わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

(おことわり)

私は「ブログを通して交流しよう」という意図を持ちません

本ブログは個人的な記録、および実生活で交流のある仲間と共有したい思考を書き留めるために書いています

ですので、その他の方には、一方的に読み物として読み流していただきたい。故に、コメント欄を設けていません。あしからずご了解ください

 

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 を読んで思うこと

 先月末のトークショーで購入し、サインもしてもらった本を読み終わった。

…というより、今日は「国際母語デー」なんです! 
これは早く読み切って、読みながらつらつら考えたことを書かねば!

今日 書かずに、いつ書くの! ってなって、一仕事終えて読み切りました。

f:id:jihyang_tomo:20190221142834j:image

「あなたの母語は何ですか?」

・・・この質問に対して逡巡してきた温さん。

そして、「・・・あるときからわたしは、自分には少なくとも三つの母語がある、とあらかじめ宣言するようになった。日本語と中国語と台湾語・・・どれか一つだけ、自分の『母語』であると定めるよりは、三つともそうなのだ、と言ってしまうほうが、自分にはしっくりくると気づいたのだ」「そもそも、中国語と台湾語と日本語と、ひとつずつ数える必要はないのかもしれない。三つの母語がある、というよりも、ひとつの母語の中に三つの言語が響き合っている、としたほうが、自分の言語的現実をぴたりと言い表せるのではないか」(244p)と温さんは書く。

「あなたの母語は何ですか?」と聞くとき、質問者には「母語は一つ」という無意識の思い込みがある。私にも、そんな思い込みはあった、と思う。

母語。mother tongue。乳児期の生育環境から自然習得されるコトバ。

いまは「第一言語」と呼ぶこともある。そういう尋ねられ方なら、自分が思考を操るのにもっとも気楽に自由に使っている言語の名を、屈託なく答えられるだろうか? そう単純ではないだろう、と思う。「第一言語」と数字まで入ってしまうから、ひとつの言語名しか選べない・・・となると、やはり答えようがなくなりそうな気がする。温さんのような人とは比べ物にならないが、私もこうやって文章を書いているときのコトバ(標準日本語?)と大阪弁船場言葉と河内弁が混じっている)の両方が混じり合って、考えたり書いたりしている。論文であーだこーだ検証を書いているときには大阪弁は使わないし頭の中も書きコトバだ。しかし、どんなふうに書いていこうか、自分がここで書きたいことは何か・・・と考えているときは、両方が混然と脳内を駆けめぐっている。

母語、母国語、国語、標準語、方言・・・

コトバにつけられた名まえはたくさんある。

学生に、そういった名詞をいくつか示して、それぞれ何が違うのか、何を表す名前なのかを考えてもらったことがある。

日本のマジョリティは、母語も母国語も学校で教わる「国語」と一致している(と思っている)人たちだから、まず「母語」と「母国語」に戸惑う。え? これ違う意味なん? 〈国〉のあるなしで、何が変わるんやろ? あれ? そういえば「国語」って教科を英語に訳したらどうなるん? 標準語って、「共通語」っていうのもあるけど、それは何? ・・・つまり、無頓着に生きてこられた人たち。

それがいいとか悪いとかではなく、頓着しなければ生きられない人たちも、私たちの周りには大勢暮らしているのだということに、屈託のない人たちが思いを馳せることから多文化共生が始まるのだと思う。

金時鐘さんの日本語と詩

「私の日本語には元手がかかっている」と、1世の在日朝鮮人詩人、金時鐘(キム・シジョン)さんは書いた。

金時鐘さんは日本統治時代に済州島日本語教育を受けた世代であり、1948年の四三事件を受けて渡日した1世。大学生の時、『猪飼野詩集』を読んで、それまで読んだどんな詩にもない表現、そこに息づく人びとの姿に圧倒された。こんな詩があるのか、と思った。と同時に、在日朝鮮人子ども会にかかわりながら「国語教育」を学ぶ学生だった私にとって、〈同化教育の片棒を担いだ国語科〉から脱して〈マイノリティの言語を尊重する国語科〉になる道はあるのか? という葛藤を考えるのに、大きなきっかけになるような気がして、卒論に選んだ。金時鐘さんのいう「元手」から学びたかった。実のところ、日本社会で日本語で暮らさざるを得ず、既に日本語が「母語」になっている在日朝鮮人の子どもたちを前に、私が学んでいる「国語科」ってなんなのだろう? という後ろめたさのようなものにずっと悩まされていて、その迷宮から抜け出すにはこれしかないと思ったからでもあった。

そして、当時出版されていて手に入る金時鐘さんの著作はすべて読んだ。金時鐘さんは詩人であるだけではなく、朝鮮語教員として人権教育に取り組む高校の教壇に立っておられた時期もあり、教育に関する言及も多く、子ども時代のエピソードもたくさん書いておられ、思っていた以上に考える材料に満ちていた。温さんの文章の中にも台湾での日本語教育(温さんにとっては祖父母が日本語教育を受けた世代だ)にかかわるエピソードは何度も出てくる。国家によって断絶させられる親のコトバと子どものコトバ。そして、金時鐘さんの場合、国家の暴力によって物理的にも断絶させられ、日本で暮らす日々が始まる。

金時鐘さんに関しては、その当時(1989年)、まだ四三事件については言及できない、しえない事情があり、行間から仄見える「日本の敗戦後に済州島で起こった何事か」の内容がわからないまま読んでいた。その「何事か」について、語られ始めたのは最近のことで、そのことを巡って、ふたたび私の頭の中はまた別の嵐が吹き荒れているのだけれど、それはまた別の話。

胸が痛いエピソードはいくつもあった。

教室で日本語を使うと罰札が渡され、その札の数だけビンタをくらう。最初は教師がやっていたが、「不心得者が一向に減らない」ことに疲れたのか「子ども同士の制裁」という仕組みを作り出す・・・日本語を使わなかった優等生が日本語を使ってしまった生徒をビンタする、そんな教室。そうまでして日本語常用を推し進めた日本。そして金時鐘さんの父親はそんな時期にも朝鮮服を着て朝鮮語を話し、街で墨を吹きかけられる「不良朝鮮人」で、そのことを恥じた金時鐘少年はよりいっそうの優等生になっていった。そのやるせなさ。

でも(どちらがひどいと比べようもないけれど)私にいっそう辛かったのは、童謡や唱歌のやさしく美しい日本語の詩が、しみこむように当時の子どもたちの口の端に上り、歌われて身についていったという事実のほうだった。金時鐘さんは、そうやって身についた「日本的叙情から切れる」ことをご自身の詩作に課して、さまざまな作品に結実させてきた。日本語、そこにある思考、文化、叙情。そこから脱して、日本語で詩を書く。だから「こんな詩は初めてだ」と私が思ったのだ。

