがアドラーカウンセリングの考え方なんです、と説明されました(かといって、「トラウマ(部分)が 個人(全体)を動かす」という考え方が誤っているかというとそうではなく、あくまで仮説として全体論の方が治療しやすいんじゃないの? ということでアドラーではこっちを採用している、だから他のカウンセリング流派とどっちが正しい争いをする気もないし、どこで治療を受けるかは患者個人の主体的な選択でなければ治るものも治らないから、ここが合う人はどうぞってスタンスなのでマイナーで儲かりません…と説明され、当時は「アドラー流子育て」本の類がいっぱい出ていた第一次ブームのときだったので、「売れてますやん…?」と聞いたら「儲かるのは似非なんです」と言われた 笑)

 

『夜と霧』では、強制収容所に移送された最初のショック状態から、「不感無覚」つまり感動の消滅(アパシー)状態に移っていく過程が叙述されていて、そこにこんな文章があります。

感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。(中略)この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。 ―同37p

すべての努力、そしてそれにともなうすべての感情生活は、たった一つの課題に集中した。つまり、ただひたすら生命を、自分の生命を、そして仲間の生命を維持することに。  ―同45p

個人にとって、カラダはひとつしかない「全体」。その命を守る、生き延びることが目的となったとき、その目的のために「個人が心を動かさない」ということか! …「主体性」というと、何か意志的に決定しているように考えがちだったけれど、アドラー心理学でいう主体性は意志(自覚)の有無には重きを置きません(意識は嘘をつくから、らしい……フロイトが無意識に注目したのもそういうことらしい)。その個人がどうしたいか、何をめざしているかは行動や態度に表れるとし、何かにやらされているのではなく、その人自身が選んだ行動なのだと自覚しなおすために「主体性:主語は個人」というフレームを使うわけです。

個人が、心身を動かす
個人が、主体性をもつ
個人が、人生の主人公である

しかし、そのフレームを使って考えるということは、わたしがなぜその行動をとるのか(目的と、選んだ行為)を自覚するということでもあります。それは、自分の行動に対して「こういう厳しい状況に置かれていたせい」「こんなプレッシャーを感じたせい」と責任を外に出すのではなく、自分の行動に責任を負う、状況を引き受けるということにつながります。だから「主体性」でやりきるためには「勇気」が必要で、厳しい状況もプレッシャーも言い換えれば「勇気をくじく」要素の一つ。……くじかれがちな「勇気」を維持するために「勇気づけ」というキーワードが登場してくるということです。

そこからは、人間の内面にいったいなにが起こったのか、収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果として、まざまざと見えてくる。つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断をくだせるのだ。(中略)そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかで、どのような覚悟をするかという、まさにその1点にかかっていた。   ―同 111P

 (……こういうところをつまみ食いする人が、自己啓発本扱いしちゃうんだろうなぁと、引用していて感じました……)

人生の意味の心理学

人間の行動にはすべて理由がある。

その理由を「原因」と考えるのを「原因論」、「目的」と考えるのを「目的論」といい、アドラー心理学では目的論を採用します。原因は過去のトラウマだったり対人関係だったり環境の変化だったり……と無数に出てきてしまうのに比べ、目的はひとつに絞れるので、考えやすいからだそうです(こういうとこ合理的。治療や実践に役立つ、考えやすい方法を採用するということで、ここでも原因論が誤りだということではありません)

そして人間の基本的な目的は「自分の居場所をみつけること」

居場所というのは、社会と交わるやり方、周りの人/社会とうまくやっていく方法のこと。それがわからないと、落ち着いて生きていけないからです。そして人生の課題の大部分は「対人葛藤」と、社会のどこに自分は居ればいいのかという「帰属をめぐる葛藤」だとし、それを「ライフタスク」という概念で呼んでいます。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(中略)

ここにいう生きることとは、けっして漠然としたなにかではなく、常に具体的な何かであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。(中略)すべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない、正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。 ―同 130-131pp

 つまり、ライフタスクは常に具体的で、個人はそのタスクに向き合い、経験則を参照枠にしながら解決に向けて行動を起こす。個人の経験は比類ない、その人だけのものなので、経験から導かれるやり方/認知と行動のクセ(個性)も人の数だけ多様にある。だからその「答え」のありようも具体的に多様で、かけがえがないのだ……。

 強制収容所の体験は、たしかに特異で極限の経験だけれど、それでも一つひとつのライフタスクは、隣で一緒に作業しているなかま、SSの監視兵や収容所の所長、被収容者から選抜された配色係や看護人といった人たちとの「対人葛藤」であったり、どこに与すれば生き残れるのかという「帰属をめぐる葛藤」であったりしたことがわかります。まさに最初にフランクルが書いている通り、「経験しない者にはわかりっこない」と思える被収容体験が、部外者にも理解可能に、解き明かされているのです。

 

もちろん、これは私の「読み」です。フランクルが願った「理解」に到達しているかどうかはわかりませんが、ここ数日の読み込みで、私自身は自分のことや社会のありようを考える、大きなヒントを得たように思います。

