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わったり☆がったり

왔다 갔다(行ったり来たり)な毎日です(*^_^*)

『ジニのパズル』と『ROCK U!』

『ジニのパズル』は発表時から気になっていた作品だった。
本になったら読もう・・・と思いながら、ずるずる過ごしているうちに、
ネット上でさまざまな人のさまざまな「評」を目にして、
ちょっと腰が引けるような、そういう気分になった。

なぜ腰が引けたか。

 もう5年ぐらい前の話になるのだけれど、

高校演劇の大阪代表校になった『ROCK U!』という作品があった。
地区大会時から話題騒然(といっても高校演劇の狭い世界のなか)、
近畿大会も勝ち進み、全国大会もぶっちぎりで優勝し、
審査委員だった平田オリザ氏も絶賛、という作品。

gekibu.com

中級学校まで朝鮮学校で学び、
高校進学に際して日本の公立高校に移った生徒が書いた創作脚本。
『ジニのパズル』を読んで、私は
「これは『ROCK U!』だ!」と思った。
もちろん、群像新人賞まで取った『ジニのパズル』の完成度の高さとは
比較できるものではない(そもそもお芝居の脚本だから文学じゃない。
高校演劇の常というか、高校生が舞台で作り上げて初めて完成するもので、
脚本だけ読んでもおもしろさは半分しか伝わらないし)が、
“居場所のなさ”感にさいなまれる不安定さや
押し付けられる“生き方”への苛立ちと焦燥感、といった核の部分で
ふたつの作品はとても似ていると思った。

と同時に、その5年ぐらい前にtwitter上で『ROCK U!』に関して
やり取りした、いくつかのコメントが、
『ジニのパズル』を巡る「評」のあれこれと酷似していて、
これはうかつに感想を書きづらい・・・という嫌な気持ちがよみがえったのだ。

『ROCK U!』は全国大会で優勝したので、NHKで放送された。
(とはいえ、高校演劇関係者しかあの番組は見ないと思うけど・・・)
で、私が(その当時ではなくてもう少し後だった気もする)
スゴイ作品が出てきたよ~的なことをTweetしたところ、
それに対して「どうせ日本人受けするように作られたもんでしょ」という
主旨のリプライがつき、(見もせずにそれはないやろ)カチンときて、
「そんなことはないと思います」と、できるだけ丁寧に返信した(つもり)
けれど、なんか慇懃無礼にあしらわれてしまい、私自身は
脚本の作者さんに申し訳なく、こんなとこにつぶやくべきじゃなかった・・・と
軽い自己嫌悪に陥ったのだった。
リプライしてきた人は在日コリアンで、私は日本人だから、
私がいくら一生懸命作品の良さを語ったところで
「どうせ日本人に受けがいいようにしたから賞が取れたんでしょ」という
“評”は覆りようがない。どう言いかえしても私が言う限りは無理なのだと。
でも、あの作品はそんな「日本人受け」をねらったものではなかったし、
公立高校の小さな演劇部が、自分たちにできることを悩んで考えて
つくりあげた世界の、高校生のリアリティをそんなふうに切って捨てられる
虚しさに、本当に嫌になった。でもその嫌な気持ちを私が表現すればするほど、
頑なにそれを認めまいとする人たちの殻はますます固くなってしまうのだろうな、
・・・などと、そういう思考回路に陥っていく自分のことも本当に嫌だった。

というようなことを、『ジニのパズル』で一気に思い出したのだった。

だから、この記事も、実はとても書きにくい(けど書く)。

ジニはなぜ、肖像画をぶち壊すのか

『ジニのパズル』が朝鮮学校を「悪く描いている」と言われる所以は、
声明文をまき散らし、“肖像画”を叩き割る、あの場面があるからだろう。
しかし、あれは学校批判なのか? という疑問が私にはある。

私には、ジニのあの行動は「帰責の間違い」と呼ばれる心理状態を
描いているのではないかと思えた。

だってジニは、レイプされたんですよ?

レイプされたのは、ジニがチマチョゴリを着ていたから?
テポドンが発射されたから? --そのどれでもない。

被害者が、その被害が深刻だからこそ、避けられなかったのかと考え、
「これがなければ避けられたのでは」と考えてしまう――帰責の間違い。

なぜ私がこんな目に合うのか。なぜ私はチョゴリを着ていたのか。
なぜ日本では朝鮮人が差別されるのか、朝鮮学校が敵視されるのか。
なぜ北朝鮮が何かすると、自分たちがビクビクしなければならないのか。
--日本の学校から進学してきた、中学1年生にとって、
もっとも怒りをぶつけやすい、ぶつけられる相手が学校だったから、
ジニは学校で暴走したのではないのか・・・と私は思う。
そう考えると、ジニは朝鮮学校が憎いどころか、
愛して、甘えていたのだと言えないか。
親の愛情を信頼しているからこそ、思う存分反抗期を生きていける。
それと同じで、やり場のない怒り、やりきれなさ、憤懣、疑問を、
朝鮮学校の中だったから、爆発させることができたのではないか。
肖像画への疑問はレイプ事件の前から存在していたし、
朝鮮学校への違和感、疑問も最初から端々で述べられてはいるけれど、
そういった諸々がないまぜになって暴走する、その契機は
直接的な暴力にさらされ、心が殺されたところにあると思う。