その後、日本語教育世代からお話を聞けた折々に、同じようなお話を何回も聞いた。そしてやはり「物語を読むためには日本語が読めないといけなかったから、一生懸命日本語を勉強した」とか、「朝鮮語を話すことはできたけれど、読み書きは日本語でしかできない子どもとして、戦後が始まった」とか、そんな個々のエピソードの一つひとつに感じる痛みが、私がつかんだ〈同化教育の姿〉になった。

母語(mother tongue)」という名づけは、この世に生まれてきたその子どもが、そのままお母さんに抱き留められ、慈しまれて育つうちに自然と話し始める・・・そんなイメージからきているのだろう。もちろん母だけではなく、慈しむ大人はほかに何人いてもいい。しかし、そんな子どもの幸福を許さない国家の暴力がかつてあったのだ。植民地支配はなくなったが、いまも形を変えて、その暴力はまだある。だったら、その暴力に負けない力をはぐくむような、そんな「国語科」を構想できればいいのではないか・・・。ひとまず私は迷宮から抜け出し、次は植民地の「国語科」を掘り進めることにして、いまもうろうろしている。

温又柔さんの日本語と文学

温さんが「私の母語は三つ」と言い切ることにした、ということのほうが、上述した「母語」の本来のイメージにより近いものだなぁと思う。

「あなたの母語は何ですか?」という質問が暴力性を帯びてしまうのは「母語は一つであるはず」という狭量な思い込みのゆえに、自分をはぐくんだ言語に順位付けを迫るからだ。そして同化教育とその後に続く在日朝鮮人差別の中で、在日コリアン朝鮮語を選べなかった。家族やコミュニティのコトバとして維持することも、日本社会の中では困難だった。母語は一つであるはず。言語と民族は同じであるはず/〇〇人なら〇〇語が話せるはず。話してみてよ!・・・そんな無意識の暴力性。そしてそれはいまも、ニューカマーの子どもたち、2世の子どもたちを悩ませ続けている。同化教育の負の遺産。宿題はまだ終わっていない。

卒論を書いていたころ、ヒリヒリしながら読んでいたのが李良枝(リ・ヤンジ)さんの小説だった。『ナビ・タリョン』『由煕(ユヒ)』『石の聲』・・・温さんが修士論文に李良枝の文学を選び、大きな影響を受けたことを読んで、胸がいっぱいになった。

ああそうか、こんなふうに文学もつながっていくのだな、と思えたからだ。

日本のマジョリティは、国境と言語の境界を無意識に同一視している。日本の領域内で使用されているから日本語。日本語を話しているから日本人。明治政府がめざした、一国一言語一民族を内面化したまま、21世紀を迎えてしまった。

でも実際には温又柔さんのような作家がいる。その前には鷺沢萠や李良枝もいる。国籍と民族と言語が一直線に紐づけられない、複数の言語や文化につながる人たちも、今後増えこそすれ減ることはないだろう。日本はずっとそういう境界線上をたゆたう人々を無視して、そんな人たちにお構いなしの社会を作ってきた。もとはといえば日本という国家の暴力によって境界線上に放り出した人たちに対してさえ、責任も取らず、その存在を無視してきた国で、新たにやってきた人たちがまたつらい思いをさせられる。

それでも、温さんが描写する「ママ語」/台湾語と中国語と日本語が混じり合う響きの、なんとチャーミングで生き生きしていることか!(その響きは繁体字とカタカナ、ひらがなを駆使して表現されている)

そこにある、台湾の歴史。日本語を押しつけられ、その暴力が去ると、今度は中国語を押しつけられる。大陸と海峡を挟んで対峙する、多言語の台湾。押しつけられた「国語/國語」を身につけ、したたかに生きてきた人たちと、そんな人たちが日々の暮らしのなかで使い続けた台湾語や民族のコトバ。そんなコトバが溶け込んだ温さんの日本語と、その日本語でつづられる文学は素敵だ。なんて豊かなんだろうと思う(その良さがわからない芥川賞の選考委員がいたなぁ。思い出すだに腹の立つ!)

私は研究対象が植民地期の朝鮮で、同時期の台湾のことをきちんと勉強し始めたのはこの10年ぐらいに過ぎない。本書を読みながら、朝鮮とはまた違う解放後・冷戦時代を過ごした台湾の現代史に考え込むことも多かった。ついこの前、台湾の留学生に「なぜ同じ植民地だったのに、朝鮮のことばかり教えて台湾のことは教えないのか。教科書にも載ってなかったと日本の学生が言っていた」と質問され、申し訳ない気持ちになったばかりだったから、よけいかもしれない。そう質問されて改めて、日本は自らの支配者としての歴史を、被支配者の子孫である在日の人びとから突き上げられて初めて教科書に載せ、授業で扱うようになったに過ぎないだな、そこに国家としての主体性はないのだな、と思わざるを得なかった。要は反省する気がなかったのだ。過ちを教訓化する気も。だから一国一言語一民族に何の疑問も持たない国民が生まれ続け、「日本人が日本語で日本を描く」文学しか日本文学ではないかのような狭量な発言が飛び出すのだろう。

温さんが描き出す世界はまぎれもなく日本の物語だ。複数の言語と文化にはぐくまれる人が経験する、モノカルチャーの日本。日本で暮らす多文化な人たちの暮らしや感情。複眼的、重層的なコトバの世界が、これからの日本文学を豊かにしていくだろう。そこで使われる日本語は〈同化教育の片棒を担ぐ〉コトバではなく、多様性を多様性として描き出す力のある、素敵なコトバだと思う。

「わかる」とか「わからない」とか

さいきん気になっていることの一つに、国籍や民族をめぐってアイデンティティ葛藤を経てきた温さんのような人たちの経験に対して「自分は純日本人だからわからない」と「わかる/わからない」にこだわっているようで、理解をあきらめるような言動が、学生の中に目立つこと、がある。・・・目立つ、と思っているのは私なので、単に私が気になるだけの話かもしれないが。国籍や民族の問題だけでなく、差別に遭いやすいマイノリティ性をもつ人たちの経験談に対して、ふわっとした拒絶を感じる何か。はっきりと「わかりたくない」と言い切るわけではない(そう言ってはダメだと思っている?)が、かといって「わからない」ことに対する焦燥や無力感にさいなまれるふうでもない。「わからない」から勉強しよう、話を聞こう、というふうでもない・・・。

私も母語は日本語で、第一言語も日本語で、日本語の社会に生きている者だから、わかるかわからないかと言われたら「わからない」側だ。でも本書を読みながら、私は何度も涙をこぼした。「わかる」から泣いたのでもなければ、「わからない」から泣いたわけでもない。たとえば、温さんのお母さんが「ママ、にほんご、へた。あなたたちに、にほんの本、読まなかった。読めなかった」と言ったとたん、さっきまで微笑ましかったのに一気に緊張して胸が詰まり、おなじようなコトバを聞いたことあったわ・・・と思わず何人かのお母さんの顔が浮かび、行き場を失った感情が涙になって出てくる・・・という具合。切ないとかやるせないとか、こういうときのためにある表現なんだなぁと実感してしまう。

