わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

DIE(演劇を教育に!)

放置すると忘れそうなので…。

先日、京都府八幡市立美濃山小学校の公開授業研にお邪魔しました。

授業づくりに「演劇的手法」を取り入れるということを続けてこられて3年目
(当初は府の研究指定を受けていたそうですが、それが切れた後も「自分たちで勝手にやってればいいんじゃない?」って、続けているそうです。その点ひとつとっても良い職場だと思います)

この記事も胸に響く・・・

「見える」ようになって見えなくなること。 - いわせんの仕事部屋

 

DIEは、私が勝手に名付けました。「NIE(Newspaper in Education)」という教育運動がありますので、それを真似て(ちなみに美濃山小ではNIEの実践もやっておられました)。6月に実践が書籍化されるようなので、詳しくはそちらを待ってください(笑)

ここでは、私が見てきて感じたことを備忘的に。

 

演劇的手法のキモ:2次元の描写を身体で3次元に再現する

これも私が勝手に「キモ」だと思っただけで、美濃山小のみなさんの見解ではないので、そこは念のため。

私自身が演劇をやっていて(私の場合、部活からの部活指導)、演劇したいと集まってくる高校生を見ていて感じていたのが、年々「2次元情報を3次元化する」力が落ちているということでした。台本は文字なので2次元。その文字情報から場の設定、人物同士の距離感や、その人物の風貌、表情、動作を考えて、自分の身体を使って舞台に立つ/舞台をつくるのが演劇。なのに、それが苦手なのは致命的なわけで、なんでだろうか???と年々悩んでいたわけです…。

読書量が足りない。といえば一言で済まされてしまいますが、ではなぜ、そうなっているのか? 人間には物語が必要で、だからドラマや映画、漫画、RPG等々のコンテンツはガンガン増えている(小説も)。にもかかわらず?

それは、人間がそもそも怠惰(笑)で、楽な方に流れる性質があるからなんだろうなと思うわけです。文字から情報を取り込んで、そこから映像を想像するのにかかる労力と、映像で一度に情報を取り込む労力を比べれば、後者の方が楽。わかりやすい。そして、90年代ぐらいから学校も社会も消費者サービスモードが強まって「わかりやすさが神」みたいになっている。大学生でも、スライドも映像もなく、ハンドアウトの資料だけでしゃべっている授業だと全然ついてこない--こういうのこそ、学力低下だろうと思うけれど、学業成績自体は私の現役のころよりずっとよいようなので、なんだかなぁと思うわけです(蛇足)

今回見せていただいた授業では、文学教材の描写にそって、「両手を伸ばす」「空を見上げる」といった動作を児童に実際にやらせる、ということをしたり、伝記を読みこんでその人物になりきってインタビューに答えるというロールプレイをしていたり、といったことをしていました。それらは演劇的手法のごく一部なのですが、ありがちな「読解⇒表現」ではなく、「読解⇔表現」の双方向になっていることがキモなんですよね。身体を通して「読む」。読んだことを「身体化」する。「やってみる」ことで「理解」する。こうかな?と読み取ったことを「やってみる」。その反復。

あぁ、こんなふうに「読む」経験が圧倒的に不足しているから、台本を舞台に上げる力が弱まっていくんだなぁ…と再認識させられました。

美濃山小でも、国語・道徳の授業改革からスタートはしているのですが、今は全教科に広げていこうとされています。実際、理科なら実験の手順を読んでそれを再現できるかという話だし、社会ならその説明から「実際」をイメージできるかという話なので、文字情報を立体的に理解する力はとても大切(つまりは国語科はそういったすべての教科を支える言語スキル教科なのだけど、そこが忘れられてやいませんか? ということを「日本語指導を要する児童生徒のーうんちゃら」の話のたびに思うこととも通底する…私的に)

「文字が読める」ことで「読めた気になる」のが危うい。

大人のみなさんも、「身体で読む」こと、できてますか? と問いたい。

 

職員室が演劇的

世の先生方の「授業研」に対する実感を聞いてみましょう…(笑)

私は授業研が大好きで、現場にいるときも「やります!」とはりきる派だったのですが、そういう人は少数派だということも思い知ったのでした。

いま、現場から引いて、授業研にお邪魔することもときどきあるのですが、7割ぐらいは「授業研担当の先生が頑張っている」「当たったから仕方なくやってる感見え見え」です(悩ましい…)。現場が多忙だからしょうがないという気持ちもありつつ、でも学校の基本は授業なのに、そこにすらやる気が出せないぐらい多忙だとしたらもう末期的ですよ、ヘル日本。と言いたくなるのをこらえて頑張っている先生をねぎらうのですが。

美濃山小で驚いたのは、教員全体が授業研をつくっている、「All for One」だったこと。みんなが前のめり。しかも若い先生からベテラン勢まで同じテンション。

(そんなんあるわけない…と思う方は、機会があればぜひ行ってみましょう)

そもそも、授業づくりのサイクルも「演劇的手法」を取り入れていて、

イデア→模擬検討(手法を教職員みんなで試してみる/授業を受ける児童の気持ちになって)→授業→ふりかえり(授業内容・手法を教員で再現して、そこから検討会)→次のアイデア と、「文書とミーティング」だけの検討ではなく、ロールプレイ等々を自分達でもやってみることで、身体を通して検討するサイクルを定着させているそうです(その流れを「再現劇」で見せてくださって、それも超おもしろかったのです)

これはよくある演劇ワークショップの流れと似ていて、

課題(テーマや設定のみ与えられる)→表現のアイデア出し→実際にやってみる→ふりかえって調整→やってみる→調整・検討→(てな具合で反復)→小品として発表

これをやると、相手にダメだしするコミュニケーションではなく、作品を作り上げるためにポジティブな、協力的なコミュニケーションをするようになるのです(そうしないと作品が完成しない。文句ばっかり言って、人のせいにしても何の得もないから)。

おそらくはその繰り返しで、このチームワークが育ったのだろうなぁと思いました。

感嘆。

演劇はよい。

 

自分も演劇してたのに、こういうことはできなかったなぁと反省もしました。
(自分の授業とか、同じ科目を担当する小さなチーム内ではやってみたこともあったけど、国語科チーム内に広げることもできなかったし、まして学校全体なんて。そこまでやろうという意識もなかったもんな…)

 

イエナプランだの、インターナショナルバカロレア認証だの、「日本の学校の従来のありかた」とは違う教育思潮が一部でもてはやされつつある?感のある昨今ですが、現行の公立学校でも、できることはまだまだたくさんある。そんな元気もいただきました。

 

6月に出る本が楽しみ。