アドラー心理学が考える《人間と社会》

社会統合論とも呼ばれるそうですが、アドラー心理学では人間を「社会的存在」と考えます。人間は社会から影響を受け、社会によってつくられる。そして社会は人間によって形成され、人間が動かすもの。その相互作用のなかに人間は生きていて、だから人間の悩みのほとんどは、「わたし」の外にある人びとや社会との関係性から発生する……。

これも、こう読むと「あたりまえやん?」って感じになってしまうけれど、やれ「心の闇」だの「無意識を探る」だの、好きですよね、私たち……。これを「精神内界論」といい、対するアドラーのは「社会統合/対人関係論」と呼ぶそうです。

私がアドラー心理学講座を受けに行ったのは、自分の子育てや生徒指導の仕事に役立つかなぁという好奇心からでしたが、講座を受け始めてすぐに気づいたのは私の目的が間違っているということでした。無意識にもっていた「目的」に気づいて、アドラー心理学はそんな目的の人には役立たないと気づいた(笑)

どういうことかというと、子育てにしろ生徒指導にしろ、私にはどこか「どうすれば私の思うように相手が動いてくれるのだろう」という、相手をコントロールする方法を求める目的があるなぁと自覚したのです。でもアドラーは「人を支配しない」ことに目標を置いているので、まったく役に立たない……話が進むにつれ、自分自身の「他人を支配したい欲求」の根深さが浮き彫りになっていくようで。でもそれが辛いかというとそうでもなくて、「じゃあ、支配しないぞ、と決心してみよう」と覚悟を決めて、言われるとおりに自分と子どものやりとりを記録してふりかえってを続けてみたりするうちに、これは心理を知るというより、自分がどう生きるかを具体的に実験してみて、そのやり方が身につくかどうかの訓練だなーと気持ちが変わっていきました。通い始めたときはキャリアとしてカウンセラー資格とかあってもいいのかなという野望?もあったのですが、それも途中で「私は別にカウンセリングしたいわけじゃないな」と自覚して、とにかく自分自身が無理な目標設定を無意識にやらかして生きづらくならないように、ひたすら自分をふりかえるよりどころとして勉強しました。結果として、子どもとの関係では支配しそうになる自分に気づいてブレーキをかけることが比較的うまくできるようになり、その時点で自分では満足してしまったので、勉強もやめたのでした。

そしてそれきり、ほぼ忘れていて、数年前から再びのアドラーブームも「なんかまた微妙…」と横目で見ていただけだったのですが、あるきっかけで『夜と霧』を再読して、いまこんなことを書いているわけです。

ホントにすっかり忘れていたけれど(笑)

以前講座を受けたときにも「へぇ」と思ったのが「アドラー心理学には、哲学がある」ことでした。人間は目的に向かって生きている、個人が目的のために心身を動かす、というのがアドラーの基本原則ですが、その目的をもっと大きく包括する「目標:人間が究極的に望んでいる理想像」として、アドラーは仮想価値として《共同体感覚》というものを想定しているというのです。

この《共同体感覚》がなかなかつかみどころがなくて難しかったのですが、『夜と霧』を読んでいて思ったのは、この《人類の幸福・平和に貢献しようとする感覚》がフランクルをつき動かし、これを書かれたのかなぁということでした。だれも他者を支配しない、だれひとり疎外しない理想の《共同体》に貢献したい、その一員でありたいと願う《感覚》……《共同体感覚》とはそういうことなのかもしれない、と初めてピンときたのでした。まさに「わお!」でした。

アドラーも、不穏になる欧州情勢から逃れてアメリカで没したユダヤ人です。支配や疎外が起きない社会を夢見て、志向して、そういう社会をつくる人間とはどういう人間だろう、理想のパーソナリティってどんなだろう……。科学としてのアドラー心理学では「理想」は「仮説」として、こういうパーソナリティに近づいた方が生きやすいのでは? という提案として使われるそうですが、哲学として「疎外がない社会をめざす」「社会をつくるのは人間だから、そのために貢献できるパーソナリティを育てる」というアイデアを内包している……。

強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性をもった存在なのだということを忘れてしまう。内面の自由と独自の価値をそなえた精神的な存在であるという自覚などは論外だ。人は自分を群集のごく一部としか受けとめず、「わたし」という存在は群れの存在のレベルにまで落ち込む。 ―同82p

被収容者を心理学の立場から観察して、まず明らかになるのは、あらかじめ精神的にまた人間的に脆弱な者がその性格を展開していくなかで、収容所世界の影響に染まっていく、という事実だった。脆弱な人間とは、内的なよりどころをもたない人間だ。では、内的なよりどころはどこに求められるのだろう、というのがつぎの問いだ。 ―同114p

フランクルのいう「内面のよりどころ」が、つまりは《共同体感覚》のことではないのか、と思いました。そしてそれは具体的には、仕事を通じて社会に貢献することであったり、愛する人と幸福な暮らしを営むことであったり、そんな小さなベクトルが究極的には理想の人類共同体につながっていく。

 

いま、わたしが生きている21世紀の社会は、相変わらず、だれかを疎外し、支配と抑圧がはびこっているけれど、そんな不完全な「いま」から、理想の社会をめざして生きていくパーソナリティでありたいなと、改めて考えました。