こういう感情におそわれたとき、「わかる」とか「わからない」とか、関係なくなってしまって、切なくてやるせなくて、じっとしていたらやりきれないから、本を読んだり人に話したり、とにかく動き出す。その繰り返しで、私はいま「多文化共生」だの「人権」だのを仕事にしながら生きているように思う。

そういえば「外国にルーツがあるといわれても、ふーん、そうなのか、としか思えないのはダメなんですか?」と質問に来た学生もいた。「牡羊座ですとかA型ですとかいうのと同じレベルで受け止めたらだめなのか?」と。ゲストが「日本生まれで日本育ちの自分に『もうほとんど日本人だね』とか『日本人と変わらないね』とか、言ってしまうことによって、隠されてしまう・見えなくなることはないのかな? と少し考えてみてほしい」と話した次の週だった。あの学生さんが、この本を読んだらどう思うのだろう。温さんが温さんであることの一部一部は、星座や血液型と同じ重みといえるのだろうか。あなたと私の関係の中では、そういう受け止めもありかもしれないけれど、あなたも私も、温さんに窮屈な思いをさせてきた日本社会の中で生きている。私たちはこの社会から決して自由ではないのだから、そこから自由になりたければ、見なければいけないものがあるのではないだろうか。

U-Books版のあとがきの末文に、また涙が出た。この思いに目を向けない、見ようとしない日本の社会と、私はまだまだ闘わなければいけないなと思い、そして動き出す。

祖母に捧げた本書を、「ママ語」でわたしを育ててくれた母と、母のようなすべてのママたち、そしてそんなママのもとで育つ子どもたちにも捧げたい。/2018年8月灼熱の東京にて    温又柔

 

 

koko de kurasu の次の日の「ブラトーーク!」

そして、日曜日は「私たちの部落問題vol.4 ブラトーーク!」に参加
ロフトプラスワンエスト。ミナミのライブハウス! そこで部落問題!

部落めし(かす飯、1銭洋食、さいぼし)につられて(笑)チケットを買った段階での整理場号は「24」だったのに、当日は立ち見(会場のキャパは130)が出るという盛況っぷり。

え? え? だれが来てるの・・・!? と思わずキョロキョロしてしまうけど、あまり知った人がいない(いや、いるけど、その4倍ぐらい知らない人がいた)。なんだかそれだけで感動する。部落問題を考えようと思う人がこんなにいるよー!

ちなみに、2017年に始まったこのシリーズの4回目にして初の大阪開催イベント

www.abdarc.net

この1回目に、たまたま出張で東京にいて参加しました(その時のことも書いたかと思ったら書いていなかった・・・。Blogを使えていないなー、私)。

鳥取ループが紛れ込んでいたりして怖い思いもしたけど、すごくいい企画で、こういうものを定期的に積み重ねていくのが大切だなぁと思いました(鳥取ループ裁判の詳細等も上記サイトにあるので、そちらを参照ください)

第4回は「もっともっとちゃんと知って、どんどんみんなで話していこ~!」ってことで、タイトルは「ブラトーーク!」

 

ライブハウスなので、ビール片手に! (登壇者もトーク中に「生ふたつ!」)
とっても真面目な話を、リラックスして率直に・・・の雰囲気が心地よかった・・・

 

私と部落差別

私は大阪の生まれ育ちで、小学生時代が70年代にすっぽりはまっているので、「越境通学反対」ポスターに通学路を守られ、年度初めに教科書と一緒に「にんげん」をもらい・・・けれど南区(現中央区の南西側)には被差別部落がないせいか、部落問題学習をきちんと受けることなく過ごしました。

でも「しない、させない、越境通学」ポスターもそうだし、「石川青年を返せ!」「狭山差別裁判糾弾!」という垂れ幕のかかった建物も目に入っていたし、「にんげん」は毎年読んでいるし・・・(しかも私、「にんげん」が好きで、始業式に教科書類をもらって帰ったら真っ先に読んでいました。国語の教科書や道徳の副読本より、断然おもしろい・・・子どもだったから感覚でしかないけど、読み応えがあったのです)で、断片的な情報は常に身のまわりにありました。

大学に入って「部落問題概論」という授業と、その受講生会議でのFWを通して、はじめて断片が意味を持ってつながっていきました。そして実際に被差別部落に育った先輩や同期の子たちから、いろんな話を聴いて「昔話ではなかった・・・」と気づき、単に冤罪事件やろと思っていた狭山事件の背景も知り、解放子ども会の学習会や取り組みを垣間見る中で、「にんげん」の内容の深さに気づかされていったのでした。

・・・という学生時代。

母の親友の一人が大阪南部の被差別部落出身だという話を、初めて母から聞きました。私もよく知っているおばちゃんでしたが、解放運動からは完全に距離を置いている人(自分が言わなければわからない、わからなければ差別されない、と)で、母も「寝た子を起こすな」論者。要は私があっちこっちの部落に出入りして「こんな差別は許されへん」とか「部落にこんな面白い人がいる」とか、べらべら家で喋っていることにハラハラしていたようです。

母とそのおばちゃんは短大以来の親友。高校進学率が60%ぐらいの時代に女子短大に進学しているのがミソで、2人とも、家庭は貧乏でもないけどそんなに裕福でもない、でも「これからは学歴や!」という親の信念で進学させられた(本人たちは嫌だったらしい)のが共通点。まわりの「嫁入り道具的に通っているお金持ちお嬢様」とはそりが合わず、仲良くなったとのことでした。そして母はまわりの「お嬢様」たちから「なんであの子とつき合うん? あの子〇〇やで」と何度も言われたらしい・・・母は「それがなんやの?」と意に介さず過ごし、母の親(私の祖父母)もそんなことは気にしない人たちだったのだと話していました。

いや、だからさ。差別されとるやん。差別あるやん。やのに「寝た子を起こすな」ってさ・・・と私も若気の至りで何度か話してみたものの、「差別するほうがしょうむない」「そんなしょうむない人がみんな死んだら差別はなくなる」「いまの若い子は、もう差別なんかせんやろ」という感じで、むしろ私のように勉強したり意識したりする方が差別を残す(どっかで聞いたような理屈・・・)と言いたげになって終わるのが常でした。
(当時、私が解放運動にがんがん突っ込んでいくのを、止めたり反対したりはしなかったけど、よく思ってはいませんでした。その辺の確執は、また別の話)

そんなこんなで、明らかに悪意があって排除してくる人より、こういう人の方が厄介だなぁ・・・と自分の母を見ながらよく考えたものでした。

私たちの課題

 