岸政彦さんの書評には、こうある。

ジニは二重に言葉を奪われている。いや、三重に。日本社会によって抵抗する声を奪われ、朝鮮学校でも排除され、そして自分自身の声さえも。

http://gunzo.kodansha.co.jp/43087/46392.html

ジニは、自分の身に起きたことを誰にも話していない。
話せないのだ。話せることばを取り戻す時、彼女の再生が始まるのだと思う。
物語は、再生に向けての一歩が踏み出せそう・・・? な予感だけを残して終わる。
だからつらい。ジニはこの世界に戻ってこれるのだろうか。
戻ってきてほしいと思うし、ジニを待つ力のある日本社会にしたいと思う。

朝鮮学校の描かれ方について

朝鮮学校が舞台になるとき、
その描き方が「偏見を助長する」ものにならないか、ということを
気にせざるを得ないのは、日本社会に責任があることだ。
あたりまえのことだが、差別がなければ気にする必要なんてないのだから。
だから気にする人が悪いとは思わない。私もそこが気にならないわけではない。
しかし文学作品や映画というものは、ある一部分だけの描写をもって
差別的かどうかを判断できない面がある。
全体の文脈で、差別的な表現も必要になるときがあるからだ。
とはいえ、部分を切り取ることは容易いので、悪用したい人は
いくらでも悪意を持って部分を切り取り、加工するだろう。
そういう悪意のある人の標的になってしまったとき、
たしかに『ジニのパズル』も『ROCK U!』も無力だ。
朝鮮学校の「至らないところ」を取りだし、誇張し、
その世界から「脱出」した主人公をも、朝鮮学校叩きの材料にするだろう。
しかし、それは作品の歪曲であり、悪用であって、作品の問題ではない。
むしろ、そうなったとしたら作品は被害者だ。

私は『ROCK U!』を観たときも、『ジニのパズル』を読んだときも、
10代の孤独感や苛立ち、世界の前に立ち、世界とつながらなければと考え、
考えれば考えるほど自分の無力さに絶望する、じりじりした焦り、
といった主人公の心の中の嵐を感じ、圧倒された。
最初にリンクした「ゲキ部」レポートに、こんなやりとりが記録されている。

「“在日”の心情がわからない私なんかがやっていいのかって、めっちゃ迷って。チョン先輩からは、何度も“台詞を台詞として覚えたらあかん”とダメ出しをされました」

 「朝鮮学校時代のことを語るミレを、朝鮮学校に通ったことがないユッポが理解するのは確かに難しい。でも、ミレが感じる寂しさや重荷は、カタチを置き換えたら絶対にユッポも感じたことがあるはず。その感覚を引き出してあげられるよう、いろいろ会話をしましたね」

――ユッポは今まで自分の居場所がないと感じたことはない? 

 ジニの思いを「私は在日コリアンじゃないから」「私は女じゃないから」と
線を引いて、「自分とは違う人」と仕分けしてしまわないでほしい、と思う。
むろん、マジョリティの日本人に民族差別の重荷はないのだから、
安易に「わかります! 私もおんなじこと感じます!」と無邪気に言うのも
違うとは思うけれど。でも1%も重なり合う思いがないかといえば、
そうではないでしょう? と思うのだ。そして多くの場合、
その数パーセントの重なりから、思いが近づき、親しくなり、
朝鮮学校のことも含めて、在日コリアンの歴史と現在に興味を持ち、
マジョリティは学び始める。

19歳のときに、在日コリアンの子ども会に関わって以来、
歴史を学び、差別の現状を学び、指紋押捺拒否する友だちに同行し、
デモに行き、ビラをまき、座り込みをし・・・・・・と、
さまざまなことを“ともに”、伴走するように生きてきた。
たぶん、そんな私は「在日の問題をわかっている人」に見えると思う。
けれど(これはたぶん私だけじゃなく日本人ならだれしも)内面では
「どんなに頑張ったところで、日本人には究極のところわかりっこない」と
「わからないからこそ、ともに生きる。徹底的に話せばいい」との間で
ずっとずっと揺れ続けている。たぶん一生揺れ続ける。

揺れ続けることに意味があるのだろうと思えるようになったのは、
ほんとうにこの10年ぐらいの間だ。
20代初めの頃は、この揺れがなくなれば一人前になれるのかなと思っていた。
(一人前ってなんやねん? と今になると不思議だけれど)

「日本人に何がわかる?」
「(朝鮮に)日本人が関わると碌なことにならんから。関わらんといて」

そんなふうに拒絶もされながら、拒絶されるからこそ、立ち止まり、
この社会でマジョリティとマイノリティの間にある断絶の深さを考える。

私達はバラバラだ。そこから始めるしかない。