ビール片手に聴きながら、そんなことも思い出していました。

もともとこのイベントは鳥取ループ裁判支援グループ(ABDARC)の企画で、インターネット上に地域の名まえ/関わる個人名をアウティングするという悪質な差別行為をどう考え、どう対抗していくかを考えるための場。あからさまに酷いことを言ったりやったりということを彼らはやっていないけれど、社会に潜む差別意識が行動に発展するためのプラットホームを提供しているという、巧妙で悪質な差別行為に、私たちは何ができるのか、何をしていけばいいのか・・・・・・。

自分が生まれ育った地域が、いかにも恐ろしげにBGMをつけた映像でネット上に晒される。自分の車のナンバープレートが映りこむ。あるいは自宅や友だちの家が。地域の祭に参加する子どもたちの顔が。裁判の原告になったことで、名まえや住所といった個人情報を晒される(裁判の訴状には現住所が記載されるので、被告側に個人情報が知れてしまうんですよね。この裁判の仕組みは何とかならんのかなと私は思います)。

鳥取ループは過日、裁判所で「私の行為(インターネット上に情報を晒したこと)によって、だれか一人でも死んだのか?」と言ったらしい。人が死ななければ問題ないと?・・・差別の被害が、そんなふうに明らかに物理的に傷つきがわかるような状況にまでいったら、それは相当にヤバい段階でしょうよ? と怒り沸騰しつつ、そこまでのたまうということは「私は情報提供しているだけ」なんていうのは言い訳で、やっぱり差別する/傷つける目的でやってるんだな・・・と確信(改めて確信)。

この現実がある前で、「寝た子を起こすな」は害でしかない考え方ですよね。
「寝た子はネットで起こされる」現実。だったら、変な起こし方をされる前に、どうするか、変な起こし方をされちゃった人たちに、どうするか。ーーそこは教育の仕事だなぁと、気合いが入って再びビール。さいぼし旨し!

丁寧に暮らす

ヘイトスピーチする連中もそうだし、鳥取ループもそうだけれど、地に足がついていない、観念の世界でコトバを弄んでいる人たち。という感じがして、だからこそ、こっちは丁寧な暮らしを見せつけていきたいし、丁寧に毎日を生きることが対抗ではないか・・・ということも考えさせられました。

情報を晒されたことで陥る不安は、安全・安心な暮らしを壊される恐怖だし、その恐怖を感じながら日々暮らさないといけない時点で、それは心理的な被害にほかなりません。だれかが死ぬとか、精神を病むとか、そこまでいかないと被害だと認識できないとしたら、そちらの方がよほど歪んでいます。

不安になるのは、その暮らしが日々の小さな積み重ねでつくりあげた信頼や安心に支えられているからこそなのだろう・・・と思うのです。「ご飯食べていきやー」と言ってくれるおばちゃん、地域のイベントをつくるあの人やこの人、それを楽しんでいる子どもたち・・・「さいきん、どう?」と声をかけあえるコミュニティは一朝一夕にはできないし、少子高齢化の進む日本で、より便利なところ、小ぎれいなところに人が移動していくなかで、地域コミュニティ/まちづくりの課題を抱えている地域の方が多くて。地に足つけて、地道にコツコツ、丁寧に人間関係を紡いでいこうとしている人たちの姿は素敵だし、そんな素敵な世界を守りたいと思うから、それを脅かす彼らの行為に不安と怒りを感じる・・・少なくとも私は、そう思います。

今回のイベントで紹介されていたのはこの地域の取り組み

ホーム - 暮らしづくりネットワーク北芝暮らしづくりネットワーク北芝 | であい・つながり・げんき

何を隠そう、学生時代に私が初めてFWに行ったのがこの地域(30年ぐらい前・・・)

ここはホントにおもしろい! けれど、おもしろさの背景には、地域の事情・課題があって、そこに向き合ってどうしようこうしようといろいろなチャレンジを繰り返してきた歴史があります(それがまたおもしろいんですが)。

コトバにするとありきたりですが

暮らしは積み重ねていくもの。つくり上げるには時間がかかる。
破壊は暴力。一瞬で壊せる。そして、差別は暴力。

どんな暴力も許さない。とともに、
暴力に抗する暮らしを日々紡いでいく営みを止めないこと。

・・・とかなんとか言いながら、地に足がついていない私(笑)
ですが、今年は「地域」とか「まちづくり」とか、もう少し勉強して関わっていきたいなぁと心ひそかに思うのでした。

 

がんばろ。

koko de kurasu


f:id:jihyang_tomo:20190129134721j:image

移住連の2020キャンペーンの《ここにいる》というコトバがとても好き。

キャンペーン2020 | 移住連 |Solidarity Network with Migrants Japan -SMJ

というので先日、そのイベントに行ってきました。

2019.1.26.「ここにいるkoko ni iru.」大阪企画
トーク 温又柔×三木幸美「ここで暮らす KOKO DE KURASU.」

…よかったです。心がとても温かくなり、かつ宿題をたくさんもらったような(嫌じゃない宿題ですよ)、とても良い時間を過ごしました。忘れないうちにその感想を。
*写真は当日のメモ。全部メモしたい! けどそんなことせずにひたすら耳を傾けていたい! と葛藤しながらも手が止まらなかった…という代物です(笑)

コトバを切り取らせない

『真ん中の子どもたち』を読んで以来、温又柔さんのファンだったし、三木幸美さんも大好きなので、始まる前からワクワク。そして二人の楽しそうなトークを聴いているうちにわかったのは、お二人ともとてもコトバを大切にしていて、そのスタンスが私はとても好きなんだなぁということ。

「コトバを切り取らせない」というのは三木さんのコトバですが、私なりにそこにまつわって「そうだなぁ」と思った部分を言語化しなおすとこんな感じ

*マジョリティが「こうあってほしい」と思う像を押しつけられる/自分が見たい像に合う部分を「切り取りに来る」感じが不快

*「わかるー」と言って、私の語りを消費される虚しさ。安易にわかったつもりになって、そこで思考停止して、去ってしまう人たち

このへんは、いま読んでいる朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』からも感じていることで。人権課題…というか社会について考えるとき、だれかの経験(語り)から学ぶことはとても大切だと思う一方で、それがだれかの生きた経験である以上、社会問題の教材として消費財にしてしまったらダメだ…ということを常に思う。だから授業で講演に呼ぶときや、だれかから講師を紹介してほしいと頼まれたときなどは、「いいお話が聞けて良かったですー」とカタルシスになって終わり、にさせないためにどうすればいいかをすごく考える。それでも、「人権といえば差別に負けずに頑張って努力した人のいい話」というフレームでやってくる人の、そのフレームを壊すのはとても難しい。

そして、自分が語る側であるときに、ふと陥ってしまう、わかってほしいポイントをわかってもらうために、何かしら整理されたストーリーを作ってしまいそうになる陥穽。

「登場人物に感情移入して消費される小説は書きたくない。自分が物語の中に入って『考える』小説を書きたい」

という温さんは素敵な作家さんだと思ったし、まさに『真ん中の子どもたち』はここに私がいるとしたら、どこにいて、この3人とどう関わるのだろうか…とずっと考えながら読んでいたなぁと思いだした。

小説の登場人物も、現実にいるあの人やこの人も、わたし自身も、だれもがさまざまな面を持っていて、そのどれか一面だけ切り取られたら、それはもうその人ではなくなってしまう。

どの面もわたし。どの面が欠けてもわたしではない。

以前、別の学習会で、こんな「アイデンティティの多様性」を大小さまざまの、相互に噛み合っている歯車のイラストで提示されたことがあった。誰からもよく見える位置にある、大きくて目立つ歯車もあれば、その後ろに隠れてよく見えない、小さな歯車もある。でもどの歯車もすべて連動していて、私を動かしている。どんなに小さくて目立たない歯車でも、それが欠けたら動かなくなる…というイメージ。

私も、わたしを切り取られたくない。では、切り取らせないためにコトバを考え、選んでいるだろうか。…そんなことを、いま考えている。

それと、他者のコトバを安易に切り取ろうとしていないだろうか、ということも。

ルーツのコトバ、ということ

温さんは台湾生まれで幼少期に来日、日本の学校に通い、日本語で育ってきた。

三木さんはお母さんがフィリピン人だけど、日本社会で生きていく娘は日本語で育つほうがいいと考え、ご自身が日本語を学びながら日本語で三木さんを育てた。

だからお二人とも、親のコトバを耳にしながら成長しつつ、第一言語は日本語だ。

「わたしたちのような者が(ルーツの)言語を学ぶのは、忘れていた子守唄を思い出すような感覚なんですよね。ああ、この表現は知ってるな、とか、ああ、こういう意味でこう使うんだな、とか。だからまったく縁のない外国語を学ぶのとは違う楽しさがある」

…でもそんな楽しさにすぐたどり着いたわけではなく、「台湾人なのに話せない自分」「ハーフなのに話せない自分」という「何か足りないわたし」コンプレックスを与えてしまう日本社会。

「どっちでもいいしどっちでもあるのに、『けっきょく、どっちなん?』と周りが(社会が)迫ってくる」

何語が話せるかがものさしになって、人を分けようとする暴力性。
そして、言語にも優劣がつけられている。

一国一言語一民族…という上田万年以来の呪いは深い…

言語の教育は、その呪いを解く呪文を見つける時間にならなければいけないんじゃないだろうか。

カット・インパク

これはお二人ではなく司会をしていた方の名言。

いま社会ではTwitterにせよInstagramにせよ、「短く切り取った」コトバや映像で、とにかくインパクトがあればいいという表現にあふれていて、みんなが「切り取る」ことに躍起になっている…だから、今日のトークは、そんな空気へのカウンターでもあった。

なるほど!

切り取らせない、というのは文脈を無視させない、文脈に思いを馳せ、考えることをやめさせないということだ。

考えてみれば、「短く切り取った」コトバのやり取りに文脈がないわけではない。
切り取られているからこそ、元の文脈をお仕着せ/既存の「よくあるストーリー」に無意識に当てはめ、勝手な解釈を許してしまっているのではないだろうか。

でも、よくあるストーリーで説明できる人はいないし、説明できる人生もないはずだ。

自分のことを自分のコトバで考え、みずから語ること。
自分が自分であるという、そのものが認められ、尊重されるためのコトバとは?

カット・インパクトな社会が奪っているのは、そんなコトバたちなのだろう。

わたしたちが取り戻さなければならないものが、少し見えた気がした。

「わかる」とか「わからない」とか

「わかる」の暴力性、という話が出た。「安易に『わかる』な!」

「『わかるわー』って言われるより『そっかー…』って返ってくるのが好き。そのまま聴いてもらえた感があると嬉しい」

『わからない』限界を知っていて、それでも『わかろう』としてくれる人がいい。けどなかなかいない(笑)」

「わかる」ってなんだろうな、と思う。

トークの中で「ののしりコトバ」の話になったとき、温さんが「人をののしりたいときに使っている単語って、本当にそれを選んで、その意味で伝わるの? それでいいの?っていうところが怪しい場合が多いと私は思っていて。相手に打撃を与えられるという点だけで選ばれていて、自分が伝えたい不快感とか抗議とか、そういう中身を反映できていないのではないかなと思うんです」と話されていたけれど、おなじことが「わかる」にもいえる気がする。

だれかと話をしていて『わかるわー』と言っているとき、その中身は「私も同じような経験したわ!」だったり、「あんたが怒ってるのと同じように怒りを感じるわ!」だったり、いろいろだ。体験(事象)の共通性と、感情への共感を、全部「わかるー」一言で片づけて、それでいいと思って使っているけれど、実のところをよく考えたら「なにがわかったんだろう?」と、ちっとも「わからない」部分が見えてくるほうが多いのではないだろうか。怪しい…

これもカット・インパクトと同じで、簡単な単語で軽くテンポよく、ポンポン飛び交うことがよしとされる空気があって、自分の言いたいこと・伝えたいことに合っていない語彙でしか話せていないのかもしれない。そんな社会で、丁寧にコトバを紡ぎ、考えていく時間をどう作っていくのか。そんな場をどう確保するのか。

たぶん、「めんどくさい奴ら」と思われるんだろうけど(笑)
あの会場に集まっていた人たちは、きっとみんなめんどくさい人たちだから、私は一人ではない(笑) めんどくさい人たちとめんどくさくつきあっていくことの楽しさを、どんどん見せつけていく私たちの営みが、対抗文化になっていけばいいなと思う。

 

 

零下13度のソウルに行ってきた!

私は「Study Tour」という旅が好きです。
無計画にダラダラまったりする旅も好きだけど、自分だけでは行けないところに行ったり、会えない人に会えたりする旅は楽しい。

ってんで、12月26日~28日の3日間、折悪しく大寒波に見舞われながら韓国・ソウルで《教育》について考えてきました。以下、メモ的に。

「創造的民主市民を育てる革新未来教育」

ソウル特別市教育庁の「民主市民教育課」のさまざまなポジションの方や、中学校・高校の歴史教員のみなさんとお会いして、レクチャーを受け意見交換しました(時間が全然足りなかったけど)。一言でいえば超刺激的! なにせ、教育庁の建物や公用車にドドンと「創造的民主市民を育てる革新未来教育」と書いてあるし、いただいた名刺にも「すべての人びとの幸せな未来をめざす革新教育」と書いてある・・・つまりは教育改革の真っただ中なわけですが、その改革のベースに「人権」とくに「学生の権利」を明示しているんですね。もちろんその背景には朴元淳市長や文在寅大統領といった市民派人権派が政権をとっているということがあるわけですが・・・(そして韓国は大統領や首長が変わると教育政策をはじめとしてさまざまな政策が見る影もなくひっくり返ってしまうということが多々あるので、私が見て/聞いてきたことも「すごい!」中身ではあるけれど、政権変わったら消えてなくなるかもしれない・・・という不安定さを否定できないのも確かなのですが)

実は昨年9月にも韓国に行きまして(韓国で考えたこと - わったり☆がったり)

そのときは「代案教育運動」という民間の動きを勉強させてもらいました。そして、公教育の方でも教育改革を進めるための拠点校として「革新学校」というものがあり、加熱しすぎた受験競争と格差社会の問題をなんとかせねば・・・という課題意識はあると伺っていました。今回の旅では、そういった公教育側の動きを見ることができた、ということです。

ソウル特別市では2011年に「民主市民教育チーム」というPTが立ち上がり、それが2015年に「課」に昇格したのだとか。その背景には①知識中心・入試中心の教育の見直し ②受験/就活競争の過熱と格差の拡大がもたらした社会的葛藤への取り組み という要請があったーーというのは去年聴いた話と重なるところでした。そして、教育基本法第2条「民主的市民の育成」本義に立ち返って、未来社会にふさわしい教育に変えていこうとしているのが「いま」だとおっしゃっていました。

具体的には、民主市民教育課のなかに5つのチームがあります。

①学生自治チーム:児童生徒が学校運営に参与する仕組みづくりや、韓国社会の歴史や課題を学ぶフォーラムやプログラムの整備などを担当するチーム。ソウル特別市は「学生人権条例」を定めているので、それに基づいて校則等の見直しを子どもたち自身が議論している最中だそうです(注:韓国では「学校に通っている人」全般を「学生」と呼び、日本のように「児童」「生徒」「学生」を使い分けない)

②開かれた世界市民・多文化教育チーム:日本でいうところの「国際理解」「多文化共生」の担当。移住者受入れに関していえば、韓国には「多文化家族支援法」という法律があり、各道に支援センターがあって、韓国語教育等々の支援メニューが整備されてもう10年ぐらい経っており、日本より法整備は遥かに進んでいます。ただ多文化家族の子ども(日本でいう「海外ルーツの子ども」)の教育に関しては「いかに韓国語に早く習熟させて適応させるか」に重点がある印象だったのですが、今回話を聴かせてもらった限りでは「母語保障」「バイリンガル教育」という視点も入っていました。印象的だったのは「多文化家族の子どもがいるクラスの韓国人の子どもたちが、クラスメイトの母語を一緒に学べるプログラムを保障する」というお話でした。「英語一辺倒を変えていきたい」そうです。

③読書・人文社会教育チーム:「対立・葛藤から学ぶ」プログラムづくり。つまり「対立や葛藤を調整し、ともに未来を志向する能力」を育てることが「平和教育」だという認識で、そこを担当するチーム。ここは韓国ならではというか「南北統一」という命題に係わるミッションを担っているということです。朴槿恵政権のときに「歴史教科書の国定化」という動きがあり、全国の歴史教員が反対の声を上げたのですが、そこで活躍した人たちが抜擢されているようでした。

④学生人権教育センター:他のチームも「人権」ベースなのですが、ここが人権教育担当。センターには事務官、奨学士(日本でいう指導主事)とともに、子どもや保護者からの相談に対応するスタッフ、「労働」「セクシュアリティ」担当の専門調査員のスタッフがいて、具体的な告発や救済の仕組みづくり、教育プログラム・コンテンツ開発とそれらを用いた教員・保護者向け研修の実施なども担っているそうです。韓国では中学生もアルバイト可能(年齢を聞きそびれました・・・)なので、アルバイト先での不当労働行為や搾取を防ぐためにも労働教育を行うのだとのことでした。それと2016年に江南区の地下鉄で女性がヘイトクライムの犠牲になる事件があり、#me too運動が盛り上がったことを受けての「スクール #me too運動」も活発だそうです。

⑤民主市民教育支援チーム:日本でいうところの「能動的・主体的な学習」活動推進の支援を考えるチーム。また、学校外でのボランティア活動/社会体験学習の条件整備や受け入れ先の確保といったことも体系的に行う、とのことでした。

そして、もう一つ別に「学校革新センター」というところもあり、そこは「革新学校」で取り組んできた実践を、一般校にも広げていくために新たに設置されたのだということでした。ちなみに「革新学校」は「この学校ではこういう理念に基づいてこういう教育を行います」という「革新」の内容を保護者に説明し、保護者の過半数が賛成すれば革新学校になれるのだそうです(逆に言えば、保護者の賛成が得られなければ革新学校になれない。教職員が理念と目標を共有し、不安を持つ保護者にもきちんと説明できることが条件ということになるし、賛成した以上、保護者にも革新の主体になってもらうのだということのようでした)。

歴史の先生たち

龍山区にある植民地歴史博物館で、歴史教員のみなさんと交流会をしました。

rekishimuseum.jimdo.com

交流会の後、お食事、呑み・・・と延々夜中まで(みなさん、次の日も学校なのに!)お話して、すごくおもしろかったのですが、先生方の関心が「ヘイトスピーチ・排外主義にどう向き合うか」という部分にあったのがとても印象的でした。

前述したように、韓国には「在韓外国人基本法」「多文化家族支援法」といった、移住外国人の社会統合をめざす法律がちゃんとあって、相談機関や支援センターも日本よりはるかに整備されていますが、日本同様、移民の多い地域・少ない地域の偏りもあれば、取り組みにも差異があり、ヘイトスピーチや差別事象も看過できない状況があるようです。学校でいえば、侵略や葛藤・対立の歴史の知識が「〇〇が侵略してくる―」だの「〇〇は韓国嫌いなんだろ」だのと排除や攻撃に利用されることもあるそう(日本とおんなじやん・・・)。今回のツアーは大阪の在日外国人教育に取り組む先生方のツアーだったので「マジョリティの子どもたちの方にどうアプローチするか」「マイノリティの子が疎外感を抱かないような授業設計とは」といったところで、かなり共感するところが多かったです。そのなかで個人的に印象に残ったのは「そもそも韓国の歴史教育単一民族史観/韓国人から見た政策史が中心なので、マイノリティの子どもたちは興味を持ちにくいだろうし、マジョリティの子どもたちにはマイノリティの姿が見えにくい。歴史教育全体をどう変えていくかがほんとうに大切」と言っておられたことでした。そこは日本もまったく同じ! 政治の中心にいた人たちだけを追っかけているのでは、その政策によって庶民の生活がどんな影響を受け、私たちの父や母のその先につながる人びとがどんな思いで生きてきたのかはまったく見えない。国民のなかでも周縁にいた人、マイノリティは必ずいたわけで、そこに目を向けるような歴史の描き方・学び方があるはずですよね! と、心強い仲間を得たような気持ちになったのでした。

東アジア、連帯するしかないじゃないですか!
さいきんの日本政府は韓国にケンカを売ることしか考えていないような言動ばかりですが、そんな今だからこそ、民間のわたしたちは冷静に手をつなぎたい、つながねば! と思う2018年末でした。

「食べる」こと

先週土曜日、この本の著者さんのトークイベントに行きました。

honto.jp

そのときに「自分を『在日』と感じるのはどういうところ?」という質問が出て、「・・・食べもの、ですね」という答えが出て、食の話へと展開していって。

そのイベントの後、この夏タイ旅行でお世話になったみなさん(マレットファン)の応援Night!の準備で買い物に行ったり料理をしたり・・・していて。

一緒に料理しながら「料理が好き」とか「料理しなさそうって思われがち」とかなんとか、話していたせいか、今日ひさしぶりに料理しながら、ふと考えたこと。

わたしって、「おふくろの味」的なものを引き継いでないよな・・・

日本に暮らす外国人/海外ルーツの人とつきあっていると、そのルーツの土地の美味しいものをご相伴にあずかったり、日本で手に入るもので工夫しながら食文化を継承している姿に触れたりすることは多くて、「ルーツを感じること」に「食」が深く関わっているのは、なんかよくわかる。と思うのですが。

わたしの料理のレパートリー、よく作るもの・・・はどれも自分でレシピを調べたものだったり、学生時代に被差別部落のおばちゃんや在日のおばちゃんたちに教わったものが多くて、母から教わったものがまるでないのです。なぜか。

以前から、テレビなどで「お母さんの作ったカレーを子どもが当てられるか」的なゲームを見ながら「そんなん当たるわけないやん。カレーって、どのメーカーのルーの味かの問題で家の味とかある?」って思う人で(だから当ててる人を見ると驚く)、息子も絶対に当てられないと思う(笑) ずっと前に息子に「うちで作るもので好きなものなに?」と聞いたら「トマト煮込み」と言ったけど、それも実家では作らない料理。

・・・そもそも、実家でわたしが料理するのは、父や母の料理が食べたくないときだったりしたからなぁ。父や母が料理が下手とか、作ってくれないとかそういうわけではなく、単にレパートリーの問題。母も、わたしがつくると妹が喜ぶ(妹の好む洋食系が多いからだけど)と言って、わたしをおだてて作らそうとしたり(笑)とどのつまり、一緒に台所に立って料理を教わったという記憶がない。子どもの頃、ほんとうにお手伝いレベルのときには、あったかもしれないけれど。

そうやって考えていて、思ったのは、わたしにとっての「おふくろの味」的なものは、「街の味」だな、ということだった。

日曜日のおひるごはんにお使いに行かされた「肉の関口」のコロッケ。

出前で食べていた「しき浪」のBランチ。

誓文払いの時期にだけ持ち帰りできた、「ダルニー」のカレー。

よく行っていたお好み焼き屋さんのブタ玉、551蓬莱のチャーハン・・・

夕食にしても、メインが黒門市場の魚屋さんが店先で炙っている鱧の照り焼きだったり、かしわ屋さんのチューリップのから揚げだったり、した。

買って食べることへの抵抗感がなさすぎ(笑)

料理する、ということでいうと、学生時代に「学生さん、食べていきや~」と誘ってくれるおばちゃんたちの手料理、「昨日法事(チェサ)やったから、食べるもんいっぱいあんねん。寄ってき!」とごちそうになったシリット(餅)やチヂミ、チャプチェ、お肉のスープ・・・等々の方に明らかに影響されている(今日もほうれん草をおひたしではなくナムルにしていたわたし)。ごま油常備。

冷凍庫に、常に「あぶらかす」入ってるし(冷凍うどんも常備だから、いつでもかすうどんが食べられる・・・あぶらかす被差別部落ソウルフード)。

・・・ってそんなこと書いてたら、そろそろ夕食のことを考えなければ。

なに食べよう。

 

承前)“カミングアウト”をめぐるあれこれ

昨日のつづきです(笑)

カミングアウトされる側としての わたし

・・・実は大人になるまでカミングアウトらしきものを受けたことがない。

育った小学校は商業地域ど真ん中(校歌も♪♪大大阪の中心地 商店街に庭占めて~)だったので、台湾系大陸系、コリア系・・・と入り乱れていたし、1970年代の当時も統合教育は行われていて今でいう特別支援学級もあり、原学級とそこを行ったり来たりしている児童も複数名いた(けど、自分の学年にはいなかった。だから友だちとして親しくつきあう・・・までに至ることがなくて、よく考えると残念だった気がする)。

そういう環境で、中国系の子は日本語読みでファーストネームは日本ふうでも名字は「段」とか「王」とかの子が多く、コリア系の子は日本名が多かったけれど、なんとなくみんな知っていて、不思議なことに「なぜ朝鮮式の名まえではないのか?」という疑問すら持っていなかった(逆に中国系の子になぜ日本名がないのか?と思ったこともなかった。目の前のそのまま、そういうもん、だったんだろうな。不思議だけど)

だから、改まってカミングアウトという事態がなかった。かといって、差別がなかったかというとそんなことはなく、ドッジボールの陣地取りでケンカになったりしたときに「中国帰れ!」と罵って場が凍りつく、みたいなことはときどきあった(昨日、本名宣言のことで書いたのと同じように、ここでも「それは言ったらアカンことやろ」と直感的に思うけど何がアカンのか言えないわたし、猛然と非難する子、「なんでアカンの?」な子、言われた方も「帰れるか、ボケ!」と言い返す子、顔を真っ赤にして泣き出す子と、さまざまだった。そして先生がその件に関して叱ってるところを見たことがない。陰で叱られてたのかもしれないけれど)。

唯一カミングアウトらしきものは、中学2年生のとき、お昼休みにお弁当食べながら、在日コリアンの友だちの誕生日祝いと称して騒いでいたときに、「明日、学校休むねん」と友だちが言いだしたこと。唐突だったので仲良しグループは「え? なにが?」「なんで?」となり、友だちが「うち、外国人やから、区役所いってなんか手続きしなアカンねん」と続けるとさらに「え? それなんなん?」とクエスチョンマークばかりが行きかって、当の友だちも詳しく説明せず(できなかったのか、指紋を押さねばならないなんて話を言いだしづらくて言わなかったのか、今となってはわからない)、「なんかめんどくさいねんなぁ」「そやねん」「へんなのー」という会話で終わった。彼女のお母さんは韓国から嫁いできた人だったので、日本語があまり上手でなく、そこに関わる困りごとや笑い話も仲間内ではよく聞いていた。その話の前も後も、私たちはおバカな中二女子で、学校帰りにマクドナルドで宿題したり、サーティーワンでいつまでもしゃべっていたりした。そして大学で外国人登録法に反対して指紋押捺拒否をした人たちと出会って、「あの次の日に彼女は指紋を押したんだ」とやっと気づいて、愕然とした。そして、もっとよく考えたら、その中にはもう1人在日コリアンの子がいたのに、その子からは外登の話も家の話も聞いたことがなかったなと気づいて、さらに愕然とした。

・・・わたしって。

高校生のとき、小学校からずっと一緒だった台湾系の友だちが「ほんとうは幼稚園の先生になりたいけど外国籍やと公立の先生は無理らしい」と悩んでいることを人づてに聞いた。小学生のときは家に遊びに行ったりもしていたけれど、中学、高校と同じクラスに一度もならなかったので疎遠になっていたから、その子が「そんなこと」で悩んでいることに驚いた。もっと驚いたのは、それを聞いた担任が「私立の幼稚園もあるんだから、諦めんでもいいと思う」と言ったという話だった。いや、それ違うやろ? そういう問題なのか? とはいえ、既に疎遠なその子にわざわざそんな話をするために声をかけるのも変な気がした。そういえば高校に上がった後から急に派手になって「なんでいまさらヤンキー・・・」と思ったけど、実は悩んでいたってことなのか。そんなふうに考え出すと、余計に声をかけづらかった。

・・・わたしって。なんかダメなやつ。

大学で解放教育・解放運動にどっぷり触れて、卒業して現場(私立高校)に入ったら、生徒からのカミングアウトを受けるようになった。特に2年生後半から3年生。進路指導しているときに「実はさ・・・」と話し始める。そりゃそうだよな、心配だよね。でも、もしそんな理由で不採用や不合格になったら、わたしは全力で闘うから。と話していたら、別のクラスの子を連れてきて「実はこの子も・・・」ということもあった。人権学習のあと(だいたい映画見て終わりパターンのアカン学校だったのだけど 笑)、自分が思うことをしゃべったら、その後で部落の子がきたり。

やっぱり、カミングアウトする側の人は、だれに言うかを考えてるよな、と実感する。

この5~6年、セクシャルマイノリティについてきちんと勉強するようになったら、知り合いが次々に増えるという現象が起きたことも、それじたいは有り難いことなんだけど、ショックだった。なぜなら高校の現場に12年間いて、在日コリアンや中国帰国者、部落出身の子からは何度もカミングアウトを受けたのに、セクシャルマイノリティの子からカミングアウトを受けたことはなかったからだ。いなかったはずはない。でも知識もなく考えてもいないわたしは、選ばれなかったのだと思う。

知識もなく考えてもいない。関心もない。逆に知識もあり関心もあり、いろんなことを考えていれば、言動の端々に「この人には言ってもだいじょうぶ」と思わせる何かがじわっと滲み出すのだろうな、と思う。そしてそれを、感じて、見ている人がいる。

カミングアウトについて授業で扱ったりすると、「じゃあなんて答えればいいのか」的な質問が毎回出てくるけれど、個々に人が違うから、万能の答えはあり得ない。「相手を失望させたくない」という気持ちはわかるけど、カミングアウトをほんとうに受けたとしたら、もうその時点であなたは「選ばれた」わけで。それは最適解を知っているから選ばれるわけではなく、ふだんのあなたを見ていてのことだから。大事なのは答えを知っておくことではなくて、ふだんから人と、社会と、どう向き合っているかということなんだよな、と思う。

カミングアウトする側としての わたし

過去に、森修さんを巡る思い出話のところで書いているから、カミングアウトの中味詳細はここでは省く(笑)

わたしは、ながらく0段階と1段階の合間を彷徨っていた子どもだった。

カミングアウト・・・というか《わたしの話》をしたことがないわけではなかった。《わたしの話》は医療過誤の被害者としての話で、かいつまんでいうと大手術の結果、障害者になることは免れたが大きな手術跡が残ったという話。自分に落ち度がないことは最初からわかっていたし、その意味では自分を肯定できていた。心ないことばや視線に嫌な思いをした経験じたいも、話せた。けれどわたしにとっては重要な事実経過の詳細が、他人にとってはそう重要ではないんだなと思わされることは多かった。そんなことはあたりまえだけれど、一生懸命説明したのに、正確に覚えてくれてない友だち(子どもなんだから仕方がないんだけど、わたしも子どもだから要求が無茶だった)に盛大にがっかりして、もう話したくないわ―と思って落ち込んだり。思えば子どもの頃から「自他の違い」「わかりあえなさ」みたいな部分に敏感にさせられていたのかもしれない。

大学で人権問題を学び、被差別マイノリティ当事者の聞き取りの機会が増えると、わたしは《わたしの話》の「嫌な気持ちになって、そのことを隠したくなる」部分が、よく似ているなと思うようになった。そして、その「共感」を手がかりに、自分は人権問題に関わっていけるなという自信をもつようになった。そして2段階ぐらいまでポンポンと進んだ。

・・・つもりが。

「手術跡でつらい思いをした」わたしのことは肯定できても、「障がい者になることを免れて良かった」と思う、その「良かった」の感情部分は肯定できないままだった。そういう自分が許せない。人権問題を学ぶからこそ余計に、わたしはそこではどうしようもなく差別者だなぁと落ち込む。そしてそのことをだれにも話せなかった。0段階にも進めない自分を持て余しながら、「差別は許せない」と活動しているのだから、厄介なヤツだったな・・・と思う(どこでいつだれに、とは言えないけれど、持て余している矛盾のせいでトバッチリ/八つ当たりにあった人もきっといたはず・・・すいません)

それがパーンと0段階に突き抜けたのが、森修さんのおかげだった。

かつ、たまたまその同じ場で、その話を聞いていた同期の友だちがいたおかげで、1段階にも、とととっと突き進んでしまったのが幸運だった。あ、言ってもだいじょうぶやん・・・と思った。おまえ、そんな差別的なアカンやつやったんかー、と非難されたりしなかった。もちろん考え方(障害者にならなくてよかった)はダメだけど。そういう感情をもたらすものの正体を考えればいいねんで、それが障害者解放運動やで、と、いっきに世界が回転したのだった。

先日、授業に障害者の自立生活支援センターの人たちが介護者募集のアピールに来たとき、そういう自分の話をした方がいいかなと思って、した。まぁ、相手は学生だし100人単位の教室だから、何か感じてくれる子が一人でもいればそれでいいと割り切ってたけれど、それでも頓珍漢な反応にはちょっとだけ傷つく(直接は聞いていないけれど「自慢話やん」と言っていた子がいたらしい。何の自慢やねん・・・笑)。けど、傷ついても揺らがない。それは《わたしの話》がわたしのアイデンティティのかけがえのない一部分で、ポジティブに肯定できているからだと思う(あー、でもそれが「自慢」に見えるのかな。自分を肯定できることじたいが「勝ち組」的に映るのかもしれない)。

だから今のわたしは3段階にいる。

まぁ、とはいえ。わたしという人間の多様な側面の全部が全部3段階にいるわけではなく、0段階や1段階で彷徨っている面も未だにあるわーと発見することもときどきあったりして。不惑の歳を十年過ぎても、人間てそんなもんなんだなと思うのでした。